『資本論』を読む会の報告

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2008年 10月 21日

第118回 10月21日 第1章 商品 第3節 A 3 等価形態

10月21日(火)に第118回の学習会を行いました。 「読む会通信№309」を元に前回の復習をした後、「第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値」の「A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態 3 等価形態」の第1段落から第8段落までを輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。

■テキストの内容と議論
第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値 
A 単純な、個別的なまたは、偶然的な価値形態
3 等価形態


第1段落
・すでに見たように、一商品A(リンネル)は、その価値を異種の一商品B(上着)の使用価値で表すことによって、商品Bそのものに、一つの独特な価値形態、等価物という価値形態を押しつける。
・リンネル商品はそれ自身の価値存在を顕わにしてくるのであるが、それは、上着がその物体形態とは違った価値形態をとることなしにリンネル商品に等しいとされることによってである。
・だから、リンネルは実際にそれ自身の価値存在を、上着が直接にリンネルと交換されうるものだということによって、表現するのである。
・したがって、一商品の等価形態は、その商品の他の商品との直接的交換可能性の形態である。

●「価値形態というと、単純な価値形態とか全体的な価値形態、一般的な価値形態、貨幣形態というような等式だと理解していたが、ここでは等価物という価値形態という表現がされている。」との発言があり、これに対して「等式全体だけではなくて、等式の左辺は相対的価値形態と名付けられている。右辺(等価形態)もまた価値形態だということではないか」との発言がありました。

●「価値存在という言葉が出てくるが、価値を持っていることという意味だと理解できる」との発言がありました。

★《リンネルは実際にそれ自身の価値存在を、上着が直接にリンネルと交換されうるものだということによって、表現する》とは、リンネルによって上着は等価物にされ、リンネルに対して上着はいつでも直接に交換できる立場に立つ。この関係の中では、上着は、価値であると認められ、したがって使用価値としては異なっているが抽象的人間労働の対象化としては同じであるリンネルに直接に変わりうる(交換できる)のである。そして、リンネルは、価値以外のどんな性質も表現していない価値の具体化としての上着と等しいということを通じて、自らも価値に外ならないことを表現している。

■《しかし、質的に等置された二つの商品は、同じ役割を演ずるのではない。ただリンネルの価値だけが表現される。では、どのようにしてか?リンネルが自分の「等価物」または自分と「交換されうるもの」としての上着に対してもつ関係によって、である。この関係の中では、上着は、価値の存在形態として、価値物として、認められる。なぜならば、このような価値物としてのみ、上着はリンネルと同じだからである。他面では、リンネルそれ自身の価値存在が現れてくる。すなわち独立な表現を与えられる。なぜならば、ただ価値としてのみリンネルは等価物または自分と交換されうるものとしての上着に関係することができるからである。》(国民文庫97頁・原ページ64)

■フランス語版には次のような記述がある。
《すべての商品は、価値としては人間労働という同じ単位の同等な表現であり。相互に置き換えることができる。したがって、商品が価値として現れる形態をもつやいなや、この商品は別の商品と交換可能なものになる。》(26頁)

第2段落
・或る一つの商品種類、たとえば上着が、別の商品種類、たとえばリンネルのために、等価物として役立ち、したがってリンネルと直接に交換されうる形態にあるという独特な属性を受け取るとしても、それによっては、上着とリンネルとの交換されうる割合はけっして与えられてはいない。
・この割合は、リンネルの価値量が与えられているのだから、上着の価値量によって定まる。
・上着が等価物として表現され、リンネルが相対的価値として表現されていようと、また逆にリンネルが等価物として表現され、上着が相対的価値として表現されていようと、上着の価値量は、相変わらず、その生産に必要な労働時間によって、したがって上着の価値形態にかかわりなく、規定されている。
・しかし、商品種類上着が価値表現において等価物の地位を占めるならば、この商品種類の価値量は価値量としての表現を与えられていない。
・この商品種類は価値等式のなかではむしろ或る物の一定量として現れるだけである。

●「《リンネルの価値量が与えられている》と述べられているがどういうことだろうか」との疑問が出され「ここでは、ある一定量のリンネル(例では20エレ)の価値表現が問題にされている、ある一定量のリンネルの価値量は与えられているという意味。等式で言えば20エレのリンネル=x着の上着ということだろう。」との結論になりました。

●「《或る物の一定量》と書かれているが、この《或る物》とはどういう物か」との疑問が出され、「商品の現物形態(上着という使用価値)という意味だろう」という結論になりました。

第3段落
・たとえば、40エレのリンネルは「値する」――なにに? 2着の上着に。
・商品種類上着がここでは等価物の役割を演じ、使用価値上着がリンネルにたいして価値体として認められているので、一定量の上着はまた一定の価値量リンネルを表現するのに足りるのである。
・したがって、2着の上着は40エレのリンネルの価値量を表現することはできるが、しかしそれはそれ自身の価値量を表現することはけっしてできないのである。
・価値等式における等価物は、つねに、ただ、ある物の、ある使用価値の、単純な量の形態をもっているだけだというこの事実の皮相なな理解は、ベーリをもその多くの先行者や後続者をも惑わして、価値表現のうちに単なる量的な関係を見るに至らせたのである。
・そうではなくて、一商品の等価形態はけっして量的な価値規定を含んではいないのである。

★《一商品の等価形態はけっして量的な価値規定を含んではいない》というのは「等価物商品(上着)の価値の大きさは表現されない」ということではないだろうか。

■「A 1価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態」の第3段落では《つまり、リンネルの価値は、ただ相対的にしか、すなわち別の商品でしか表現されえないのである。それゆえ、リンネルの相対的価値形態は、なにか別の商品がリンネルにたいして等価形態にあるということを前提しているのである。他方、等価物の役を演ずるこの別の商品は、同時に相対的価値形態にあることはできない。それは自分の価値を表しているのではない。それは、ただ別の商品の価値表現に材料を提供しているだけである。》と述べられていた。(国民文庫95頁・原ページ63)

●フランス語版では、この段落にあたる箇所の後に《等価形態が含んでいる矛盾は、いまでは、この形態の特色のいっそう徹底的な考察を要求している。》という記述があることが紹介され「等価形態が含んでいる矛盾とはどういうものだろう」との疑問が出されました。これについては、これから考えていくことになりました。

第4段落
・等価形態の考察にさいして目につく第一の特色は、使用価値がその反対物の、価値の、現象形態になるということである。

第5段落
・商品の現物形態が価値形態になるのである。
・だがよく注意せよ。
・この取り替え[Quidproquo]が一商品B(上着や小麦や鉄など)にとって起きるのは、ただ任意の他の一商品A(リンネルなど)が商品Bに対してとる価値関係のなかだけでのことである。
・どんな商品も、等価物としての自分自身に関係することはできないのであり、したがってまた、自分自身の現物の皮を自分自身の価値の表現にすることはできないのだから、商品は他の商品を等価物としてそれに関係しなければならないのである。
・すなわち、他の商品の現物形態の皮を自分自身の価値形態にしなければならないのである。

■《取り替え[Quidproquo]》は、新日本版では《“入れ替わり”》、長谷部訳では《交替》、マルクスコレクション版では《換位[Quid pro quo]位置の取り換え》、フランス語版では《取り替え》と訳されている。

●久留間鮫造氏は、「頓珍漢事」という表現をしていたということが紹介されました。

■【頓珍漢】(名・形動)〔鍛冶(かじ)屋の相槌(あいづち)の音から来た語。いつも交互に打たれてそろわないことから〕
(1)物事のつじつまが合わないこと。行き違ったりちぐはぐになったりすること。また、そのさま。
「―な会話」「―な返事」
(2)とんまな言動をする・こと(さま)。
「―な男で、しくじってばかりいる」「この―め」 (大辞林 第二版より)

■《マルクスが使っているこの〈入れ替わり[Quidproquo]〉という表現は、あるものとあるものとが、入れ替わって現れることであって、それによって人びとが欺かれることになる。たとえばモーツァルトのオペラ『フィガロの結婚』で、アルマヴィーヴェ伯爵を懲らしめるために伯爵夫人とスザンナが衣装を取り替えて別人になりすます。そしてこれに伯爵がまんまとひっかかる。これが〈入れ替わり〉である。》(大谷禎之介「価値形態」「経済誌林」第61巻第2号191頁)

●初版の付録「価値形態」(国民文庫『資本論第1巻初版』143頁・原ページ771頁)において「この取り違えは不可避である」と述べられていることが紹介されました。これについては今後の課題としました。

第6段落
・このことをわかりやすくするのは、商品体としての商品体に、すなわち使用価値としての商品体にあてがわれる尺度の例であろう。
・棒砂糖は物体だから重さがあり、したがって重量をもっているが、どんな棒砂糖からもその重量を見てとったり感じたりすることはできない。
・そこで、われわれは重量があらかじめ確定されているいろいろな鉄片をとってみる。
・鉄の物体形態は、それ自体として見れば、棒砂糖の物体形態と同様に、重さの現象形態ではない。
・それにもかかわらず、棒砂糖を重さとして表現するために、われわれはそれを鉄との重量関係におく。
・この関係のなかでは、鉄は重さ以外のなにものをも表していない物体とみなされるのである。
・それゆえ、種々の鉄量は、砂糖の重量尺度として役立ち、砂糖体にたいしてたんなる重さの姿、重さの現象形態を代表するのである。
・この役割を鉄が演ずるのは、ただ、砂糖とか、またはその重量が見いだされるべきほかの物体が鉄にたいしてとるこの関係のなかだけでのことである。
・もしこの両方の物に重さがないとすれば、それらの物はこのような関係にはいることはできないであろうし、したがって一方のものが他方のものの重さの表現に役立つこともできないであろう。
・両方を秤の皿にのせてみれば、それらが重さとしては同じであり、したがって一定の割合では同じ重量のものであるということが、実際にわかるのである。
・鉄体が重量尺度としては棒砂糖にたいしてただ重さだけを代表しているように、われわれの価値表現では上着体はリンネルにたいしてただ価値だけを代表しているのである。

★《上着体》とは、上着の現物形態ということだろう。

■【分銅】竿秤(さおばかり)や天秤(てんびん)とともに用いて、物の目方を量る際に標準とする金属製のおもり。

★分銅は、重さの現象形態である。重さの表現においては、分銅は、重さの具体化(その現物形態で重量を表している物=「重量体」)としてのみ認められる。

第7段落
・とはいえ、類似はここまでである。
・鉄は、棒砂糖の重量表現では、両方の物体に共通な自然属性、それらの重さを代表している――、ところが、上着は、リンネルの価値表現では、両方の物の超自然的な属性、すなわちそれらの価値、純粋に社会的な或るものを代表しているのである。

●「《純粋に社会的な或るもの》とはなにか」という疑問が出されました。これに関連して「価値とは関係だということが最初はなかなか理解できなかった」という発言がありました。この箇所の理解については、今後の課題となりました。

第8段落
・ある一つの商品、たとえばリンネルの相対的価値形態は、リンネルの価値存在を、リンネルの身体やその諸属性とはまったく違ったものとして、たとえば上着に等しいものとして表現するのだから、この表現そのものは、それが或る社会的関係を包蔵していることを暗示している。
・等価形態については、逆である。
・等価形態は、ある商品体、たとえば上着が、このあるがままの姿の物が、価値を表現しており、したがって生まれながらに価値形態をもっているということ、まさにこのことによって成り立っている。
・いかにも、このことは、ただリンネル商品が等価物としての上着商品に関係している価値関係のなかで認められているだけである。
・しかし、ある物の諸属性は、その物の諸物にたいする関係から生ずるのではなく、むしろこのような関係のなかではただ実証されるだけなのだから、上着もまた、その等価形態を、直接的交換可能性というその属性を、重さがあるとか保温に役立つとかいう属性と同様に、生まれながらにもっているように見える。
・それだからこそ、等価形態の不可解さが感ぜられるのであるが、この不可解さは、この形態が完成されて貨幣となって経済学者の前に現れるとき、はじめてブルジョア的に粗雑な目を驚かせるのである。
・そのとき、彼はなんとかして金銀の神秘的な性格を説明しようとして、金銀の代わりにもっとまぶしくないいろいろな商品を持ち出し、かつて商品等価物の役割を演じたことのあるいっさいの商品賤民の目録を繰り返しこみあげてくる満足をもって読みあげるのである。
・彼は、20エレのリンネル=1着の上着 というような最も単純な価値表現がすでに等価形態の謎を解かせるものだということには、気がつかないのである。

●「《ある物の諸属性は、その物の諸物にたいする関係から生ずるのではなく、むしろこのような関係のなかではただ実証されるだけ》という考えは正しいと言えないのではないか」との疑問が出されましたが、はっきりとした結論は出ませんでした。

●「《等価形態の謎》とは、どのような内容なのか」という疑問が出されました。

■大谷禎之介氏は「貨幣形態の謎」と「貨幣の謎」について次のように述べている。
《物である金(Au)の量が価値の量を表現する、というようなことがいったいどのようにして可能なのであろうか。これは、われわれのこれまでの分析で得たところから見るならば、一つの謎だと言わなければならない。ここでは商品の価値が貨幣という形態をとっているので、この謎を〈貨幣形態の謎〉と呼ぶ。
 さらに、商品はすべて、20エレのリンネル=100円、1着のシャツ=40円、1tの鉄=10万円、等々といった価格をもっており、すべての商品の価値が金の一定量で表現されているので、金はあらゆる商品と直接に交換できる。つまり、金は、その現物形態そのものが価値物として、価値のかたまりとして通用する、一種独特のものとなっている。
 ここにも一つの謎がある。物である金、使用価値としての金が、それの反対物である価値そのものとして通用することの謎、〈貨幣の謎〉である。》(大谷禎之介「価値形態」「経済誌林」第61巻第2号156-157頁)

▼11月3日に誤字を訂正しました。


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by shihonron | 2008-10-21 23:30 | 学習会の報告


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