『資本論』を読む会の報告

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2008年 11月 05日

第120回 11月5日 第1章 商品 第3節 A 4 単純な価値形態の全体

11月5日(水)に第120回の学習会を行いました。 「読む会通信№311」を元に前回の復習をした後、「第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値」の「A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態 4 単純な価値形態の全体」の第1段落から最後(第7段落)までを輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値 
A 単純な、個別的なまたは、偶然的な価値形態 
4 単純な価値形態の全体


第1段落
・ある一つの商品の単純な価値形態は、異種の一商品にたいするその商品の価値関係のうちに、すなわち異種の一商品との交換関係のうちに、含まれている。
・商品Aの価値は、質的には、商品Aとの商品Bの直接的交換可能性によって表現される。
・商品Aの価値は、量的には、商品Aの与えられた量との商品Bの直接的交換可能性にによって表現される。
・言いかえれば、一商品の価値は、それが「交換価値」として表示されることによって独立に表現されている。
・この章のはじめに普通の言い方で、商品は使用価値または使用対象であるとともに交換価値である、と言ったが、これは厳密にいえばまちがいだった。
・商品は、使用価値または使用対象であるとともに「価値」なのである。
・商品は、その価値が商品の現物形態とは違った独特の現象形態、すなわち交換価値という現象形態をもつとき、のあるがままのこのような二重物として現れるのであって、商品は孤立的に考察されたのでは、この交換価値という形態をけっしてもたないのであり、つねにだ第二の異種の一商品にたいする価値関係または交換関係のなかでのみこの形態をもつのである。
・とはいえ、このことを知っておきさえすれば、さきの言い方も有害なものではなく、かえって、簡単にすることに役立つのである。

★異種の一商品にたいするその商品の価値関係=異種の一商品との交換関係。そのうちにある一つの商品の単純な価値形態は含まれている。

●《商品Aの価値は、質的には、商品Aとの商品Bの直接的交換可能性によって表現される。》という叙述をどう理解するかで議論がありました。ひとつの意見は「商品Aと商品Bはどちらも価値であるから等置されえる。この二つの商品に共通なものは抽象的人間労働が対象化されているというように理解できるのではないか」というもの。これに対して、もう一つの意見は「両者に共通なものはなにかというのは、価値がなんであるかを解明した第1節での課題設定であり、価値形態の分析では、価値が抽象的人間労働の対象化であることを前提にして、商品の価値がどのようにして表現されているか解明することが課題だ。」というものでした。

★《商品Aの価値は、質的には、商品Aとの商品Bの直接的交換可能性によって表現される。》と述べられているが、これは商品Aが価値であること(価値をもっていること)が表現されるという意味だろう。どのようにしてか? 「商品A=商品B あるいは、商品Aは商品Bに値する」ということんよってである。言いかえれば、商品Bはいつでも直接に商品Aと交換されうる(商品Bは商品Aにたいして直接的交換可能性をもつ)ということによってである。ここでは商品Bの使用価値は、価値の具体化としてのみ認められ、それと等しいということを通じて商品Aも価値であることが表現される。

●《一商品の価値は、それが「交換価値」として表示されることによって独立に表現されている。》と述べられているが「独立に」とはどういうことかという疑問が出されました。

■「独立に」は、新日本版や長谷部訳、マルクスコレクション版では「自立的に」となっている。フランス語版では《換言すれば、一商品の価値は、その商品が交換価値の座に置かれることによってしか表現されないのだ。》(32頁)となっている。

★《一商品の価値は、それが「交換価値」として表示されることによって独立に表現されている。》とマルクスが述べているのは、第1節の商品の分析によって、価値とは抽象的人間的労働の対象化であり、価値の大きさはその商品の生産に社会的に必要な労働時間によって規定されるということを明らかにした。しかし、《われわれが、価値としては商品は人間労働の単なる凝固である、というならば、われわれの分析は商品を価値抽象に還元しはするが。しかし、その商品とは違った価値形態を与えはしない》(国民文庫98頁・原頁65)。ある商品の交換価値とは、その商品とは違った価値形態なのである。「20エレのリンネル=1着の上着」 とは、「20エレのリンネルの価値(交換価値)は1着の上着だ」ということに外ならない。手につかめる形、目に見える形で、ある商品の価値が異種の商品の使用価値の一定量によって表現されることを「独立に表現」と呼んでいる。

●「《この章のはじめに普通の言い方で商品は使用価値または使用対象であるとともに交換価値である、と言った》と述べられているが、どの個所のことか? 『経済学批判』においては、価値と交換価値の区別がはっきりしていなかったといえるかもしれないが、『資本論』第1章第1節でも価値という言葉で表現していることがほとんどではないか」との発言がありました。

■《商品の価値対象性は、どうにもつかまえようのわからないしろものだということによって、マダム・クイックリーとは違っている。
・商品体の感覚的に粗雑な対象性とは反対に、商品の価値対象性には一分子も自然素材ははいっていない。
・それゆえ、ある一つの商品をどんなにいじりまわしてみても、価値物としては相変わらずつかまえようがないのである。
・とはいえ、諸商品は、ただそれらが人間労働という同じ社会的単位の諸表現であるかぎりのみ価値対象性をもっているのだということ、したがって商品の価値対象性は純粋に社会的であることを思い出すならば、価値対象性は商品と商品との社会的な関係のうちにしか現れえないということもまたおのずと明らかである。
・われわれも、じっさい、諸商品の交換価値または交換関係から出発して、そこに隠されている価を追跡追跡したのである。》(国民文庫93頁・原頁62)

第2段落
・われわれの分析が証明したように、商品の価値形態または価値表現は商品価値の本性から出てくるのであって、逆に価値や価値量がそれの交換価値から出てくるのではない。
・ところが、この逆の考え方は、重商主義者たちやその近代的蒸し返し屋であるフェリエやガニルなどの妄想でもあるとともに、彼らとは正反対の近代の自由貿易外交店員、バスティアやその仲間の妄想でもある。
・重商主義者たちは価値表現の質的な面に、したがって貨幣をその完成形態とする商品の等価形態に、重きをおいているが、これと反対に、どんな価格ででも自分の商品を売りさばかなくてはならない近代の自由貿易行商人たちは相対的価値形態の量的側面に重きをおいている。
・したがつて、彼らにとっては、商品の価値も価値量も交換関係による表現のなかよりほかにはないのであり、したがってまた、ただ日々の物価表のなかにあるだけなのである。
・スコットランド人マクラウドは、ロンバート街の混乱をきわめた諸観念をできるだけ学問らしく飾り立てるというその機能において、迷信的な重商主義者たちと啓蒙された自由貿易行商人たちとをみごとに総合したものになっているのである。

●「この逆の考え方の内容はどういうものか」との疑問が出され「価値や価値量が交換価値から出てくるといった考え方だろう」という結論になりました。これに関連して「重商主義者や自由貿易論者たちがそうした考え方をしていたといえるのだろうか」との疑問が出されました。これについては「重商主義者や自由貿易論者は交換価値から価値や価値量を導き出したというよりも、価値の概念などなかったといえるのではないか」との発言がありました。

●「重商主義主義者たちは、金こそ価値だという考え方をしたといえないか」との発言があり、「重商主義では、一国の冨は貨幣だという観念があり、そのため、たくさん売って少なく買うというのがモットーだった」との発言がありました。
また、「相対的価値形態の量的側面とは、自由貿易論者にとっては、自分の商品がどれだけ多く売れるかがなによりの関心事であったということだろう」という結論になりました。

第3段落
・商品Bにたいする価値関係に含まれている商品Aの価値表現のいっそう詳しい考察は、この価値関係のなかでは商品Aの現物形態はただ使用価値の姿として、商品Bの現物形態はただ価値形態または価値の姿としてのみ認められているということを示した。
・つまり、商品のうちに包みこまれている使用価値と価値の内的対立は、一つの外的対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表されるのであるが、この関係のなかでは、自分の関係が表現されるべき一方の商品は直接にはただ使用価値として認められるのであり、これにたいして、それで価値が表現される他方の商品は直接にはただ交換価値として認められるのである。
・つまり、一商品の単純な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態なのである。

■フランス語版では《商品A自然形態が使用価値形態としてのみ現われ、商品Bの自然形態が価値形態としてのみ現れる》となっている。

★20エレのリンネル=1着の上着 において、商品リンネルの現物形態は、その使用価値だけを表現している。一方、上着は、商品リンネルの価値だけを表現している。リンネルの使用価値はリンネルであり、20エレのリンネルの価値(交換価値)は1着の上着である。

●「《商品のうちに包みこまれている使用価値と価値の内的対立》とはどのようなことだろうか」との疑問が出されました。「商品の二つの側面である使用価値と価値とは相容れない性質だということではないか。使用価値は生産物が生まれながらにもっている自然的な性質であり、価値はある特定の社会で生産物が受け取る社会的性質だといったことではないか」との発言がありました。

●「対立と矛盾とはどう違うのだろう」「長谷部訳では《最初に商品は、二者闘争的なもの、すなわち使用価値および交換価値として、われわれに現象した》(第1章第2節の冒頭)というように二者闘争的という訳語が用いられているが、適切なのだろうか(岡崎訳では二面的)」といった疑問も出されましたが、今後の課題としました。

第4段落
・労働生産物は、どんな社会的状態のなかでも使用対象であるが、しかし、労働生産物を商品にするのは、ただ、一つの歴史的に規定された発展段階、すなわち使用物の生産に支出された労働をその物の「対象的」な属性として、すなわちその物の価値として表すような発展段階だけである。
・それゆえ、商品の単純な価値形態は同時に労働生産物の単純な商品形態だということになり、したがってまた商品形態の発展は価値形態の発展に一致するということになるのである。

●「一つの歴史的に規定された発展段階とは資本主義社会のことだろうか」との疑問が出され、「資本主義以前に商品は登場しているのだから資本主義社会を指しているとはいえないのではないか」との発言がありました。

■フランス語版では《労働生産物は、どんな社会状態においても使用価値、すなわち有用物である。だが、労働生産物が一般的に商品に転化するのは、社会の歴史的発展上の一定の時代にかぎられるのであるって、その時代は、有用物の生産に支出された労働が、この物に固有な特性、すなわち、この物の価値、という性格を帯びるような時代である。》となっている。

第5段落・単純な価値形態、すなわち一連の諸変態を経てはじめて価格形態にまで成熟するこの萌芽形態の不十分さは、一見して明らかである。

第6段落
・ある一つの商品Bでの表現は、商品Aの価値をただ商品A自身の使用価値から区別するだけであり、したがってまた、商品Aをそれ自身とは違ったなんらかの一つの商品種類にたいする交換関係のなかにおくだけであって、ほかのすべての商品との質的な同等性と量的な割合とを表すものではない。
・一商品の単純な相対的価値形態には、他の一商品の個別的な等価形態が対応する。
・こうして、上着は、リンネルの相対的価値表現のなかでは、ただ一つの商品種類リンネルにたいして等価形態または直接的交換可能性の形態をもつだけである。

第7段落
・とはいえ、個別的な価値形態 はおのずともっと完全な形態に移行する。
・個別的な価値形態によっては、一商品Aの価値はただ一つの別種の商品で表現されるだけである。
・しかし、この第二の商品がどんなものであるか、上着や鉄や小麦などのどれであるかは、まったくどうでもよいのである。
・つまり、商品Aが他のどんな商品種類にたいして価値関係にはいるかにしたがって、同じ一つの商品のいろいろな単純な価値形態が生ずるのである。
・商品Aの可能な価値表現の数は、ただ商品Aとは違った商品種類の数によって制限されているだけである。
・それゆえ、商品Aの個別的な価値表現は、商品Aのいろいろな単純な価値表現のいくらでも引き伸ばせる列に転化するのである。

●「ここで個別的な形態という表現が登場している。表題は《単純な、個別的な、または偶然的な価値形態》であったが、略して単純な価値形態と書かれてきていた。」との発言がありました。

★《この第二の商品がどんなものであるか、上着や鉄や小麦などのどれであるかは、まったくどうでもよいの》のであり、どんな商品が等価形態におかれるかは、偶然的である。だから、単純な価値形態は、偶然的な価値形態でもある。


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by shihonron | 2008-11-05 23:30 | 学習会の報告


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