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『資本論』を読む会の報告

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2008年 11月 26日

第123回 11月26日 第1章 商品 第3節 C 1

11月26日(水)に第123回の学習会を行いました。「読む会通信№313」を元に前回の復習をした後、「第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値」の「C 一般的価値形態 1 価値形態の変化した性格」の第1段落から第3段落までを輪読、検討しました。
「読む会通信№313」の記述の内、次の個所について議論になり、記述は訂正すべきだとの結論になりました。

1 展開された相対的価値形態

第1段落・ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、今では商品世界の無数の他の要素で表現される。
・他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。
・こうして、この価値そのものがはじめてほんとうに無差別な人間労働の凝固として現れる。
・なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表されているからである。
・すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてこの労働に等しいとされているからである。
・それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。
・商品として、リンネルはこの世界の市民である。
・同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現れる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。

★《他のどの人間労働》とは、抽象的人間労働労働のことではなく、具体的有用的労働のことをさしている。岡崎訳では、抽象的人間的労働も人間が行う労働も区別なく「人間労働」とされているが、前者は「人間的労働」という表現で区別を明らかにすべきだと思う。》

以上の引用にあるように、報告者は《他のどの人間労働》を具体的有用的労働だとしていました。しかし、新日本版の訳では「人間的労働」と訳されており、《他のどの人間労働》は抽象的人間的労働のことだとの指摘があり、そのように理解すべきだとの結論になりました。

■テキストの内容と議論
第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値 
C 一般的価値形態


    1着の上着     =  ̄|
    10ポンドの茶   =   |
    40ポンドのコーヒー=  |
    1クォーターの小麦 = |
    2オンスの金    =  |― 20エレのリンネル
    1/2トンの鉄   =   |
    x量の商品A    =   |
    等々の商品     = _ |

1 価値形態の変化した性格

第1段落
・いろいろな商品はそれぞれの価値をここでは(1)単純に表している、というのはただ一つの商品で表しているからであり、そして(2)統一的に表している、というのは、同じ商品で表しているからである。
・諸商品の価値形態は単純であり共通であり、したがって一般的である。

■新日本版では《諸商品の価値形態は、簡単かつ共同的であり、それゆえ一般的である。》、英語版では《This form of value is elementary and the same for all, therefore general. 》となっている。

第2段落
・形態ⅠとⅡはどちらも、ただ、一商品の価値をその商品自身の使用価値またはその商品体とは違ったものとして表現することしかできなかった。

★単純な価値形態(形態Ⅰ)では、一つの商品はその価値を他の一商品の使用価値で表わす。たとえば 20エレのリンネル=1着の上着 というように。この等式の意味は、20エレのリンネルは価値としては1着の上着に等しいということである。あるいは、20エレのリンネルの交換価値は1着の上着であるともいえよう。ここでは、リンネルの価値は上着という使用価値で表現されており、それによってリンネの価値は、リンネルの使用価値とは違ったもの―上着と等しいもの―であることが表現されている。展開された価値形態(形態Ⅱ)では、一つの商品はその価値を他のあらゆる商品の使用価値で表わす。しかし、それは単純な価値形態の多彩な寄木細工であり、単純な価値形態と同様に相対的価値形態にある商品体の価値をその商品自身の使用価値とは違ったものとして表現するだけである。

第3段落
・第一の形態は、1着の上着=20エレのリンネル、10ポンドの茶=1/2トンの鉄 などという価値等式を与えた。
・上着価値はリンネルに等しいもの、茶価値は、鉄に等しいものというように表現されるのであるが、しかし、リンネルに等しいものと鉄に等しいものとは、すなわち上着や茶のこれらの価値表現は、リンネルと鉄とが違っているように違っている。
・この形態が実際にはっきりと現れるのは、ただ、労働生産物が偶然的な時折の交換によって商品にされるような最初の時期だけのことである。

★第1の形態では、諸商品の価値は、統一的に表現されていないと言うことだろう。

■《直接的生産物交換は、一面では単純な価値形態の形態をもっているが、他面ではまだそれをもっていない。この形態は、x量の商品A=y量の商品B であった。直接的生産物交換の形態は、x量の使用対象A=y量の使用対象B である。AとBという物はこの場合には交換以前には商品ではなく、交換によってはじめて商品になる。》(国民文庫160頁・原頁102)

■《それから、このいわゆる偶然的な価値形態は価値形態の歴史的発展の過程と関係づけることができものなのかどうか、という質問ですが、このようなことが問題になるのは、おそらく、同じ『資本論』のなかに次のような記事が見いだされるからだと思います。

第1の形態は、1着の上着=20エレのリンネル、10重量ポンドの茶=1/2トンの鉄 等々のような価値等式を示した。上着価値は、リンネルに等しいものとして、茶価値は、鉄に等しいものとして、というように表現されるのであるが、しかし、リンネルに等しいものと鉄に等しいものとは、すなわちこれら上着と茶の価値表現は、リンネルと鉄とが違っているように違っている。この形態が実際に現れるのは、明らかにただ、労働生産物が偶然的な時折の交換によって商品に転化される最初の時期だけである。》(『資本論』Ⅰ80頁、「貨幣Ⅰ」[20])

 なるほどここには、「この形態」は「労働生産物が偶然的な……交換によって商品に転化される最初の時期」に「実際に現れる」と書かれていますが、ここで「この形態」と言っているのは、左右両辺のどちらにもただ一つの種類の商品がおかれている、等式としての形態であって、これを、商品の価値表現の基本的な形態としての簡単な価値形態と同じだと読んだら、とんでもない間違いになるでしょう。商品の価値形態は、生産物がすでに商品になっており、その生産のために費やされた労働が、社会の総労働の支出の一部として商品の価値を形成していることを前提しているのであって、この商品の価値を、その商品の使用価値から区別して表現する形態が価値形態なのです。ところが、右に引用した個所で問題にされているのは、「労働生産物が偶然的な……交換によって商品に転化される最初の時期」のことなのだから、そこでは、生産物は交換以前にはまだ商品になっていないわけです。したがって、商品の価値形態もまだ問題になりえないはずです。しかし、このことをわきまえた上でなら、価値形態論での形態発展と歴史におけるそれとの照応関係を考えることは、もちろんそれなりに意味のあることだと思います。》(久留間鮫造『貨幣論』91-92頁)



by shihonron | 2008-11-26 23:30 | 学習会の報告


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