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『資本論』を読む会の報告

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2008年 12月 16日

126回  12月16日  第1章 商品 第3節 C 3

12月16日(火)に第126回の学習会を行いました。「第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値」の「C 一般的価値形態 2 相対的価値形態と等価形態の発展関係」の第5段落から最後(第7段落)までと「3 一般的価値形態から貨幣形態への移行」の最後までを輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。


■テキストの内容と議論
第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値 
C 一般的価値形態
3 一般的価値形態から貨幣形態への移行


第5段落
・形態Ⅱでも、やはりただ一つ一つの商品種類がそれぞれの相対的価値を総体的に展開しうるだけである。
・言いかえれば、すべての他の商品がその商品種類にたいして等価形態にあるからこそ、またそのかぎりでのみ、その商品種類自身が、展開された相対的価値形態をもつのである。
・ここではもはや価値等式――たとえば、20エレのリンネル=1着の上着 または=10ポンドの茶 または=1クォーターの小麦, 等々――の二つの辺をおきかえることは、この等式の全性格を変えてこれを全体的価値形態から一般的価値形態に転化させることなしには、不可能である。

第6段落
・このあとのほうの形態。すなわち形態Ⅲが最後に商品世界に一般的な社会的な相対的価値形態を与えるのであるが、それはただ、ただ一つの例外だけを除いて、商品世界に属する全商品が一般的等価形態から排除されているからであり、また、そのかぎりでのことである。
・したがって、一商品、リンネルが他のすべての商品との直接的交換可能性の形態または直接的に社会的な形態にあるのは、他のすべての商品がこの形態をとっていないからであり、またそのかぎりでのことなのである。*注24

注24
・じっさい、一般的直接的交換可能性の形態を見ても、それが一つの対立的な商品形態であって、ちょうど一磁極の陽性が他の磁極の陰性と不可分であるように非直接的交換可能性の形態と不可分であるということは、けっしてわからないのである。
・それだからこそ、すべての商品に同時に直接的交換可能性の極印を押すことができるかのように妄想することもできるのであって、それは、ちょうど、すべてのカトリック教徒を教皇にすることができると妄想することもできるようなものである。
・商品生産に人間の自由と個人の独立との頂点を見る小市民にとっては、この形態につきもののいろいろな不都合、ことにまた諸商品の非直接的交換可能性から免れるということは、もちろんまったく望ましいことであろう。
・この俗物的ユートピアを描きあげたものがプルドンの社会主義なのであるが、それは、私がほかのところで示したように、けっして独創という功績などのあるものではなく、むしろ彼よりもずっと前にグレーやブレーやその他の人々によってもっとずっとよく展開されたのである。
・こういうことは、このような知恵が今日でもある種の仲間のあいだでは「科学」という名のもとに流行しているということを妨げないのである。
・プルドンの学派ほど「科学」という言葉を乱用した学派はかつてなかった。
・じっさい。「まさに概念の欠けているところに、言葉がうまくまにあうようにやってくるものなんだ。」

●「《一般的な社会的な相対的価値形態》の一般的、社会的とはどういうことか」との疑問が出されました。「一般的というのは、どの商品もリンネルという同じ商品の使用価値でもって自分の価値を表現していること、社会的とは個別の商品がてんでバラバラに私事として自分の価値を表現するのではなく、リンネル以外のすべての商品が歩調を合わせて自分たちの価値をリンネルの使用価値で表現しているという意味ではないか」との発言がありました。

■《いろいろな商品はそれぞれの価値をここでは(1)単純に表している、というのはただ一つの商品で表しているからであり、そして(2)統一的に表している、というのは、同じ商品で表しているからである。
・諸商品の価値形態は単純であり共通であり、したがって一般的である。》(国民文庫123頁・原頁79)

●注24の最初で述べられていることの内容が問題になり「貨幣をもっていれば何でも買うことができるが、じつは貨幣に特別な力があるわけではなく、他のすべての商品が貨幣商品を一般的等価物にした結果であるということはわからないということを述べているのではないか」という発言がありました。

●プルドンはどのように《諸商品の非直接的交換可能性から免れる》ことを説いたのかという疑問が出され、調べることになりました。

■プルードン Pierre Joseph Proudhon 1809‐65

フランスの社会思想家で,生産者の自由連合思想による社会革命と改良を説いた社会主義者。当時の多くの社会主義思想家と異なり貧しい職工の家庭に生まれる。彼はサン・シモンやヘーゲル,アダム・スミス,聖書などの本を製造する印刷工や校正係となって独学し,ヨーロッパ大陸を修業して回る熟練工として育つなかで,個性的に自立した生産者の機能的な分業が富の基礎であるにもかかわらず,その〈集合力〉が資本家によって不当に利用されていると考えるようになった。近代工業と成長期の資本主義の多面的な矛盾を指摘しながら,社会進歩への信頼感を失わず,寡占的な産業封建制から国家統制的な産業帝制への動きに産業民主制を代替させようとした。その著《貧困の哲学Syst≡me des contradictions レconomiques, ou philosophie de la mis≡re 》 (1846) で,生産者の預託による共済的な人民銀行案や,租税改革案などを説き,労働者の精神的成熟と社会統御の能力の漸次的成長を促すことを要求したため,政治的能力を過度に強調する革命家たちに反対され,とくにマルクスの《哲学の貧困》によって攻撃を受けた。パリの熟練職工の支持で 1848 年には国民議会議員となってルイ・ボナパルトの政策を批判し,投獄と亡命生活を送った。エンゲルスの《空想より科学へ》では〈批判的社会主義者〉として扱われている。空想的社会主義者に分類されることが多いが,プルードン自身は自分を〈科学的社会主義〉と呼んでおり,また職業生活以外の社会生活の多くの領域で自治 self‐government と自主管理 self‐management を進め,国や政党,経営者による上からの制御に反対した彼の思想は,マルクスやレーニンの思想を掲げる国家群の悲喜劇を前に近年再評価されている。今日でも大陸の労働運動には反インテリ的なプルードン主義の傾向が強い。また〈アナーキズム〉の名付け親ともいわれる。  川喜多 喬 (世界大百科事典)

第7段落
・反対に。一般的等価物の役を演ずる商品は、商品世界の統一的な、したがってまた一般的な相対的価値形態からは排除されている。
・もしもリンネルが、すなわち一般的等価形態にあるなんらかの商品が、同時に一般的相対的価値形態にも参加するとすれば、その商品は自分自身のために等価物として役だたなければならないであろう。
・その場合には、20エレのリンネル=20エレのリンネル となり、それは価値も価値量も表していない同義反復になるであろう。
・一般的等価物の相対的価値を表現するためには、むしろ形態Ⅲを逆にしなければならないのである。
・一般的等価物は、他の諸商品と共通な相対的価値形態をもたないのであって、その価値は、他のすべての商品体の無限の列で相対的に表現されるのである。
・こうして、いまでは、展開された相対的価値形態すなわち形態Ⅱが、等価物商品の独自な相対的価値形態として現れるのである。

■《20エレのリンネル=20エレのリンネルはけっして価値表現ではない。この等式が意味しているのは、むしろ逆のことである。すなわち、20エレのリンネルは20エレのリンネルに、すなわち一定量の使用対象リンネルにほかならないということである。つまり、リンネルの価値は、ただ相対的にしか、すなわち別の商品でしか表現されえないのである。》(国民文庫95頁・原頁63)

3 一般的価値形態から貨幣形態への移行

第1段落
・一般的等価形態は価値一般の一つの形態である。
・だから、それはどの商品にでも付着することができる。
・他方、ある商品が一般的等価形態(形態Ⅲ)にあるのは、ただ、それが他のすべての商品によって等価物として排除されるからであり、また排除されるかぎりでのことである。
・そして、この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とをかちえたのである。

●《一般的等価形態は価値一般の一つの形態である》とはどういうことかとの疑問が出され、「《価値一般》は《価値そのもの》という意味で用いられている」との指摘がなされましたが、はっきりとした結論は出ませんでした。

★単純な価値形態における個別的等価物は相対的価値形態にある一商品の価値の表現である。展開された価値形態における特殊的等価物もまた相対的価値形態にある一商品の価値の表現にすぎない。これに対して、一般的価値形態における一般的等価物は、一商品の価値ではなくあらゆる商品の価値を表現する。したがって、一般的等価形態は、なにかある特殊な商品の価値の形態にとどまらず価値一般の形態だといえるのではないだろうか。

●「マルクスは、統一的な相対的価値形態が客観的な固定性と一般的な社会的妥当性をかちえると述べているが、むしろ一般的等価物が客観的な固定性と一般的な社会的妥当性を獲得することで貨幣になるという方が分かりやすいように思う」との発言がありました。

第2段落
・そこで、その現物形態に等価形態が社会的に合生する特殊な商品種類は、貨幣商品になる。
・いいかえれば、貨幣として機能する。
・商品世界のなかで一般的等価物の役割を演ずるということが、その商品の独自な社会的機能となり、したがってまたその商品の社会的独占となる。
・このよう特権的な地位を、形態Ⅱではリンネルの特殊的等価物の役を演じ形態Ⅲでは自分たちの相対的価値を共通にリンネルで表現しているいろいろな商品のなかで、ある一定の商品が歴史的にかちとった。
・すなわち、金である。
・そこで、形態Ⅲのなかで商品リンネルを商品金に取り替えれば、次のような形態が得られる。

●「なぜ《貨幣商品》という言葉が用いられているのだろうか」との疑問が出され、「貨幣は商品にほかならないこと、商品が貨幣になることをはっきりとさせたかったからではないか」との発言がありました。

●「《ある一定の商品が歴史的にかちとった》と述べられているが、それは形態の発展そのものから論理的に金が貨幣商品になることを説くことはできないということではないか」との発言がありました。



by shihonron | 2008-12-16 23:30 | 学習会の報告


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