『資本論』を読む会の報告

shihonron.exblog.jp
ブログトップ
2009年 01月 15日

第128回 1月15日 第1章 第4節 商品の呪物的性格とその秘密

1月15日(木)に第128回の学習会を行いました。「読む会通信№316」をもとに前回の復習をした後、「第1章 商品 第4節 商品の呪物的性格とその秘密」の第1段落から第2段落までを輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第1章 商品 第4節 商品の呪物的性格とその秘密


■《商品の呪物的性格》は、長谷部訳と新日本版では《商品の物神的性格》、マルクスコレクション版では《商品のフェティッシュ的性格》となっている。

●この節の表題について、ドイツ語原文の「Der Fetischcharakter derWare und sein Geheimnis」のうち“Fetischcharakter derWare”は英語では「commodity fetishism」(商品物神崇拝)と訳されていることがあるが、それは適切ではなく「fetish-like character of the commodity」(商品の物神的性格)と訳すべきだというHans G. Ehrbar氏(ユタ大学経済学部の先生のようです)の見解が紹介されました。
《Before our detailed commentary of section 1.4 can begin, we must look at its title, which reads, in German, “Der Fetischcharakter derWare und sein Geheimnis.” Usually, “Fetischcharakterder Ware” is translated with “commodity fetishism.” Howewer, a more accurate translationwould be “fetish-like character of the commodity.” Marx distinguishes between “fetishism,”which is a false interpretation, and “fetish-like character,” which is a property in fact possessed by social relations. Commodities have a fetish-like character, while members of capitalist society often display fetishism (systematized in “bourgeois economics”). Fetishism and bourgeois economics will be discussed in subsections 1.4.c and 1.4.e. A brief allusion to fetishism is already given at the end of 1.4.a, but the early parts of this section focus on the fetish-like character of the commodity》
    http://www.econ.utah.edu:80/~ehrbar/akmc.htm

 ハンス氏は、《マルクスは「物神崇拝」(それは「偽の解釈」、誤った認識)と「物神的性格」(それは実は社会関係が取り憑いている特性、社会的関係が表現されている物の性質)を区別します。商品は物神的性格を持っています。その一方で資本主義社会のメンバーはしばしば物神崇拝(「ブルジョア経済学」の中で組織化された)を示しています。》と主張しているようです。(私の翻訳なので不正確かもしれません)
 これに関連して、「物神性」は「物神的性格」と同じ意味ではないかとの発言がありました。

第1段落
・商品は、一見、自明な平凡なものに見える。
・商品の分析は、商品とは非常にへんてこなもので形而上学的な小理屈や神学的な小言でいっぱいなものだということを示す。
・商品が使用価値であるかぎりでは、その諸属性によって人間の諸欲望を満足させるものだとという観点から見ても、あるいはまた人間労働の生産物としてはじめてこれらの属性を得るものだという観点から見ても、商品には少しも神秘的なところはない。
・人間が自分の活動によって自然素材の形態を人間にとって有用な仕方で変化させるということはわかりきったことである。
・たとえば、材木で机をつくれば、材木の形は変えられる。
・それにもかかわらず、机はやはり材木であり、ありふれた感覚的なものである。
・ところが、机が商品として現れるやいなや、それは一つの感覚的であると同時に超感覚的であるものになってしまうのである。
・机は、自分の足で床の上に立っているだけではなく、他のすべての商品にたいして頭で立っており、そしてその木頭からは、机が自分かってに踊り出すときよりもはるかに奇怪な妄想を繰り広げるのである。

●「《感覚的であると同時に超感覚的であるもの》は、原文に忠実に訳すと〈感覚的に超感覚的なもの〉となる」との指摘がありました。

■《形而上学的な小理屈や神学的な小言》は、長谷部訳では《形而上学的な繊細さと神学的な意地悪さ》、新日本版では《形而上学的なつべこべと神学的なしかつめらしさ》、マルクスコレクション版では《形而上学的な精妙さと神学的な気むずかしさ》となっている。

■ 【形而上学】〔metaphysics〕
(1)存在者を存在者たらしめている超越的な原理、さらには神・世界・霊魂などを研究対象とする学問。第一哲学。
(2)客観的実在やその認識の可能を端的に認める哲学的立場。不可知論や実証主義の立場から独断論や実在論を称した語。
(3)事実を離れて抽象的なものにだけとどまる議論を揶揄(やゆ)していう語。
(4)書名(別項参照)。 (大辞林 第二版より)

■ 【神学】〔theology〕
特定の宗教を信仰する立場から、その宗教の教義や信仰について研究する学問。特に、キリスト教の神学についていわれることが多く、そこには聖書神学・歴史神学・組織神学・実践神学などの各部門があり、キリスト・終末・救済・宣教など
が論じられる。(大辞林 第二版より)

■《感覚的》《超感覚的》は、新日本版、長谷部訳、マルクスコレクション版では《感性的》《超感性的》となっている。

■【感性的認識】
〔哲〕 感覚や知覚によって得られる認識。感覚的認識。(大辞林 第二版より)

■【理性的認識】
〔哲〕 感覚器官を媒介とせず、思惟や理性のみを基礎とする認識。プラトンのイデアの認識あるいは数学的認識などがこれにあたり、通常感性的認識より高次のものとされる。(大辞林 第二版より)

●注25で「ほかの世界がすべて静止しているように思われたときに、シナと机が踊りだした――ほかのものを励ますために――ということが思い出される」と書かれていることについて、「1848年の革命の敗北の後に、中国で民衆の運動が展開されたこと、太平天国などのことが念頭にあったのだろうか。マルクスは全集15巻に収められてある論文・中国問題では、こうした中国での動きをたいして評価していないようだ」との発言がありました。

■マルクスは。「中国問題」で次のように書いている。《この中国革命で独特なのは、実際はただその担当者だけである。彼らは、王朝の交替ということを除いては、どのようなスローガンももっていない。彼らは旧統治者によるよりも人民大衆によってよけいに恐れられている。彼らの使命は、保守的老衰に対立して、怪奇な、いとわしい形態における破壊、なんらの新しい建設の萌芽ももたない破壊を代表する以外にはなにもないかのように思われる。》(全集第15巻490頁)

■chi・na [táin] ━━ n., a. 磁器(の), 陶磁器; 瀬戸物. ( エクシード英和辞典より)

■国民文庫では、注25について次のような注解が付されています。《ほかのものを励ますために( pour encourager les autres )――1848-49年の革命の敗北後、ヨーロッパでは暗い政治的反動期が始まった。そのころヨーロッパの貴族仲間は、またブルジョア仲間も霊交術や特に卓踊術に熱中していたが、他方、シナではとくに農民のあいだに強力な反封建的解放運動が広がっており、それは太平天国の乱として歴史に残っている。》(407頁)また、新日本版では《テーブルや陶器が踊るというのは心霊術の一種で、1848年の革命の敗北後ヨーロッパで流行したが、マルクスはここで、1850年から起こった中国の太平天国運動とそれとをかけている。》と解説されている。

■1848年革命 せんはっぴゃくよんじゅうはちねんかくめい
1848年に起こったヨーロッパ諸国の一連の革命を全体的にとらえた呼称。48年革命とも。同年2月のフランスの二月革命は,ウィーン,ベルリンの三月革命に連動し,これが東欧のハンガリー(クロアチアなどもその支配下),ボヘミア,ポーランドなどの民族運動を触発した。イタリアではミラノ,ベネチアの反乱からサルデーニャのイタリア統一戦争へと発展した。この段階での革命は敗北に終わるが,近代ヨーロッパの転換点の意味を持ち,〈諸民族の春〉とも呼ばれる。ハプスブルク家やロシア帝国の支配下の東欧における民族運動の目標達成は,第1次大戦とロシア革命による支配大国の崩壊まで持ち越されるが,この間の状況からエンゲルスは民族国家を形成しえない民族を〈歴史なき民〉と呼んだ。《共産党宣言》はこの激動の年に発表された。(マイペディア)

■太平天国 たいへいてんごく
中国,清末1851年1月反清をうたって武装蜂起(ほうき)した洪(こう)秀全を指導者とする集団およびそれが同年樹立した国号。1864年まで存続。清側ではこの反乱を太平天国の乱とし,辮髪(べんぱつ)を拒否し長髪にしたことから長髪賊の乱,その地域名から粤匪(えつぴ)の乱とした。また太平天国を偽国家としている。拝上帝会の首領洪秀全が馮雲山・楊秀清・蕭朝貴・石達開らと広西省桂平県金田村に蜂起し,永安攻略後,ここを都として建国。自らを天王とし,諸王を定め,体制を整えた。のち湖南から江蘇に進撃し1853年南京を占領,天京と改め都とする。以後北征・西征の軍を進め,制度文物の整備に努めたが,内紛が激化し,清軍とゴードンの率いる常勝軍の反攻を受けて各地で敗北。1864年天京陥落により滅亡。洪秀全は陥落を前に自殺。蜂起は排満興漢・平等世界建設という理想をもち,清末の革命に大きい影響を及ぼした。

第2段落
・だから、商品の神秘的な性格は商品の使用価値からは出てこないのである。
・それはまた価値規定の内容からも出てこない。
・なぜならば、第一に、いろいろな有用労働または生産的活動がどんなに違っていようとも、それが人間有機体の諸機能だということ、また、このような機能は、その内容や形態がどうであろうと、どれも本質的には人間の脳や神経や筋肉や感覚器官などの支出だということは、生理学上の真理だからである。
・第二に、価値量の規定の根底にあるもの、すなわち前述の支出の継続時間、または労働の量について言えば、この量は感覚的にも労働の質とは区別されうるものである。
・どんな状態のもとでも、生活手段の生産に費やされる労働時間は、人間の関心事でなければならなかった。
・といっても、発展段階の相違によつて一様ではないが。
・最後に、人間がなにかの仕方で相互のために労働するようになれば、彼らの労働もまた社会的な形態をもつことになるのである。

■《すべての労働は、一面では、生理学的な意味での人間の労働力の支出であって、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性においてそれは商品価値を形成するのである。》(国民文庫91頁・原頁61)

●《商品の神秘的な性格》とは何かが問題になり、「商品が使用価値としては違った物でありながら、価値としては等しく、したがって交換されうるということか」「後の第4段落で述べられている商品の呪物的性格のことではないか」との発言がありました。

★価値規定の内容とは何か?
(1)価値とは抽象的人間労働の対象化である
(2)価値量は、その商品の生産に社会的に必要とされる労働時間によって規定される
(3)価値は、商品生産社会における労働の社会的性格の表現である

■ 1868年7月11日付けのクーゲルマンへの手紙
《価値概念を証明する必要があるなどというおしゃべりは、当面の問題についての、さらにまた、この科学の方法についての完全な無知にもとづくものにほかならない。いかなる国民でも、一年間はおろか二、三週間でも労働を停止しようものなら、たちまちまいってしまうということは、どんな子どもでも知っている。また、種々の欲望の量に応じる諸生産物の量は、社会的総労働の種々のそして特定の分量を必要とするということもどんな子どもでも知っていることである。このように社会的労働を一定の割合で配分する必要は、社会的生産の一定の形態によってなくされるものではなくて、ただそのあらわれかたが変わるにすぎないことは自明である。自然法則をなくすことはけっしてできないことである。いろいろの歴史的状態につれて変化しうるのは、それらの法則が貫徹される形態だけである。そして、社会的労働の連関が個人的労働生産物の私的交換としてあらわれる社会状態においてこの労働の比例的配分が貫徹される形態がまさしくこれらの生産物の交換価値なのである。》
(国民文庫87~89頁)

■「アードルフ・ヴァーグナー著『経済学教科書』への傍注」
《さて、ロートベルトゥスが――私はあとでなぜ彼にこれがわからなかったのか、その理由を言おう――すすんで商品の交換価値を分析したとすれば、――交換価値は商品が複数で見いだされ、さまざまな商品種類が見いだされるところにだけ存在するのだから――彼はこの現象形態の背後に「価値」を発見したはずである。彼がさらにすすんで価値を調べたとすれば、彼はさらに、価値においては物、「使用価値」は人間労働のたんなる対象化、等一な人間労働力の支出と見なされ、したがってこの内容が物の対象的性格として、商品自身に物的にそなわった〔性格〕として表示されていること、もっともこの対象性は商品の現物形態には現れないということ〔そして、このことが特別な価値形態を必要にするのである〕、こういうことを発見したことであろう。つまり、商品の「価値」は、他のすべての歴史的社会形態にも別の形態でではあるが、同様に存在するもの、すなわち労働の社会的性格――労働が「社会的」労働力の支出として存在するかぎりでの――を、ただ歴史的に発展した一形態で表現するだけだということを発見したことであろう。このように商品の「価値」があらゆる社会形態に存在するものの特定の歴史的形態にすぎぬとすれば、商品の「使用価値」を特徴づける「社会的使用価値」もやはりそうである。》
(全集第19巻376~7頁)


[PR]

by shihonron | 2009-01-15 23:30 | 学習会の報告


<< 第129回 1月20日 第1章...      第127回 1月6日 第1章 ... >>