『資本論』を読む会の報告

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2009年 01月 20日

第129回 1月20日 第1章 第4節 商品の呪物的性格とその秘密

1月20日(火)に第129回の学習会を行いました。「第1章 商品 第4節 商品の呪物的性格とその秘密」の第3段落から第6段落までを輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第1章 商品 第4節 商品の呪物的性格とその秘密


第3段落
・それでは、労働生産物が商品形態をとるとき、その謎のような性格はどこから生ずるのか? あきらかにその形態そのものからである。
・いろいろな人間労働の同等性はいろいろな労働生産物の同等な価値対象性という物的形態を受け取り、その継続時間による人間労働力の支出の尺度は労働生産物の価値量という形態を受け取り、最後に、生産者たちの労働の前述の社会的規定がそのなかで実証されるところの彼らの諸関係は、いろいろな労働生産物の社会的関係という形態を受け取るのである。

●「その謎のような性格」とはどんなことかが問題になりました。「第1段落では、《商品とは非常にへんてこなもの》とか《感覚的であると同時に超感覚的であるもの》と言い、第2段落では《商品の神秘的な性格》と言われている。ここでは《その謎のような性格》と呼ばれているが、内容は同じであり、商品が価値であるということではないか。価値は抽象的人間的労働の対象化であり、価値の大きさはその商品の生産に社会的に必要とされる労働量(社会的必要労働時間)によって規定される。労働力の支出が対象化された形態つまり物の性質として現れ、労働時間が価値の量として、価値であることとその量は、他商品の使用価値の一定量によって表現される」との発言がありました。

●《生産者たちの労働の前述の社会的規定》とはなにかという疑問が出され、「第2段落で述べられていた《人間がなにかの仕方で相互のために労働するようになれば、彼らの労働もまた社会的な形態をもつことになる》と言うことではないか」との発言がありました。

●「第2段落で述べられている3つの事柄と第3段落で述べられている3つの事柄は、それぞれ対応している」との発言がありました。

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★どんな労働も人間労働力の支出として見れば(抽象的・人間的労働としては)相
等しい。このことが商品生産社会においては、諸商品が価値としては相等しいということに現れる。商品の生産に必要な労働時間は、その商品の価値量として現れる。商品生産社会における生産者が(結果として)相互のために行う労働は、商品と商品との社会的関係(価値関係あるいは交換関係)として現れる。商品の価値が表現しているのは、労働の社会的性格――労働が「社会的」労働力の支出とし
て存在するかぎりでの――の特定の歴史的形態なのである。

第4段落
・だから、商品形態の秘密はただ単に次のことのうちにあるわけである。
・すなわち、商品形態は人間にたいして人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として反映させ、これらの物の社会的自然属性として反映させ、したがってまた、総労働にたいする生産者たちの社会的関係を諸対象の彼らの外に存在する社会的関係として反映させるということである。
・このような置き換え[Quidproquo]によって、労働生産物は商品になり、感覚的であると同時に超感覚的である物、または社会的な物になるのである。
・同様に、物が視神経に与える光の印象は、視神経そのものの主観的な刺激としてではなく、目の外にある物の対象的な形態として現れる。
・しかし、視神経の場合には、現実に光が一つの物から、すなわち外的な対象から、別の一つの物に、すなわち目に、投ぜられたのである。
。それは、物理的な物と物とのあいだの一つの物理的な関係である。
・これに反して、商品形態やこの形態が現れるところの諸労働生産物の価値関係は、労働生産物の物理的な性質やそこから生ずる物的な関係とは絶対になんの関係もないのである。
・ここで人間にとって諸物の関係という幻影的な形態をとるものは、ただ人間自身の特定の社会的関係でしかないのである。
・それゆえ、その類例を見いだすためには、われわれは宗教的世界の夢幻境に逃げこまなければならない。
・ここでは、人間の頭の産物が、それ自身の生命を与えられてそれら自身のあいだでも人間とのあいだでも関係を結ぶ独立した姿に見える。
・同様に、商品世界では人間の手の生産物がそう見える。
・これを私は呪物崇拝と呼ぶのであるが、それは、労働生産物が商品として生産されるやいなやこれに付着するものであり、したがって商品生産と不可分なものである。

■《人間にたいして…反映させ》は、マルクスコレクション版では《彼らの頭の中に反映させる》《かれらの頭の中に映し出す》、長谷部訳では《人間の目に反映させ》となっている。

●《社会的自然属性》について「社会と自然は対義語なのにその二つがくっついた表現でわかりにくい」という発言がありました。これにたいして「ここでの自然は社会の対義語ではなく、生まれながらにもっているという意味だろう。社会的自然属性とは、本来的にもっている社会的性質のことではないか」との発言がありました。

●《総労働にたいする生産者たちの社会的関係》とはどんなことかとの疑問が出され、直接には私的労働として行われる商品生産者の労働が、社会的総労働の諸環(諸分肢)であることではないか。彼らは実際には(結果としては)相互のために労働しているのだ」との発言がありました。

■《置き換え[Quidproquo]》は、長谷部訳では《交替》、新日本版では《取り違え》、マルクスコレクション版では《取り替え[quid pro quo換位]》となっている。

■《独立した姿》は、新日本版では《自立的姿態》、長谷部訳は《自立的な姿態》、マルクスコレクション版では《自立した姿》となっている。

■《マルクスが使っているこの“入れ替わり”(Quidproquo)という表現は、あるものとあるものが、入れ替わって現れることであって、それによって人々が欺かれることになる。たとえば、モーツアルトのオペラ『フィガロの結婚』で、アルマヴィーヴァ伯爵を懲らしめるために伯爵夫人とスザンナとが衣裳を取り替えて別人になりすます。そしてこれに伯爵がまんまとひっかかる。これが“入れ替わり”である。『女はみんなこうしたもの(Cosi fan tutte)』のフィオルディリージとドラベッラもそうである。Quidproquoは、オペラではときに現れて愉快な舞台回しをするのであるが、商品生産ではでずっぱりで登場人物たちを惑わし続けるのである。》(「価値形態」191頁、『経済志林』第62巻第2号)

第5段落
・このような、商品世界の呪物的性格は、前の分析がすでに示したように、商品を生産する労働の特有な社会的性格から生ずるものである。

●《前の分析》とはどの個所を指しているのかという疑問が出され、「この章の第2段落のことだろうか」との発言がありましたが、これに対して「すぐ前の個所ではなく、第1節の商品の分析ではないか」との発言がありました。

■《いろいろに違った使用価値または商品体の総体のうちには、同様に多種多様な、属や種や科や亜種や変種を異にする有用労働の総体――社会的分業が現れている。社会的分業は商品生産の存在条件である。といっても、商品生産が逆に社会的分業の存在条件であるのではない。古代インドの共同体では、労働は社会的に分割されているが、生産物が商品になるということはない。あるいはまた、もっと手近な例をとってみれば、どの工場でも労働は体系的に分割されているが、この分割は、労働者たちが彼らの個別的生産物を交換することによって媒介されてはいない。ただ、独立に行われていて互いに依存しあっていない私的労働の生産物だけが、互いに商品として相対する。こうして、どの商品の使用価値にも、一定の合目的的な生産活動または有用労働が含まれているということがわかった。いろいろな使用価値は、それらのうちに質的に違った有用労働が含まれていなければ、商品として相対することはできない。社会の生産物が一般的に商品という形態をとっている社会では、すなわち商品生産者の社会では、独立生産者の私事として互いに独立に営まれるいろいろな有用労働のこのような質的違いが、一つの多肢的な体制に、すなわち社会的分業に、発展するのである。》(国民文庫84頁・原頁56-57) 

第6段落
・およそ使用対象が商品になるのは、それらが互いに独立に営まれる私的労働の生産物であるからにほかならない。
・これらの私的労働の複合体は社会的総労働をなしている。
・生産者たちは自分たちの労働生産物の交換をつうじてはじめて社会的に接触するようになるのだから、彼らの私的諸労働の独自な社会的性格もまたこの交換においてはじめて現れるのである。
・言いかえれば、私的諸労働は、交換によって労働生産物がおかれ労働生産物を介して生産者たちがおかれるところの諸関係によって、はじめて社会的総労働の諸環として実証されるのである。
・それだから、生産者たちにとっては、彼らの私的諸労働の社会的関係は、そのあるがままのものとして現れるのである。
・すなわち、諸個人が自分たちの労働そのものにおいて結ぶ直接に社会的な諸関係としてではなく、むしろ諸個人の物的な諸関係および諸物の社会的な諸関係として、現れるのである。

■《諸個人が自分たちの労働そのものにおいて結ぶ直接に社会的な諸関係としてではなく、むしろ諸個人の物的な諸関係および諸物の社会的な諸関係として、現れるのである。》は、長谷部訳では《彼らの諸労働そのものにおける人と人との直接的に社会的な関係としてではなく、むしろ。人と人との物象的関係および物象と物象との社会的関係として、現象する。》、フランス語版では《自分たちの労働そのものにおける人と人との直接的な社会的関係としてではなくむしろ物と物との社会的関係として、現れることになる。》

■《「物象」というのはドイツ語のSacheの訳語であり、「物件」と訳されることもある。道ばたの石であろうと海辺の貝殻であろうと、人々の外部にあるたんなる「物《Ding》」であるが、値札をつけて店頭に置かれているもろもろの商品は、どれもみな人間によって社会的な意味を与えられたものであって、たんなる「物」ではない。このように、人々の社会的な関係によってなんらかの形態を与えられ、その結果、彼らにとってなんらかの社会的意味をもち、したがって彼らにとって社会的な行為の対象となっているもののことを「物象」という。商品、貨幣、資本はいずれも、資本主義的生産における最も基本的な物象である。》(大谷禎之介『図解社会経済学』76頁)

■ die Sache [ザッヘ]物;事   das Ding  [ディング] 物


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by shihonron | 2009-01-20 23:30 | 学習会の報告


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