『資本論』を読む会の報告

shihonron.exblog.jp
ブログトップ
2009年 01月 27日

第130回 1月27日 第1章 第4節 商品の呪物的性格とその秘密

1月27日(火)に第130回の学習会を行いました。「読む会通信№317」をもとに、前回までの復習をした後、「第1章 商品 第4節 商品の呪物的性格とその秘密」の第7段落から第8段落までを輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第1章 商品 第4節 商品の呪物的性格とその秘密

第7段落
・労働生産物は、それらの交換のなかではじめてそれらの感覚的に違った使用対象性から分離された社会的に同等な価値対象性を受け取るのである。
・このような、有用物と価値物とへの労働生産物の分裂は、交換がすでに十分な広がりと重要さをもつようになり、したがって有用な諸物が交換のために生産され、したがって諸物の価値性格がすでにその生産そのものにさいして考察されるようになってはじめて実際に実証されるのである。
・この瞬間から、生産者たちの私的労働は実際に一つの二重な社会的性格を受け取る。
・それは、一面では、一定の有用労働として一定の社会的欲望を満たさなければならず、そのようにして自分を総労働の諸環として、社会的分業の自然発生的体制の諸環として、実証しなければならない。
・他面では、私的諸労働が、それら自信の生産者たちのさまざまな欲望を満足させるのは、ただ、特殊な有用な私的労働のそれぞれが別の種類の有用な私的労働のそれぞれと交換可能であり、したがってこれと同等と認められるかぎりのことである。
・互いにまったく違っている諸労働の同等性は、ただ、諸労働の現実の不等性の捨象にしかありえない。
・すなわち、諸労働が人間の労働力の支出、抽象的人間労働としてもっている共通な性格への還元にしかありえない。
・私的生産者たちの頭脳は、彼らの私的諸労働のこの二重の社会的性格を、実際の交易、生産物交換で現れる諸形態でのみ反映させ、――したがって彼らの私的諸労働の社会的に有用な性格を、労働生産物が有用でなければならないという、しかも他人のために有用でなければならないという形態で反映させ――、異種の諸労働の同等性という社会的性格を、これらの物質的に違った諸物の、諸労働生産物の、共通な価値性格という形態で反映させるのである。

●「《交換のなかではじめて…価値対象性を受け取る》と述べられているが、交換に先立って価値表現がなされるのではないか」との疑問が出されました。これについては、価値表現は交換を目的になされることであり「交換のなか」のことと考えればよいのではないかという結論になりました。

★交換には、価値関係を取り結ぶこと、価値形態をもつ=価値表現が行われることが前提されるが、それもまた「交換のなか」でのことと考えられる。

●「《有用物と価値物とへの労働生産物の分裂》は、貨幣の生成のことを指していると解釈できないか」との発言がありました。それに対して「ここでは使用価値と価値(交換価値)について述べていると考えられる」との発言がありました。

★《有用物と価値物とへの労働生産物の分裂》とは、労働生産物が使用物であるだけでなく、価値物でもある(価値対象性をもつ)ということを意味している。《このような…分裂》とは《それらの感覚的に違った使用対象性から分離された社会的に同等な価値対象性を受け取る》ことであり、それがどのように表現されるのかは問題にされていない。したがって、「分裂」という表現に引きずられて「労働生産物の商品と貨幣への分裂」=貨幣の生成と解することは正しくない。

★私的労働が《一定の有用労働として一定の社会的欲望を満た》すとは、生産者以外の人によって消費されるということであり、そのためには、私的労働の生産物が交換によって他人の手に渡ることが必要である。つまり交換されなければならない。交換が行われるのは《特殊な有用な私的労働のそれぞれが別の種類の有用な私的労働のそれぞれと…同等と認められるかぎり》である。

●「第6段落で《諸個人の物的な諸関係および諸物の社会的な諸関係》ということが述べられていたが、それは労働と労働との交換が物と物との交換として現れるということを意味している」との発言がありました。

■《ある物は、価値ではなくても、使用価値であることがありうる。それは人間にとってのそのものの効用が労働によって媒介されていない場合である。たとえば空気や処女地や自然の草原や野生の樹木などがそれである。ある物は、商品ではなくても、有用であり人間労働の生産物であることがありえる。自分自身の生産物によって自分の欲望を満足させる人は、使用価値はつくるが、商品は作らない。商品を生産するためには、彼は使用価値を生産するだけではなく、他人のための使用価値、社会的使用価値を生産しなければならない。{しかも、ただ単に他人のためというだけではない。中世の農民は領主のために年貢の穀物を生産し、坊主のために十分の一税の穀物を生産した。しかし、年貢の穀物も十分の一税の穀物も、他人のために生産されたということによっては、商品にはならなかった。商品になるためには、生産物は、それが使用価値として役立つ他人の手に交換によって移されなければならない。}最後に、どんな物も、使用対象であることなしには、価値ではあり得ない。物が無用であれば、それに含まれている、労働も無用であり、労働の中にはいらず、したがって価値を形成しないのである》
(国民文庫81-82頁・原頁55 第1章 第1節 第18段落)

第8段落
・だから、人間が彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらの物が彼らにとっては一様な人間労働の単に物的な外皮として認められるからではない。
・逆である。
・彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等置することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等置するのである。
・彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行うのである。
・それゆえ、価値の額に価値とはなんであるかが書いてあるのではない。
・価値はむしろ、それぞれの労働生産物を一つの社会的な象形文字にするのである。
・あとになって、人間は象形文字の意味を解いて彼らの社会的な産物の秘密を探り出そうとする。
・なぜならば、使用対象の価値としての規定は。言語と同じように、人間の社会的な産物だからである。
・労働生産物は、それが価値であるかぎりでは、その生産に支出された人間労働の単なる物的な表現でしかないという後世の科学的発見は、人類の発展史上に一時代を画すものではあるが、しかしそれはけっして労働の社会的性格の対象的外観を追い払うものではない。
・この特殊な生産形態、商品生産だけにあてはまること、すなわち、互いに独立な私的諸労働の独自な社会的性格はそれらの労働の人間労働としての同等性にあるのであってこの社会的性格が労働生産物の価値性格の形態をとるのだということが、商品生産の諸関係のなかにとらわれている人々にとっては、かの発見のあとにも、最終的なものに見えるのであって、それは、ちょうど、科学によって空気がその諸要素に分解されてもなお空気形態は一つの物理的な物体形態として存続しているようなものである。

●《彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行う》の「それ」とは何を指すのかが問題となり、「物と物とを等置することによって労働と労働とを同等の抽象的人間的労働として等置すること」という結論になりました。

■《エホバの選民の額には彼がエホバのものだということが書いてあったように、分業はマニュファクチュア労働者に、彼が資本のものだということを表している焼き印を押すのである。》(国民文庫第2分冊230頁・原頁232 第12章 第5節 第2段落「マニュファクチュアの資本主義的性格」)

■《天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。そして、天使はわたしにこう言った。「これらの言葉は、信頼でき、また真実である。預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、御自分の僕たちに示されたのである。見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである。」 (ヨハネの黙示録22章 1~ 7)》

●「《社会的な象形文字》とはどういう意味か」との疑問が出され「解読の対象、解かれるべき謎といったことだろう」との結論になりました。

●《労働の社会的性格の対象的外観》とはどういうことかが問題になり、「労働の社会的性格が物の性質として現れることではないか」「労働生産物が価値対象性を受け取り商品形態をとることだろう」との発言がありました。


[PR]

by shihonron | 2009-01-27 23:30 | 学習会の報告


<< 第131回 2月3日 第1章 ...      第129回 1月20日 第1章... >>