『資本論』を読む会の報告

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2009年 02月 03日

第131回 2月3日 第1章 第4節 商品の呪物的性格とその秘密

2月3日(火)に第131回の学習会を行いました。「読む会通信№318」をもとに、前回までの復習をした後、「第1章 商品 第4節 商品の呪物的性格とその秘密」の第9段落から第10段落までを輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第1章 商品 第4節 商品の呪物的性格とその秘密
第9段落

・生産物交換者たちがまず第一に実際に関心をもつのは、自分の生産物とひきかえにどれだけの他人の生産物が得られるか、つまり、生産物がどんな割合で交換されるか、という問題である。
・この割合がある程度の慣習的固定制性をもつまでに成熟してくれば、それは労働生産物の本性から生ずるかのように見える。
・たとえば、1トンの鉄と2オンスの金とが等価であることは、1ポンドの金と1ぽん゛の鉄とがそれらの物理的属性や化学的属性の相違にもかかわらず同じ重さであるのと同じことのように見える。
・じっさい、労働生産物の価値性格は、それが価値量として実証される事によってはじめて固まるのである。
・この価値量のほうは、交換者たちの意志や予知や行為に関係なく、絶えず変動する。
・交換者たち自身の社会的運動が彼らにとっては諸物の運動の形態をもつのであって、彼らはこの運動を制御するのではなく、これによって制御されるのである。
・互いに独立に営まれながらしかも社会的分業の自然発生的な諸環として全面的に互いに依存しあう私的諸労働が、絶えずそれらの社会的に均衡のとれた限度に還元されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的な絶えず変動する交換割合をつうじて、それらの生産物の生産に社会的に必要な労働時間が、たとえばだれかの頭上に家が倒れてくるときの重量の法則のように、規制的な自然法則として強力に貫かれるからである、という科学的認識が経験そのものから生まれてくるまでには、十分に発達した商品生産が必要なのである。
・それだから、労働時間による価値量の規定は、相対的な商品価値の現象的な運動の下に隠れている秘密なのである。
・それの発見は、労働生産物の価値量の単に偶然的な規定という外観を解消させるが、しかしけっしてその物的な形態を解消させはしない。

●「《自分の生産物とひきかえにどれだけの他人の生産物が得られるか、つまり、生産物がどんな割合で交換されるか》と述べられているが、別の言い方をすれば生産物交換者たちが第一に関心を持つのは、自分の生産物の交換価値のことだといえる」との発言がありました。

★生産物の交換価値は、生産物が生まれながらにもっている属性ではなく、ある特定の社会において受け取る社会的性格であるが、あたかも重さと同じように自然的属性であるかのように見える。
■《じっさい、労働生産物の価値性格は、それが価値量として実証される事によってはじめて固まるのである。》は、新日本版では《労働生産物の価値性格は、事実上、価値の大きさとしての諸生産物の発現によってはじめて固まる。》(127頁)、長谷部訳では《事実上では、労働生産物の価値性格は、それらが価値の大いさたる実を示すことによってはじめて確立される。》(68頁)、マルクスコレクション版では《ところが実際には、労働生産物の価値性格は、それぞれの価値の大きさとしての働きを通してはじめて確定する。》(115頁)、フランス語版では《労働生産物の価値性格が実際に目立つのは、労働生産物が価値量として規定された場合にかぎられる。》(50頁)となっている。

★《価値量として実証される》《価値の大きさとしての諸生産物の発現》《価値の大いさたる実を示す》《価値の大きさとしての働きを通して》《価値量として規定された場合》とは、ある労働生産物の価値が、他の労働生産物の使用価値の一定量で示されるという、価値形態をもつということではないか。価値は抽象的・人間的労働の対象化したものであり、価値の大きさ(価値量)は社会的必要労働時間によって規定される。しかし、価値量は労働時間としては表現されえない。価値量は他の商品の使用価値の一定量によって表現されるしかないのである。

●《交換者たち自身の社会的運動》、《諸物の運動》とはそれぞれどんなことなのかが問題になり、「《諸物の運動》とは交換ということではないか」との発言がありました。

★《諸物の運動》とは、ここでは価値量の変動を念頭に置いて述べているように思える。《交換者たち自身の社会的運動》とは、労働であり、生産力の変化をもたらすような行為(生産方法の変革)や生産部門の移動などを指しているのではないか。

■《絶えずそれらの社会的に均衡のとれた限度に還元される》は、新日本版では《社会的に均斉のとれた基準に絶えず還元されるの》(128頁)、長谷部訳では《たえず、その社会的・比率的な尺度に還元される》(68-69頁)、マルクスコレクション版では《その社会的にみあった比率尺度に向かって絶えまなく整理されていく。》(115頁)、フランス語版では《その社会的な比率尺度に絶えず還元される》(50頁)となっている。

■初版では次のように述べられている。
《そこでさらに価値の大きさについて言えば、互いに独立に営まれているところの、といっても、自然発生的な分業の諸分肢であるがゆえに、全面的に互いに依存しあっているところの、私的諸労働は、次のようなことによって、絶えずそれらの社会的に釣り合いのとれた標準に還元されるのである。すなわち、彼らの諸生産物の偶然的な、そして絶えず変動する交換割合のなかでは、それらの生産物の生産のために社会的に必要な労働時間が、たとえばある人の頭上に家が崩れ落ちるときの重力の法則のように、規制的な自然法則として強力的に貫徹される、ということによって、そのような標準に還元されるのである。それだから、労働時間による価値の大きさの規定は、相対的な諸商品価値の現象的な諸運動の下に隠されている秘密なのである。》(国民文庫84頁)


●《社会的に均衡のとれた限度》とは何を意味しているかが問題となりました。「問題になっているのは、私的諸労働の社会的に均衡のとれた限度だ。交換価値(価格)の変動をつうじて、社会が必要としている物を生産する総労働の配分がなされることを意味しているのではないか」という発言があり、これに対して「ここでは価値量が社会的必要労働時間によって規制されていることをいっているのであり、《社会的に均衡のとれた限度》とは価値通りに交換されることをさしているのではないか」「ここで総労働力の配分について読み込むことができるのか、ただ二つの事柄は矛盾しないのではないか」との発言がありました。

■《社会的に均衡のとれた限度》とは何を意味しているかについては、第1期の学習会でも議論になり、次のように報告されています。
《「絶えずそれらの社会的に均衡のとれた限界に還元させる」とはどのような内容を述べているのか?
「均衡のとれた限界」をどう理解するかで二つの意見が出されました。一つは、価格は変動するが、その変動の中心には価値がある。変動する価格は、結局は価値に還元されるということではないかというもの。
もう一つは、「均衡のとれた限度」というのは、社会が必要とする物の生産が行われること、社会全体の需要に応じた生産が行われることではないか。需要との関係で言えば、供給が過少なら価格はあがり、供給が過剰であれば価格は下がる。こうした価格の変動を通じて、さまざまな使用価値を生産する各部門のバランスがとられるということではないかというもの。明確な結論は出ず、今後も考えていくことにしました。》
(2003年6月10日 第18回学習会の報告)
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=17509&pg=20030610

■玉野井芳郎『経済学の主要遺産』より
《マルクスはまず商品の生産をとつて、その労働に二つの面があり、一つは特定の生産活動として示される具体的な有用労働の面、一つは一般的な人間労働力の支出として示される抽象的な一般的労働の面があることを明らかにする。ところで、人間が自然に働きかけて生活に必要な諸物資を獲得するにあたっては、かれはその生産活動の全体を、所期の有用生産物の生産に要する労働時間を基準にして種々の有用労働に配分しなければならない。商品生産社会でも、社会の存続のためには、社会的総労働が、社会的欲望を充足するにたる種種な使用価値の生産に、それぞれの生産に要する労働時間を基準にして配分されなければならない。このばあい、一定の有用労働として一定の社会的欲望をみたす個々の生産者の私的労働は、商品社会全体の総労働の一部として、他のすべての私的労働と同じように一般的な人間労働として支出されることになる。
 けれども、もともと労働が全体として社会化されていない商品生産の社会では、それぞれ特定の有用労働に従事する個々の生産者は、その人間労働力をそのまま直接に社会的労働として支出するのではない。個々の人間の労働がなんらなの仕方で、社会的総労働の部分としての関連をもたなければならないという社会的な生産の一般的条件は、ここでは一種の回り道によって、すなわち、直接に人間どうしの関係においてではなくて、かれらの労働の生産物の、商品としての交換関係をとおして達成される。いいかえると個々の商品生産者が支出する私的労働は、その生産物が商品として交換される特殊な社会的過程を媒介としてはじめて社会的労働となりうるのである。商品の価値というのは、こうした商品生産者の私的な労働が社会的な労働となるためにとる特殊な形態規定にほかならない。すなわち、私的労働として支出される有用労働の面が商品の使用価値となって現れて、種々雑多な商品体の差異をつくりだすのに対して、一般的な人間労働の面は価値として諸商品の質的な同等性をつくりだし、価値の大いさは諸商品の生産に必要な労働時間を基準にして比較計量されうるものとなり、かくしてはじめて社会的総労働の部分としての関連をもつようになるのである。したがってまた個々の商品価値はその生産に必要な一般的な社会的労働の分量によって規定されることになるにしても、その価値はそのまま社会的労働時間いくらとしては測定されないということが重要である。
 商品の価値を形成する一般的労働は商品交換をとおしてはじめて社会的なものとして評価されるのであるから、一商品の価値は他の商品との交換関係における価値、すなわち交換価値として表示され、そういうものとして測定されるほかはない。要するに、商品の交換価値は、市場における生産物の単なる交換比率ではなくて、一定の客観的基準によって決定される商品の価値が必然的に表現される形態であると同時に、商品生産の社会における社会的労働の配分を規制する特殊な形態であるということができる。》
(玉野井芳郎『経済学の主要遺産』講談社学芸文庫 111-113頁)

《商品生産の社会では、社会的労働の配分という社会的生産の一般的原則が直接に人間の手で処理されないで、商品と商品の交換関係、すなわち物と物との関係という回り道をとおして実現される。それゆえ、人間は逆に商品交換の法則性に支配されざるをえなくなり、それと同時に商品のもつ特定の社会的性格は商品という物のもつ自然的性質のごとく受取られ、商品交換の法則性はあたかも自然法則のごとき観を呈するし、また実際そういう作用をなすことになる。このようにして商品経済は、もともと人間のつくり出した物が、逆に人間自身を支配するという物神的性格を固有のものとして生み出すのである。》
(玉野井芳郎『経済学の主要遺産』講談社学芸文庫 117-118頁)

●私的労働について、「それは商品生産における独自なものだ」という意見と「自給自足、つまり自分で消費することを目的に労働する場合にも、私的労働といえるのではないか」という意見が出されました。

★初版では、商品生産者の私的労働を《互いに独立に営まれているところの、といっても、自然発生的な分業の諸分肢であるがゆえに、全面的に互いに依存しあっているところの、私的諸労働》と特徴づけている。こうした表現から「互いに独立に営まれており、互いに依存していない私的労働」の存在を考えることはできるように思える。

●《科学的認識が経験そのものから生まれてくる》とは、古典派経済学のことをさしているのだろう。アダムスミスなどは、産業革命以前に労働価値説を述べていてすごいことだといえる。」との発言がありました。

●《その物的な形態》とはなにかとの疑問が出され、「価値の物的形態ということであり、商品形態、価値形態のことだろう」との発言がありました。

★《その物的な形態》とは、価値量(量的にも規定された価値)の物的形態であり、他の商品の使用価値の一定量という形態つまり、交換価値=価値形態(価値の現象形態)のこと。

●「自然」という言葉をめぐって、「社会の対義語ではなく、〈生まれながらにもっている〉、〈本然の〉、〈必然〉のといった意味もある」との発言があり、「自然権」や「社会契約論」についても紹介がありました。


第10段落
・人間生活の諸形態の考察、したがってまたその科学的分析は、一般に、現実の発展とは反対の道をたどるものである。
・それはあとから始まるのであり、したがって発展過程の既成の諸結果からから始まるのである。
・労働生産物に商品という極印を押す、したがって商品流通に前提されている諸形態は、人間たちが、自分にはむしろ不変なものと考えられるこの諸形態の歴史的な性格についてではなくこの諸形態の内実について解明を与えようとする前に、すでに社会的生活の自然形態の固定制性をもっているのである。
・このようにして、価値量の規定に導いたものは商品価格の分析にほかならなかったのであり、商品の価値性格の確定に導いたものは諸商品の共通な貨幣表現にほかならなかったのである。
・ところが、まさに商品世界のこの完成形態――貨幣形態――こそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである。
・もし私が、上着や長靴などが抽象的人間労働の一般的な具体化としてのリンネルに関係するのだと言うならば、この表現の奇異なことはすぐに感ぜられる。
・ところが、上着や長靴などの生産者たちがこれらの商品を一般的等価物としてのリンネルに――または金銀に、としても事柄に変わりはない――関係させるならば、彼らにとっては自分たちの私的労働の社会的総労働にたいする関係がまさにこの奇妙な形で現れるのである。

●《人間生活の諸形態》とは何かとの疑問が出され、「第11段落では《このような諸形態こそはまさにブルジョア経済学の諸範疇をなしている》と述べられている。商品・価値・貨幣・価格などのことではないか」との発言がありました。

■《人間生活の諸形態の考察》は、新日本版では《人間の生活の諸形態の省察》(128頁)、長谷部訳では《人間の生活の形態にかんする追思惟》(69頁)、マルクスコレクション版では《人間生活のさまざまな形態をとくと考え》(116頁)、フランス語版では《社会生活の諸形態にかんする反省》(51頁)となっている。

●「追思惟というのは適切な訳だと思う。あとからよく考えてみるといった意味だ」との発言がありました。

■「教えて!goo」で《ミネルヴァのふくろうは夕闇迫るころ飛び立つ。の意味を教えてください》との質問にたいして、serpent-owlさんが次のような回答をされています。
《「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」「ここがロードスだ、ここで飛べ」「ここに薔薇がある、ここで踊れ」など、数々の名文句に彩られた『法哲学』序文に見える言葉です。
一応、「定訳」を載せます。 「ミネルヴァの梟は暮れ染める黄昏を待って飛び立つ」。
「ミネルヴァ」はギリシア神話に出てくる知恵と学問の女神、アテネのローマ名。「ふくろう」はその象徴。この場合「哲学の知」を意味しています。
 そして「黄昏」。これは、「現実がある一つの形成過程を終え、死につつあるとき」を指します。
 ということで、「ミネルヴァの梟は…」という言葉の意味は、「現実が一つの形成過程を終え、死につつあるときに哲学の知は動き始める」「哲学の知が始まったとき、すでに現実は終わっている」というほどの意味になります。
 これに関連する話は、1ページ後ろの「現実とは何か、それは理想やロマンをかみ殺すか?」という質問のところにありますので、よろしければ御一読ください。》
 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa53960.html

■ 【極印】ごくいん
(1)江戸時代、品質証明あるいは偽造防止・盗難防止のため、品物や金銀貨に押した文字や印形。
(2)永久に残るしるし。いつまでも消えない証拠。刻印。
――を=打・つ(=押・す)
(1)極印(1)を金銀貨に打つ。
(2)(よくない評価で)そうであるときめつける。
「前科者の―・たれる」 (大辞林 第二版より)

●《価値量の規定に導いたものは商品価格の分析にほかならなかった》《商品の価値性格の確定に導いたものは諸商品の共通な貨幣表現にほかならなかった》と述べられているが、これは『資本論』における分析の事をさしているのか、それとも古典派経済学以降のの分析のことを指しているのだろうかとの疑問が出されました。はっきりとした結論は出されず、今後の課題となりました。

●《私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係》とはどういうことかが問題となりました。「私的諸労働の社会的性格、私的諸労働者の社会的諸関係とは、社会の総労働の諸環―諸分肢―であるということだろう」との発言がありました。

●「《抽象的人間労働の一般的な具体化》とは価値体のことだ」との発言がありました。

★「20エレのリンネル=1着の上着」という単純な価値形態において
左辺の20エレのリンネルは、【使用価値】、【具体的有用的労働】、【私的労働】であることを、右辺の1着の上着は、【価値】、【抽象的人間的労働】、【社会的労働】を表しており、
「20エレのリンネル=1000円」という価格形態においては20エレのリンネルは、【使用価値】、【具体的有用的労働】、【私的労働】であることを、右辺の1000円は、【価値】、【抽象的人間的労働】、【社会的労働】を表しているといえないだろうか。

▲2月22日に誤字を訂正しました。


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by shihonron | 2009-02-03 23:30 | 学習会の報告


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