『資本論』を読む会の報告

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2009年 02月 17日

第133回 2月17日 第1章 第4節 商品の呪物的性格とその秘密


2月17日(火)に第133回の学習会を行いました。「第1章 商品 第4節 商品の呪物的性格とその秘密」の第12段落から第13段落を輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

テキストの内容と議論
第1章 商品 第4節 商品の呪物的性格とその秘密
第12段落

・経済学はロビンソン物語を愛好するから、まず島上のロビンソンに出てきてもらうことにしよう。生来質素な彼ではあるが、彼とてもいろいろな欲望を満足させなければならないのであり、したがって道具をつくり、家具をこしらえ、ラマを馴らし、漁猟をするなど、いろいろな種類の有用労働をしなければならない。
・彼の生産的諸機能はいろいろに違ってはいるが、彼は、それらの諸機能が同じロビンソンのいろいろな活動形態でしかなく、したがって人間労働のいろいろな仕方でしかないということを知っている。
・必要そのものに迫られて、彼は自分の時間を精確に自分のいろいろな機能のあいだに配分するようになる。彼の全活動のうちでどれがより大きい範囲を占めどれがより小さい範囲を占めるかは、目ざす有用効果の達成のために克服しなければならない困難の大小によって定まる。経験は彼にそれを教える。
・彼の財産目録のうちには、彼がもっている使用対象や、それの生産に必要ないろいろな作業や最後にこれらのいろいろな生産物の一定量が彼に平均的に費やさせる労働時間の一覧表が含まれている。
・ロビンソンと彼の自製の富をなしている諸物とのあいだのいっさいの関係はここではまったく簡単明瞭なので、たとえばM・ヴィルト氏でさえも特に心を労することなくこの関係を理解することができたであろう。しかもなおそのうちには価値のすべての本質的な規定が含まれているのである。

●「《価値のすべての本質的な規定》とはどういうことかとの疑問が出されました。「ここでマルクスは《ロビンソンと彼の自製の富をなしている諸物とのあいだのいっさいの関係》のうちにそれが含まれているといっている。商品の分析によって、価値は人間労働一般の支出を表しており、価値とは、抽象的人間労働の対象化したものであること。また、価値の大きさは、その商品の生産に社会的に必要とされる労働時間によって規定されることが明らかにされた。ここでの《価値のすべての本質的な規定》とは、さまざまな欲求を満たすためには様々な有用物(使用価値)を生産しなければならず、労働をさまざまな生産活動(有用労働)に配分する必要があり、その際に基準となるのは、各生産物の生産に平均的に必要とされる労働時間であるということではないか」という発言がありました。

★《価値のすべての本質的な規定》は別のいい方をすれば《価値規定の内容》である。それは、(1)価値とは抽象的人間労働の対象化である、(2)価値量は、その商品の生産に社会的に必要とされる労働時間によって規定される、(3)価値は、商品生産社会における労働の社会的性格の表現であるとまとめることができる。

●「ここで述べられているようなロビンソンの労働は、自分のための労働であり、社会的労働ではなく私的労働ではないか」との発言がありました。それに対して「ここではロビンソンの行っていることを社会的生産がどのように行われているかを明らかにするために取り上げている。社会の総労働力にあたるものとしてロビンソンという一人の人間の労働力が問題にされているのではないか」との発言がありました。

★ここでのロビンソンの労働を私的労働だということはできるとしても、そのことはここでマルクスが明らかにしようとしている課題とは無関係であり、いわば「どうでもいい真実」である。

●ロビンソン物語について『マルクス経済学レキシコン』第5巻「唯物史観Ⅱ」で「Xイデオロギー 4 台頭しつつある18世紀のブルジョアジーの一種のイデオロギーとしてのロビンソン物語」と項目を立てて取り上げられているとの紹介がありました。

■ロビンソン・クルーソー Robinson Crusoe
イギリスの小説家D.デフォーの小説。 1719 年刊。正式タイトル《ロビンソン・クルーソーの生涯と奇しくも驚くべき冒険The Life and Strange Surprising Adventures of Robinson Crusoe》。その写実的手法のゆえに近代イギリス小説の原点と評される。 17 ~ 18 世紀に流行した多くの航海記や,チリ沖のフアン・フェルナンデス諸島に漂着し, 5 年間孤島生活を送ったというアレクサンダー・セルカークなる人物の実話に刺激されて作られた。商人の息子ロビンソンは父の忠告に反して船員となり,さまざまな苦労ののち,無人島に漂着, 28 年間,最初は 1 人で,のちには従僕フライデーとともに自給自足の生活を送り,最後には救出されて帰国する。この作品の成功によって,同年続編も出版された。

 この物語は単なる冒険小説ではなく,宗教的寓意があることも重要である。つまり,父に背いて罪を犯した人間が罰せられ,苦しみ,悔い改め,最後に救われるという当時のピューリタンの伝統にそった〈霊的自伝〉でもある。また,限られた物資のなかで生活を築いていくロビンソンの姿は,後世マルクスやウェーバーらの考察するところともなった。たとえばウェーバーは,ロビンソンの現実的・合理的行動様式に〈資本主義の精神〉に照応する目的合理的思考を読みとっている。 《ロビンソン・クルーソー》はイギリスだけでなく広く読まれており,この物語をまねた漂流記も多く作られた。ドイツ語には〈ロビンソン・クルーソーもの〉を意味する〈ロビンゾナーデRobinsonade〉という言葉も生まれ,フランス語の俗語〈ロバンソンrobinson〉はロビンソンが用いていたような大型こうもり傘を意味する。日本では早くも幕末にオランダ語訳からの重訳が出版されたが,原文からの翻訳としては井上勤《絶世奇談 魯敏糖(ロビンソン) 漂流記》 (1883) が初期のものとしては注目に値する。 榎本 太+山本 泰男 (世界大百科事典)

第13段落
・そこで今度はロビンソンの明るい島から暗いヨーロッパの中世に目を転じてみよう。あの独立した男に代わって、ここではだれもが従属しているのが見られる――農奴と領主、臣下と君主、俗人と聖職者。人的従属関係が、物質的生産の社会的諸関係を、その上に築かれている生活の諸部門をも特徴づけている。
・しかし、まさに人的従属関係が、与えられた社会的基礎をなしているからこそ、労働も生産物も、それらの現実性とは違った幻想的な姿をとる必要はないのである。
・労働や生産物は夫役や貢納として社会的機構のなかにはいって行く。労働の現物形態が、そして商品生産の基礎の上でのように労働の一般性がではなくその特殊性が、ここでは労働の直接に社会的な形態なのである。
・夫役は、商品を生産する労働と同じように、時間で計られるが、しかし、どの農奴も、自分が領主のために支出するものは自分自身の労働力の一定量だということを知っている。坊主に納めなければならない十分の一税は、坊主の祝福よりもはっきりしている。それゆえ、ここで相対する人々がつけている仮面がどのように評価されようとも、彼らの労働における人と人との社会的関係は、どんな場合にも彼ら自身の人的関係として現われるのであって、物と物との、労働生産物と労働生産物との、社会的関係に変装されてはいないのである。

●《人的従属関係》は、新日本版では《人格的依存関係》、長谷部訳では《人格的な依存関係》、マルクスコレクション版では《人格的従属》、フランス語版では《人的従属》となっていることが紹介され「人的従属関係というよりも人格的依存関係の方がふさわしいと思う」との発言がありました。

●「《人的従属関係が、与えられた社会的基礎をなしているからこそ、労働も生産物も、それらの現実性とは違った幻想的な姿をとる必要はない》と述べられているが、裏返していうと商品生産社会では、労働も生産物も幻想的な姿をとっているということになる。労働の幻想的な姿、生産物の幻想的な姿とはどんなことを指しているのか」との疑問か出され、「社会生産社会においては。労働はありのままの有用労働としては私的労働でしかなく、対象化された価値という形態で社会的労働であることを表現すること、生産物は、商品と(使用価値であるだけではなく価値形態をもつ)いう形態をもつことを幻想的な姿といっているのではないか」との発言がありました。

●「《人的従属関係》とは経済外的強制のことではないか」との発言があり、これに対して「奴隷制社会や封建社会などでは経済外的強制といえるが、資本主義後の社会=社会主義社会・アソシエーションも人格的依存関係といえるのではないか」との発言がありました。

■夫役 ぶやく〔「ふやく」とも〕
人身に課税すること。特に、労働課役のこと。中世の佃(つくだ)の耕作や貢租の運搬、近世の助郷(すけごう)や川普請役など。ぶえき。(大辞林 第二版)

■賦役[(西洋)] ふえき
農民が土地領主のために行う無償労役(労働地代)としての賦役は前近代ヨーロッパ社会に広くみられたが,歴史的にはとくに中世封建社会の荘園制のもとでのそれをいう。古典荘園制における領主直営地では賦役が主要な労働源となり,こうした農民はふつう農奴と呼ばれる。その内容はさまざまな作業にわたり,期間も週数日,農繁期における特別賦役など不定量的であった。中世後期には農民の経済的・社会的地位が次第に向上し,農民保有地の割合が増すのとともに減少,領主への義務は現物・貨幣に移行した。近世西欧における賦役の意味は小さかったが,東欧では領主直営地が拡大して,19世紀以降の農奴解放まで大きな意味をもった。(マイペディア)

■労働地代 ろうどうちだい
農民が賦役労働の形で納める封建地代。一定期間または一定時期に領主や地主の農場で農耕や作物の取入れ等に従事することを義務づけられ,それが地代とされるもの。労働地代は現物地代に発展する。
(マイペディア)

■オーエンの平行四辺形について知見邦彦氏は次のように述べている。
《オーエンは農場と森林に囲まれた農村地域に‘平行四辺形’と名づけられた小規模な協同コミュニティを設立することを推奨した。なぜなら、彼は個人の利益は尊重したが、自由な競争原理の制度は強く否定していた(4)。彼は、ロンドンのような大都市が困窮と病弊をもっていることを知っており、理想として、お互いの助け合いと協調による経済的に独立したコミュニティを望んでいたからである。協調的なコミュニティは次ぎの3つの考え方を示唆している。
・生産と消費を含む協力的な人間関係
・財産の共有(この点ではオーエンの考えは一貫していなかった)
・コミュニティ主義(共同体の存在論的優位を説く思想)への確信
このような社会はエコロジカルで、環境にやさしく、持続的であると思われる。今日、工業的農業が支配的な社会では食料は単なる商品となり、農業生産物は工場ラインでの形で生産されるようになってしまった。多くの企業が環境を犠牲にして利益の最大化を求めることが責任ある行動だと考えている。農業生産の目的が自給自足から利益追求に変わったことが土壌の喪失、生物多様性のダメージ、飲料水汚染、人間の健康破壊などの副次効果をもたらしていることは無視できない。
農業の集約化や専門化などの典型的な資本主義的農業を規制することなくして、持続的な農業は実現できないであろうことをこれは示唆している。大切なことは食料の生産と消費は社会組織に深く関わってきたということである。》
(知見邦彦『EU共通農業政策(CAP)改革の評価・再検討(要約)』)         http://homepage2.nifty.com/yamanashijichiken/eu%20agricultural%20policy.doc

■《[生産関係:生活の社会的生産における人間相互の関係]
 人間は、彼らの生活の社会的生産のなかで、社会の生産力の発展段階に対応する一定の諸関係を取り結ぶ。これを生産関係と言う。この生産関係こそが人間諸個人相互間のいっさいの社会関係の根底をなすものである。
 生産関係のかなめは、労働する諸個人がどのような仕方でそのろうどうに必要な諸条件すなわち生産手段にかかわるのか、彼らはどのような仕方で生産手段と結びついて労働するのか、ということにある。このような、生産手段にたいする労働する諸個人のかかわり方が、社会を構成する諸個人による生産物の、とりわけ剰余生産物の取得のあり方を決定する。

[生産関係の歴史的形態とそのもとでの社会的再生産]
  これまでの人類史のなかで、労働する諸個人は、まずもって、共同体――すなわち、人間社会の出発点に存在していた本源的な共同体、および、それの解体過程に生じたさまざまの形態での共同体――を基礎とした共同体的生産関係を経験した。そして、その次に、共同体に代わって貨幣が人々を結びつける絆となっている生産関係である商品生産関係が現われた。現在の資本主義社会の生産関係はこの商品生産関係の最も発展した形態である。この資本主義社会はその発展のうちに、産み落とすべき新たな生産関係を自己の胎内に宿すようになる。それは、自由な諸個人が自発的・自覚的に社会関係を形成するアソシエーション的生産関係である。共同体的生産関係、商品生産的生産関係、アソシエーション的生産関係が、人類史の三つの大きな発展段階をなしているのである。》
(大谷禎之介『図解社会経済学』29-30頁)

《(A) 共同体を基礎とする人格的依存関係
 人類が最初に経験した生産関係は、原始共同体とその解体過程に生じたさまざまの形態の共同体を基礎とする生産関係である。ここでは、労働する諸個人はなんらかの共同体に帰属し、共同体の成員として相互に人格的依存関係を取り結び、労働諸条件すなわち生産手段にたいして、共同体に属するものにたいする仕方でかかわる。社会的生産のなかでの彼らの関係の特徴は、それが彼ら相互間の人格的依存関係であるか、さもなければ、労働しない諸個人が労働する諸個人を人格的に支配する支配・隷属関係であるところにある。》(同前30頁)

---------以下表題のみ-------

(A)-① 共同体的生産関係
(A)-② 人格的な支配・隷属関係(奴隷制、農奴制)
(A)-②-(a) アジア的奴隷制
(A)-②-(b) 古代的奴隷制
(A)-②-(c) 封建制
(A)-②-(c)-(ⅰ) 農奴制
(A)-②-(c)-(ⅱ) 隷農制

---------------------------

《(B)貨幣による諸個人の物象的な依存関係
(B)-① 商品生産関係
 自然発生的な共同体的生産関係をも人格的な支配・隷属関係をも根底からくつがえして、諸個人の物象的な――つまり物象をつうじての――依存関係に置き換えたのは、資本主義的生産様式である。資本主義的生産関係のかなめは資本・賃労働関係という独自の生産様式であるが、この生産様式は、諸個人の物象的な依存関係である商品生産関係を基礎に成立し、商品生産関係によってすっかり覆われている。
 商品生産関係では、労働する諸個人は生産手段にたいして、相互に自立した私的個人としてかかわる。ここでの労働は直接には私的労働である。しかし、こうした私的労働が社会の総労働を形成しているのであり、それは社会的分業の自然発生的な諸分肢として相互に依存しあっている。直接には私的な労働が社会的な労働になるためには労働生産物のこうかんによらなければならない。だから、労働する諸個人の相互依存は商品および貨幣の交換関係という物象的形態をとり、労働における人間と人間との社会的関係は、物象と物象との社会的関係という装いをとらないではいない。そして、諸個人のこのような物象的依存性のうえに、諸個人の人格的独立性が築かれる。私的諸個人はたがいに、商品・貨幣という物象の人格的代表者としてかかわるのであり。それらの私的所有者として相互に承認しあわなければならない。こうして、ここでは労働における人びとの社会的関係が私的所有という法的関係を成立させるのである。》(同前34頁)

(B)-② 資本主義的生産関係 (略)

《(C) 諸個人の意識的な人格的連合関係(アソシエーション) 
 資本主義的生産様式は、この生産様式のもとでの生産力の発展の結果、自己の胎内に、自己自身を否定し、止揚する諸契機を生まないではいない。これらの契機が指し示している新たな生産形態は、自由な諸個人によるアソシエーション(association=自発的な結合体)である。
 ここでは労働する諸個人は生産手段にたいして、社会的にアソシエイトした(associated=自発的に結合した)自由な個人としてかかわる。労働は、共同の生産手段をもって、自分たちの労働力を意識的に社会的労働力として支出する過程であり、直接に社会的な労働である。一方、生産過程が、自由に社会化された人間の所産として人間の意識的計画的な制御のもとにおかれ、生産力の高度な発展が実現される。他方で、高度な生産力がもたらす必須労働時間の減少は労働日の短縮に向けられ、諸個人が個性と能力とを全面的に発展させるための自由な時間が拡大されていく。》(同前35-36頁)

■台頭しつつある18世紀のブルジョアジーの一種のイデオロギーとしてのロビンソン物語

           『マルクス経済学レキシコン』第5巻よりの引用(245-251頁)

【132】
社会のなかで生産する諸個人が――したがって諸個人の社会的に規定された生産が――もちろん出発点である。スミスやリカードが出発点とする個々の孤立した猟師や漁夫は、18世紀のロビンソン物語の幻想抜きの想像物の一種であって、これらのロビンソン物語は、文化史家たちが想像しているのとはちがい、けっして、たんに、過度の文明開化にたいする反動や、誤解された自然生活への復帰だけを表すものではない。このことは、本来は独立している諸主体を契約によって関係させ結合させるルソーの社会契約が、そのような自然主義に基づくものではないのと同様である。こうした自然主義は、大小のロビンソン物語の外観であり、しかもただ美的な外観にすぎない。それはむしろ、16世紀以来準備されて18世紀に成熟への巨歩を進めた「ブルジョア社会」を見越したものである。この、自由競争の社会では、各個人は、それ以前の歴史上の時代には彼を一定の局限された人間集団の付属物にしていた自然的紐帯などから解放されものとして現れる。スミスやリカードがまだまつたくその影響下にある18世紀の予言者たちの目には、18世紀のこの個人――一面では封建的な社会諸形態の解体の産物――が、いまや過去の存在となっている理想として、浮かんでいるのである。歴史の結果としてではなく、歴史の出発点として。なぜならば、それは彼らの目には、人間の本性についての彼らの観念に合致した自然的な個人として、歴史的に生成する個人としてではなく、本然的な個人として、現れるからである。このような錯覚は、これまでどの新しい時代にも付き物だった。多くの点では18世紀に対立し、また貴族としてより多くの歴史的な地盤のうえに立つスチュアートは、すでにこのような素朴さをまぬがれている。
 われわれが歴史を遠くさかのぼればさかのぼるほど、それだけいっそう、個人は、したがってまた生産する個人も、独立していないもの・より大きな全体に属するもの・として現れる。すなわち、最初はまだ、まったく自然的な仕方で家族のなかに、また種族にまで拡大された家族のなかに現れ、のちには、諸種族の対立や融合から生じる、種々の形態の共同体のなかに現れる。18世紀に「ブルジョア社会」ではじめて、社会連関の種々の形態が、各個人にたいして、その私的目的のためのたんなる手段として・外的な必然性として・相対するようになる。しかし、このような立場・すなわちばらばらな個人の立場・を生み出す時代こそは、まさに、これまでのうちで最も発展した社会的な(この立場から見れば一般的な)諸関係の時代なのである。 マルクス『[経済学批判への]序説』全集、13巻、611-2ページ;『経済学批判要綱』Ⅰ、5-6ページ.



【133】
 すべての生産物および活動の交換価値への分解は、生産におけるすべての強固な人的(歴史的)依存諸関係の分解、ならびに、生産者たち相互の全面的な依存性を前提する。どの個人の生産も他のすべての人々の生産に依存しており、それとともに[また]、彼の生産物を自分自身の生活手段に転化することも、他のすべての人々の消費に依存するものとなった。価格は古くからあるし、同様に交換も古くからある。しかし、価格がしだいに生産費によって規定されるようになることも、交換がすべての生産関係をおおいつくすようになることも、ブルジョア社会・すなわち自由競争の社会・ではじめて完全に発展したし、またたえずすます完全なものに発展するのである。アダム・スミスが正真正銘の18世紀流の仕方で、先史時代のものとして、歴史に先行させているものは、むしろ歴史の所産なのである。
 こうした相互の依存性は、交換のたえざる必然性のなかに、また、全面的な媒介者としての交換価値のなかに表されている。経済学者たちは、このことを次のように表現する。すなわち、各人は自分の私的利益を、しかももっぱら自分の私的利益だけを追求する、そしてこのことを通じて、――自分では欲することも知ることもないまま――万人の私的利益・一般的利益・に奉仕するのだ、と。肝心な点は、各人が自分の私的利益を追求することによって私的利益の総体・したがって一般的利益が・達成される、ということではない。むしろ、この抽象的なきまり文句から推論できることがあるとすれば、それは、各人が相互に他人の利益の貫徹を妨げるということ、そして、このすべての人のすべての人にたいする戦いからでてくるのは、一般的な肯定ではなくて、むしろ一般的な否定であるということであろう。眼目はむしろ、私的利益そのものがすでに、社会的に規定された利益であって、この利益は社会によって措定された諸条件の内部でのみ・また社会によって与えられた諸手段をもってしてのみ・達成されるということ、したがって、これらの諸条件と諸手段との再生産に結びつけられているのだということにある。それは私人の利益であるが、しかしその内容は、実現の形態および手段と同様に、万人から独立した社会的諸条件によって与えられているのである。  マルクス『経済学批判要綱』Ⅰ、77-8ページ.


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by shihonron | 2009-02-17 23:30 | 学習会の報告


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