『資本論』を読む会の報告

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2009年 03月 17日

第137回 3月17日 第1章 第4節 商品の呪物的性格とその秘密

3月17日(火)に第137回の学習会を行いました。「読む会通信№321」をもとに、前回までの復習をした後、「第1章 商品 第4節 商品の呪物的性格とその秘密」の第18段落を輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

「読む会通信№321」についての議論
●「経済学批判への序説」の叙述について輪読して検討しました。
《こうして、最も一般的な抽象は、一般にただ、ある一つのものが多くのものに共通に、すべてのものに共通に現われるような、最も豊富な具体的な発展のもとでのみ成立するのである。そのときは、ただ特殊な形態でしか考えられないということはなくなる。他方、このような、労働一般という抽象は、たんに種々の労働の具体的な総体の精神的な結果であるだけではない。特定の労働にたいする無関心は、個々人がたやすく一つの労働から他の労働に移り彼らにとっては労働の特定の種類は偶然でありしたがってどうでもよいものになるという社会形態に対応する。労働は、ここではたんに範疇としてだけではなく現実にも富一般の創造のための手段になっており、職分として個人と一つの特殊性において合生したものではなくなっている。》(「読む会通信№321」5頁)の「精神的な結果」とはどういう意味かとの疑問が出され、「人間の頭脳の働きとしての抽象、認識の問題ということではないか」との発言がありました。

■岩波文庫版では《労働一般というこの抽象は、単に各種の労働の具体的な総体を精神で考えた結果であるばかりではない。》と訳されている。(『経済学批判』318頁)

●《この労働の例が適切に示しているように、最も抽象的な範疇でさえも、それが――まさにその抽象性のゆえに――どの時代にも妥当するにもかかわらず、このような抽象の規定性そのものにあってはやはり歴史的諸関係の産物なのであって、ただこの歴史的諸関係だけにたいして、またただこの諸関係のなかだけで、十分な妥当性をもっているのである。》
(「読む会通信№321」5-6頁)の《このような抽象の規定性そのものにあっては》とはどういう意味かとの疑問が出されました。これに関連して「抽象の規定性は、抽象という規定態と訳すことができる」との発言がありました。

■寺沢恒信 訳『ヘーゲル大論理学 1 [存在論]』(以文社)の目次
    http://www.ibunsha.co.jp/books/0205cont.html
序言
序論
論理学の一般的区分について

第一書 存在
 学は何を端初としなければならないか
 存在の一般的区分

第一編 規定態(質)
 第一章 存在
 第二章 定在
  A 定在そのもの
  B 規定態
  C(質的)無限性
 第三章 向自存在
 A 向自存在そのもの
 B 一
 C 牽引

第二編 大きさ(量)
 第一章 量
  A 純粋量
  B 連続的な大きさと離散的な大きさ
  C 量の限定
 第二章 定量
  A 数
  B 外延的定量と内包的定量
  C 量的無限性
 第三章 量的相関〔比〕
  A 直接の相関〔正比〕
  B 逆の相関〔反比〕
  C べき相関

第三編 度量
 第一章 特有の量
  A 特有の定量
  B 規則
  C 〔二つの〕質の比
 第二章 独立した度量の比
  A 独立した度量の比
  B 度量の諸比の結節線
  C 没度量的なもの
 第三章 本質の生成
  A 無差別
  B その両要因の反比としての独立したもの
   注解 この比の適用
  C 本質が立ち現われる運動

付論

付論一 A版の序言がB版でどのように改変されているか---「小さい改変」の実例として
付論二 「論理学の一般的区分」に関する叙述のA版とB版とのちがい---二分法と三分法について
付論三 A・B両版における「端初論」のちがい---『精神の現象学』と『論理学』との関係をどうとらえるか
付論四 「定在」の章はB版でどのように改変されているか
付論五 A・B両版における「向自存在」の章のちがい---本文が変化して注解が変化しないのはなぜか
付論六 「大きさ」と「量」
付論七 A・B両版における「度量」の編のちがい

●マルクスのいう「歴史的抽象」とはどういうものか、どこでどのように述べているのかを調べることになりました。

■『経済学批判』では次のように述べている。
《交換価値が労働時間によって規定されていることを理解するためには、次の主要な諸観点をしっかりつかまなければならない。すなわち、単純な、いわば質をもたない労働への労働の還元、交換価値を生みだす、したがって商品を生産する労働が #社会的労働# をなしている独特の様式、最後に、使用価値に結果するかぎりでの労働と、交換価値に結果するかぎりでの労働との区別。
 諸商品の交換価値をそのうちにふくまれている労働時間で測るためには、さまざまな労働そのものが、無差別な、一様な、単純な労働に、要するに質的には同一で、したがって量的にだけ区別される労働に還元されなければならない。
 この還元はひとつの抽象として現われるが、しかしそれは、社会的生産過程で日々おこなわれている抽象である。すべての商品を労働時間に分解することは、すべての有機体を気体に分解すること以上の抽象ではないが、しかしまた同時にそれより現実性の乏しい抽象でもない。このように時間によって測られる労働は、実際にはいろいろな主体の労働としては現われないで、労働するさまざまな個人のほうが、むしろ労働 そのもの のたんなる諸器官として現われるのである。言いかえれば、交換価値であらわされる労働は、一般的人間的労働として表現されうるであろう。一般的人間的労働というこの抽象は、あるあたえられた社会のそれぞれの平均的個人がなしうる平均労働、人間の筋肉、神経、脳等々のある一定の生産的支出のうちに 実在している 。それはすべての平均的個人が慣れればおこなうことのできる、そして彼らがなんらかの形態でおこなわざるをえない単純労働なのである。この平均労働の性格は、国が違い文化段階が違うにしたがって異なるとはいえ、ある既存の社会ではあたえられたものとして現われる。単純労働は、あらゆる統計から確かめられるように、ブルジョア社会のすべての労働の圧倒的な大量をなしている。Aが六時間のあいだ鉄を、そして六時間のあいだリンネルを生産し、Bもまた同様に六時間のあいだ鉄を、そして六時間のあいだリンネルを生産しようとも、あるいはまたAが一二時間のあいだ鉄を、Bが一二時間のあいだリンネルを生産しようとも、それらは明らかに #同一の# 労働時間のたんなる異なった利用として現われる。しかしより高い活動力をもち、より大きな比重をもつ労働として平均水準をこえている複雑労働の場合はどうなのか? この種の労働は、複合された単純労働、数乗された単純労働に帰着するのであり、したがってたとえば一複雑労働日は三単純労働日に等しいのである。この還元を規制する諸法則は、まだここでの問題ではない。しかし、この還元がおこなわれていることは、明らかである。なぜならば、交換価値としては、最も複雑な労働の生産物も、一定の比率で単純な平均労働の生産物にたいする等価物であり、したがってこの単純労働の一定量に等置されているからである。》(国民文庫28-29頁・原頁18-19)

《一、 価値 。純粋に労働量に還元される。労働の尺度としての時間。使用価値は――主観的に労働の有用性〔usefulness〕としてにせよ、または客観的に生産物の効用〔utility〕としてにせよ――ここでは経済的形態規定からひとまずまったくはみ出した価値の素材的前提としてだけ現われる。そのものとしての価値は、労働自体以外になんらの「素材」をもたない。最初にペティにあって暗示的に示され、リカードにおいて純粋に仕上げられたこの価値の規定は、たんにブルジョア的富の最も抽象的な形態にすぎない。それ自体ですでに、一、自然発生的な共産主義(インドなど)の止揚、二、交換が生産をその全範囲にわたっては支配していないあらゆる未発達な前ブルジョア的生産様式の止揚を前堤している。抽象ではあるにせよ、まさに社会のある一定の経済的発展の基礎のうえではじめておこなわれえた歴史的抽象である。価値のこの定義にたいするすべての異論は、より未発達な生産関係からもちこまれたものであるか、あるいはまた価値が抽象されてきている、したがってまた他方では価値のそれ以上の発展とみなしうるさらに具体的な経済的諸規定をこの抽象的な未発達な形態での価値にたいして適用しようとする混乱にもとづいている。この抽象がブルジョア的富のその後のより具体的な諸形態にたいしてどんな関係に立つかを経済学者諸君自身がはっきり知らなかったのだから、こういう異論は多かれ少なかれ〔plus ou moins〕もっともなことであった。
 価値の一般的諸性格とある 一 定の商品でのそれの素材的定在等々との矛盾から――これらの一般的諸性格はのちに貨幣に現われるものと同じである――貨幣の範疇が生じる。》(『経済学批判』にかんする手紙 四 マルクスからエンゲルスへ 一八五八年四月二日 国民文庫317-318頁)


■テキストの内容と議論
第1章 商品 第4節 商品の呪物的性格とその秘密
第18段落

・商品世界に付着している呪物崇拝、または社会的な労働の対象的外観によって、一部の経済学者がどんなに惑わされているか、このことをとりわけよく示しているのは、交換価値の形成における自然の役割についての長たらしくてつまらない争論である
・交換価値は、ある物に投ぜられた労働を表す一定の社会的な仕方なのだから、たとえば為替相場などと同じように、それが自然素材を含んでいることはありえないのである。

●「商品世界に付着している呪物崇拝」とはどういうことかと疑問が出され、「労働生産物が、《それ自身の生命を与えられてそれら自身のあいだでも人間とのあいだでも関係を結ぶ独立した姿に見える》(国民文庫136頁、原頁86)ことだろう」との発言がありました。

●「社会的な労働の対象的外観」とはどういうことかとの疑問が出され、「商品生産社会では、それぞれがおこなう労働は私的労働である。生産者たちは、直接に労働において人と人との関係をとりむすぶのではなく、商品の交換関係・価値関係という物と物との関係を通じて、互いの生産における関係(生産関係)をとりむすぶ。こうした中では、社会的労働は、価値という物の性質として現われる。そして価値は、交換価値としてはじめて表現される。だから、《社会的な労働の対象的外観》とは、交換価値(価値の現象形態=値価値形態)のことだろう」との発言がありました。


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by shihonron | 2009-03-17 23:30 | 学習会の報告


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