『資本論』を読む会の報告

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2009年 04月 28日

第143回 4月28日 第2章 交換過程

4月28日(火)に第143回の学習会を行いました。「第2章 交換過程」の第6段落を輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第2章 交換過程
第6段落

・われわれの商品所持者たちは、当惑のあまり、ファウストのように考え込む。太初(はじめ)に業(わざ)ありき。
・だから、彼らは、考えるまえにすでに行っていたのである。商品の本性の諸法則は、商品所持者の自然本能において自分を実証したのである。
・彼らが自分たちの商品を互いに価値として関係させ、したがってまた商品として関係させることができるのは、ただ自分たちの商品を、一般的等価物としての別の或る一つの商品に対立的に関係させることによってのみである。このことは、商品の分析が明らかにした。
・しかし、ただ社会的行為のみが、ある一定の商品を一般的等価物にすることができる。それだから、他のすべての商品の社会的行動が、ある一定の商品を除外して、この除外された商品で他の全商品が自分たちの価値を全面的に表すのである。
・このことによって、この商品の現物形態は、社会的に認められた等価形態になる。一般的等価物であることは、社会的過程によって、この除外された商品の独自な社会的機能になる。こうして、この商品は――貨幣になるのである。

●《太初(はじめ)に業(わざ)ありき》について、NHKドイツ語講座のテキストで以下のように述べられていることが紹介されました。
聖書(ヨハネによる福音書Ⅰ章1節)の「Im Anfang war das Wort はじめに ことばがあった」について《ここで言われているdas Wort「ことば」は、おしゃべりの言語や話し言葉といういみではなく、ギリシャ語の言語ではLogos ロゴス、つまり神の意志、理念、力、神の行動とそのことば、イエス・キリスト、といった複雑な意味を込めた語です。》
《ウルフィラがロゴスをそのままの音で使わず、「ことば」と訳したのが、現代までの聖書訳の原型になっています。》《ゲーテは、ルネサンス的行動の巨人ファウスト博士に、このロゴスをこう訳させています。「誠実な心で 神聖な原文を わが愛するドイツ語に訳そう。 こう書いてある、「太初(はじめ)にことばがあった」。 ここで俺はもうつまずく、よい知恵はないものか。 ことばというものを、そう高くは尊重できぬ。 ……… 霊の力だ! 俺にはよい知恵がありありと見える。 そして安んじて記す、はじめに行動があった、と。 [注]Tat:行為、行動。ここでは人間の行動、そして神の行為という意味も込められています。》

★第2段落から第5段落で商品交換の困難あるいは不可能性が取り上げられてきた。
・「商品は、使用価値として実現されうるまえに価値として実現されなければならないのである。」(第2段落)「他方では、商品は価値として実現しうるまえに、自分を使用価値として実証しなければならない。」(第3段落)
・「同じ過程が、すべての商品所持者にとって同時にただ個人的でありながらまた同時にただ一般的社会的であるということはありえない。」(第4段落)
・「どの商品も一般的等価物ではなく、したがってまた諸商品は互いに価値として等置され価値量として比較されるための一般的な相対的価値形態をもっていない。」(第5段落)
これでは商品の交換は行き詰まってしまうように思える。しかし、こうした困難は、商品の社会的行動によって一般的等価物が生み出され、一般的等価物の機能を社会的に独占する一商品=貨幣が成立することで解決される。

■資料 「使用価値の実現」と「使用価値としての実現」
『資本論』学ぶ会発行・『資本論』学ぶ会ニュースNO.27(1999年3月11日)より引用

 前回は第二章の三つのパラグラフを進んだだけでしたが、しかしかなり突っ込んだ議論を行い、理解もそれだけ深まったのではなかったかと思います。

 まず最初のパラグラフでは、交換過程では商品は価値と使用価値の統一物として現われること、だからそこでは第一章では捨象されていた商品所有者の存在(よって彼の欲望等)が分析の対象に新たに加わることが指摘されていること、ただその場合の商品所有者は現実の商品交換という経済的関係の反映したものであること、一般に『資本論』で取り扱われる「諸人格の経済的扮装は経済的関係の人格化にほかならない」こと等が述べられていることが確認されました。ここで「諸人格の経済的扮装」とは具体的には何かが質問として出ましたが、例えば「資本家」や「労働者」、「土地所有者」等々のことだろうということになりました。

 次に第二パラグラフと第三パラグラフでは、現実の交換過程で生じる矛盾が明らかにされています。マルクスはこうした矛盾として三つのものを指摘しているように思えるのですが、第二・三パラグラフで展開されているものは、その最初のものです。これらの三つの矛盾の関連をどうとらえるかも問題なのですが、それはまた別の機会にします。

 マルクスが最初に問題にしている矛盾とは、「諸商品は、みずからを使用価値として実現しうるまえに、価値として実現しなければならない」ということと「価値として実現しうるまえに、みずからが使用価値であることを実証しなければならない」ということです。つまり使用価値も交換価値もその実現のためには相手の実現を前提し合う関係にあるということです。ということは現実には商品交換は不可能だということになります。『経済学批判』ではマルクスはこれを「悪循環」とも述べています。

 問題はこれはいったいどういう現実を言っているのだろうか、ということです。しかしこれはそれほど難しいことではなくて、現実の生産物の物々交換(つまり貨幣がまだ現われていない交換)を想定してみれば分かります。私が魚をとって市場で野菜と交換したいと考えても、たまたま野菜を市場に持って来ている人が、魚をほしがっているならば交換可能ですが、そうでなければ交換できません。両者の欲求が一致するのはまったく偶然であって、実際にはなかなか一致せず、だから交換も出来ないのです。マルクスが明らかにしている矛盾はまさにこうした現実を示しているのではないでしょうか。

 交換過程を問題にするときには、商品は使用価値と価値の統一物であり、商品所有者の欲求が分析の対象にならなければなりません。だからまたこうした矛盾が生じるのです。第一章では20エレのリンネルは上着一着と交換されましたが、しかし等価形態に上着が来るか、鉄がくるかコーヒーが来るかは問題ではありませんでした。それは何でも良かったのです。というのは第一章では商品が交換されている現実を前提にしてそれを直接分析の対象にしていたからであって、そこでは商品所有者も彼の欲望も捨象されて問題にはされなかったからです。しかし第二章では商品交換はより具体的に分析され、商品は現実の商品としていわば運動するものとしてとらえられているともいえます。

 ところでここでは、報告者のレジュメで紹介されていた久留間鮫造氏の『価値形態論と交換過程論』の解説の理解が問題になりました。そこでは氏は「使用価値としての商品の実現」と「使用価値の実現」とは違うこと、後者は一定の欲望を満足させるという属性をもっていること、すなわち実際に役立つ可能性を実現することで、それは消費過程の問題だが、前者はあくまで交換過程上の問題である、「だからそれは、それを必要とする他人の手に移らねばならぬ。そうすることによってはじめて、使用価値として役立ちうることになる、マルクスが『使用価値としての商品の実現』といっているのは、このことをさすのであって、消費の過程ではなく、交換の過程において行われる」と述べていることを、如何に理解するかということです。またそれと関連して、「使用価値としての実現」と「使用価値であることを実証する」ということとは同じなのか、違いはあるのかどうかも問題になりました。

 マルクスは第一章第一節の使用価値の説明のところで、「使用価値は、使用または消費においてのみ、実現される。……われわれが考察しようとする社会形態においては、それは同時に交換価値の素材的担い手をなしている」(新日本新書版61頁)と述べていました。また『経済学批判』では「彼(商品所有者--引用者)にとっては、それはむしろ非使用価値であり、すなわち、交換価値のたんなる素材的な担い手、またはたんなる交換手段である。……だから諸商品の使用価値は、商品が全面的に位置を転換し、それが交換手段である人の手から、それを使用対象とする人の手に移ることによって、使用価値として生成するのである」「諸商品の使用価値としての生成は、その全面的外化、その交換過程へはいることを予想している」等々(全集⑬26~7頁)とあります。

 第一節の説明でも明らかなように、「使用価値の実現」は明らかに消費過程の問題です。他方、『批判』の一文を見ても分かるように、「使用価値として実現する」というのは、「使用価値として生成する」とも言われていますが、要するにここでは「商品の位置の転換」が言われるのみです。つまりそれを必要とする人の手に渡るということです。それが「使用価値としての実現」の意味ではないでしょうか。だからここでは使用価値は交換されるだけで、まだ消費は問題になっていないともいえます。それが「使用価値としての実現」の内容ではないでしょうか。

 それでは「実現」と「実証」には区別があるのでしょうか? 学習会では大体同じことではないか、という意見が大勢でした。だからあえて問題にする必要もないのかもしれませんが、この両者の相違を主張する見解もあることだけは紹介しておきましょう。

 すでに何度か紹介した白須五男氏は次のように説明しています。

 まず「使用価値としての実現」とは「商品が有用労働の生産物であり人間の一定の欲望を充足する対象であることを、その商品を必要とする人の手に移すことによって真にそうした内容を持つものであるとして現実的に明示すること、これである」とし、さらに「使用価値としての実証というのは、右にいう実現とは違って、商品交換が事実上なされる以前に、交換部面で対峙し合っているその商品の使用価値が他方の商品所有者にとって本当に有用労働の成果であり、他方の人の特定の欲望を満たす生産物であることをまずもって証明すること、このことである」と説明しています(『マルクス価値論の地平と原理』210~1頁)。

 果たしてこのように両者の相違を見るのが正しいのかどうか、それは皆さんの検討を待ちましょう。


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by shihonron | 2009-04-28 23:30 | 学習会の報告


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