『資本論』を読む会の報告

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2009年 05月 12日

第144回 5月12日 第2章 交換過程

5月12日(火)に第144回の学習会を行いました。「読む会通信」の№327から№329をもとにこの間の復習をした後、「第2章 交換過程」の第7段落から第8段落を輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第2章 交換過程
第7段落

・貨幣結晶は、種類の違う労働生産物が実際に互いに等置され、したがって実際に商品に転化される交換過程の、必然的な産物である。
・交換の歴史的な広がりと深まりとは、商品の本性のうちに眠っている使用価値と価値との対立を展開する。
・この対立を交易のために外的に表わそうという欲求は、商品価値の独立形態に向かって進み、商品と貨幣とへの商品の二重化によって最終的にこの形態に到達するまでは、少しも休もうとしない。それゆえ、労働生産物の商品への転化が実現されるのと同じ程度で、商品の貨幣への転化が実現されるのである。

●「なぜ単に貨幣ではなく貨幣結晶ということばが使われているのだろうか」との疑問が出され「価値が貨幣という姿をとって現れる、価値が結晶した物として貨幣があるといったことを表現しているのではないか」との発言がありました。

●《商品の本性のうちに眠っている使用価値と価値との対立》について、「それは分析者の観察によって明らかにされたものといえる」との発言があり、これに対して「分析によってとらえられたというのはその通りだが、分析者の意識とは独立に、商品のうちに使用価値と価値との対立が客観的実在としてあると考えるべきではないか」との発言がありました。

●《商品価値の独立形態》について「それは最後には貨幣に行き着かざるを得ないのだが、等価物のことと理解できるのではないか」との意見が出されました。議論の結果、ここでは《向かって進み…最終的にこの形態に到達する》と書かれているのだから貨幣のことだという結論になりました。

●《商品と貨幣とへの商品の二重化》について「貨幣が生成するということだろう」との発言がありました。

★《労働生産物の商品への転化が実現されるのと同じ程度で、商品の貨幣への転化が実現される》と述べられている。商品は生まれながらに現物形態をもっており、価値形態をもつことによって商品であることが示される。第1章第3節で価値形態の発展を見たが、価値形態の発展は商品形態の発展にほかならない。等価物商品はその現物形態によって価値を表現し、相対的価値形態にある商品に対して直接的交換可能性を持つ。そのかぎりでは貨幣と同様の性質を持ち、価値形態の発展の過程は《商品の貨幣への転化》の過程でもあるといえるのではないか。

●注40の小ブルジョア社会主義者について、「プルードンが念頭に置かれているのではないか」との発言があり、マルクスが参照を求めている『経済学批判』の個所が紹介され、直接にはグレーについて取り上げていることが明らかになりました。

■第3節前文の第1段落では次のように述べられていた。(国民文庫92-93・原頁62)
《商品は、使用価値または商品体の形態をとって、鉄やリンネルや小麦などとして、この夜に生まれてくる。これが商品のありのままの現物形態である。だが、それらが商品であるのは、ただ、それらが二重なものであり、使用対象であると同時に価値の担い手であるからである。それゆえ、商品は、ただそれが二重形態、すなわち現物形態と価値形態とをもつかぎりでのみ、商品として現れるのであり、言いかえれば商品としう形態をもつのである。》

■「第3節 A 4 単純な価値形態の全体」の第1段落では次のように述べられていた。(国民文庫115頁・原頁74-75)
《ある一つの商品の単純な価値形態は、異種の一商品にたいするその商品の価値関係のうちに、すなわち異種の一商品との交換関係のうちに、含まれている。商品Aの価値は、質的には、商品Aとの商品Bの直接的交換可能性によって表現される。商品Aの価値は、量的には、商品Aの与えられた量との商品Bの直接的交換可能性にによって表現される。言いかえれば、一商品の価値は、それが「交換価値」として表示されることによって独立に表現されている。この章のはじめに普通の言い方で、商品は使用価値または使用対象であるとともに交換価値である、と言ったが、これは厳密にいえばまちがいだった。
商品は、使用価値または使用対象であるとともに「価値」なのである。商品は、その価値が商品の現物形態とは違った独特の現象形態、すなわち交換価値という現象形態をもつとき、のあるがままのこのような二重物として現れるのであって、商品は孤立的に考察されたのでは、この交換価値という形態をけっしてもたないのであり、つねにだ第二の異種の一商品にたいする価値関係または交換関係のなかでのみこの形態をもつのである。とはいえ、このことを知っておきさえすれば、さきの言い方も有害なものではなく、かえって、簡単にすることに役立つのである。》

■ 「第3節A4 単純な価値形態の全体」の第3段落では次のように述べられていた。(国民文庫116-117頁・原頁75-76)
《商品Bにたいする価値関係に含まれている商品Aの価値表現のいっそう詳しい考察は、この価値関係のなかでは商品Aの現物形態はただ使用価値の姿として、商品Bの現物形態はただ価値形態または価値の姿としてのみ認められているということを示した。つまり、商品のうちに包みこまれている使用価値と価値の内的対立は、一つの外的対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表されるのであるが、この関係のなかでは、自分の関係が表現されるべき一方の商品は直接にはただ使用価値として認められるのであり、これにたいして、それで価値が表現される他方の商品は直接にはただ交換価値として認められるのである。
・つまり、一商品の単純な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態なのである。》

■「第3節 A4 単純な価値形態の全体」の第4段落では次のように述べられていた。(国民文庫117頁・原頁76)
《商品の単純な価値形態は同時に労働生産物の単純な商品形態だということになり、したがってまた商品形態の発展は価値形態の発展に一致するということになるのである。》

■「第3節 C1 価値形態の変化した性格」の第5段落、第6段落では次のように述べられていた。(国民文庫125-126頁・原頁80-81)
《新たにえられた形態は、商品世界の価値を、商品世界から分離された一つの同じ商品種類。たとえばリンネルで表現し、こうして、すべての商品の価値を、その商品とリンネルとの同等性によって表す。リンネルと等しいものとして、どの商品の価値も、いまではその商品自身の使用価値から区別されるだけでなく、いっさいの使用価値から区別され、まさにそのことによって、その商品とすべての商品とに共通なものとして表現されるのである。それだからこそ。この形態がはじめて現実に諸商品を互いに価値として関係させるのであり、言いかえれば諸商品を互いに交換価値として現れさせるのである。
 前のほうの二つの形態は、商品の価値を、ただ一つの異種の商品によってであれ、その商品とは別の一連の多数の商品によってであれ、一商品ごとに表現する。どちらの場合にも、自分に一つの価値形態を与えることは、いわば個別商品の私事であって、個別商品は他の諸商品の助力なしにこれを成しとげるのである。他の諸商品は、その商品にたいして。等価物という単に受動的な役割を演ずる。これに反して、一般的価値形態は、ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立する。一つの商品が一般的価値表現を得るのは、同時に他のすべての商品が自分たちの価値を同じ等価物で表現するからにほかならない。そして、新たに現れるどの商品種類もこれにならわなければならない。こうして、諸商品の価値対象性は、それがこれらの物の純粋に「社会的な定在」であるからこそ、ただ諸商品の全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり、したがって諸商品の価値形態は社会的に認められた形態でなければならないということが、明瞭に現れてくるのである。》

■「第4節 商品の呪物的性格とその秘密」の第7段落では次のように述べられていた。(国民文庫137頁・原頁87)
《労働生産物は、それらの交換のなかではじめてそれらの感覚的に違った使用対象性から分離された社会的に同等な価値対象性を受けとるのである。このような、有用物と価値物とへの労働生産物の分裂は、交換がすでに十分な広がりと重要さをもつようになり、したがって有用な諸物が交換のために生産され、したがって諸物の価値性格がでにその生産そのものにさいして考慮されるようになったときに、はじめて実証される。》

第8段落
・直接的生産物交換は、一面では単純な価値表現の形態をもっているが、他面ではまだそれをもっていない。
・この形態は、x量の商品A=y量の商品B であった。
・直接的生産物交換の形態は、x量の使用対象A=y量の使用対象B である。
・AとBという物はこの場合には交換以前には商品ではなく、交換によってはじめて商品になる。
・ある使用対象が可能性から見て交換価値であるという最初のあり方は、非使用価値としての、その所有者の直接的欲望を超える量の使用価値としての、それの定在である。
・諸物は、それ自体としては人間にとって外的な物であり、したがって手放されうる物である。
・この手放すことが相互的であるためには、人々はただ暗黙のうちにその手放されうる諸物の私的所有者として相対するだけでよく、また、そうすることによって互いに独立な人として相対するだけでよい。
・とはいえ、このように互いに他人であるという関係は、自然発生的な共同体の成員にとっては存在しない。
・その共同体のとる形態が家長制家族であろうと古代インドの共同体であろうとインカ国その他であろうと、同じことである。
・商品交換は、共同体が果てるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で、始まる。
・しかし、物がひとたび対外的共同生活で商品になれば、それは反作用的に内部的共同生活でも商品になる。
・諸物の量的な交換割合は、最初はまったく偶然的である。
・それらの物が交換されうるのは、それらの物を互い手放しあうというそれらの物の所持者たちの意志行為によってである。
・しかし、そのうちに、他人の使用価値にたいする欲望は、だんだん固定してくる。
・交換の普段の繰り返しは、交換を一つの規則的な社会的過程にする。
・したがって、時がたつにつれて、労働生産物の少なくとも一部分は、はじめから交換を目的として生産されなければならなくなる。
・この瞬間から、一方では、直接的必要のための諸物の有用性と、交換のための諸物の有用性との分離が固定してくる。
・諸物の使用価値は諸物の交換価値から分離する。
・他方では、それらの物が交換される量的割合が、それらのものの生産そのものによって定まるようになる。
・慣習は、それらの物を価値量として固定させる。

★「直接的生産物交換」とは、貨幣の媒介なしに「直接的」に行われる、生産物と生産物との交換(物々交換)のことであろう。

★直接的生産物交換においては、交換によってはじめて商品になる。つまり、最初から交換を目的として(商品として)生産されたのではなく、交換の結果として商品になる。

■《ある使用対象が可能性から見て交換価値であるという最初のあり方は、非使用価値としての、その所有者の直接的欲望を超える量の使用価値としての、それの定在である。》は、長谷部訳では《ある使用対象が可能性からみて交換価値であるである第一の様式は、非使用価値としての・その所有者の直接的欲望をこえる分量の使用価値としての・その使用対象の定在である。》(78-79頁)となっている。またマルクスコレクション版では《ひとつの使用価値が可能性からみて交換価値である交換価値である最初の存在様式は、その物が非=使用価値として、その所持者の直接的欲望を越える量の使用価値として、現実に存在することである。》(134頁)となっている。 

★「諸物の私的所有者」とは、物を自分の所有物として、自分の意志でどのようにも取り扱うことができ人。

■ 所有権 しょゆうけん
物を全面的に支配できる物権で,所有者は法令の制限内においてその所有物を自由に使用・収益・処分できる(民法206,207条)。財産権の中心をなす。地上権や永小作権などによって制限されることがあっても,これらの制限は有限であるから,所有権は全面的支配に復する弾力性を有する。近代の所有権は自由な所有権として確立され,私有財産制の基礎をなす。20世紀に入ると所有権は公共の福祉による制約を受けるものとされ,所有権の行使は権利濫用の法理によって制約されることがある。  (マイペディア)

■「互いに他人であるという関係は、自然発生的な共同体の成員にとっては存在しない」について、大谷禎之介氏は「労働する諸個人を結びつけているのは原生的な種族関係にもとづく共同体であり、彼らを支配しているのは自然発生的な人格的依存関係である。彼らは共同体の中に埋没しており、個人として自立できない。」(『図解社会経済学』30頁)と述べている。

■第1章第4節では《古代アジア的とか古代的などの生産様式では、生産物の商品への転化、したがってまた人間の商品生産者としての定在は、一つの従属的な役割、といっても共同体がその崩壊過程にはいるにつれて重要さを増してくる役割を演じている。本来の商業民族は、エピクロスの神々のように、またポーランド社会の気孔の中でのユダヤ人のように、ただ古代世界のあいだの空所に存在するだけである。》(国民文庫146頁・原頁93)と述べられていた。

●「物がひとたび対外的共同生活で商品になれば、それは反作用的に内部的共同生活でも商品になる」という点について、内部的共同生活でも商品になる」をどのように理解するかで議論になりました。「共同体の内部で商品交換がなされるということではなく、最初から交換を目的としての生産が行われるようになるということではないか」という発言や「他の共同体にたいして私的所有者として立ち現れた人々は、やがて共同体の内部においても私的所有者として振る舞うようになるということではないか。いわば階級の発生ということだ」との発言がありました。
 
■浜林正夫氏は「まず、二つの共同体がお互いに余ったものを村はずれにおいて交換する。そういうかたちで交換が始まった。それがいったん始まると、共同体の中でも商品交換が始まるようになる」(『資本論を読む[上]』151-152頁)と説明しています。

★ 内部的共同生活と商品交換は両立しえるのだろうか? その中で商品交換が始まると共同体とはいえないのではないだろうか。

★「直接的必要のための諸物の有用性」=自分の欲望を満たす使用対象であるという役立ち
 「交換のための諸物の有用性」=他の使用対象と交換することができるという役立ち

●「労働生産物が、はじめから交換を目的として生産されるようになれば、すでに貨幣が生まれていると考えられるのではないか」という意見が出され、これに対して「労働生産物の少なくとも一部分について交換目的に生産するだけであれば、貨幣が生まれる以前にもありうるのではないか」との発言がありました。

■第1章第4節第9段落では《生産物交換者たちがまず第一に実際に関心をもつのは、自分の生産物とひきかえにどれだけの他人の生産物が得られるか、つまり、生産物がどんな割合で交換されるか、という問題である。この割合がある程度の慣習的固定性をもつまでに成熟してくれば、それは労働生産物の本性から生ずるかのように見える。たとえば1トンの鉄と2オンスの金とが等価であることは、1ポンドの金と1ポンドの鉄がそれらの物理的属性や科学的属性の相違にもかかわらず同じ重さであるのと同じことのように見える。じっさい、労働生産物の価値性格は、それらが価値量として実証されることによってはじめて固まるのである。》(国民文庫139頁・原頁89)と述べられていた。


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by shihonron | 2009-05-12 23:30 | 学習会の報告


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