『資本論』を読む会の報告

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2009年 06月 09日

第148回 6月9日 第2章 交換過程

6月9日(火)に第148回の学習会を行いました。「読む会通信」№333をもとに前回の復習をした後、「第2章 交換過程」の第15段落を輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第2章 交換過程
第15段落

・前にも述べたように、一商品の等価形態は、その商品の価値の大きさの量的な規定を含んではいない。
・金が貨幣であり、したがってすべての他の商品と直接に交換されうるものだということを知っていても、それだからといって、例えば10ポンドの金にどれだけの価値があるかがわかるわけではない。
・どの商品でもそうであるように、貨幣もそれ自身の価値量をただ相対的に他の諸商品で表すことができるだけである。
・貨幣自身の価値は、貨幣の生産に必要な労働時間によって規定されていて、それと同じだけの労働時間が凝固している他の各商品の量で表現される。
・このような、貨幣の相対的価値量の確定は、その生産源での直接的物々交換で行われる。
・それが貨幣として流通にはいるとき、その価値はすでに与えられている。
・すでに17世紀の最後の数十年間に貨幣分析の端緒はかなり進んでいて、貨幣は商品だということが知られていたとしても、それはやはり端緒でしかなかった。
・困難は、貨幣が商品だということを理解することにあるのではなく、どのようにして、なぜ、なにによって、商品は貨幣であるのかを理解することにあるのである。

■《商品種類上着が価値表現において等価物の地位を占めるならば、この商品種類の価値量は価値量としての表現を与えられていない。この商品種類は価値等式のなかではむしろただ或る物の一定量としてあらわれるだけである。》(第1章 第3節 A3 等価形態 第2段落 国民文庫107頁・原頁70 )

■《このような、貨幣の相対的価値量の確定は、その生産源での直接的物々交換で行われる》は、新日本版では《貨幣の相対的価値の大きさのこうした確定はその産源地での直接的交換取引のなかで行われる》(156頁)、長谷部訳では《その産源地で直接的な交換取引[物々交換]のなかで行われる》(82頁)、マルクスコレクション版では《その生産現場で、直接的なバーター取引で確定される》(140頁)となっている。

★ 産源地で金生産者の手のなかにある金は貨幣ではなく商品だということだろうか。商品金と他の商品との直接的な交換取引とは貨幣が媒介しない取引ということだろう。金生産者は自分の生産した商品である金と自分が必要とする他の商品との交換を行う。この交換の結果、他のある商品の所有者が自分の商品との交換によって手にした金は、彼が生産した商品の価値(価格)を実現したものであり貨幣といえるのではないか。貨幣商品である金は、一般的な価値表現(価格)をもつことができないので、他の商品の一定量によって自分の価値を表現するしかないのである。

■久留間鮫造氏は『価値形態論と交換過程論』のなかで次のように述べている。
《交換価値の最も簡単な姿は、x量の商品A=y量の商品B である。そこでマルクスは、これを分析していくのであるが、彼は最初にまず、この式の両辺に置かれている商品は使用価値としては異なっているのにここでは等しいとされているという点に注目して分析を進め、両者に共通なものは何であり、その大いさは何で決まるかを究明する。これが第一節「商品の二要因――使用価値と価値(価値の実体、価値の大いさ)」の研究である。次の第二節「商品で表示される労働の二重性格」は、第一節の分析で、商品の二要因としての使用価値と価値との区別と、価値を形成する労働の抽象的性格とが明らかになったので、さらに一歩を進めて、使用価値を形成する労働と価値を形成する労働との――同じ商品を生産する労働の二重性格としての――対立的関係を明らかにしたものであり、第一節の分析をさらに徹底させたものと見ることができる。ところが、第三節――「価値形態」――では、やはり同じ等式が分析されるのではあるが、その視角がちがっている。すなわちさきには、両辺の商品には同じ大いさの或る共通なものがなければならないという見地から分析がおこなわれ、それが何であるかが究明されたのに反して、ここでは、両辺にある商品が等式内で演じているちがった役割に、すなわち左辺にある商品の価値が右辺にある商品の使用価値で表示されているのだという点に注目して、分析が行われ、商品の価値が如何にして他商品の使用価値で――進んでは貨幣商品の一定量という形で一般的に――表示されうるかが究明されているのである。ではその次の第四節――これが問題の物神性論、正確には「商品の物神的性格とその秘密」であるが――はどうかというと、これもまた同じ等式の分析であるが、その観点がもひとつちがっている。すなわち「価値の実体」のところでは、この等式で表現されているものが何であるかが問題にされ、「価値形態」のところでは、その価値の表現の如何にしてが問題にされているものとすれば、ここではその何故が問題にされているのだということができるであろう。マルクスがそこでいっているように、「なるほど経済学は、不完全にではあるが価値および価値の大いさを分析して、これらの形式のうちにかくされている内容を発見した。だが経済学は、何故この内容がかの形式をとるか、すなわち、何故労働が価値において、またその時間的継続による労働の度量が労働生産物の価値の大いさにおいて、みずからを表示するか? という問題を、かつて提起したことさえもない。」(八五-八七頁。)この、かつて提起されたことのない問題を、マルクスはここで問題にしているのである。そしてこれを論じることは同時にまた、何故商品の価値は――この商品の価値は何労働時間であるというふうに――直接労働時間では表示されないで、その商品に等置される他商品の物量という形で、そして結局においては、現にわれわれが見るごとく貨幣商品――金――の分量、すなわち金何円という形で表示されざるをえないのか、という問題を論じることにもなるわけであるから、特に貨幣への関連についていえば、価値形態論では貨幣の「如何にして」が論じられているのに対して、物神性論ではその「何故」が論じられているのだということもできるであろう。(中略)「資本論」の第一章は商品の分析による研究の場であり、そして商品の分析は、当然、生産物が商品としてあらわれる形態の分析によって行われるが、そうした形態そのものが問題であるかぎりでは、商品はまだ運動の過程にはない。使用価値として、それを必要とする他の商品所有者の手に移っていく過程にもなければ、価値として、所有者の必要とする他の商品に現実に転化する過程にもない。言葉をかえていえば、使用価値としても価値としても、実現はまだ問題にならず、したがって、そういう二重のものとしての実現のあいだの矛盾の関係もまた、問題にはなりえない。だからそのような矛盾を媒介するものとしての貨幣の必要もまた、問題にはなりえない。すべてこれらのことは、交換の過程においてはじめて問題になるのである。価値形態論でも貨幣の形成が論じられるが、そこでの問題は貨幣形成の「如何にして」であって、「何によって」ではない。言葉をかえていえば、特殊の一商品である金が如何にして一般的等価物に――すなわちその自然形態がそのまま価値として通用するものに――なるかであって、そういうものが何によって必要とされ、形成されるかではない。――大体以上のように前には述べたのであるが、今やわれわれは次のようにいうことができる。価値形態論では貨幣の「如何にして」が論じられ、物神性論ではその「何故」が論じられるのに対して、交換過程論ではその「何によって」が論じられるのであると。マルクス自身も、「資本論」の第二章「交換過程」の終わりに近いところ(それは第三章の貨幣論の直前のところであり、したがってまた、第三章以前の貨幣に関する考察の最後のところにあたる)にこう書いている。「困難は、貨幣が商品であることを把握する点にあるのではなく、如何にして、何故に、何によって wie, warum, wodurch」商品が貨幣であるかを把握する点にある。」(九八頁。)ここでのこれら三つの困難の指摘が、同時に、彼自身が見事にそれらを克服したことを暗示していることは明らかではあるが、どこでそれをなしとげたかについては何らの暗示をあたえていない。わたくしは、この》「如何にして」と「何故に」と「何によって」とが、それぞれ、第一章の第三節と第四節と第二章とで答えられているものと解するわけであるが、これによるとマルクスは、ここで三つの困難を指摘したさいに、彼がそれらを「資本論」で克服した順序にしたがって、あげたのだ、ということになるであろう。》(38-41頁)

●「如何にして、何故、何によっては、交換過程論の内容について述べていると理解することもできるのではないか」との発言がありました。また「久留間氏の叙述によって第一章、第二章をどのように理解するかについて多くのものを学んだ」との発言もありました。


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by shihonron | 2009-06-09 23:30 | 学習会の報告


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