『資本論』を読む会の報告

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2009年 06月 16日

第149回 6月16日 第2章 交換過程

6月16日(火)に第149回の学習会を行いました。「第2章 交換過程」の第16段落を輪読、検討しました。

●は議論の報告、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。
引用は、原則として《》を用いて示し、読む際の便宜を考慮して漢数字を算用数字に変換する場合があります。

■テキストの内容と議論
第2章 交換過程
第16段落

・われわれが見たように、すでに x量の商品A=y量の商品B という最も単純な価値表現にあっても、他の一つの物の価値量がそれで表されるところの物は、その等価形態をこの関係にはかかわりなく社会的な自然属性としてもっているかのように見える。
・われわれはこのまちがった外観の固定化を追跡した。
・この外観は、一般的等価形態が一つの特別な商品種類の現物形態と合生すれば、または貨幣形態に結晶すれば、すでに完成している。
・一商品は、他の商品が全面的に自分の価値をこの一商品で表すのではじめて貨幣になるとは見えないで、逆に、この一商品が貨幣であるから、他の諸商品が一般的に自分たちの価値をこの一商品で表すように見える。
・媒介する運動は、運動そのものの結果では消えてしまって、なんの痕跡も残してはいない。
・諸商品は、なにもすることなしに、自分自身の完成した価値姿態を、自分のそとに自分と並んで存在する一つの商品体として、眼前に見出すのである。
・これらの物、金銀は、地の底から出てきたままで、同時にいっさいの人間労働の直接的化身である。
・ここに貨幣の魔術がある。
・人間の社会的生産過程における彼らの単なる原子的な行為は、したがってまた彼ら自身の生産関係の、彼らの制御や彼らの意識的個人的行為にはかかわりのない物的な姿は、まず第一に、彼らの労働生産物が一般的に商品形態をとるということに現れるのである。
・それゆえ、貨幣呪物の謎は、ただ商品呪物の謎が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかないのである。

■《ある一つの商品、たとえばリンネルの相対的価値形態は、リンネルの価値存在を、リンネルの身体やその諸属性とはまったく違ったものとして、たとえば上着に等しいものとして表現するのだから、この表現そのものは、それが或る社会的関係を包蔵していることを暗示している。等価形態については、逆である。等価形態は、ある商品体、たとえば上着が、このあるがままの姿の物が、価値を表現しており、したがって生まれながらに価値形態をもっているということ、まさにこのことによって成り立っている。いかにも、このことは、ただリンネル商品が等価物としての上着商品に関係している価値関係のなかで認められているだけである。しかし、ある物の諸属性は、その物の他の諸物にたいする関係から生ずるのではなく、むしろこのような関係のなかではただ実証されるだけなのだから、上着もまた、その等価形態を、直接的交換可能性というその属性を、重さがあるとか保温に役立つとかいう属性と同様に、生まれながらにもっているように見える。それだからこそ、等価形態の不可解さが感ぜられるのであるが、この不可解さは、この形態が完成されて貨幣となって経済学者の前に現れるとき、はじめて彼のブルジョア的に粗雑な目を驚かせるのである。そのとき、彼はなんとかして金銀の神秘的な性格を説明しようとして、金銀の代わりにもっとまぶしくないいろいろな商品を持ち出し、かつて商品等価物の役割を演じたことのあるいっさいの商品賤民の目録を繰り返しこみあげてくる満足をもって読みあげるのである。彼は、20エレのリンネル=1着の上着 というような最も単純な価値表現がすでに等価形態の謎を解かせるものだということには、気がつかないのである。》(「第1章 第3節 A 3 等価形態」の第8段落 国民文庫110頁・原頁71-72)

■《まちがった外観》は、長谷部訳では《虚偽の仮象》、マルクスコレクション版では《みせかけ》となっている。

■《合生》は、新日本版、長谷部訳、マルクスコレクション版では《癒着》となっている。

★《媒介する運動》とは《他の商品が全面的に自分の価値をこの一商品で表す》ことであり、《運動そのものの結果》とは、一商品が貨幣になるということであろう。

■《原子的な行為》は、新日本版と長谷部訳では《原始的なふるまい》、マルクスコレクション版では《アトム的にふるまい》となっている。

■ 【原子】 〔atom〕
(1)物質を構成する基本的な粒子。一個の原子核とそれをとりまく何個かの電子とから構成される。大きさは半径 10-7~10-8 センチメートル。原子の化学的性質は主としてそれのもつ電子の個数で定まる。
(2)(通俗的に)原子核。
(3)〔哲〕 ギリシャ哲学で、これ以上不可分と考えられた、事物を構成する微小存在。アトム。〔明治期には「元子」とも書かれた〕  (大辞林 第二版より)

●《原子的な行為》とはどういう意味だろうかとの疑問が出されました。また、関連してそれは商品生産社会だけについていわれているのかが問題になりました。「原子的を無政府的と言いかえられないか」「原子的な行為とは、相互のつながりなくてんでバラバラに行われる行為といえるのではないか」「ここでは《彼らの制御や彼らの意識的個人的行為にはかかわりのない物的な姿》として、物象的依存関係の社会について述べているのだから、商品生産社会についてのみ問題にしているといえるのではないか」との発言がありました。

■《自然発生的な共同体的生産関係をも人格的な支配・隷属関係をも根底からくつがえして、諸個人の物象的な――つまり物象をつうじての――依存関係に置き換えたのは、資本主義的生産様式である。資本主義的生産関係のかなめは資本・賃労働関係という独自の生産関係であるが、この生産関係は、諸個人の物象的な依存関係である商品生産関係を基礎に成立し、商品生産関係によってすっかり覆われている。
 商品生産関係では、労働する諸個人は生産手段にたいして、相互に自立した私的個人としてかかわる。ここでの労働は直接には私的労働である。しかし、こうした私的諸労働が社会の総労働を形成しているのであり、それらは社会的分業の自然発生的な諸分肢として相互に依存しあっている。直接には私的な労働が社会的な労働となるためには労働生産物の交換によらなければならない。だから、労働する諸個人の相互依存は商品および貨幣の交換関係という物象的形態をとり、労働における人間と人間との社会的関係は、物象と物象との社会的関係という装いをとらないではいない。そして、諸個人のこのような物象的依存性のうえに、諸個人の人格的独立性が築かれる。私的諸個人はたがいに、商品・貨幣という物象の人格的代表者としてかかわるのであり。それらの私的所有者として相互に承認しあわなければならない。こうして、ここでは労働における人びとの社会的関係が私的所有という法的関係を成立させるのである。(大谷禎之介『図解社会経済学』34頁)》

★労働生産物が商品形態をとるとは、労働生産物が価値形態をもつこと、価格をもつということだろう。

■《商品は、使用価値または商品体の形態をとって、鉄やリンネルや小麦などとして、この世に生まれてくる。これが商品のありのままの現物形態である。だが、それらが商品であるのは、ただ、それらが二重なものであり、使用対象であると同時に価値の担い手であるからである。それゆえ、商品は、ただそれが二重形態、すなわち現物形態と価値形態とをもつかぎりでのみ、商品として現れるのであり、言いかえれば商品という形態をもつのである。》(「第1章 第3節 前文」国民文庫92-93頁・原頁62)

■《貨幣呪物》《商品呪物》は、新日本版、長谷部訳では《貨幣物神》《商品物神》、マルクスコレクション版では《貨幣フェティシュ》《商品フェティシュ》となっている。

■《人と人との関係(生産関係)が物象と物象との関係(物象関係)として現れることによって、人と人との関係はすっかり見えなくなってしまう。人びとの目には、まるで人間の手の生産物そのものが相互に関係をもち、また人間と関係をもつかのように見える。このように人びとが労働の社会的性格の対象的・物象的な外観にとらわれるのは、人間が、たとえばトーテム・ポールのような自分の手でつくった生産物を、神秘的な力をもった物神(fetish)として崇拝し、それに引きずり回されるのとそっくりである。そこで、このような人びとの転倒的な意識とそれにもとづいて行動することとを物神崇拝(fetishism)と呼ぶ。
 物神崇拝は、労働生産物が商品という形態をとるやいなや生じるものである。すなわち、商品が他商品と交換できる力である価値を生まれながらにもっているかのような外観が生じ、人びとは、商品とはこのような不可解な特別な力を持ったものなのだ、と錯覚するようになる。こうして商品は、商品物神として人間を支配するのである(商品による人間支配)。
 商品世界のなかで金という特定の商品が貨幣となり、どの商品の価値も貨幣で表現されるようになると、金という特定の自然物がそのまま価値のかたまりとして通用するようになり、物神崇拝は完成された姿で現れる。金があらゆる商品と直接に交換可能であるのは、他のすべての商品が金を商品世界から排除してそれを一般的等価物にするからであるのに、人びとの目には、金はその直接的交換可能性というその属性を、重さがあるとかきらきら輝くといった属性と同様に、生まれながらにもっているのであって、それは生まれながらに貨幣なのだから、他の諸商品が一般的に自分たちの価値をそれで表現するのだと、というように見える。金は、地の底から出てきたままで、同時にいっさいの人間的労働の直接的化身となる。これが黄金崇拝であり、拝金思想の源である。貨幣は、貨幣物神として人びとを支配する圧倒的な力をもつものとなる。こうして、人びとは貨幣によって引きずり回され、物によって、貨幣によって支配される(貨幣による人間支配)。》(大谷禎之介『図解社会経済学』77-78頁)

■《トーテムポールは仏像のような偶像ではなく、崇拝の対象物ではない。》と述べている人もいる。Canada Native.com  http://www.canada-native.com/totem.html

★貨幣物神の謎とは 金はその直接的交換可能性というその属性を、重さがあるとかきらきら輝くといった属性と同様に、生まれながらにもっているようにみえること、商品物神の謎とは、商品が他商品と交換できる力である価値を生まれながらにもっているかのようにみえることといえるだろう。


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by shihonron | 2009-06-16 23:30 | 学習会の報告


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