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『資本論』を読む会の報告

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2009年 07月 28日

第154回 7月28 第3章 第2節 流通手段 a 商品の変態

7月28日(火)に第154回の学習会を行いました。価値尺度機能と価格の度量標準との関連や意義についてNKさんが提出した文書(別掲)をもと議論しました。レポーターの報告をうけ「第3章 貨幣または商品流通 第2節 流通手段 a 商品の変態」の第1段落から第12段落までを検討しました。時間切れとなり、議論は次回に続くことになりました。
以下は、当日配布されたレジュメです。

第3章 貨幣または商品流通 第2節 流通手段 a 商品の変態

第1段落
諸商品の交換過程は、商品は、使用価値として実現されるまえに価値として実現されなければならない、他方では、商品は、自分を価値として実現しうるまえに、自分を使用価値として実証しなければならないという矛盾した互いに排除しあう諸関係を含んでいる。
貨幣は、これらの矛盾の運動を可能にするような形態をつくりだす。

第2段落
交換過程が諸商品を、それが非使用価値であるところの手から、それらが使用価値であるところの手に移すかぎりでは、この過程は社会的物質代謝である。ある有用な労働様式の生産物が、他の有用な労働様式の生産物と入れ替わるのである。使用価値として役だつ場所に達すれば、商品は、商品交換の部面から消費の部に落ちる。商品の変態を研究する際にわれわれが関心をもつのは、商品交換方の部面だけである。われわれは全過程を形態の面から、つまり、社会的物質代謝を媒介する諸商品の形態変換または変態だけを、考察しなければならない。

★「諸商品を、それが非使用価値であるところの手から、それらが使用価値であるところの手に移す」とは「使用価値としての商品の実現」のことである。

★商品所持者は、自分にとっては非使用価値である自分の商品を手放し、自分にとっての使用価値である他の商品を手に入れる。

★「ある有用な労働様式の生産物」とは、具体的・有用的労働の生産物のことであり、ある使用価値という意味であろう。

■「労働は、使用価値の形成者としては、有用労働としては、人間の、すべての社会状態から独立した存在条件であり、人間と自然とのあいだの物質代謝を、したがって人間の生活を媒介するための、永遠の自然必然性である。」(第1章第2節「商品に表される労働の二重性」の第7段落 国民文庫85頁・原頁57)

★「社会的物質代謝」とは、人と人との間での物質代謝であり、人と自然との間での物質代謝と区別されている。

第3段落
商品と金の交換というこの素材的な契機だけを固執するならば、まさに見るべきもの、すなわち形態の上に起きるものを見落とすことになる。金はただの商品としては貨幣ではないということ、そして、他の商品は、それらの価格において、それら自身の貨幣姿態としての金に自分自身を関係させるのだということを、見落とすのである。

★商品の形態変換とは、まずはある商品が、商品形態から貨幣形態に変わること。

★「素材的な契機」とは、使用価値の側面という意味であり、ある使用価値が金という使用価値に姿を変えたこととして捕らえるだけでは不十分だということ。金はただの商品ではなく、貨幣であることを見る必要がある。

★商品の価値は、まず表象された金(貨幣商品)の量として価格の形態で表現され、実際に貨幣に転化することで、価値にふさわしい形態を得ることになる。

第4段落
商品はさしあたりは、生まれたままの姿で、交換過程にはいる。交換過程は、商品と貨幣とへの商品の二重化、すなわち商品がその使用価値と価値との内的な対立をそこに表すところの外的な対立を生みだす。この対立では、使用価値としての諸商品が交換価値としての貨幣に相対する。他方、この対立のどちら側も商品であり、したがって使用価値と価値との統一体である。しかしこのような、差別の統一は、両極のそれぞれに逆に表されていて、そのことによって同時に両極の相互関係を表している。商品は実在的には使用価値であり、その価値存在は価格においてただ観念的に現われているだけである。そして、この価格が商品を、その実在の価値姿態としての対立する金に、関係させている。逆に、金材料は、ただ価値の物質化として、貨幣として、認められているだけである。それゆえ、金材料は実在的には交換価値である。その使用価値は、その実在の使用姿態の全範囲としての対立する諸商品にそれを関係させる一連の相対的価値表現において、ただ観念的に現われているだけである。このような、諸商品の対立的な諸形態が、諸商品の交換過程の現実の運動形態なのである。

★交換過程では、ある商品と貨幣が相対する。ある商品は、実在的には使用価値であり、その価値は価格によって観念的に表されている。貨幣は、実在的には交換価値であり、その使用価値は、価格をもつあらゆる商品のさまざまな使用価値によって観念的に表されている。

20エレのリンネル=1.5gの金 あるいは 20エレのリンネル=2円

20エレのリンネルは実在的に使用価値である。

20エレのリンネルの価値は、表象された金量である1.5gの金あるいは2円として表現されている。

表象された1.5gの金あるいは2円は、20エレのリンネルの価値の現象形態、言いかえれば交換価値である。

価格が指示している1.5gの金あるいは2円という貨幣は、実在的には交換価値である。

貨幣は、どんな商品とも直接に交換可能であり、貨幣の使用価値はあらゆる商品の使用価値によって観念的に表されている。

■「貨幣商品の使用価値は二重になる。それは、商品としてのその特殊な使用価値、たとえば金が虫歯の充填や奢侈品の原料などに役だつというような使用価値のほかに、その独自な社会的機能から生ずる一つの形態的使用価値を受け取るのである。
 他のすべての商品はただ貨幣の特殊的等価物でしかなく、貨幣は他の諸商品の一般的等価物なのだから、他の諸商品は、一般的商品としての貨幣に対して、特殊的諸商品として相対するのである。」(第2章交換過程 第12・13段落 国民文庫164頁・原頁104)

第5段落
交換過程の場面、商品市場で行われることをリンネル所有者についてみてみよう。彼の商品、20エレのリンネルは、価格が決まっている。その価格は2ポンド・スターリングである。彼は、それを2ポンド・スターリングと交換し、次に、この2ポンド・スターリングをさらに同じ価格の家庭用聖書と交換する。彼にとってはただ商品であり価値の担い手でしかないリンネルが、その価値姿態である金とひきかえに手放され、そして、この姿態からさらに他の一商品、聖書とひきかえに手放されるのであるが、この聖書は使用対象として織職の家にはいって行き、そこで信仰欲望を満足させることになる。こうして、商品の交換過程は、対立しつつ互いに補いあう二つの変態――商品の貨幣への転化と貨幣から商品へのその再転化とにおいて行なわれるのである。商品変態の諸契機は、同時に、商品所持者の諸取引――売り、すなわち商品の貨幣との交換、買い、すなわち貨幣の商品との交換、そして両行為の統一 、すなわち買うために売る、である。

★ここでの「商品所持者」は「商品生産者」であることに注意しておこう。
 
第6段落
いま、リンネル織職が取引の最終結果を調べてみるとすれば、彼は、リンネルの代わりに聖書を、つまり、彼の最初の商品の代わりに価値は同じだが有用性の違う別の一商品をもっている。同じやり方で、彼はそのほかの生活手段や生産手段も手に入れる。彼の立場から見れば、全過程は、ただ彼の労働生産物と他人の労働生産物との交換、つまり生産物交換を媒介しているだけである。

第7段落
こういうわけで、商品の交換過程は次のような形態変換をなして行なわれる。
商品――貨幣――商品

  W――G――W

第8段落
その素材的内容から見れば、この運動はW―W、商品と商品との交換であり、社会的労働の物質代謝であって、その結果では過程そのものは消えてしまっている。

第9段落
W―G、商品の第一変態または売り。商品体から金体への商品価値の飛び移りは、私が別のところで言ったように、商品の命がけの飛躍[Salto mortale]である。社会的分業は彼の労働を一面的にするとともに、彼の欲望を多面的にしている。それだからこそ、彼にとって彼の生産物はただ交換価値としてのみ役だつのである。しかし、彼の生産物はただ貨幣においてのみ一般的な社会的に認められた等価形態を受け取るのであり、しかもその貨幣は他人のポケットにある。それを引き出すためには、商品はなによりもまず貨幣所有者にとっての使用価値でなければならず、したがって、商品に支出された労働は社会的に有用な形態で支出されなければならない。言いかえれば、その労働は社会的総労働の一環として実証されなければならない。しかし、分業は一つの自然発生的な生産有機体であって、その繊維は商品生産者達の背後で織られたものであり、また絶えず織られているのである。
場合によっては、商品は、新たに生まれた欲望を満足させようとするかまたは或る欲望をこれから自力で呼び起こそうとする或る新しい労働様式の生産物であるかもしれない。昨日まではまだ同じ一人の生産者の多くの機能のうちの一つの機能だった或る一つの作業が、おそらく、今日はこの関連から切り離されて、独立化されて、まさにそれゆえにその部分生産物を独立の商品として市場に送ることになる。この分離過程のために事情はすでに熟していることまた熟していないこともあるであろう。生産物は今日は或る一つの社会的欲望を満足させる。明日はおそらくその全部または一部が類似の種類の生産物によってその地位から追われるであろう。労働が、われわれの織職のそれのように、社会的分業の公認された一環であっても、まだそれだけでは彼の20エレのリンネルそのものの使用価値はけっして保証されてはいない。リンネルに対する社会的欲望、それには、すべての他の社会的欲望と同じに、その限度があるのであるが、それがすでに競争相手のリンネル織職たちによって満たされているならば、われわれの友人の生産物はよけいになり、したがって無用になる。もらい物ならば、いいもわるいもないのだが、彼は贈り物をするために市場を歩くのではない。しかし、かりに彼の生産物の使用価値が実証され、したがって貨幣が商品によって引き寄せられるとしよう。ところが、今度は、どれだけの貨幣がという問題が起きてくる。答えはもちろん、すでに商品の価格によって、商品の価値量の指標によって、予想されている。商品所有者がやるかもしれない純粋に主観的な計算のまちがいは問題にしないことにしよう。それは市場ではすぐに客観的に訂正される。彼は自分の生産物にただ社会的に必要な平均労働時間だけを支出したはずである。だから、その商品の価格は、その商品に対象化されている社会的労働の量の貨幣名でしかない。しかし、古くから保証されていたリンネル織物業の生産条件が、われわれの織職の同意もなしに、彼の背後で激変したとしよう。昨日までは疑いもなく1エレのリンネルの生産に社会的に必要な労働時間だったものが、今日は、そうではなくなる。それは、われわれの友人の何人もの競争相手の価格表から貨幣所有者が最も熱心に立証するところである。われわれの友人にとっては不幸なことだが、世の中にはたくさんの織職がいるのである。最後に、市場にあるリンネルは、どの一片もただ社会的に必要な労働時間だけを含んでいるものとしよう。それにもかかわらず、これらのリンネルの総計は、余分に支出された労働時間をふくんでいることがありうる。もし市場の胃袋がリンネルの総量を1エレ当たり2シリングとしい正常な価格で吸収できないならば、それは社会的総労働時間の大きすぎる一部分がリンネル織物業の形で支出されたということを証明している。結果は、それぞれのリンネル織職が自分の個人的生産物に社会的必要労働時間よりも多くの時間を支出したのと同じことである。ここでは、死なばもろともというわけである。市場にあるすべてのリンネルが一つの取引品目としかみなされず、どの一片もその可除部分としかみなされない。そて、実際にどの1エレの価値も、ただ、同種の人間労働の社会的に規定された同じ量が物質化されたものでしかないのである。

★ 商品の命がけの飛躍
商品の第一変態(売り)が、行なわれない場合(A)とⅡ.売りが行なわれたとしても価格で示されていたよりも少ない量の貨幣としか交換されない二つの場合(B、C)

A.新製品やこれまでは商品として登場していなかったでなかった部分生産物が商品となるが、それに対する需要はあらかじめ確保されているとは限らず、売れないことがある。また、ある使用価値に対する社会の欲望には限度があり、競争者によってそれが満たされている場合には、売れないことがある。

B.生産条件が激変(競争者が新たな高度な生産方法を導入)した場合には、一定量の商品の価値は下落し、生産方法が不変な生産者の商品は、かつての価格以下でしか売ることができない。

C.ある産業部門に、社会が必要とする生産物の量を超えた生産がされるように総労働時間の一部が配分された場合には、個々の商品の生産に社会的に必要な労働時間だけが費やされていても、正常な価格(価値どおりの価格)以下でしか売れない。

★「市場にあるすべてのリンネルが一つの取引品目としかみなされず、どの一片もその可除部分としかみなされない。」とは、一物一価の法則のこと。

■一物一価について、大谷禎之介氏は《商品の価値は社会的必要労働時間によって決まる。だから、同じ種類の商品の価値は同じである。そこで、商品の価値を表現する商品の価格も、一つの市場では同じである。これがいわゆる「一物一価」である。》と述べている。

■岩井克人氏は、《『資本論』のなかでマルクスは、商品を売ることはその商品に「とんぼ返り= 命がけの跳躍」を強いることだと茶化している。》(筑摩書房『貨幣論』187頁)と述べている。

■最後の「同種の人間労働の社会的に規定された同じ量が物質化されたもの」の箇所の「物質化」は、マルクスコレクション版では「受肉化」と訳されている。

■ 【受肉】キリスト教の根本教義の一。神がキリストとして、人間となって現れること。霊が肉に結合すること。託身。インカルナチオ。(大辞林 第二版)

■自然発生的な社会的分業や社会的総労働についてこれまで述べられていたことを振り返っておこう。
《いろいろに違った使用価値または商品体の総体のうちには、同様に多種多様な、属や種や科や亜種や変種を異にする有用労働の総体――社会的分業が現れている。社会的分業は商品生産の存在条件である。といっても、商品生産が逆に社会的分業の存在条件であるのではない。古代インドの共同体では、労働は社会的に分割されているが、生産物が商品になるということはない。あるいはまた、もっと手近な例をとってみれば、どの工場でも労働は体系的に分割されているが、この分割は、労働者たちが彼らの個別的生産物を交換することによって媒介されてはいない。ただ、独立に行われていて互いに依存しあっていない私的労働の生産物だけが、互いに商品として相対する。こうして、どの商品にも、一定の合目的的な生産活動または有用労働が含まれているということがわかった。いろいろな使用価値はそれらのうちに質的に違った有用労働が含まれていなければ、商品として相対することはできない。社会の生産物が一般的に商品という形態をとっている社会では、すなわち商品生産者の社会では、独立生産者の私事として互いに独立に営まれるいろいろな有用労働のこのような質的違いが、一つの多肢的な体制に、すなわち社会的分業に、発展するのである。》(国民文庫84頁・原頁56-57)

《およそ使用対象が商品になるのは、それらが互いに独立に営まれる私的労働の生産物であるからにほかならない。これらの私的労働の複合体は社会的総労働をなしている。生産者たちは自分たちの労働生産物の交換をつうじてはじめて社会的に接触するようになるのだから、彼らの私的諸労働の独自な社会的性格もまたこの交換においてはじめて現れるのである。言いかえれば、私的諸労働は、交換によって労働生産物がおかれ労働生産物を介して生産者たちがおかれるところの諸関係によって、はじめて社会的総労働の諸環として実証されるのである。それだから、生産者たちにとっては、彼らの私的諸労働の社会的関係は、そのあるがままのものとして現れるのである。すなわち、諸個人が自分たちの労働そのものにおいて結ぶ直接に社会的な諸関係としてではなく、むしろ諸個人の物的な諸関係および諸物の社会的な諸関係として、現れるのである。》(国民文庫136-137頁・原頁87)

《それ(私的諸労働は)は、一面では、一定の有用労働として一定の社会的欲望を満たさなければならず、そのようにして自分を総労働の諸環として、社会的分業の自然発生的体制の諸環として、実証しなければならない。》(国民文庫137頁・原頁87)

《じっさい、労働生産物の価値性格は、それが価値量として実証される事によってはじめて固まるのである。この価値量のほうは、交換者たちの意志や予知や行為に関係なく、絶えず変動する。交換者たち自身の社会的運動が彼らにとっては諸物の運動の形態をもつのであって、彼らはこの運動を制御するのではなく、これによって制御されるのである。互いに独立に営まれながらしかも社会的分業の自然発生的な諸環として全面的に互いに依存しあう私的諸労働が、絶えずそれらの社会的に均衡のとれた限度に還元されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的な絶えず変動する交換割合をつうじて、それらの生産物の生産に社会的に必要な労働時間が、たとえばだれかの頭上に家が倒れてくるときの重量の法則のように、規制的な自然法則として強力に貫かれるからである、という科学的認識が経験そのものから生まれてくるまでには、十分に発達した商品生産が必要なのである。それだから、労働時間による価値量の規定は、相対的な商品価値の現象的な運動の下に隠れている秘密なのである。それの発見は、労働生産物の価値量の単に偶然的な規定という外観を解消させるが、しかしけっしてその物的な形態を解消させはしない。》(国民文庫139-140頁・原頁89)

第10段落
このように、商品は貨幣を恋いしたう。だが「まことの恋がなめらかに進んだ試しはない」[“the course of true love never does run smooth ”] 。分業体制のうちにそのバラバラな四肢 [membra disjecta]を示している社会的生産有機体の量的編成は、その質的編成と同じに、自然発生的で偶然である。それだから、われわれの商品所持者たちは、彼らを独立の私的生産者にするその同じ分業が、社会的生産過程とこの過程における彼らの諸関係とを彼ら自身から独立なものにするということを発見するのであり、人々の相互の独立性が全面的な物的依存の体制で補われていることを発見するのである。

★「社会的生産有機体の量的編成」とは、総労働力の各産業部門へ配分のことだろう。言いかえると、各産業間のバランスではないか。「その質的編成」とは、社会全体でどんな使用価値の生産を行なうのかということだろう。商品生産の社会では、社会全体でどんなもの(質的)をどれだけ(量的)生産するかが自然発生的で偶然だということである。

第11段落
分業は、労働生産物を商品に転化させ、そうすることによって、労働生産物の貨幣への転化を必然にする。同時に、分業は、この化体が成功するかどうかを偶然にする。とはいえ、ここでは現象を純粋に考察しなければならず、したがってその正常な進行を前提しなければならない。そこでとにかくことが進行して、商品が売れないようなことがないとすれば、商品の形態変換は、変則的にはこの形態変換で実体――価値量――が減らされたり加えられたりすることがあるにしても、つねに行なわれているのである。

★「その正常な進行」とは「価値どおりに売れる(商品が貨幣に転化する)こと」という意見だろう。

第12段落
一方の商品所持者にとっては金が彼の商品にとって代わり、他方の商品所持者にとっては商品が彼の金にとって代わる。すぐに目につく現象は、商品と金との、20エレのリンネルと2ポンド・スターリングとの、持ち手変換または場所変換、すなわちそれらの交換である。だが、なにと商品は交換されるのか? それ自身の一般的価値姿態とである。そして金はなにと?その使用価値の一つの特殊な姿態とである。なぜ金はリンネルに貨幣として相対するのか? 2ポンド・スターリングというリンネルの価格またはリンネルの貨幣名が、すでにリンネルを貨幣としての金に関係させているからである。もとの商品形態からの離脱は、商品の譲渡によって、すなわち、商品の価格ではただ想像されているだけの金を商品の使用価値が現実に引き寄せる瞬間に、行なわれる。それゆえ、商品の価格の実現、または商品の単に観念的な価値形態の実現は、同時に、逆に貨幣の単に観念的な使用価値の実現であり、商品の貨幣への転化は、同時に貨幣の商品への転化である。この一つの過程が二面的な過程なのであって、商品所持者の極からは売りであり、貨幣所持者の反対極からは買いである。言いかえれば、売りは買いであり、W―Gは同時にG―Wである。

■ 「金材料は、ただ価値の物質化として、貨幣として、認められているだけである。それゆえ、金材料は実在的には交換価値である。その使用価値は、その実在の使用姿態の全範囲としての対立する諸商品にそれを関係させる一連の相対的価値表現において、ただ観念的に現われているだけである。」(国民文庫189頁・原頁119)

by shihonron | 2009-07-28 23:30 | 学習会の報告


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