『資本論』を読む会の報告

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2009年 07月 28日

学習会資料 価値尺度機能と価格の度量標準について その1

価値尺度機能と価格の度量標準について   2009.07.28   NK

 7月7日行われた第152回の学習会での報告のなかで、IGさんが「価値尺度機能は質であり、価格の度量標準は量だ」と述べられたのに対して、NKは「価値尺度機能には質的側面だけではなく量的側面もある」と発言しました。7月14日の第153回の学習会でも議論があり文章化して再度検討することとなりました。

1.何が問題か?
 「価値尺度は質である」ということの意味は何か、価値尺度機能の量的側面の存在を認めるのかどうかが問題であるように思われる。また、この問題を解きほぐすことで、価値尺度機能と価格の度量標準という機能の関連を明らかにすることもできるだろう。

2.価値尺度機能の質的側面と量的側面
 価値尺度機能について第3章第1節では「金の第一の機能は、商品世界にその価値表現の材料を提供すること、また諸商品の価値を同名の大きさ、すなわち質的に同じで量的に比較可能な大きさとして表すことにある。こうして金は諸価値の一般的尺度として機能し、この機能によってのみ、金という独自な等価物商品はまず貨幣になるのである。」(第2段落)「商品価値はいろいろな大きさの想像された金量に転化されているのであり、つまり、商品体が種々雑多であるにもかかわらず、同名の量に、すなわち金量に転化されているのであり、このようないろいろな金量として、諸商品の価値は比較され、計られるのであって、技術上、これらの度量単位としての或る固定された金量に関係させる必要が大きくなってくる。」(第7段落)「価値の尺度および価格の度量標準として、貨幣は二つのまったく違った機能を行う。貨幣が価値の尺度であるのは、人間労働の社会的化身としてであり、価格の度量標準であるのは、固定した金属重量としてである。それは、価値尺度としては、種々雑多な商品の価値を価格に、すなわち想像された金量に転化させるのに役だち、価格の度量標準としては、この金量を計る。価値の尺度では諸商品が価値として計られるのであるが、これにたいして、価格の度量標準は、いろいろな金量をある一つの金量で計るのであって、ある金量の価値を他の金量の重量で計るのではない。」(第8段落)と述べている。
 以上の引用から明らかなように、価値尺度機能とは、諸商品の価値をいろいろな大きさの想像された金量に転化することである。金(貨幣)は、諸商品が価値であること(質的側面)と同時にある量の価値であること(量的側面)をも表現する。

3.価値尺度の質
 『貨幣論』で久留間鮫造氏は宇野弘蔵氏の見解を批判する中で「価値尺度の質」の理解が重要であることを強調している。大切だと思われる箇所をいくつか紹介する。
 「商品の価格は結局金いくらという価格の形態で表示されることになる、現にそうなっているわけですが、これについては二つの過程を区別して考える必要があると思うのです。第一の過程は、金が商品世界の共同の行為によって、一般的等価物――貨幣――にされる過程です。このかぎりでは、金は何らの機能もしていない、もっぱら商品の方がはたらきかけて、金に貨幣という形態規定を与えているわけです。だが、これが過程の全部なのではない。商品はまずこのようにして、金に貨幣という形態規定を与えた上で、こんどは、この貨幣としての金で、それぞれに自分の価値を表示するわけです。たんなる金ではなくてすでに貨幣になっている金で。諸商品が共同の行為によって金を貨幣にする過程と、すでに貨幣になっている金で、いちいちの商品が自分の価値を表す過程とはちがうわけです。第一の過程では、すべての商品が左辺に立って、右辺に金がおかれる。一般的な相対的価値形態と同じです。ところが、ひとたび金が貨幣になると、そうした金での商品の価値表現は、最初の簡単な価値形態と同じ形態で行われることになる。(中略)この場合には金は、すでに貨幣という形態規定を与えられているものとして、言葉をかえて言えば、それの自然形態がそのまま価値の大いさを表すものとして、商品の価値表現において独自のはたらきをしている、独自の機能をしている、と考えられるのです。」(173-174頁)
 「実際に売られる場合の商品の価格が、買い手によって、まして購買手段としての貨幣の機能によって、決定される、と考えることは、それ自身途方もない間違いであるが、その点はしばらくおくとして、それが誰によって、あるいはなにによって決定されるにしても、また、その価格が感覚的具体的労働表示するものとして高すぎようが低すぎようが、それは価格であることに変わりはない。なぜならそれは、貨幣としての金の形態における価値の表現だからである。そして、商品の販売ということは、それを前提にして――価格を前提にして――はじめて考えられことである。なぜなら、販売は価格の実現であり、価格の実現は必然的に価格を前提するからである。販売されたさいの価格がどのようにして決定されようが、またその価格が価値を表現するものとして低すぎようが高すぎようが、それが実現されて現実の金になれば、その金の量的限界の範囲内では、どんな商品でも買えるものになる。金はけっして、本来的にそういうものではない。金がそういうものになったのは、あらゆる商品がそれらの価値をもっぱら金で表現することによって、金を貨幣に――それの自然形態がそのまま価値の定在として一般的に妥当するものに――したからであり、商品の価値がこのような貨幣としての金で、価格として表現されることになったからである。この、価値の価格としての表示は、貨幣としての金の媒介によってはじめて可能なのであり、この媒介的な機能において、貨幣金は価値の尺度なのである。これこそが、価格のしたがってまた価値尺度としての貨幣の機能の、質的な面であり、根本である。宇野君の主張は、量の問題に――マルクスの言葉をかりて言えばブルジョア的インタレストに――注意を奪われて、肝心かなめな質的な面を忘れたものと言わねばならぬ。」(177-178頁)
 「実際に売買される場合の価格が何で決まるかというようなことを問題にする前に、われわれは、形態としての価格を問題にする必要がある。価値が金の姿で表示され、価格の形態をとるということ、このことはいったい、商品生産にとってどのような意味をもつのかという問題、これをわれわれは、先ず第一に明らかにしなければならぬ、とマルクスは考えているわけです。」(180頁)
 「商品生産は直接社会的な生産ではない。商品を生産する労働は当初から社会的な労働なのではなく、直接には私的な労働です。そういうものから社会的生産の体制が生じるためには、商品生産者の私的な労働はなんらかの契機において、なんらかの形態において、社会的労働にならねばならぬ。ではどのような形態で、商品生産者の労働は社会的労働になるかというと、けっきょく、金の姿ではじめてそういうものになる。だから商品は、そのままでは任意の他商品にかわるわけにはいかないが、いったん金になると、どの商品とでも交換可能になるのです。ですから、商品は金にならねばならぬわけですが、それではどのようにして金になるかというと、いうまでもなく販売によってなる。販売においては、商品の使用価値が譲渡されて、そのかわりに金が与えられる。これはどういうことかというと、使用価値は特殊的具体的な属性における労働の所産なのですから、使用価値が譲渡されるということは、ひっきょう、労働のこの特殊的具体的な属性が脱ぎすてられることを意味するのであって、それによって労働は抽象的一般的な労働に還元される。そしてこの、抽象的一般的労働という形態において、はじめて社会的労働になる。これが、商品が販売によって金になるということの根本の意味です。」(180頁)
 「このことはもちろん、金があらかじめ、商品世界の共同の行為によって、抽象的一般的な・そしてそれによつてまた社会的な・労働の直接的体化を意味するものに――すなわち貨幣に――されていることを前提するので、それによつてはじめて、商品の金への転化は、商品生産者の私的な具体的な労働の、抽象的一般的な、社会的な、労働への転化を意味することになりうるわけです。ところで、この貨幣としての金への商品の転化は、販売によってはじめて実現されるわけですが、この実現は、当然、商品の価値があらかじめ観念的に金に転化されていること、すなわち価値が価格に転化されていることを前提するのであって、この転化にさいしての金の役割を、マルクスは金の価値尺度機能であるとし、貨幣としての金の第一の機能であるとしているわけです。これは単なる量的規定の問題ではなく、もっと根本的な質的規定の問題です。マルクスが、従来の経済学が見落としているものとして力説している尺度の質というのは、究極的にはこのことを意味しているのです。」(181頁)
 「宇野君が物差しと違うという場合には、たんに量的規定のことだけを考えているのですが、マルクスはそれとは異なって、もつと根本的な、本質的な差異を見極めているのです。貨幣(金)の形態においてはじめて、商品は一般的に価値として現れるのだということ、そして価値として現れることによってはじめて、商品生産者の労働は社会的労働として現れるのだということ――これは単に量的規定上の違いではなくて、もっと根本的な本質的な違いですが――それをマルクスは明らかにしているわけです。しかし、それだからといって、彼はけっして量的規定をおろそかにしているわけではない。ただ、そういうことを問題にする前に、より根本的な質的な問題を明らかにする必要があると考えているのです。そうしないと、量的規定の問題そのものも、本当には理解されえないことになるからです。彼が量的規定の問題をおろそかにしていないことは、彼がいろいろなところで価値からの価格の乖離の問題を論じているのをみればわかるはずです。いろいろのところで彼がそれを論じているのは、量的規定といっても一概には言えないので、抽象的形式的な規定もあれば具体的実際的な規定もある。そしてそのあいだにさらにいろいろの段階がある。したがって、理論的体系の展開につれて、それぞれ適当なところで論じるほかはないからです。たとえば需給の関係による価格の決定というようなことは、簡単な流通を考察する段階では問題になりえない。この段階では、購買と販売、あるいは購買者と販売者というものは出てくるが、そのあいだの関係をいくら考えても需給の問題はわからない。需給の問題は購買者の全体と販売者の全体とのあいだの競争の関係だからです。簡単な流通のところで明らかにされうることは、せいぜい、価値からの価格の乖離の可能性は価格形態そのもののうちに横たわっているということ、それから、商品の販売は種々の事情に依存するということ、したがって、それらの事情次第で価格は価値から離れることになるのだということ、ただその程度のことにすぎないわけです。」(188-189頁)
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by shihonron | 2009-07-28 23:50 | 学習会資料


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