『資本論』を読む会の報告

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2009年 09月 29日

第161回 9月29日 第3章 第3節 貨幣 a 貨幣蓄蔵

 9月29日(火)に第161回の学習会を行いました。「読む会通信№342」をもとに前回の復習をした後、「第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣a貨幣蓄蔵」の第5段落から最後(第9段落)段落までを前回行われた報告をもとに検討しました。
「読む会通信№342」の前回の報告のなかで資料として紹介・引用された大谷禎之介氏の論文の記述をめぐって議論がありました。
 「大谷氏は、《価値形態のところで見たように、一般的等価物である貨幣は、まずもってすべての商品のために価値表現の材料として役立つ。そこで第1に、貨幣のこの役だちを、あらためて貨幣を主体としてそれの機能として、すなわち貨幣の価値尺度の機能として考察した。さらに交換過程のところで見たように、一般的等価物は商品交換を、商品がひとまず一般的等価物に変態し、そののちに一般的等価物からさらに任意の商品に変態する、という過程に転化することによって、交換過程の矛盾を打開するのであって、商品の全面的交換が発展するにつれて、一般的等価物は最終的にある特定の商品種類に――金銀に――固着せざるをえない。こうして貨幣が成立する。そこで第2に、このように成立した貨幣による商品の全面的な交換過程の媒介の役立ちを、あらためて貨幣を主体としてそれの機能として、すなわち貨幣の流通手段の機能として考察した。》と述べているが、資本論の第2章交換過程では、商品がひとまず一般的等価物に変態し、そののちに一般的等価物からさらに任意の商品に変態するということは述べていない。交換過程論では商品所有者たちの共同の行為によって一般的等価物が生み出されるところまでを述べているだけであり、実際に商品と貨幣が交換されることについては語っていない。商品がひとまず一般的等価物に変態し、そののちに一般的等価物からさらに任意の商品に変態するという内容は、第3章第2節a商品の変態のところではじめていわれているのではないか」との意見が出されました。これに対して「交換過程論では、商品の使用価値としての実現と価値としての実現が相互前提の関係にあり、商品所有者が自分の気に入った同じ価値の商品でさえあれば、その商品所持者にとって彼自身の商品が使用価値を持っているかどうかにかかわりなく、どれでも実現しようとして果たせないという行き詰まりが生じることを指摘している。これが交換過程の矛盾であり、その解決として一般的等価物が生み出されることを述べている。一般的等価物が生み出されることで、商品所有者は自分の商品をすぐに価値として妥当させるのではなく、自分の商品を貨幣(一般的等価物)と交換し(使用価値としての実現)、そうして手に入れた貨幣と自分が必要とする商品とを交換する(価値としての実現)ことが可能になる。これが交換過程の矛盾の解決といえるのではないか。『資本論』の第2章では直接に明示的に書かれてはいないが、大谷氏のように述べると誤りだということにはならないのではないか」との発言がありました。

以下、段落毎にレジュメの内容と議論の報告を掲載します。
●は議論の報告、▲はかつて行った学習会での議論の紹介、■は資料、★は報告者によるまとめや意見、問題提起です。

第3章 貨幣または商品流通 第3章 第3節 貨幣
第5段落

・貨幣を見てもなにがそれに転化したのかはわからないのだから、あらゆるものが商品であろうとなかろうと、貨幣に転化する。
・すべてのものが売れるものとなり、買えるものとなる。
・流通は、大きな社会的坩堝となり、いっさいのものがそこに投げ込まれてはまた貨幣商品となって出てくる。
・この錬金術は聖骨でさえ抵抗できないのだから、もっとこわれやすい、人々の取引外にある聖物[res sacrosanctae, extra commercium hominum]にいたっては、なおさらである。
・貨幣ではいっさいの質的な相違が消え去っているように、貨幣そのものもまた徹底的な平等派としていっさいの相違を消し去るのである。
・しかし、貨幣はそれ自身商品であり、だれの私有物にもなれる外的なものである。
・こうして、社会的な力が個人の個人的な力になるのである。
・それだからこそ、古代社会は貨幣をその経済的および道徳的秩序の破壊者として非難するのである。
・すでにその幼年期にプルトンの髪をつかんで地中から引きずりだした近代社会は、黄金の聖杯をその固有の生活原理の光り輝く化身としてたたえるのである。

■《もっとこわれやすい、人々の取引外にある聖物》は、フェニキアの乙女のこと。

★《社会的な力》とは、どんなものでも入手可能にする貨幣力のことだろう。

■《個人の個人的な力》は、新日本出版版では《私人の私的な力》となっている。
英語版では But money itself is a commodity, an external object, capable of becoming the private property of any individual. Thus social power becomes the private power of private persons. である。

■長谷部訳や英語版、新日本の上製版では、第4段落と第5段落はひとつの段落になっている。

●「アリストテレスは、流通の手段としての貨幣はいいが、金儲けはいけないといったことを述べている」との紹介がありました。

■プルトンは、ギリシア神話の富の神ハデスのこと。

■ハデス
 ギリシア神話で,地下の冥府の王。その名は〈見えざる者〉の意。地中に埋蔵される金銀などの富の所有者としてプルトン (富者) とも呼ばれたところから,ローマ神話ではプルトPluto,またはそのラテン訳のディスDisが彼の呼称となっている。ティタン神族のクロノスの子として生まれ,兄弟のゼウス,ポセイドンと力を合わせて,当時,世界の覇者であった父神とティタン神族を 10 年にわたる戦いで征服し,ゼウスが天,ポセイドンが海の王となったとき, ハデスは冥界の支配権を得た。のち,みずからの姉妹にあたる女神デメテルの娘ペルセフォネを地上からさらって后とした 。
 古代ギリシア人の考えによれば,死者の亡霊はまずヘルメスによって冥界の入口にまで導かれ,ついで生者と死者の国の境の川ステュクスまたはアケロンを渡し守の老人カロンに渡されたあと,三つ頭の猛犬ケルベロスの番するハデスの館で,ミノス,ラダマンテュス,アイアコスの3判官に生前の所業について裁きを受ける。その結果,多くの亡霊はアスフォデロス (不鰻花) の咲きみだれる野にさまようことになるが,神々の恩寵めでたき英雄や正義の人士はエリュシオンの野 (古い伝承では,はるか西方の地の果て,のちに冥界の一部と考えられた) に送られて至福の生を営む一方,シシュフォスやタンタロスのごとき極悪人はタルタロスなる奈落へ押しこめられ,そこで永遠の責め苦にあうものと想像された。  水谷 智洋 (世界大百科事典)

■ ソポクレス
ソポクレス ソフォクレス(ソポクレース、Σοφοκλ??, Sophokles、紀元前496年頃 - 紀元前406年)は、アテナイの悲劇作家、古代ギリシア三大悲劇詩人の一人に数えられる。
紀元前468年以来、大ディオニュシア祭で24回もの優勝を重ねた。劇の作法について数編の論文を著すなど理論面を重視し、ギリシア悲劇というジャンルを完成させた。
成功した悲劇作家として富裕な市民でもあった。
123編の悲劇を書いたと言われるが、欠けずに現存するのはわずか7編。絶対なる運命=神々に翻弄されながらも、悲壮に立ち向かう人間を描いたものが多い。中でも『オイディプス王』はギリシャ悲劇中の珠玉とされ、現代に至るまで西洋文学に多大な影響を与えている。(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

第6段落
・使用価値としての商品は、ある特殊な欲望を満足させ、素材的な富の一つの特殊な要素をなしている。
・ところが、商品の価値は、素材的な富のすべての要素に対するその商品の引力の程度を表わし、したがってその商品の所有者の社会的な富の大きさを表わしている。
・未開の単純な商品所持者にとっては、また西ヨーロッパの農民にとってさえも、価値は価値形態から不可分なものであり、したがつて金銀蓄蔵の増加は価値の増加である。
・もちろん、貨幣の価値は変動する。
・それ自身の価値変動の結果であるにせよ、諸商品の価値変動の結果であるにせよ、しかし、このことは、一方では、相変わらず200オンスの金は100オンスよりも、300オンスは200オンスよりも大きな価値を含んでいるということを妨げるものではない。
・他方では。この物の金属的現物形態がすべての商品の一般的等価形態であり、いっさいの人間労働の直接に社会的な化身であるということを妨げるものではない。
・貨幣蓄蔵の衝動はその本性上無際限である。
・質的には、またその形態から見れば、価値は無制限である。
・すなわち、素材的な富の一般的な代表者である。
・貨幣はどんな商品にも直接に転換されうるからである。
・しかし、同時に、どの現実の貨幣額も、量的に制限されており、したがってまた、ただ効力を制限された購買手段でしかない。
・このような、貨幣の量的な制限と質的な無制限との矛盾は、貨幣蓄蔵者をたえず蓄積のシシュフォス労働へと追い返す。
・彼は、いくら新たな征服によって国土をひろげても国境をなくすことのできない世界征服者のようなものである。

▲「《価値は価値形態から不可分なもの》とはどういうことか」との疑問が出され、「価値は、その現象形態である貨幣=貴金属そのものだとみなされることではないか」との発言がありました。

▲「諸商品の価値変動の結果として貨幣の価値が変動するというのがよく分らない」との疑問が出され、「貨幣商品の価値はさまざまな商品のさまざまな量によって表現される(物価表を逆から読むこと)ことを述べているのではないか」との発言がありました。

●「《もちろん、貨幣の価値は変動する》と述べられているところでの価値は内容としては交換価値と理解できるのではないか」との発言がありました。

★貨幣の価値の大きさは、貨幣商品(金や銀など)の生産に社会的に必要な労働時間によって決まるので、それが変化しない場合には価値変動はないように思える。貨幣の価値に変化がなくても、諸商品の価値変動によって、同じ額の貨幣で入手できる諸商品の量(さまざまな使用価値の量)が変動することを述べているということだろうか。

★「一方では」以下は、貨幣商品間の大小関係は不変だという量の問題について、「他方では」以下は、貨幣が 《すべての商品の一般的等価形態であり、いっさいの人間労働の直接に社会的な化身である》という質の問題について述べている。

■大阪で行われた学習会の報告では、この問題について次のように述べています。
《報告者は「貨幣の価値が①貨幣自身の価値変動の結果、変動するというのは分かるが、貨幣の価値が②諸商品の価値変動の結果、変動するというのはどういうことかよく分からない」と疑問を呈したのです。
 なるほど貨幣である金の価値は、それに対象化されている社会的に必要な労働時間ですから、それが変動すれば、変動するというのは分かるが、しかし諸商品の価値の変動がなぜ貨幣の価値の変動になるのか分からないというのは当然のように思えます。
 しかしよくよく考えてみると、①の場合も「貨幣の価値は、貨幣自身の価値変動の結果、変動する」ということになりますが、これは全くのトートロジー(同義反復)ではないでしょうか? 「価値は価値の変動によって変動する」といってみても何も言ったことになりません。いったい、マルクスは何を言わんとしているのでしょうか?
 この場合同義反復を避けようとするなら、「貨幣の価値」の「価値」と「貨幣自身の価値変動」という場合の「価値」は同じものであってはならないのです。そこでその理解を助けてくれるのが、その前後の文章です。
 「貨幣の価値」と言う場合の「価値」は、明らかにその直前にある「金銀財宝の増加が価値の増加である」と言う場合の「価値」と同じ意味に使われています。そしてそれは「価値は価値形態とは不可分のもの」と逆上ることが出来ます。つまりここでマルクスが述べている「価値」とは、「価値形態と不可分」な「価値」なのです。
 それでは「価値形態と不可分」な「価値」とはどういう意味でしょうか? それはその前にマルクスの述べていることがヒントになります。つまり「商品の価値は、素材的富のあらゆる要素に対してその商品がもつ引力の程度をはかる尺度となり、したがって、その商品の所有者がもつ社会的富の尺度となる」ということです。「価値形態」というのは価値の現象形態であり、要するに「交換価値」のことです。「20エレのリンネルは上着1着に値する」という場合の「20エレのリンネル」の「交換価値」とはすなわち「上着1着」ということです。つまり「20エレのリンネル」は「上着1着」を引きつける力をもっているわけですが、それがすなわち「20エレのリンネル」のこの場合の「価値」だということです。だから「20エレのリンネル」の「価値」は「上着1着」と不可分な形でとらえられているわけです。
 だから先の「貨幣の価値」といった場合の「価値」とは、その「貨幣」が引きつけ得る「素材的富」と不可分だということになります。そしてそれが「変動する」のです。すなわち①貨幣自身の[価値]変動によって。この場合の[価値]はもちろん貨幣である金に対象化されている社会的に必要な労働時間を意味します。つまり貨幣が引きつける素材的富は貨幣自身の[価値]が変動すれば、他の諸商品の[価値]が変わらなければ、当然、変動します。貨幣の[価値」が二倍になれば、いままで上着1着を引きつけていたのが、上着2着を引きつけるようになるということです。だからまた当然②諸商品の[価値]の変動によっても、貨幣が引きつける素材的富、すなわちこの場合の「貨幣の価値」が変化することはいうまでもありません。上着の[価値]が二倍になれば、それまで上着1着を引きつけ得た貨幣はもはや上着1着を引きつけ得ないからです。
 しかし貨幣が引きつける素材的富の「量」が変わったからと言って、200オンスが100オンスより多くの素材的富を引きつけうることには変わりなく、また「金属的現物形態が依然としてすべての商品の一般的等価形態であり、すべての人間労働の直接に社会的な化身である」こと、すなわち他のすべての諸商品と直接に交換可能な性質を持っていること、つまり素材的富を引きつけるという性格そのものには何の変わりもない。だから「蓄蔵貨幣形成の衝動はその本性上、限度を知らない」云々と続くのではないでしょうか。》(『資本論』学ぶ会ニュース NO.44 2000年8月15日発行)

■【シシュフォス [Sisyphos]】 
ギリシャ神話中のコリント王。ゼウスから怒りを買い死神を送られたが、死神をだまし捕らえたため、しばらく死ぬ者が絶えたという。重なる悪業の罰として、地獄でたえず転がり落ちる大石を山頂へ押し上げる永遠の空しい苦業を課せられた。シジフォス。 (大辞林 第二版より)

第7段落
・金を、貨幣として、したがって貨幣蓄蔵の要素として固持するためには、流通することを、または購買手段として享楽手段になってしまうことを、妨げなければならない。
・それだから、貨幣蓄蔵者は黄金呪物のために自分の肉体の欲望を犠牲にするのである。
・彼は禁欲の福音を真剣に考える。
・他方では、彼が貨幣として流通から引き上げることのできるものは、ただ、彼が商品として流通に投ずるものだけである。
・彼は、より多く生産すればするほど、より多く売ることができる。それだから、勤勉と節約と貪欲とが彼の主徳をなすのであり、たくさん売って少なく買うことが彼の経済学の全体をなすのである。

■「享楽手段」は新日本出版社版では「消費手段」となっている。

■福音
(1)〔(ギリシヤ) evangelion〕キリスト教で、イエスの十字架上の死と復活を通して啓示された救いの教え。ゴスペル。
(2)喜ばしい知らせ。「―を待つ」
〔漢訳聖書からの借用語〕(大辞林 第二版より)

■ゴスペル [gospel]
(1)イエス-キリストの説いた神の国と救いに関する福音。
(2)新約聖書の初めの四つの福音書の総称。

■貪欲
〔古くは「とんよく」〕次々と欲を出し満足しないこと。非常に欲張りであること。また、そのさま。金銭欲・物欲だけでなく、知識欲にもいう。「―に知識を吸収する」「―心」 (大辞林 第二版より)

■主徳
「元徳(げんとく)」に同じ。〔cardinal virtues〕各時代・社会において最も基本的な徳。ギリシャではプラトンの知恵・勇気・節制・正義、キリスト教では信仰・希望・愛、儒教思想では五倫五常。主徳。
(大辞林 第二版より)

▲「節約」と「貪欲」は反対の意味ではないのかという疑問がだされましたが、節約の反対は浪費であり、「節約」して貨幣を貯め込むことに「貪欲」だとの結論になりました。なお、フランス語版の訳では「勤勉、節約、吝嗇」となっている。

第8段落
・蓄蔵貨幣の直接的な形態と並んで、その美的な形態、金銀商品の所有がある。
・それは、ブルジョア社会の富とともに増大する。「金持ちになろう。さもなければ、金持ちらしくみせかけよう。」[Soyons riches ou paraissons riches](ディドロ)
・こうして、一方では、金銀の絶えず拡大する市場が、金銀の貨幣機能にはかかわりなく形成され、他方では、貨幣の潜在的な供給源が形成されて、それが、ことに社会的な荒天期には、流出するのである。

■新日本出版版では「金銀製品」となっている。その方が適切と思われる。

第9段落
・貨幣蓄蔵は金属流通の経済ではいろいろな機能を果たす。
・まず第一の機能は、金銀鋳貨の流出条件から生ずる。
・すでに見たように、商品流通が規模や価格や速度において絶えず変動するのにつれて、貨幣の流通量も休みなく満ち干きする。
・たから、貨幣流通量は、収縮し膨張することができなければならない。
・ある時は貨幣が鋳貨として引き寄せられ、あるときは鋳貨が貨幣としてはじき出されなければならない。
・現実に流通する貨幣量がいつでも流通部面の飽和度に適合しているようにするためには、一国にある金銀量は、現に鋳貨機能を果たしている金銀量よりも大きくなければならない。
・この条件は、貨幣の蓄蔵貨幣形態によって満たされる。
・蓄蔵貨幣貯水池は流通する貨幣の流出流入の水路として同時に役だつのであり、したがって、流通する貨幣がその流通水路からあふれることはないのである。

▲「ある時は貨幣が鋳貨として引き寄せられ、あるときは鋳貨が貨幣としてはじき出され」るとあるが、どのようにそれがなされるのだろうかとの疑問が出され、「宿題」となりました。

★「流通する貨幣がその流通水路からあふれる」とは、流通過程に必要以上の鋳貨(流通手段)が存在すると言うことを意味していると思える。

【参考】
■第9段は、マルクスコレクション版では以下のように訳されている。
《貨幣退蔵は金属流通の仕組みのなかで種々の機能を演じる。さしあたっての機能は、金鋳貨または銀鋳貨の回流条件から生じる。すでに見たように、商品流通が規模、価格、速度の面でたえずゆれ動くにつれて、回流する貨幣量も休みなく増えたり減ったりする。だからこの貨幣量は収縮したり膨張したりすることができなくてはならない。あるときは貨幣が鋳貨として吸引され、あるときは鋳貨が貨幣としてはじきだされる。現実に回流している貨幣量は流通領域の飽和度につねに見合っているのだから、一国に現存する金量または銀量は、鋳貨機能を果たしている金、銀の量よりも大きいものでなくてはならない。この条件は貨幣の退蔵形態によってみたされる。退蔵された貨幣の貯水池は同時に流通する貨幣の流出水路と流入水路として役立ち、流通貨幣はその回流水路からけっしてあふれだすことはない。》(199頁)

■長谷部訳では、岡崎訳の《貨幣流通》が《貨幣通流》と訳されている。

■フランス語版では、後半は以下のように訳されている。
《貨幣の一部は、あるときは流通から出てゆかねばならず、あるときは流通に戻ってこなければならない。流通貨幣量がいつでも流通部面の飽和度に照応しているためには、現実に流通する金または銀の量は、一国内に存在する貴金属の一部だけを形成しているはずである。この条件は貨幣の蓄蔵形態によってみたされる。蓄蔵貨幣の貯水池は、流通の運河がけっして氾濫しないように、同時に排水と灌漑との運河として役立つのである。》(115頁)

◎10月18日に重要な箇所での誤記の訂正をしました。訂正箇所は赤い文字で示しました。
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by shihonron | 2009-09-29 23:30 | 学習会の報告


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