『資本論』を読む会の報告

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2009年 10月 28日

学習ノート 第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣 b 支払手段 その3

第7段落
・支払手段としての貨幣は、媒介されない矛盾を含んでいる。
・諸支払が相殺されるかぎり、貨幣はただ観念的に計算貨幣または価値尺度として機能するだけである。
・現実の支払がなされなければならないかぎりでは、貨幣は、流通手段として、すなわち物質代謝のただ瞬間的な媒介的な形態として現われるのではなく、社会的労働の個別的な化身、交換価値の独立な定在、絶対的商品として現われるのである。
・この矛盾は、生産・商業恐慌中の貨幣恐慌と呼ばれる瞬間に爆発する。
・貨幣は恐慌が起きるのは、ただ、諸支払の連鎖と諸支払の人工的な組織とが十分に発達している場合だけのことある。
・この機構の比較的一般的な攪乱が起きれば、それがどこから生じようとも、貨幣は、突然、媒介なしに、計算貨幣というただ単に観念的な姿から堅い貨幣に一変する。
・それは、卑俗な商品では代わることができないものになる。
・商品の使用価値は無価値になり、商品の価値はそれ自身の価値形態の前に影を失う。
・たったいままで、ブルジョアは、繁栄に酔い開化を自負して、貨幣などは空虚な妄想だと断言していた。
・商品こそは貨幣だ、と。
・いまや世界市場には、ただ貨幣だけが商品だ! という声が響きわたる。
・鹿が清水を求めて鳴くように、彼の魂は貨幣を、この唯一の富を求めて叫ぶ。
・恐慌のときには、商品とその価値姿態すなわち貨幣との対立は、絶対的な矛盾にまで高められる。
・したがったまた、そこでは貨幣の現象形態がなんであろうとかまわない。
・支払に用いられるのがなんであろうと、金であろうと、銀行券などの信用貨幣であろうと、貨幣飢饉に代わりはないのである。

●「媒介されない矛盾」とはどういうことかという疑問が出され「展開されない(解決されない)矛盾、絶対的な矛盾ということではないか」との意見が出されました。

■信用貨幣 しんようかへい
信用を基礎にして流通する貨幣(厳密には貨幣代用物)。基本的には支払手段としての貨幣機能から生じたもので,最初に商業信用に基づいて商業手形が信用貨幣になったが,銀行信用の発展に伴い,これを基礎にして流通する銀行券が現代の代表的な信用貨幣になっている。当座預金による預金貨幣はその発展した形態。

★「影を失う」とはどういう意味なのだろうか?

■恐慌の二つの抽象的な可能性
 恐慌の可能性を論じるところでは、マルクスの叙述は弁証法的になって難しくなるように思えます。例えばすでに学んだ第三章第二節「a 商品の変態」の終わりの部分に出てくる販売と購買の分離による恐慌の可能性を論じているところでも、新しく参加した人が「マルクスは衒学的だ」などとぼやいていたことを思い出します。その部分も復習のために紹介しておきましょう。
 〈商品に内在的な対立、すなわち使用価値と価値との対立、私的労働が同時に直接に社会的労働として現れなければならないという対立、特殊な具体的労働が同時にただ抽象的一般的労働としてのみ通用するという対立、物の人格化と人格の物化との対立--この内在的矛盾は、商品変態上の諸対立においてそれの発展した運動諸形態を受け取る。だから、これらの形態は、恐慌の可能性を、といってもただ可能性のみを、含んでいる〉。
 このように恐慌は資本主義的生産に内在する矛盾の爆発として生じます。もちろん、ここで論じているのは商品流通に内在する矛盾であり、だからそれはまだ恐慌の抽象的な可能性に過ぎないのですが、しかしマルクスはいずれも矛盾の発現として論じていることが分かります。マルクスは後者を恐慌の抽象的可能性の「第一の形態」とし、前者を「第二の形態」ともしています。
 興味深いのは恐慌の抽象的可能性の「第一の形態」は「媒介されなければならない矛盾」から生まれ、「第二の形態」は「媒介されない矛盾」の発現であるということです。
 まず「第一の形態」の矛盾について分かりやすく説明している『マルクス経済学レキシコン』の栞(№6)の一文を紹介しましょう。
 〈商品は、使用価値と価値という対立物の直接的統一だから、それ自体一つの矛盾だ。だがこの矛盾は、商品の現実の交換過程のなかで、はじめて、媒介されなければならない現実的な矛盾として現れてくる。商品の使用価値としての実現と商品の価値としての実現との矛盾、等々としてね。この矛盾を媒介するものが貨幣だが、どのようにしてこの矛盾を媒介するのかというと、商品の交換過程のなかにある、商品の譲り渡しと譲り受けという二つの契機を、W-GとG-Wの二つの変態に分離することによってだね。これで矛盾がなくなるかといえば、もちろんそうではない。相合して一体をなす二契機が、外的に対立した二つの過程に独立化し、この両過程を通して、使用価値と価値との統一としての商品の矛盾が展開されることになる。交換過程の矛盾は一般化され、普遍化されざるをえない。この独立化は、それが進んでいって、ついには内在的な統一が強力的につらぬかざるをえない点にたちいたる可能性を含んでいる。これは可能性に過ぎないのだが、ともかくも、ここには恐慌の抽象的な可能性があるわけだ〉(9頁)
 ところが支払手段の機能からくる恐慌の抽象的な可能性の場合は、「媒介されない矛盾」の発現なのです。学習会でも、最初に「一つの媒介されない矛盾」とは何か、という質問が出されました。これについては続けてマルクス自身が説明しているように、支払手段としての貨幣の機能が、諸支払いが相殺される限りは観念的なものとして機能するが、しかし現実の支払いが行われなければならないとなれば、交換価値の自立した定在として、つまり現実の「貨幣としての貨幣」、「本来の貨幣」でなければならないという矛盾だと説明されました。しかし①これは果たして矛盾と言えるのかどうか、②「媒介されない」とはどういうことか、という疑問が出されました。
 まず①について、一般に、矛盾とは、例えば「AはAであるとともに非Aでもある」といった関係のことです。つまり互いに排斥の関係にありながら、同時に共存していなければならないような関係です。だから支払手段として機能する貨幣は、一方では観念的でもよいが、しかし他方では現実的な貨幣でもなければならないというのですから、明らかにそれは矛盾です。では②それが「媒介されない」とはどういうことでしょうか。まず単純な誤解としてこの「媒介されない」というのは、そのすぐ後に出てくる「素材変換のただ一時的な媒介的な形態」ということに対応させて、素材変換を「媒介しない」ということではないか、という意見も出されましたが、しかしこれはそうした意味ではなく、新日本新書版で「媒介されない」というところに[直接的]と書き換えがあるように、そのあとに出てくる「貨幣は、突然かつ媒介なしに、計算貨幣というただ観念的なだけの姿態から硬い貨幣に急変する」とあるような意味での、つまり「直接的な移行を強制されるような」という意味だろうということになりました。
 つまり交換過程に内在する矛盾の場合は、貨幣に媒介されてより発展した運動諸形態を獲得するような矛盾だったのですが、しかし支払手段の機能に内在する矛盾は、そうしたものではなく、直接的に移行しあうような矛盾だといえます。
 次にこのパラグラフで理解困難として質問が出たのは「商品の使用価値は無価値になり、商品の価値はそれ自身の価値形態をまえにして姿を消す」という部分です。これは一体どう理解すれば良いのでしょうか?
 しかしこの部分については、この部分をだけを取り出してどうこういうよりも、『経済学批判』の当該箇所を紹介しておくだけで十分と思います(下線部分を参照)。
 〈だから諸支払いの連鎖とそれらを相殺する人為的制度とがすでに発達しているところでは、諸支払いの流れを強力的に中断して、それらの相殺の機構を攪乱する激動が生じると、貨幣は突然に、価値の尺度としてのそのかすみのような幻の姿から、硬貨すなわち支払手段に急変する。だから、商品所持者がずっとまえから資本家になっており、彼のアダム・スミスを知っており、金銀だけが貨幣であるとか、貨幣は一般に他の諸商品とは違って絶対的に商品であるとかいう迷信を見下して嘲笑している、そういう発達したブルジョア的生産の状態のもとでは、貨幣は突然に、流通の媒介者としてではなく、交換価値の唯一の十全な形態として、貨幣蓄蔵者が考えているのとまったく同様な唯一の富として再現する。……これが、貨幣恐慌と呼ばれる、世界市場恐慌の特殊な契機である。こういう瞬間に唯一の富として叫び求められる「至上の善」は貨幣、現金であって、これとならんでは、他のすべての商品は、それらが使用価値であるという、まさにその理由から、無用なものとして、くだらないもの、がらくたとして、またはわがマルティーン・ルター博士の言うように、たんなる華美と飽食として現れる〉           
(『資本論』学ぶ会ニュース NO.46 2000年10月9日)

●「恐慌の二つの可能性」についての議論
 議論になったのは、資料として「『資本論』学ぶ会ニュース№46」から引用された「恐慌の二つの可能性」についてでした。
 引用文では、販売と購買の分離による恐慌の可能性を、恐慌の抽象的可能性の「第一の形態」、「支払手段の機能からくる恐慌の抽象的可能性」を「第二の形態」であるとして《興味深いのは恐慌の抽象的可能性の「第一の形態」は「媒介されなければならない矛盾」から生まれ、「第二の形態」は「媒介されない矛盾」の発現であるということです。》と述べられています。
 これに対して、恐慌の抽象的可能性の「第一の形態」を「媒介されなければならない矛盾」と呼ぶのは適切なのか、「第一の形態」も媒介されないからこそ恐慌として爆発する可能性を持っているのではないかという疑問が出され、「媒介されなければならない矛盾」と呼ぶのは不適切だとの結論になりました。

★当日の議論では、恐慌の抽象的可能性の「第一の形態」を「媒介されなければならない矛盾」と呼ぶのは不適切だとの結論になりましたが、報告をまとめるために読み直していて、読み間違えがあったと考えるようになりました。

 まず恐慌の抽象的可能性の「第一の形態」がどんなものであったかを確認しておきましょう。マルクスは第3章第2節流通手段「a 商品の変態」の最後のところで次のように述べています。

《どの売りも買いであり、またその逆でもあるのだから、商品流通は、売りと買いとの必然的な均衡を生じさせる、という説ほどばかげたものはありえない。その意味するところが、現実に行なわれた売りの数が現実に行なわれた買いの数に等しい、というのであれば、それはつまらない同義反復である。しかし、それは、売り手は自分自身の買い手を市場につれてくるのだということを証明しようとするのである。売りと買いとは、二人の対極的に対立する人物、商品所持者と貨幣所持者との相互関係としては、一つの同じ行為である。それらは、同じ人の行動としては二つの対極的に対立した行為をなしている。それゆえ、売りと買いとの同一性は、商品が流通という錬金術の坩堝に投げ込まれたのに貨幣として出てこなければ、すなわち商品所持者によって売られず、したがって貨幣所持者によって買われないならば、その商品はむだになる、ということを含んでいる。さらに、この同一性は、もしこの過程が成功すれば、それは一つの休止点を、長いことも短いこともある商品の生涯の一時期をなすということを含んでいる。商品の第一の変態は同時に売りでも買いでもあるのだから、この部分過程は同時に独立な過程である。買い手は商品をもっており、売り手は貨幣を、すなわち、再び市場に現われるのが早かろうとおそかろうと流通可能な形態を保持している一商品を、もっている。別のだれかが買わなければ、だれも売ることはできない。しかし、自分が売ったからといって、すぐに買わなければならないということはない。流通は生産物交換の時間的、場所的、個人的制限を破るのであるが、それは、まさに、生産物交換のうちに存する、自分の労働生産物を交換のために引き渡すことと、それと引き換えに他人の労働生産物を受け取ることとの直接的同一性を、流通が売りと買いとの対立に分裂させるということによってである。独立して相対する諸過程が一つの内的統一をなしていることは、同時にまた、これらの過程の内的対立が外的な対立において運動するということを意味している。互いに補いあっているために内的には独立していないものの外的な独立化がある点まで進めば、統一は暴力的に貫かれる――恐慌というものによって。商品に内在する使用価値と価値との対立、私的労働が直接的に社会的な労働として現われなければならないという対立、特殊な具体的労働が同時にただ抽象的一般的労働としてのみ認められるという対立、物の人化と人の物化という対立――この内在的な矛盾は、商品変態の諸対立においてその発展した運動形態を受け取るのである。それゆえ、これらの形態は、恐慌の可能性を、しかしただ可能性だけを、含んでいるのである。
この可能性の現実性への発展は、単純な商品交換の立場からはまだまったく存在しない諸関係の一大範囲を必要とするのである。》(国民文庫202-203頁・原頁127-128)

 マルクスは、商品に内在する矛盾は、「商品変態の諸対立においてその発展した運動形態を受け取る」と述べています。この「商品変態における諸対立」とは、簡単に言えば販売と購買の分離、「売りと買いとの対立」です。そして「これらの形態」=「商品変態の諸対立」=「売りと買いとの対立」は、恐慌の可能性を含んでいるというのです。商品に内在する矛盾は交換過程においてはじめて現実的矛盾として現われます。それは、使用価値としての実現と価値としての実現が相互前提の関係にあるということです。この矛盾は、貨幣に媒介されて販売と購買の分離(対立)という発展した運動形態を受け取ります。
 第2節流通手段「a商品の変態」の冒頭で《すでに見たように、諸商品の交換過程は、矛盾した互いに排除しあう諸関係を含んでいる。商品の発展は、これらの矛盾を解消しはしないが、それらの矛盾の運動を可能にするような形態をつくりだす。これは一般に現実の矛盾が解決される方法である。》(国民文庫188頁・原頁118-119)と述べられていましたが、販売と購買の分離は、交換過程が含んでいる矛盾の運動を可能にし、その限りで解決を与えたといえるのです。しかし、それは矛盾の解消ではありません。だからマルクスは《互いに補いあっているために内的には独立していないものの外的な独立化がある点まで進めば、統一は暴力的に貫かれる――恐慌というものによって。》と述べているのです。
 出された疑問は、「第一の形態」を「媒介されなければならない矛盾」と呼ぶのは適切なのかというものでしたが(そして私もその疑問に賛成しましたが)、引用文は《「第一の形態」は「媒介されなければならない矛盾」から生まれ》たと述べているのであって、「媒介されなければならない矛盾」であるとしているわけではありません。この点では誤読したといえると思います。
 「第一の形態」は「媒介されなければならない矛盾から生まれたが、それ自身は媒介されない矛盾を抱えているといえるのではないでしょうか。

第8段落
・次に与えられた一期間に流通する貨幣の総額を見れば、それは、流通手段および支払手段の流通速度が与えられていれば、実現されるべき商品価格の総額に、満期になった諸支払の総額を加え、そこから相殺される諸支払を引き、最後に同じ貨幣片が流通手段の機能と支払手段の機能とを交互に果たす回数だけの流通額を引いたものに等しい。
・たとえば、農民が彼の穀物を2ポンド・スターリングで売るとすれば、その2ポンド・スターリングは流通手段として役立っている。
・彼はこの2ポンドで、以前に織職が彼に供給したリンネルの代金をその支払期限に支払う。
・同じ2ポンドが今度は支払手段として機能する。
・そこで、織職は1冊の聖書を現金で買う――2ポンドは再び流通手段として機能する――等々。
・それだから、価格と貨幣流通の速度と諸支払の節約とが与えられていても、ある期間たとえば1日に流通する貨幣量と商品量とはもはや一致しないのである。
・もうとっくに流通から引きあげられてしまった商品を代表する貨幣が流通する。
・また他方では、その日その日に契約される支払と、同じその日に期限がくる支払とは、まったく比較できない大きさのものである。

●「同じ貨幣片が流通手段の機能と支払手段の機能とを交互に果たす回数だけの流通額」とは何のことかよく分らないとの発言があり、次回までに考えてくることになりました。

■国民文庫版の「同じ貨幣片が流通手段の機能と支払手段の機能とを交互に果たす回数だけの流通額」は次のように訳されている。
・新日本出版社版「同じ貨幣片がある時は流通手段として、ある時は支払手段として、かわるがわる機能する通流の回数」(新書第1分冊234頁)
・長谷部訳「同じ貨幣片が時には流通手段・時には支払手段としてこもごも機能する流通の回数」(河出書房「世界の大思想18」 119頁)
・フランス語版「実現すべき商品価格の総額に、満期となる支払総額を加え、相殺される支払総額を控除し、最後に、流通手段と支払手段という二重の機能として同じ貨幣片が二度またはそれ以上の頻度にわたる使用を控除したものである。」(法政大学出版会 上巻120頁)
・初版「実現されるべき商品価格の総額に、満期になった諸支払の総額を加え、そこから、相殺しあう諸支払を控除したもの、に等しい。」(幻燈社書店 上巻134-135ページ)
・第2版「実現されるべきもろもろの商品価格の総額に、満期になった諸支払の総額を加え、そこから、相殺しあう諸支払を控除したもの、に等しい。」(幻燈社書店 上巻121ページ)

■『図解社会経済学』(大谷禎之介 桜井書店 117頁)では次のように述べられている。(分数で表記されているものを割り算の式に変えています)
《流通手段および支払手段として流通する貨幣の総量は、最終的には次の式によって規定されることになる。
(実現されるべき商品価格総額)÷(流通手段の流通速度)+(支払われるべき債務総額-相殺される支払総額)÷(支払手段の流通速度)-(流通手段および支払手段の両方の機能で流通する貨幣片の合計額) 》

■『資本論入門』(河上肇 青木文庫 第2分冊 486頁)では次のように述べられている。
《一定の期間内に流通手段および支払手段として必要とされる貨幣の総額は、の期間内に現金をもって売買されるべき諸商品の価格の総和に対し、第一には、その期間中満期となるべき諸支払の総和を加へ、第二には、互いに相殺される諸支払の額を差し引き、次に、これをば流通手段および支払手段としての貨幣の流通速度をもって割り、最後にかくして得たる商から、同一の貨幣片が或る時は流通手段として或る時は支払手段として交互に働くために決済される金額を、差し引いたものに相当する。》

★流通する貨幣の総額を問題にしているのだから、単位は円(貨幣の単位)であるはずなのだから、「回数」ではおかしいと思う。だが、どんな金額なのかは、依然としてよく理解できない。

第9段落
・信用貨幣は、支払手段としての貨幣の機能から直接に発生するものであって、それは、売られた商品に対する債務証書そのものが、さらに債権の移転のために流通することによって、発生するのである。
・他方、信用制度が拡大されれば、支払手段としての貨幣の機能も拡大される。
・このような支払手段として、貨幣はいろいろな特有の存在形態を受け取るのであって、この形態にある貨幣は大口取引の部面を住みかとし、他方、金属鋳貨は主として小口取引の部面に追い返されるのである。

■信用貨幣という言葉がこれまでに登場したのは2カ所であった。最初は「第2節 C 鋳貨 価値商標」の第5段落。
《ここで問題にするのは、ただ、強制通用力のある国家紙幣だけである。それは直接に金属流通から生まれてくる。これに反して、信用貨幣は、単純な商品流通の立場からはまだまったくわれわれに知られていない諸関係を前提する。だが、ついでに言えば、本来の紙幣が流通手段としての貨幣の機能から生ずるように、信用貨幣は、支払手段としての貨幣の機能にその自然発生的な根源をもっているのである。》(国民文庫224頁・原頁141)
次に触れられていたのは「b 支払手段」の第7段落の終わり近くである。
《恐慌のときには、商品とその価値姿態すなわち貨幣との対立は、絶対的な矛盾にまで高められる。したがったまた、そこでは貨幣の現象形態がなんであろうとかまわない。支払に用いられるのがなんであろうと、金であろうと、銀行券などの信用貨幣であろうと、貨幣飢饉に代わりはないのである。》(国民文庫242頁・原頁152)

●第9段落での「信用貨幣」は手形(商業手形)のことをさしており、信用制度が拡大して貨幣が受け取る「いろいろな特有の存在形態」とは銀行券などが念頭に置かれているのではないかとの発言がありました。
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by shihonron | 2009-10-28 23:31 | 学習ノート


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