『資本論』を読む会の報告

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2009年 11月 11日

第166回 11月10日 第4章 第1節 資本の一般的定式

11月10日(火)に第166回の学習会を行いました。前回の続きで「第3節 貨幣 c世界貨幣」についての二つの疑問点について検討しました。そして「第4章 貨幣の資本への転化 第1節 資本の一般的定式」の第1段落から第15段落までについてレジュメに基づいた報告を受け、検討しました。

世界貨幣についての疑問をめぐって
「c世界貨幣」についての疑問の一つは、第5段落で「第二の運動-さまざまな国民的部面のあいだを絶えず往復する-「これは為替相場のやむことのない動揺のあとを追う運動」とあるが、それだけに限定されるのかという疑問でした。そして、これと関連して新たな疑問も出されました。第5段落の文章を先ず引用します。
 《金銀の流れの運動は二重のものである。一方では、金銀の流れはその源から世界市場の全面に行き渡り、そこでこの流れはそれぞれの国の流通部面によっていろいろな大きさでとらえられて、その国内流通水路にはいっていったり、摩滅した金銀鋳貨を補填したり、奢侈品の材料を供給したり、蓄蔵貨幣に凝固したりする。この第一の運動は、諸商品に実現されている各国の労働と金銀生産国の貴金属に実現されている労働との直接的交換によって媒介されている。他方では、金銀は各国の流通部面のあいだをたえず行ったり来たりしている。それは、為替相場の絶え間ない振動に伴う運動である。》(国民文庫253-254頁・原頁159)
 
新たな疑問は、第一の運動、金銀生産国から他国への金銀の流れについて《諸商品に実現されている各国の労働と金銀生産国の貴金属に実現されている労働との直接的交換によって媒介されている》と述べられているが、それはどういうことなのかというものでした。「これまでの叙述の中で《貨幣の相対的価値量の確定は、その生産源での直接的物々交換で行われる(国民文庫168頁・原頁107)》、《貴金属はその生産源では直接に他の商品と交換される。ここでは、売り(商品所持者の側での)が、買い(金銀所持者の側での)なしに行われる》と述べられていた。金銀の生産源での交換は、直接的生産物交換であることを言っているのではないか」という発言がありました。これに対して、「ここでは金銀生産国と他の国との間での金銀の流れについて問題視している。他国の商品が金銀の生産源で金銀と交換されるということがあるのだろうか? 金銀生産国でその生産源ではその国の商品と交換されると思える」、「結果としてみれば金銀生産国の金銀と他国の商品が交換されるのであり、そのことを直接的生産物交換だと述べているのではないか」といった発言がありました。明確な結論には至らず、今後の課題としました。

最初の疑問については、「為替が高騰し、為替を買うよりも輸送費を加えても現物の金で支払った方が有利な場合のことを言っているのではないか」という発言があり、これに対して「金本位制の下で為替相場が大きく変動することなどあるのだろうか」という疑問が出されました。マルクスが述べている時代の為替の実情がどんなものであったかを調べた上で検討することにしました。

もうひとつの疑問は、第6段落につけられている注113で《これらのさまざまな機能は、銀行券のための兌換準備金の機能が加わるやいなや、危険な衝突におちいることがありうる》とはどういう意味かというものでした。
 第6段落では《ブルジョア的生産の発展している諸国は、銀行貯水池に大量に集積される蓄蔵貨幣を、その独自な諸機能に必要な最小限に制限する。いくらかの例外はあるが、蓄蔵貨幣貯水池が平均水準を超えて目につくほどあふれるということは、商品流通の停滞または商品変態の流れの中断を暗示するものである》と述べ、《その独自な諸機能に必要な最小限に制限する。》という箇所に注113がつけられています。
 これについては「信用不安がある場合に銀行に対して多数の人々が兌換を求めると準備金が不足して兌換に応じられなくなるという事態、取り付け騒ぎのようなことを念頭に置いて述べているのではないか」という発言がありました。
 
この疑問に関連して「《蓄蔵貨幣貯水池が平均水準を超えて目につくほどあふれるということは、商品流通の停滞または商品変態の流れの中断を暗示するものである》と述べているが、恐慌の際のことを言っているのだろうか」「《蓄蔵貨幣貯水池が平均水準を超えて目につくほどあふれる》とは、裏返して言えば流通貨幣量の減少のことだ。《商品流通の停滞または商品変態の流れの中断》とは簡単に言えば商品が売れないということであり不況や恐慌のことを念頭に述べているのではないか」、「蓄蔵貨幣の独自な諸機能とは、購買および支払準備金という理解でいいのだろうか」という疑問も出されました。 

以下は当日配布されたレジュメです。

第4章 貨幣の資本への転化 第1節 資本の一般的定式            

第1段落 商品流通を基礎に資本は生まれる
・商品流通は資本の出発点である。
・商品生産と、発達した商品流通すなわち商業とは、資本が成立するための歴史的前提をなしている。

第2段落 資本の最初の現象形態は貨幣である商品流通の過程が生みだす経済的な諸形態だけを考察するならば、われわれは過程の最後の産物として貨幣を見いだす。この貨幣は、資本の最初の現象形態である。

★商品の流通は、貨幣を生み出す。資本の本質が何であるかはまだ明らかにされていないが、資本の最初の現象形態は貨幣である。

第3段落 歴史的にも日々の現実においても資本はまず貨幣として登場する
歴史的には、資本は土地所有にたいして、どこでも最初はまず貨幣の形で、貨幣財産として、商人資本および高利資本として相対する。とはいえ、貨幣を資本の最初の現象形態として認識するためには、資本の成立史を回顧する必要はない。同じ歴史は、毎日われわれの目の前で繰り広げられている。どの資本も、最初に舞台に現われるのは、すなわち市場に、商品市場や労働市場や貨幣市場に姿を現すのは、相変わらずやはり貨幣としてであり、一定の過程を経て資本に転化すべき貨幣としてである。

★市場として、商品市場、労働市場、貨幣市場の3つがあげられている。この3つの市場は、我々が分析しようとしている資本制的生産様式が支配的な社会(資本主義社会)に現に存在しているものであり、我々が日々目にしているものである。

第4段落 貨幣としての貨幣と資本としての貨幣のさしあたりの相違
・貨幣としての貨幣と資本としての貨幣とは、さしあたりはただ両者の流通形態の相違によって区別されるだけである。

第5段落 商品流通の直接的形態とは区別される資本としての貨幣の流通の形態
商品流通の直接的形態は、W―G―W、商品の貨幣への転化と貨幣の商品への再転化、買うために売る、である。しかし、この形態と並んで、われわれは第二の独自に区別される形態、すなわち、G―W―Gという形態、貨幣の商品への転化と商品の貨幣への再転化、売るために買う、を見いだす。その運動によってこのあとのほうの流通を描く貨幣は、資本に転化するのであり、資本になるのであって、すでにその使命(性格規定)から見れば、資本なのである。

第6段落 資本としての貨幣の流通の形態―売るために買う
・流通G―W―G
・第一の段階、G―W、買いでは、貨幣が商品に転化される。
・第二の段階、W―G、売りでは、商品が貨幣に再転化される。
・二つの段階の統一は、売るために商品を買うという総運動である。
・その結果は、貨幣と貨幣との交換、G―Gである。
・私が100ポンド・スターリングで2000ポンドの綿花を買い、その2000ポンドの綿花を再び110ポンド・スターリングで売るとすれば、結局、私は100ポンド・スターリングを110ポンド・スターリングと、貨幣を貨幣と交換したわけである。

★商品流通の直接的形態 W―G―W は、買うために売るであり、資本としての貨幣の流通の形態 G―W―G は、売るために買うである。

第7段落 循環G―W―GとW―G―Wとの形態的相違の特徴づけ
・貨幣価値を同じ貨幣価値と、たとえば100ポンド・スターリングを100ポンド・スターリングと交換しようとするのならば、流通過程G―W―Gはつまらない無内容なものだということは、まったく明白である。他方、商人が100ポンドで買った綿花を再び110ポンドで売ろうと、またはそれを100ポンドで、また場合によっては50ポンドでさえも手放さざるをえなくなろうと、どの場合にも彼の貨幣は一つの特有の独自な運動を描いたのであり、その運動は、単純な商品流通での運動、たとえば穀物を売り、それで手に入れた貨幣で衣服を買う農民の手のなかでの運動とは、まったく種類の違うものである。
そこで、まず循環G―W―GとW―G―Wとの形態的相違の特徴づけをしなければならない。そうすれば、同時に、これらの形態的相違の背後に隠れている内容的相違も明らかになるであろう。

■下線部分は、フランス語訳では次のようになっている。
《どちらのばあいにも、彼の貨幣は特殊的、独創的運動をいつも描くのであって、たとえば小麦を売って上衣を買う農民の貨幣が通過する運動とは、全くちがう。》


第8段落 
まず両方の形態に共通なものを見よう。

第9段落 二つの形態に共通なもの
どちらの循環も同じ二つの反対の段階、W―G、売りと、G―W、買いとに分かれる。二つの段階のどちらでも、商品と貨幣という同じ二つの物質的要素が相対しており、また、買い手と売り手という同じ経済的仮面をつけた二人の人物が相対している。そして、どちらの場合にも、この統一は三人の当事者の登場によって媒介され、そのうちの一人はただ売るだけであり、もう一人はただ買うだけであるが、第三の一人は買いと売りを交互に行なう。

★図示すると以下のようになる。

・単純な商品流通

人物A   G――W      (買うだけ)
  

人物B   W――G――W   (売って買う)


人物C      W――G   (売るだけ)        

・資本としての貨幣の流通

人物A   W――G      (売るだけ)
    

人物B   G――W――G   (買って売る)


人物C      G――W   (買うだけ)   


第10段落 二つの循環では「売り」と「買い」の順序が逆であり、何が出発点と終点になるかが違っている
とはいえ、二つの循環W―G―WとG―W―Gとをはじめから区別するものは、同じ反対の流通段階の逆の順序である。単純な商品流通は売りで始って買いで終わり、資本としての貨幣の流通は買いで始って売りで終わる。前の方では商品が、あとのほうでは貨幣が、運動の出発点と終点をなしている。第一の形態では貨幣が、第二の形態では逆に商品が、全過程を媒介している。

★ ・W―G―W  売りではじまり買いで終わる 貨幣が全課程を媒介している
   ・G―W―G  買いではじまり売りで終わる 商品が全課程を媒介している

第11段落 二つの形態における貨幣の役割の違い―貨幣の最終的な支出と貨幣の前貸
流通W―G―Wでは貨幣は最後に商品に転化され、この商品は使用価値として役だつ。
だから、貨幣は最終的に支出されている。これに反して、逆の形態G―W―Gでは、買い手が貨幣を支出するのは、売り手として貨幣を取得するためである。彼は商品を買うときには貨幣を流通に投ずるが、それは同じ商品を売ることによって貨幣を再び流通から引きあげるためである。彼が貨幣を手放すのは、再びそれを手に入れるという底意があってのことにほかならない。それだから、貨幣はただ前貸しされるだけなのである。

★G―W―Gでは、商品を使用価値として消費するためではなく、その商品を売って貨幣を手に入れるために買う。貨幣は最終的に支出されるのではなく、前貸される。言いかえれば、貨幣は再び戻ってくることを目指して一時的に手放される。

第12段落 全過程を媒介するものの相違(第10段落で指摘したことを敷衍)形態W―G―Wでは、同じ貨幣片が二度場所を替える。形態G―W―Gでは、同じ貨幣片ではなく、同じ商品が二度場所を替える。単純な商品の流通では同じ貨幣片の二度の場所変換がそれを一方の持ち手から他方の持ち手に最終的に移すのであるが、ここでは同じ商品の二度の場所変換が貨幣をその最初の出発点に還流させるのである。

★第9段落のところでの図でいえば
・W―G―Wでは、貨幣はA→B B→Cと二度場所を替える。
・G―W―Gでは、商品がA→B B→Cと二度場所を替える。Bが手放した貨幣は最後 にはBのところに還流する。

■還流とはもともとは化学の用語で、発生した蒸気を冷却して凝縮液とし、再びもとの容器に戻すこと。 

第13段落 出発点への貨幣の還流が資本としての貨幣の流通と単なる貨幣としてのその流通との感覚的に認められる相違
その出発点への貨幣の還流は、商品が買われたときよりも高く売られるかどうかにはかかわりがない。この事情は、ただ還流する貨幣額の大きさに影響するだけである。還流という現象そのものは、買われた商品が再び売られさえすれば、つまり循環G―W―Gが完全に描かれさえすれば、起きるのである。要するに、その出発点への貨幣の還流が、資本としての貨幣の流通と単なる貨幣としてのその流通との感覚的に認められる相違である。

■《労働生産物の物質代謝がそれによって行なわれる形態、W―G―Wは、同じ価値が商品として過程の出発点をなし、商品として同じ点に帰ってくることを、条件とする。それゆえ、このような商品の運動は循環である。他方では、この同じ形態は貨幣の循環を排除する。その結果は、貨幣がその出発点から絶えず遠ざかることであって、そこに帰ってくることではない。…商品流通によって貨幣に直接に与えられる運動形態は、貨幣が絶えず出発点から遠ざかること、貨幣が或る商品所持者の手から別の商品所持者の手に進んでいくこと、または貨幣の流通(currency,cours de la monnaie)である。》(「第3章第2節流通手段 b 貨幣の流通」 国民文庫204-205頁・原頁128-129)

第14段落 G―W―Gでは貨幣が還流する必要がある
・流通W―G―Wでは貨幣の支出はその還流とはなんの関係もない。
・G―W―Gでは貨幣の還流はその支出の仕方そのものによって制約されている。この還流がなければ、操作が失敗したか、または過程が中断されてまだ完了していないかである。
というのは、過程の第二の段階、すなわち買いを補って最後のきまりをつける売りが欠けているからである。

第15段落 一方の目的は消費(使用価値)であり、他方の目的は交換価値そのもの
循環W―G―Wは、ある一つの商品の極から出発して別の一商品の極で集結し、この商品は流通から出て消費されてしまう。それゆえ、消費、欲望充足、一言で言えば使用価値が、この循環の最終目的である。これに反して、循環G―W―Gは、貨幣の極から出発して、最後に同じ極に帰ってくる。それゆえ、この循環の起動的動機も規定的目的も交換価値そのものである。

■長谷部訳では「推進的動機および規定的目的」(158頁)、新日本版では「推進する動機とそれを規定する目的」(255頁)、フランス語版では「その動機、決定的な目的」(132頁)となっている。

第16段落 G―W―Gは両極の量的な相違によってその内容が与えられる
単純な商品の流通 W―G―W の目的は、自分が必要とする使用価値を手に入れることにある。最初のWと最後のWは経済的形態においてはともに商品ではあるが、異なった使用価値である。他方、資本としての貨幣の流通 G―W―G’の目的は、最初の貨幣Gよりも多くの貨幣G’(最初に前貸しされた貨幣額プラス増加分―剰余価値―)を手に入れることにある。価値増殖という運動が、価値を資本に転化させる。

第17段落 両極が等価であることが流通形態W―G―Wの正常な経過の条件
単純な商品の流通W―G―Wにあっては、最初のWと最後のWが質的に異なった使用価値である。その実質的な内容は、一商品とと他の一商品との交換である。ここでは、等価交換が正常な経過の条件である。

第18段落 資本としての貨幣の流通という運動には終わりがない
・買うための売りでは、消費(特定の諸欲求の充足)が目的であり、それには限度がある。、・売りのための買いでは、始めも終わりも同じもの、貨幣、交換価値であり、すでにこのことによってもこの運動は無限である。過程の終わりに出てくるものは、増殖した価値(増加した貨幣)であり、価値増殖過程を始めるのに適した形態にある。貨幣は運動の終わりには再び運動の始めとして出てくるのである。売りのための買いが行なわれる各個の循環の終わりは、おのずから一つの新しい循環の始めをなしている。
・単純な商品流通――買いのための売り――は、流通の外にある最終目的、使用価値の取得、欲望の充足のための手段として役だつ。
・これに反して、資本としての貨幣の流通は自己目的である。というのは、価値の増殖は、ただこの絶えず更新される運動のなかだけに存在するのだからである。
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by shihonron | 2009-11-11 08:30 | 学習会の報告


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