『資本論』を読む会の報告

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2009年 11月 17日

学習ノート 第4章 第1節 資本の一般的定式 その2

第13段落
・その出発点への貨幣の還流は、商品が買われたときよりも高く売られるかどうかにはかかわりがない。
・この事情は、ただ還流する貨幣額の大きさに影響するだけである。
・還流という現象そのものは、買われた商品が再び売られさえすれば、つまり循環G―W―Gが完全に描かれさえすれば、起きるのである。
・要するに、これが、資本としての貨幣の流通と単なる貨幣としてのその流通との感覚的に認められる相違である。

●《これが、資本としての貨幣の流通と単なる貨幣としてのその流通との感覚的に認められる相違である。》の「これ」とは何かという疑問が出され、「還流」だろうという結論になりました。また「単なる貨幣としてのその流通」とは、単純な商品流通における貨幣の流通のことであり、それは出発点に還流することはないということを確認しました。

■《労働生産物の物質代謝がそれによって行なわれる形態、W―G―Wは、同じ価値が商品として過程の出発点をなし、商品として同じ点に帰ってくることを、条件とする。それゆえ、このような商品の運動は循環である。他方では、この同じ形態は貨幣の循環を排除する。その結果は、貨幣がその出発点から絶えず遠ざかることであって、そこに帰ってくることではない。…商品流通によって貨幣に直接に与えられる運動形態は、貨幣が絶えず出発点から遠ざかること、貨幣が或る商品所持者の手から別の商品所持者の手に進んでいくこと、または貨幣の流通(currency,cours de la monnaie)である。》(「第3章第2節流通手段 b 貨幣の流通」 国民文庫204-205頁・原頁128-129)

第14段落
・ある商品の売りが貨幣を持ってきて、それを他の商品の買いが再び持ち去れば、それで循環W―G―Wは完全に終わっている。
・それでもなお、その出発点への貨幣の還流が起きるとすれば、それはただ全過程の更新または反復によって起きるだけである。
・もし私が1クォーターの穀物を3ポンド・スターリングで売り、この3ポンドで衣服を買うならば、この3ポンドは私にとっては決定的に支出されている。
・私はもはやその3ポンドとはなんの関係もない。
・それは衣服商人のものである。
・そこで私が第二の1クォーターの穀物を売れば、貨幣は私のところに還流するが、それは第一の取引の結果としてではなく、ただそのような取引の繰り返しの結果としてである。
・その貨幣は私が第二の取引を終えて、また繰り返して買うならば、再び私から離れていく。
・だから、流通W―G―Wでは貨幣の支出はその還流とはなんの関係もないのである。
・これに反して、G―W―Gでは貨幣の還流はその支出の仕方そのものによって制約されている。
・この還流がなければ、操作が失敗したか、または過程が中断されてまだ完了していないかである。
・というのは、過程の第二の段階、すなわち買いを補って最後のきまりをつける売りが欠けているからである。

●《そこで私が第二の1クォーターの穀物を売れば、貨幣は私のところに還流するが、それは第一の取引の結果としてではなく、ただそのような取引の繰り返しの結果としてである。》と述べられているが、「還流」という言葉は、元のところへもどるという意味だ。ここで「還流」という言葉を使うのは不適切ではないかとの意見が出されました。

第15段落
・循環W―G―Wは、ある一つの商品の極から出発して別の一商品の極で集結し、この商品は流通から出て消費されてしまう。
・それゆえ、消費、欲望充足、一言で言えば使用価値が、この循環の最終目的である。
・これに反して、循環G―W―Gは、貨幣の極から出発して、最後に同じ極に帰ってくる。
・それゆえ、この循環の起動的動機も規定的目的も交換価値そのものである。

■長谷部訳では「推進的動機および規定的目的」(158頁)、フランス語版では「その動機、決定的な目的」(132頁)となっている。

第16段落
・単純な商品流通では両方の極が同じ経済的形態をもっている。
・それはどちらも商品である。
・それらはまた同じ価値量の商品である。
・しかし、それらは質的に違う使用価値、たとえば穀物と衣服である。
・生産物交換、社会的労働がそこに現われているいろいろな素材転換が、ここでは運動の内容をなしている。
・流通G―W―Gではそうではない。
・この流通は一見無内容に見える。
・というのは同義反復的だからである。
・どちらの極も同じ経済的形態をもっている。
・それは両方とも貨幣であり、したがって質的に違う使用価値ではない。
・なぜならば、貨幣こそは諸商品の転化した姿であり、諸商品の特殊な使用価値が消え去っている姿だからである。
・まず100ポンド・スターリングを綿花と交換し、次にまた同じ綿花を100ポンドと交換すること、つまり回り道をして貨幣と貨幣を、同じものと同じものとを交換することは、無目的でもあれば無意味でもある操作のように見える。
・およそ或る貨幣額を他の貨幣額と区別することのできるのは、ただその大きさの相違によってである。
・それゆえ、過程G―W―Gは、その両極がどちらも貨幣なのだから両極の質的な相違によって内容を持つのではなく、ただ両極の量的な相違によってのみ内容をもつのである。
・最後には、最初に流通に投げ込まれたよりも多くの貨幣が流通から引きあげられるのである。
・たとえば、100ポンド・スターリングで買われた綿花が、100・プラス・10ポンドすなわち110ポンドで再び売られる。
・それゆえ、この過程の完全な形態は、G―W―G’であって、ここでは G’=G+ΔG である。
。すなわちG’は、最初に前貸しされた貨幣額・プラス・ある増加分に等しい。
・この増加分、または最初の価値を超える超過分を、私は剰余価値(surplus value)と呼ぶ。
・それゆえ、最初に前貸しされた価値は、流通のなかでただ自分を保存するだけではなく、そのなかで自分の価値量を変え、剰余価値をつけ加えるのであり、言い換えれば自分を価値増殖するのである。
・そしてこの運動がこの価値を資本に転化させるのである。

★単純な商品の流通 W―G―W の目的は、自分が必要とする使用価値を手に入れることにある。最初のWと最後のWは経済的形態においてはともに商品ではあるが、異なった使用価値である。他方、資本としての貨幣の流通 G―W―G’の目的は、最初の貨幣Gよりも多くの貨幣G’を手に入れることにある。価値増資よくという運動が、価値(貨幣)を資本に転化させる。

第17段落
・もちろん、W―G―Wで両極のWとW、たとえば穀物と衣服とが、量的に違った価値量であるということもありことである。
・農民が自分の穀物を価値よりも高く売ったり衣服をその価値よりも安く買ったりすることもありうる。
・また彼のほうが衣服商人にだまされることもありうる。
・とはいえ、このような価値の相違はこの流通形態そのものにとってはまったく偶然である。
・この流通形態は、その両極、たとえば穀物と衣服とが互いに等価物であっても、けっして過程G―W―Gのように無意味になってしまいはしない。
・両極が等価だということは、ここではむしろ正常な経過の条件なのである。

★単純な商品の流通W―G―Wにあっては、最初のWと最後のWが質的に異なった使用価値である。その実質的な内容は、一商品とと他の一商品との交換である。ここでは、等価交換が正常な経過の条件である。

第18段落
・買うために売ることの反復または更新は、この過程そのものがそうであるように、限度と目標とを、過程の外にある最終目的としての消費に、すなわち特定の欲望の充足に、見いだす。
・これに反して、売りのための買いでは、始めも終わりも同じもの、貨幣、交換価値であり、すでにこのことによってもこの運動は無限である。
・たしかに、GはGプラスΔGになり、100ポンド・スターリングは100・プラス・10ポンドになっている。
・しかし、単に質的に見れば、110ポンドは100ポンドと同じもの、すなわち貨幣である。
・また量的に見ても、110ポンドは、100ポンドと同じに一つの限定された価値額である。
・もし110ポンドが貨幣として支出されるならば、それはその役割からはずれてしまうであろう。
・それは資本ではなくなるであろう。
・流通から引きあげられれば、それは蓄蔵貨幣に化石して世界の最後の日までしまっておいてもびた一文もふえはしない。
・つまり、ひとたび価値の増殖が問題となれば、増殖の欲求は110ポンドの場合も100ポンドの場合も同じことである。
・なぜならば、両方とも交換価値の限定された表現であり、したがって両方とも量の拡大によって富そのものに近づくという同じ使命を持っているからである。
・たしかに、はじめに前貸しされた価値100ポンドは、流通でそれに加わる10ポンドの剰余価値からは一瞬区別されるにちがいないが、しかしこの区別はすぐにまた消えてなくなる。
・過程の終わりには、一方の側に100ポンドの価値が出てきて他方の側に10ポンドの剰余価値が出てくるのではない。
・出てくるものは、110ポンドという一つの価値であって、それは、最初の100ポンドとまったく同じに、価値増殖過程を始めるのに適した形態にあるのである。
・貨幣は運動の終わりには再び運動の始めとして出てくるのである。
・それゆえ、売りのための買いが行なわれる各個の循環の終わりは、おのずから一つの新しい循環の始めをなしているのである。
・単純な商品流通――買いのための売り――は、流通の外にある最終目的、使用価値の取得、欲望の充足のための手段として役だつ。
・これに反して、資本としての貨幣の流通は自己目的である。
・というのは、価値の増殖は、ただこの絶えず更新される運動のなかだけに存在するのだからである。

第19段落
・この運動の意識ある担い手として、貨幣所持者は資本家になる。
・彼の一身、またはむしろ彼のポケットは、貨幣の出発点であり帰着点である。
・あの流通の客観的内容――価値の増殖――が彼の主観的な目的なのであって、ただ抽象的な富をますます多く取得することが彼の操作の唯一の起動的動機であるかぎりでのみ、彼は資本家として、または人格化され意志と意識とを与えられた資本として機能するのである。
・だから、使用価値はけっして資本家の直接的目的として取り扱われるべきものではない。
・個々の利得もまたそうではなく、ただ利得することの無休の運動だけがそうなのである。
・この絶対的な致富衝動、この熱情的な価値追求は、資本家にも貨幣蓄蔵者にも共通であるが、しかし、貨幣蓄蔵者は気の違った資本家でしかないのに、資本家は合理的な貨幣蓄蔵者なのである。
・価値の無休の増殖、これを貨幣蓄蔵者は、貨幣を流通から救い出そうとすることによって、追求するのであるが、もっとりこうな資本家は、貨幣を絶えず繰り返し流通に投げ込むことによってそれをなしとげるのである。

★資本家とは、資本の運動の意識ある担い手であり、人格化され意志と意識とを与えられた資本である。

第20段落
・諸商品の価値が単純な流通の中でとる独立な形態、貨幣形態は、ただ商品交換を媒介するだけで、運動の最後の結果では消えてしまっている。
・これに反して、流通G―W―Gでは、両方とも、商品も貨幣も、ただ価値そのものの別々な存在様式として、すなわち貨幣はその一般的な、商品はその特殊的な、いわば仮装しただけの存在様式として、機能するだけである。
・価値は、この運動のなかで消えてしまわないで絶えず一方の形態から他方の形態に移って行き、そのようにして、一つの自動的な主体に転化する。
・自分を増殖する価値がその生活の循環の中で交互にとってゆく特殊な諸現象形態を固定してみれば、そこで得られるのは、資本は貨幣である、資本は商品である、という説明である。
・しかし、実際には、価値はここでは一つの過程の主体になるのであって、この過程のなかで絶えず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値としての自分自身から剰余価値としての自分を突き放し、自分自身を増殖するのである。
・なぜならば、価値が剰余価値をつけ加える運動は、価値自身の運動であり、価値の増殖であり、したがって自己増殖であるからである。
・価値は、それが価値だから価値を生む、という神秘的な性質を受け取った。
・それは、生きている仔を生むか、または少なくとも金の卵を生むのである。

■《諸商品の価値が単純な流通の中でとる独立な形態、貨幣形態》の「独立な形態」は、長谷部訳では「自立的な形態」となっている。

■「存在様式」は、長谷部訳では「実存様式」となっている。

●《資本は貨幣である、資本は商品である、という説明》について「これは間違った説明だ」との発言があり、これに対して「資本は、貨幣や商品の形態をとるのであり間違っているというのはどうか」との意見が出されました。最初の発言者は「この箇所につけた注で引用されているマクラウドは《生産的目的のために使用される通貨は資本である》と言い、ジェームス・ミルは《資本は商品である》と言っている。どちらも資本の一つの形態をとらえて、それが資本だと主張するのは正しくない説明だと述べているのではないか」と答えました。

■《この過程のなかで絶えず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値としての自分自身から剰余価値としての自分を突き放し、自分自身を増殖するのである。》は、長谷部訳では次のようになっている。
《この過程においては、価値が貨幣形態と商品形態とのたえざる変換のもとでその大いさそのものを変じ、本源的価値としての自分じしんから剰余価値としての自分をうち出汁、自分じしんを増殖するのである。》(131頁)

●単純な商品の流通 W―G―W については「第3章 貨幣 第2節 流通手段 a 商品の変態」でも取り上げられていた。その運動(変態)の主体は商品であったといえるのではないかとの発言がありました。
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by shihonron | 2009-11-17 23:46 | 学習会の報告


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