『資本論』を読む会の報告

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2010年 01月 19日

第173回 1月19日 第5章 労働過程

 1月19日(火)に第173回の学習会を行いました。
 レジュメにもとづく報告を受け、「第5章 労働過程」の第7段落から第18段落までを検討しました。

 前回学習したところについて、「第5段落で《労働手段は、人間の労働力の発達の測定器であるだけでなく、労働がその中で行われる社会的諸関係の表示器でもある》と述べられているが、労働手段かがどんな物であるかによって生産関係が明らかになるといえるのだろうか」との疑問が出されました。これについて「機械制大工業は資本主義になって始めて登場する、機械という労働手段は資本制的生産関係を表示するといえるのではないか」「機械についてはそういえるとしても、道具などから正確に生産関係が分かるというものではない。かなりおおざっぱな話としてならいいが」、「労働手段は生産力の発展段階を示していて、生産関係は生産力の発展によって規定されるということではないか」といつた発言がありました。

 第7段落に関連してレジュメで「労働の結果は、使用価値という物の性質(静止した性質・静止的な属性)として表されている。これが労働の対象化(労働が物の属性として現れること)である。ここでは、具体的有用的労働の対象化について述べている。他方、商品の価値は、商品に対象化した抽象的人間的労働である。」と書かれていることについて「抽象的人間的労働はどんな社会についても語ることのできる概念なのだから、ここで具体的有用的労働の対象化だと述べているが、具体的有用的労働と抽象的人間的労働のどちらの側面も持った労働の対象化だといえないか」との意見が出され、「第5章第1節では労働過程をどんな社会的形態にもかかわりなく考察することが課題であり、どんな社会でもなされる使用価値の生産について述べているのだから、抽象的人間的労働の対象化については問題にならないのではないか。抽象的人間的労働が対象化して商品の価値として現れるのは商品生産社会(資本主義社会)においてのことではないか。」との発言がありました。

 第8段落の注7で「このような生産的労働の規定は、単純な労働過程の立場から出てくるものであって、資本主義的生産過程についてはけっして十分なものではない。」と書かれていることについて「単純な労働過程」をどう理解するかで議論がありました。「この単純な労働過程というのは単純商品の生産ということではないか」という意見が出され、それに対して「ここでの単純な労働過程とは、どんな社会的形態にもかかわりのない、労働過程という意味ではないか」「ここで述べられている生産的労働は、物質的生産のことであり、資本主義のもとでは物質的生産と言うこととは別に資本家に利潤をもたらす労働が生産的労働とされることを念頭に置いていると思う」の発言がありました。
 『資本論辞典』では、「第一の意味――使用価値を生産する労働としての生産的労働」「第二の意味――剰余価値を生産する労働としての生産的労働」について述べています。また、教師の労働については「資本家がその資本を彼らの労働と交換し、そして彼らのサーヴィスを公衆に販売すれば、その資本は賃金を回収し、剰余価値を取得しうる。医者、俳優なども同様である。」と述べ、また商業的賃労働者の労働について「彼らの労働は価値・剰余価値を生産しないが、商業資本家のために剰余価値の取得を創造するのであって、商業資本にとっては彼らの不払い労働は利潤の源泉であり、その意味で商業労働は商業資本にとっては直接に生産的である」と述べてます。

 第13段落で「同じ生産物が同じ労働過程で労働手段としても原料としても役だつことがある。たとえば家畜の肥育では、家畜という加工される原料が同時に肥料製造の手段でもある。」と述べられていることに関連して、「家畜は役畜として労働手段になる、例えば鋤を引かせると理解できないか」という疑問が出され、「ここでは同じ労働過程が肥育でもあり肥料生産でもあることについて述べているので役畜のことではないだろう」との発言がありました。また、「家畜を加工される原料と言うのには違和感がある」との意見が出され、「ここでの原料は労働生産物である労働対象という意味で理解すればいいのではないか。子牛の生産には労働が必要であり、労働生産物である子牛を労働対象として肥育するということだろう」との発言がありました。

 第17段落の冒頭で「労働過程で役立っていない機械は無用である」と述べられていることに関連して、この「労働過程で役立っていない機械」をどう理解するかで議論がありました。「故障している機械のことではないか」という発言がありましたが、これに対して「《生きている労働は、労働手段と労働対象をつかまえ、生き返らせて》という表現をマルクスはしている。故障している機械ということだけではなく、生きた労働と結びついていない使われていない機械と理解すべきではないか」との発言があり、故障している機械と理解するのはおかしいとの結論になりました。

2月3日に一部訂正しました。
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by shihonron | 2010-01-19 23:30 | 学習会の報告


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