『資本論』を読む会の報告

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2010年 01月 05日

第5章 第1節 労働過程のレジュメ その2

第15段落 原料か労働手段か生産物かは使用価値が労働過程で占める位置による
・要するに、ある使用価値が原料か労働手段か生産物のうちのどれとして現われるかは、まったくただ、それが労働過程で行なう特定の機能、それがそこで占める位置によるのであって、この位置が変ればかの諸規定も変るのである。

第16段落 労働過程に入った生産物は生きてい労働の対象的条件として機能するだけ
・それだから、生産物は、生産手段として新たな労働過程にはいることによって、生産物という性格を失うのである。それは、ただ生きてい労働の対象的条件として機能するだけである。紡績工は、紡錘を、ただ自分が紡ぐための手段としてのみ取り扱い、亜麻を、ただ自分が紡ぐ対象としてのみ取り扱う。この過程そのものでは、亜麻や紡錘が過去の労働の産物だということはどうでもよいのである。

第17段落 生きている労働は生産手段を消費して生産物を生み出す 
・生きている労働は、労働手段と労働対象をつかまえ、生き返らせて、単に可能的な使用価値から現実の有効な使用価値に変えなければならない。
・生きている労働は生産手段を目的に適するように消費して生産物を生み出す。生産物には生活手段と生産手段がある。生活手段は個人的消費の対象であり、生産手段は、生産的消費の対象であり、新しい生産物の形成要素として消費される。

■《商品は、まず第一に、外的対象であり、その諸属性によって人間のなんらかの種類の欲望を満足させる物である。この欲望の種類は、それがたとえば胃袋から生じようと空想から生じようと、少しも事柄を変えるものではない。ここではまた、物がどのようにして人間の欲望を満足させるか、直接に生活手段として、つまり受用の対象としてか、それとも回り道をして生産手段としてかということも、問題ではない。》(国民文庫71-72頁・原頁49)

第18段落 生きている労働によって過去の労働の生産物は使用価値として維持される 
・このように、現にある生産物は労働過程の結果であるだけではなくてその存在条件でもあるとすれば、他面では、それを労働過程に投げ入れることは、つまりそれが生きている労働に触れることは、これらの過去の労働の生産物を使用価値として維持し実現するための唯一の手段なのである。

★使用価値の実現とは消費することであり、ここでは生産的に消費されることで使用価値の実現がなされることを述べている。

第19段落 生産的消費と個人的消費
・労働はその素材的諸要素を、その対象と手段とを消費し、それらを食い尽くすのであり、したがって消費過程である。
・この生産的消費が個人的消費から区別されるのは、後者は生産物を生きている個人の生活手段として消費し、前者はそれを労働の、すなわち個人の働きつつある労働力の生活手段として消費するということである。
・それゆえ、個人的消費の生産物は消費者自身であるが、生産的消費の結果は消費者とは別の生産物である。

■長谷部訳で次のようになっている。
《労働は、それらの質料的諸要素――それの対象とそれの手段――を消費し、それらを食い尽くすのであり、つまり消費過程である。》

第20段落 生産手段としての生産物や自然素材の利用
・その手段やその対象がそれ自身すでに生産物であるかぎりでは、労働は、生産物をつくるために生産物を消費する。
・言い換えれば、生産物の生産手段として生産物を利用する。
・しかし、労働過程が元来はただ人間とその助力なしに存在する土地とのあいだだけで行なわれるように、今もなお労働過程では、天然に存在していて自然素材と人間労働との結合を少しも表わしてはいない生産手段も役立っているのである。

■《元来は》は、長谷部訳と新日本出版社版では《本源的には》となっている。また、マルクス・コレクションでは《しかし、もともと労働過程は人間と、人間の手が加わることなく存在していた大地との間にのみ生じたものである。》(272頁)となっている。

第21段落 これまで述べてきたような労働過程は歴史貫通的
・これまでにわれわれがその単純な抽象的な諸契機について述べてきたような労働過程は、使用価値をつくるための合目的的活動であり、人間の欲望を満足させるための自然的なものの取得であり、人間と自然とのあいだの物質代謝の一般的条件であり、人間生活の永久的な自然条件であり、したがって、この生活のどの形態にもかかわりなく、むしろ人間生活のあらゆる社会形態に等しく共通の物である。
・それだから、われわれは労働者を他の労働者との関係のなかで示す必要はなかったのである。
・一方の側にある人間とその労働、他方の側にある自然とその素材、それだけで十分だったのである。

★《単純な抽象的な諸契機》とは、労働そのもの、労働対象、労働手段のこと。

★「《労働者を他の労働者との関係のなかで示す》とは、どのような生産関係のもとでの生産であるかということではないか。

■「第1章 第2節 労働の二重性」では次のように述べられていた。
《人間は、衣服を着ることの必要に強制されたところでは、だれかが仕立屋になるよりも何千年も前から裁縫をやってきた。しかし、上着やリンネルなど、すべて天然には存在しない素材的富の要素の存在は、つねに特殊な自然素材を特殊な人間欲望に適合させる特殊な合目的的生産活動によって媒介されなければならなかった。それゆえ、労働は、使用価値の形成者としては、有用労働としては、人間の、すべての社会形態から独立した存在条件であり、人間と自然とのあいだの物質代謝を、したがって人間の生活を媒介するための、永遠の自然必然性である。
 使用価値である上着、リンネルなど、簡単に商品体は、二つの要素の結合物、自然素材と労働の結合物である。上着やリンネルなどに含まれるいろいろな有用労働の総計を取りさってしまえば、あとには常に或る物質的な土台が残るが、それは人間の助力なしに天然に存在するものである。人間は、彼の生産において、ただ自然がやるとおりにやることができるだけである。すなわち、ただ素材の形態を変えることができるだけである。それだけではない。この形をつける労働そのものにおいても、人間はつねに自然力にささえられている。だから、労働は、それによって生産される使用価値の、素材的富の、ただひとつの源泉なのではない。ウィリアム・ペティの言うように、労働は素材的富の父であり、土地はその母である。》(国民文庫85頁・原頁57-58)

第22段落 生産手段と労働力を購入した将来の資本家のところへ帰る
・われわれの将来の資本家のところに帰ることにしよう。
・われわれが彼と別れたのは、彼が商品市場で労働過程のために必要な要因のすべてを、すなわち対象的要因または生産手段と人的要因または労働力とを買ってからのことだった。
・彼は、抜け目のないくろうとの目で、紡績業とか製靴業とすいうような彼の専門の営業に適した生産手段と労働力とを選び出した。
・そこで、われわれの資本家は、自分の買った商品、労働力を消費することに取りかかる。
・すなわち、労働力の担い手である労働者にその労働によって生産手段を消費させる。
・労働過程の一般的な性質は、この過程を労働者が自分自身のためにではなく資本家のために行なうということによっては、もちろん変らない。
・また、長靴をつくるとか糸を紡ぐとかいう特定の仕方も、さしあたりは、資本家の介入によって変るわけではない。
・資本家は、さしあたりは、市場で彼の前に現われるがままの労働力を受け取らなければならないし、したがってこの労働力が行なう労働をも、資本家がまだいなかった時代に生じた形のままで受け取らなければならない。
・労働が資本に従属することによって起きる生産様式そのものの変化は、もっとあとになってからはじめて起きることができるのであり、したがって、もっとあとで考察すればよいのである。

★《われわれの将来の資本家》という表現が使われているのは、流通部面で生産手段と労働力を購入した貨幣所有者は、潜勢的に資本家であるに過ぎず、生産過程を経てはじめて実際に資本家になるからではないか。

■「第4章 貨幣の資本への転化」の第22段落では次のように述べられていた。
《この単純な流通または商品交換の部面から、卑俗な自由貿易論者は彼の見解や概念を取ってくるのであり、また資本と賃労働との社会についての彼の判断の基準をとってくるのであるが、いまこの部面を去るにあたって、われわれの登場人物たちの顔つきは、見受けるところ、すでにいくらか変っている。さっきの貨幣所持者は資本家として先に立ち、労働力所持者は彼の労働者として後についていく。一方は意味ありげにほくそえみながら、せわしげに、他方はおずおずと渋りがちに、まるで自分の皮を売ってしまってもはや革になめされるよりほかにはなんののぞみもない人のように。》(国民文庫309頁・原頁190-191)

★《労働が資本に従属することによって起きる生産様式そのものの変化》について、「ここでの生産様式は、《長靴をつくるとか糸を紡ぐとかいう特定の仕方》と述べられているように生産の特定の仕方(生産方法)のことであり、資本主義にふさわしい生産の仕方(生産方法)とは大工業のことであろう。

■『資本論辞典』(青木書店刊)では《生産様式という語は、より狭くは、直接的生産過程において労働の技術的および社会的条件に制約された〈生産の仕方〉ないし〈生産の方法〉の意味に用いられる。》と述べられている。

第23段落 資本家による労働力の消費過程が示す2つの特有な現象  
・ところで、労働過程は、資本家による労働力の消費過程として行なわれるものとしては、二つの特有な現象を示している。

第24段落 ①労働者の労働は資本家に属し、資本家の監督の下で行われる
・労働者は資本家の監督のもとに労働し、彼の労働はこの資本家に属している。
・資本家は、労働が整然と行なわれて生産手段が合目的的に使用されるように、つまり原料がむだにされず労働用具が大切にされるように、言い換えれば作業中の使用によってやむを得ないかぎりでしか損傷されないように、見守っている。

■英語では、指揮は command 監督は control である。

■《[指揮および監督の機能は資本に属する]多くの労働者による社会的な労働は指揮を必要とすし、それを行なう指揮者を必要とする。資本によって実現される協業では、指揮の機能は資本に属する資本の機能であり、その人格的担い手は、まずもって資本家である。
 資本のもとでの労働は労働者にとって、自分の立てた目的を実現する自分の労働ではなく、資本の目的を実現するための他人の労働だから、彼らの労働には資本による監督が必要である。これはもちろん資本の機能であり、まずもって資本の人格化である資本家が彼らの監督者となる。
 指揮は多人数による社会的労働が社会形態にかかわりなく必要とするものであり、監督は賃労働という労働の社会的形態が要求するものであって、両者はほんらい区別されるべきものであるが、実際には、どちらも資本の機能として渾然一体となって資本家によって遂行され、〈指揮・監督〉という一つの機能として現われる。
 まずもって資本家自身によって果たされるこの指揮・監督の機能はやがて資本家から特別な種類の労働者、すなわちマネージャー(産業士官)やもろもろの職制(産業下士官)に譲り渡されるようになる。
 一方では、資本のもとでの協業に必要な指揮および監督が資本家によって行なわれるところから、およそ協業には資本が必要であるかのような転倒した観念が生まれるとともに、他方では、これらの機能が特別な種類の労働者によって遂行されるところから、指揮ばかりでなく監督までも、社会形態にかかわりのない社会的労働一般が必要とするものであるかのような転倒した観念が生まれる。》(大谷禎之介『図解社会経済学』159-160頁)

第25段落 ②生産物は資本家の所有物である、またその根拠
・また、第二に、生産物は資本家の所有物であって、直接的生産者である労働者のものではない。
・資本家は、労働力のたとえば1日分の価値を支払う。そこで、労働力の使用は、他のどの商品の使用とも同じに、たとえば彼が一日だけ賃借りした馬の使用と同じに、その一日は彼のものである。
・彼が資本家の作業場にはいった瞬間から、彼の労働力の使用価値、つまりその使用、労働は、資本家のものになったのである。
・資本家の立場からは、労働過程は、ただ彼が買った労働力という商品の消費過程でしかないのであるが、しかし、彼は、ただそれに生産手段をつけ加えることによってのみ、それを消費することができるのである。
・労働過程は、資本家が買った物と物とのあいだの、彼に属する物と物とのあいだの、一過程である。
・それゆえ、この過程の生産物が彼のものであるのは、ちょうど、彼のぶどう酒ぐらのなかの発酵過程の生産物が彼のものであるようなものである。
              
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by shihonron | 2010-01-05 22:25 | レジュメ


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