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『資本論』を読む会の報告

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2010年 01月 26日

第174回 1月26日 第5章 第1節 労働過程

 1月26日(火)に第174回の学習会を行いました。
 「172回・173回の報告」のペーパーをもとに前回までの復習をしました。ペーパーの中で、《第17段落の冒頭で「労働過程で役立っていない機械は無用である」と述べられていることに関連して、この「労働過程で役立っていない機械」をどう理解するかで議論がありました。「故障している機械のことではないか」という発言がありましたが、これに対して「《生きている労働は、労働手段と労働対象をつかまえ、生き返らせて》という表現をマルクスはしている。故障している機械ということではなく、生きた労働と結びついていない使われていない機械と理解すべきではないか」との発言があり、故障している機械と理解するのはおかしいとの結論になりました。》と書かれていることについて、「故障している機械も労働過程で役立たないので、故障している機械だけではなく、使われていない機械とした方がいい。マルクスは恐慌時に生産が行われないことなどを念頭に置いていたのではないか」との発言があり、その通りだとの結論になりました。
 
 「第5章 第1節 労働過程」の第19段落から最後(第25段落)までをレジュメに基づいた報告を受けて検討しました。
 第21段落について議論になりました。レジュメでは以下のように書かれていました。
----------------------------以下引用----------------------------------------------------
第21段落 これまで述べてきたような労働過程は歴史貫通的
・これまでにわれわれがその単純な抽象的な諸契機について述べてきたような労働過程は、使用価値をつくるための合目的的活動であり、人間の欲望を満足させるための自然的なものの取得であり、人間と自然とのあいだの物質代謝の一般的条件であり、人間生活の永久的な自然条件であり、したがって、この生活のどの形態にもかかわりなく、むしろ人間生活のあらゆる社会形態に等しく共通の物である。
・それだから、われわれは労働者を他の労働者との関係のなかで示す必要はなかったのである。
・一方の側にある人間とその労働、他方の側にある自然とその素材、それだけで十分だったのである。

★《単純な抽象的な諸契機》とは、労働そのもの、労働対象、労働手段のこと。

★「《労働者を他の労働者との関係のなかで示す》とは、どのような生産関係のもとでの生産であるかということではないか。
---------------------------引用終わり----------------------------------------------------------

 最後のところで述べられている《労働者を他の労働者との関係のなかで示す》を生産関係と理解するのは正しいのだろうかという疑問が出され、「協業などのことを念頭に述べているのではないか」との発言もありました。レジュメの作成者は「これまで明らかにされた労働過程は、どんな特定の社会的形態にもかかわりなく考察されていて、そのことを述べていると考えてこのように書いたが、生産における人と人との関係が生産関係であり、《労働者を他の労働者との関係のなかで示す》というのが生産関係というのは不適切かもしれない。生産の仕方という意味での生産様式といえるかもしれない」と述べました。

 第22段落の中で《すなわち、労働力の担い手である労働者にその労働によって生産手段を消費させる。労働過程の一般的な性質は、この過程を労働者が自分自身のためにではなく資本家のために行なうということによっては、もちろん変らない。また、長靴をつくるとか糸を紡ぐとかいう特定の仕方も、さしあたりは、資本家の介入によって変るわけではない。資本家は、さしあたりは、市場で彼の前に現われるがままの労働力を受け取らなければならないし、したがってこの労働力が行なう労働をも、資本家がまだいなかった時代に生じた形のままで受け取らなければならない。労働が資本に従属することによって起きる生産様式そのものの変化は、もっとあとになってからはじめて起きることができるのであり、したがって、もっとあとで考察すればよいのである。》と述べられていることについて、「《資本家は、さしあたりは、市場で彼の前に現われるがままの労働力を受け取らなければならないし、したがってこの労働力が行なう労働をも、資本家がまだいなかった時代に生じた形のままで受け取らなければならない。》という箇所は資本の本源的蓄積のところで述べられているようなことが念頭に置かれているのだろうか。市場で彼の前にあるがままの労働力とは、どんな労働力なのか。資本家がまだいなかった時代とは封建制の解体期以前だろうがそこで生じた形のままという労働はどういうものだろうか」との疑問が出され、「囲い込み運動などで路頭に追いやられたかつての農民などのこと言っているのではないか、また資本家がまだいなかった時代に生じた形とは、手工業ということではないか」との発言がありました。

■包摂 : フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
 包摂(ほうせつ、subsumption)とは、経済・社会が、その本来の諸関係にとって外生的な存在を取り込む過程をいう。はじめ、マルクスの論文「直接的生産過程の諸結果」において、「労働の形式的・実質的包摂」としてこの用語が用いられ、後に、労働(技術)以外の外生的な要素を取り込む場合の概念に拡張された。
 経済・社会は、捨象して抽象化することが可能な人間相互の関係である。他方、現実の経済・社会は、自然科学の法則を合目的的にシステム化した技術、生物としての人間、自然環境、空間など、ざまざまの外生的な存在を取り込まない限り存続することができない。
 これらはいずれも、自然的存在であって、自然科学が究明する独自の運動法則をもつ統一体である。経済や社会は、このような自然的存在のうち有用な性質だけを取り込んで(包摂して)活用しようとするが、自然は統一体として存在しているのであるから、有用な性質の包摂は、同時に、経済・社会にとって障害となる要素も同時に包摂せざるを得ないことを意味する。その結果、この障害となる要素が、経済・社会にさまざまの否定的帰結をもたらす。これが、経済・社会にとって外生的なものの形式的包摂(formal subsumption)である。
 そこで、経済・社会の主体は、この自然の存在が障害をもたらさないように、この自然存在を作り変えなければいけない。これは、経済・社会による人為的な自然の生産過程である。人為的自然が適切に生産されれば、形式的包摂に際して存在していた障害は消滅する。これにより、経済・社会は、外生的な自然を実質的包摂(real subsumption)したことになる。
 マルクスが用いた例で具体的に示そう。マニュファクチュア期の熟練技術が資本主義の生産様式に形式的包摂されると、技術を自己の身体に体化している熟練労働者は資本に対し高い地位を保有し、頑固な熟練労働者の言うことに社長が従わない限り、生産は出来ない。また、熟練労働者は容易に養成できないため、拡大再生産が困難で、資本蓄積の障害となる。そこで、技術体系そのものを作り直し、熟練を排除した機械制大工業のシステムが構築される。これが、労働(技術)の実質的包摂である。機械を用いれば未熟練労働者でも生産が出来るようになるし、機械に設備投資さえすれば任意に生産規模を拡大できる。これによって資本の労働に対する優越性は確保され、資本蓄積の障害は解消する。すなわち、テーラーシステムのようなコンベアを用いた大量生産の過程は、労働(技術)の実質的包摂の帰結である。アメリカの労働経済学者ブレイヴァマンはこれを、「訓練されたゴリラでも出来る」作業であり「労働の低質化」だと指摘した。

 第25段落で《生産物は資本家の所有物であって、直接的生産者である労働者のものではない。資本家は、労働力のたとえば1日分の価値を支払う。そこで、労働力の使用は、他のどの商品の使用とも同じに、たとえば彼が一日だけ賃借りした馬の使用と同じに、その一日は彼のものである。労働過程は、資本家が買った物と物とのあいだの、彼に属する物と物とのあいだの、一過程である。それゆえ、この過程の生産物が彼のものであるのは、ちょうど、彼のぶどう酒ぐらのなかの発酵過程の生産物が彼のものであるようなものである。》と述べていることについて、マルクスは後に資本家による搾取について明らかにしているが、ここでこのように書いていることと矛盾するのではないかという疑問が出されました。また、これと関連して不払労働という用語は適切なのかという疑問も出されました。

by shihonron | 2010-01-26 23:30 | 学習会の報告


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