『資本論』を読む会の報告

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2010年 07月 20日

第194回 7月20日 第22章 剰余価値の資本への転化 第1節

7月20日(火)に第194回の学習会を行いました。
レジュメに基づいた報告を受け、「第22章 剰余価値の資本への転化」の第1節の最初から第22段落までを検討しました。

以下は当日のレジュメです。

第22章 剰余価値の資本への転化

第1節 拡大された規模での資本主義的生産過程。商品生産の所有法則の資本主義的取得法則への転換

 ①以前に、どのように資本から剰余価値が生じるか考察したが、今度は、どのように剰余価値から資本が生じるかを考察する。剰余価値を資本として用いること、あるいは剰余価値を資本に再転化することは、資本の蓄積と呼ばれる(21)。

 ②さしあたり、この経過を個別資本家の観点から考察しよう。
 投下資本  綿花・機械   労賃    剰余価値  生産物価値
10000― 8000 + 2000 + 2000= 12000
 2000― 1600 +  400 +  400=  2400

ある価値がもっている剰余価値としての性格は、それがどのようにしてその所有者の手に入ったかを示しはするが、価値や貨幣の性質を少しも変えるものではない。

 ③こうして、二〇〇〇ポンド・スターリングのこの新しい資本は紡績工場で機能し、それがまた四〇〇ポンド・スターリングの剰余価値を生み出す。

 ④資本価値は最初は貨幣形態で前貸しされた。これに反して、剰余価値はもともと総生産物の特定部分の価値として存在する。総生産物が売られて貨幣に転化されると、資本価値はその最初の形態をふたたび獲得するが、剰余価値はその最初の定在様式を変える。しかし、この瞬間からは、資本価値と剰余価値はどちらも貨幣額であり、資本へのそれらの再転化はまったく同じ仕方で行われる。資本家はそれらのいずれをも、彼にその財貨の製造を新たに、しかも今度は拡大された規模で開始することを可能にする諸商品の購入に投じる。しかし、これらの商品を購入するためには、彼はそれらのものを市場で見いださなければならない。

 ⑤彼自身の糸が流通するのは、彼が自分の年生産物を市場に持ちこむからにほかならないのであり、これは他のすべての資本家が彼らの商品について行うのと同じである。しかし、これらの商品は、市場に来る前にすでに年々の生産財源のうちに、すなわち、個別諸資本の総額あるいは社会的総資本がその年のうちに転化し、また各個別資本家はその一可除部分を手にするにすぎないあらゆる種類の物の総量のうちに、存在していたのである。

 ⑥年生産は、さしあたりまず、その年のうちに消費される資本の物的構成部分を補填すべきあらゆる物(使用価値)を提供しなければならない。これを差し引いた後には、剰余価値がその中に潜んでいる純生産物または剰余生産物が残る。では、この剰余生産物はどういうものから成り立っているのか? もしそれが、資本家階級の消費財源に入る物だけだとすれば、剰余価値は残らず使いはたされて、単純再生産しか行われないであろう。

 ⑦蓄積するためには、剰余生産物の一部分を資本に転化しなければならない。しかし、奇跡でも行われない限り、資本に転化できる物は、労働過程で使用できる物すなわち生産手段と、他には労働者が自分を生存させうる物すなわち生活手段だけである。
・剰余価値が資本に転化できるのは、剰余生産物・・その価値が剰余価値である・・がすでに新しい資本の物的諸構成部分を含んでいるからにほかならない(21a)。

 ⑧さて、これらの諸構成部分を実際に資本として機能させるためには、資本家階級は労働の追加分を必要とする。すでに使用している労働者の搾取が外延的にも内包的にも増大させられないとすれば、追加労働力が雇い入れられなければならない。このことについてもやはり、資本主義的生産の機構がすでにあらかじめ配慮ずみである。
・資本は、労働者階級によって年々いろいろな年齢で供給されるこの追加労働力を、年生産の中にすでに含まれている追加的生産手段に合体しさえすればよいのであり、それで剰余価値の資本への転化は完了する。具体的に考察すれば、蓄積は累進的規模での資本の再生産に帰着する。単純再生産の循環は変化して、シスモンディの表現によれば一つのらせんに転化する(21b)。

 ⑨そこでわれわれの例に立ち戻ることにしよう。一万ポンド・スターリングの最初の資本は二〇〇〇ポンド・スターリングの剰余価値を生み、それが資本化される。二〇〇〇ポンド・スターリングの新資本は四〇〇ポンド・スターリングの剰余価値を生み、それがふたたび資本化され、すなわち第二の追加資本に転化されて、八〇ポンド・スターリングの新しい剰余価値を生む、等々である。

 ⑩ここでは、資本家によって消費される剰余価値部分は度外視する。
・ただ忘れてならないのは、新たに形成された諸資本とならんで、最初の資本が引き続き自分を再生産し、剰余価値を生産するということ、そして、同じことが蓄積されたどの資本についても、それによって生み出された追加資本との関係ではつねに当てはまるということである。

 ⑪最初の資本は一万ポンド・スターリングの前貸しによって形成された。その所有者はどこからこれを得たのか? 彼自身の労働と彼の祖先の労働とによってである!と経済学の代弁者たちはみな一様に答える(21c)。そして実際に彼らの仮定は、商品生産の諸法則に合致する唯一のものであるかのように見える。

 ⑫二〇〇〇ポンド・スターリングの追加資本については、まったく事情が異なる。その成立過程をわれわれはまさに正確に知っている。それは資本化された剰余価値である。それは、最初から、他人の不払労働に由来しない価値を一原子も含んでいない。追加労働力が合体される生産手段も、この追加労働力が維持される生活手段も、剰余生産物、すなわち労働者階級が年々資本家階級によって奪われる貢ぎ物の主要な構成部分以外の何ものでもない。
・被征服者の商品を、被征服者から奪った貨幣で買い取るという、征服者の昔からのやり方と変わるものではない。

 ⑬追加資本がそれ自身の生産者を使用するとすれば、この生産者はまず最初の資本を引き続き価値増殖しなければならず、その上に自分の以前の労働の成果をそれに費やしたよりも多くの労働をもって買い戻さなければならない。
・いずれにしても、労働者階級は、彼らの今年の剰余労働によって、次の年に追加労働を使用するであろう資本をつくり出した(22)。これがすなわち、資本によって資本を生み出すということなのである。

 ⑭第一の追加資本二〇〇〇ポンド・スターリングの蓄積の前提は、資本家が前貸しし、彼の「最初の労働」によって自分のものになっている一万ポンド・スターリングという価値額であった。これに反して、第二の追加資本四〇〇ポンド・スターリングの前提は、第一の追加資本二〇〇〇ポンド・スターリングの蓄積が先に行われているということにほかならないのであって、第二の追加資本は第一の追加資本の剰余価値が資本化したものである。今や、過去の不払労働を所有することが、生きた不払労働をたえず増大する規模で現在取得するための唯一の条件として現れる。資本家は、すでにより多く蓄積していればいるほど、ますます多く蓄積することができる。

 ⑮・個々のどの取り引きも商品交換の法則にすべて照応し、資本家はつねに労働力を買い、労働者はつねにそれを売り、しかも、われわれがそう仮定しようとするとおり、労働力の実際の価値どおりで売買するならば、商品生産と商品流通とに基づく取得の法則または私的所有の法則は、明らかに、その固有な内的で不可避的な弁証法によって、その直接の対立物に転換する。最初の操作として現れた等価物同士の交換は、一転して、外観的にのみ交換が行われるようになる。と言うのは、労働力と交換される資本部分そのものが、第一に、等価なしに取得された他人の労働生産物の一部分にすぎず、第二に、その生産者である労働者によって補填されなければならないだけでなく、新しい剰余をともなって補填されなければならないからである。したがって、資本家と労働者のあいだの交換関係は、―内容は、資本家が、たえず等価なしに取得し、すでに対象化された他人の労働の一部分を、より大きな量の生きた他人の労働とたえずくり返し取り替えるということである。所有権は、最初は自分の労働に基づくものとして現れた。少なくとも、この仮定が妥当とされなければならなかった・・なぜなら、平等な権利をもつ商品所有者だけが相対するのであって、他人の商品を取得するための手段は自分の商品を譲渡することだけであり、そして自分の商品はただ労働によってのみ生産されうるものだからである。所有は、今や、資本家の側では他人の不払労働またはその生産物を取得する権利として現れ、労働者の側では自分自身の生産物を取得することの不可能性として現れる。所有と労働との分離は、外見上は両者の同一性から生じた一法則の必然的帰結となる(23)。

 ⑯したがって、資本主義的取得様式は商品生産の本来の諸法則とどんなに矛盾するように見えるにしても、それは決してこれらの法則の侵害から生じるのではなく、むしろ反対にその適用から生じるのである。このことは、資本主義的蓄積を終点とする一連の運動諸段階の順序を単純に振り返ってみれば、さらに明らかになる。

 ⑰はじめにみたように、ある価値額の資本への最初の転化は、まったく交換の諸法則に沿うものであった。一方の契約者が自分の労働力を売り、他方の契約者がそれを買う。前者は彼の商品の価値を受け取り、それによってこの商品の使用価値・・労働・・は後者に譲渡される。そこで、後者は、すでに自分のものである生産手段を、やはり彼のものである労働の助けを借りて、新しい生産物に転化するのであり、この生産物もやはり法的に彼に属する。

 ⑱この生産物の価値は、第一に、消費された生産手段の価値を含んでいる。有用労働が、この生産手段の価値を新しい生産物に移すことなしには、この生産手段を消費することはできない。しかも労働力が売れるものであるためには、それが使用されるべき産業部門で有用労働を提供しうるものでなければならない。

 ⑲新しい生産物の価値は、さらに労働力の価値の等価と剰余価値とを含む。というのも、日、週など一定の時期を決めて売られた労働力は、その使用がこの時期中につくり出される価値よりも少ない価値しかもたないからである。しかし労働者は、彼の労働力の交換価値を支払ってもらい、その使用価値を譲渡したのである・・どんな売買でもそうであるように。

 ⑳この特殊な商品である労働力が、労働を提供する、すなわち価値をつくり出すという独自な使用価値をもっていることは、商品生産の一般的法則には影響しえない。したがって、労賃に前貸しされた価値額が単に生産物のうちに再現するだけでなく、剰余価値だけ増大して現れるとすれば、それは売り手をだますことから生じるのではなく、売り手はたしかに自分の商品の価値を受け取っているのであって、買い手がこの商品を消費することから生じるだけである。
 《21》交換の法則は相互に譲渡される商品の交換価値にとってのみ平等を条件づける。しかもこの法則は、はじめから諸商品の使用価値の相違を条件としており、取り引きの完了後にはじめて開始されるこれらの商品の消費とはまったく何の関係もない。
 《22》したがって、貨幣の資本への最初の転化は、商品生産の経済的諸法則とそれから派生する所有権とに最も厳密に一致して行われる。しかし、それにもかかわらず、この転化は次のような結果をもたらす・・
 (一) 生産物は資本家のものであって、労働者のものではない・・
 (二) この生産物の価値は前貸資本の価値のほかに剰余価値を含むが、この剰余価値は労働者にとっては労働を費やさせたが資本家にとっては何も費やせなかったにもかからわず、それは資本家の合法的所有物になる・・
 (三) 労働者は引続き自分の労働力を保有し、買い手が見つかればまた新たにそれを売ることができる。

 《23》単純再生産はこの第一の操作の周期的反復にすぎない。そのつど、貨幣はたえず新たに資本に転化される。したがって、法則は破られるのではなく、反対に、確認される機会を得るにすぎない。

《24》・ それにもかかわらず、すでに見たように、単純再生産はこの第一の操作・・それを孤立した経過としてとらえた限りでの・・にまったく変化した性格を刻印するのに十分である。
・ 「国民所得を分けあう人々のうち、一方」(労働者)「は毎年新しい労働によってそれに対する新しい権利を獲得するが、他方」(資本家)「は最初の労働によってそれに対する永久的な権利をそれ以前に獲得してしまっている」(シスモンディ、前出、一一〇、一一一ページ〔前出訳、上、一一九ページ〕)。


 《25》周知のように、労働の分野は、長子が奇跡を行う唯一の分野ではない。

 《26》単純再生産の代わりに、拡大された規模での再生産、すなわち蓄積が行われても、変わりはない。前者の場合には、資本家は剰余価値をすべて使い果たすが、後者の場合は、一部分だけを消費し残りを貨幣〔カウツキー版では、資本、となっている・・岩波版訳者〕に転化することによりみずからの市民的徳性を示す。

 《27》剰余価値は資本家の所有物であり、彼以外の者に属したことはない。彼がそれを生産に前貸しするとすれば、彼はそれを、はじめて市場を訪れた日とまったく同じように、彼自身の財源から前貸しするわけである。この財源が、今度は彼の労働者の不払労働から生まれたものだということは、事態にはまったくかかわりがない。労働者Bが、労働者Aの生産した剰余価値で働かされるとしても、第一に、Aは自分の商品の正当な価格を一文も削られることなしにこの剰余価値を提供したのであり、第二に、この取り引きはBにとっておよそ何の関係もないことである。Bが要求すること、そして要求する権利を持つことは、資本家が彼にその労働力の価値を支払うということである。
・ 「それでも両者はともに利益を得たのであって、労働者は、労働がなされる前に」(彼の労働が成果をもたらす前に、と言うべきだ)「労働の」(他の労働者の不払労働の、と言うべきだ)「成果が彼に前貸しされたからであり、雇い主は、この労働者の労働が賃金よりも大きい価値をもっていた」(彼の賃金の価値より大きい価値を生産した、と言うべきだ)「からである」(シスモンディ、前出、一三五ページ〔前出訳、上、一三五~一三六ページ〕)。

 《28》われわれが資本主義的生産を絶え間ない更新の流れの中で考察し、個々の資本家と個々の労働者とではなく、全体、すなわち資本家階級とそれに相対する労働者階級とに注目すれば、たしかに事態はまったく違って見える。しかしそうすれば、われわれは、商品生産とはまったく異質な尺度をあてがうことになる。

 《29》商品生産では、売り手と買い手とがたがいに独立して相対しているにすぎない。彼らの相互関係は、両者のあいだに結ばれた契約の満期日と共に終わる。取り引きがくり返されるとすれば、それは新しい契約によるのであって、その契約は以前の契約と何の関係もなく、この契約で同じ買い手が同じ売り手と再会するとしても、それはただの偶然にすぎない。

 《30》したがって、商品生産またはそれに属する経過は商品生産固有の経済的諸法則にしたがって判断されるべきであるからには、われわれはおのおのの交換行為を、それ自体として、すなわちそれに先行し後続する交換行為とのいっさいの関連を離れて、考察しなければならない。そして、売買は個々のあいだでのみ行われるのであるから、全体としての社会的階級間の諸関係を売買のうちに探求することは許されない。

 《31》こんにち機能している資本が通過してきた周期的な再生産と先行する蓄積との系列がどんなに長いとしても、この資本はいつでもその最初の処女性を保持している。おのおのの交換行為・・個別的にみたそれ・・において交換の諸法則が守られる限り、取得様式は、商品生産に適合する所有権には何らふれることなしに、全面的な変革をこうむることができる。この同じ所有権は、端初の時期・・この時期には、生産物は生産者のものであり、生産者は等価物同士を交換しながら自分の労働だけで富を得ることができる・・におけると同様に資本主義時代・・この時代には、社会の富が、たえず増大する量で、他人の不払労働をたえず新たに取得する立場にある人々の所有となる・・においても有効なのである。

 《32》こうした結果は、労働力が労働者自身により商品として自由に売られるのと同時に、不可避となる。しかしまた、その時に初めて、商品生産は一般化されて典型的な生産形態となる。
・賃労働の介入は商品生産を不純にするなどと語ることは、商品生産が不純にされたくなければ発展してはならないと語るに等しい。商品生産がそれ自身の内的諸法則に従って資本主義的生産に成長していくのと同じ程度で、商品生産の所有諸法則は資本主義的取得の諸法則に転換する(24)。


 《33》すでに見たように、単純再生産の場合でさえ、すべての前貸資本は・・最初にどのようにして獲得されたものであれ・・蓄積された資本または資本化された剰余価値に転化する。しかし、生産の流れの中では、およそ最初に前貸しされたすべての資本は、直接に蓄積された資本にくらべると、すなわち資本に再転化された剰余価値または剰余生産物・・それが今蓄積した人々の手の中で機能しているか、それとも他人の手の中で機能しているかを問わず・・にくらべると、しだいに消滅していく大きさ(数学的意味での“無限小 magnitudo evanescens ”)になる。したがって経済学は、一般に、資本を「あらためて剰余価値の生産に用い入られる蓄積された富(25)」(転化された剰余価値または収入)として説明し、あるいはまた資本家を「剰余生産物の所有者(26)」として説明している。現存するすべての資本は蓄積された利子または資本化された利子であるという表現では、同じ見方が別の形態をとっているにすぎない。というのは、利子は剰余価値の単なる一断片にすぎないからである(27)。
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by shihonron | 2010-07-20 23:30 | 学習会の報告


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