『資本論』を読む会の報告

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2010年 08月 03日

第196回 8月3日 第22章 剰余価値の資本への転化 第2節・第3節

8月3日(火)に第196回の学習会を行いました。
レジュメに基づいた報告を受け、「第22章 剰余価値の資本への転化」の第2節「経済学による、拡大された規模での再生産に関する誤った見解」を検討しました。第3節「剰余価値の資本と収入とへの分割 説欲説」についてレジュメにもとづく報告をしたところで時間切れとなりました。

以下は第2節のレジュメです。

第2節 経済学による、拡大された規模での再生産に関する誤った見解

 ①さて、蓄積、すなわち剰余価値の資本への再転化に関するいくつかのよりくわしい規定に入る前に、古典派経済学によって生み出されたあいまいさを片づけておかなければならない。

 ②資本家が剰余価値の一部分で自分自身の消費のために買う諸商品が、彼にとって生産手段および価値増殖手段として役立たないのと同様に、彼が自分の自然的・社会的欲求を満たすために買う労働も生産的労働ではない。資本家は、このような商品や労働の購買によっては、剰余価値を資本に転化させるのではなく、反対にそれを収入として消耗し、または支出するのである。
・他方、ブルジョア経済学は、通俗的偏見・・資本主義的生産を蓄蔵貨幣の形成と混同し(28)、したがってまた、蓄積された富とは、その現存する現物形態の破壊を、すなわち消費をまぬがれた、あるいは流通から救われた富であると考える通俗的偏見・・と闘わなければならなかった。貨幣を流通しないように秘蔵することは貨幣を資本として増殖するのと正反対であり、蓄財的意味での商品蓄積はまったく愚かなことである(28a)。大量の商品蓄積は流通の停滞または過剰生産の結果である(29)。たしかに、この通俗的観念の中には、一方では富者の消費財源として積み立てられ徐々に消耗される財貨の姿があり、他方では、すべての生産様式に付随する現象である在庫形成・・この現象については流通過程の分析のところでふれるであろう・・がある。

 ③したがって、古典派経済学は、不生産的労働者によってではなく生産的労働者によって剰余生産物が消費されることを蓄積過程の特徴的契機として強調する限りでは、正しい。しかし、その誤りもまたここから始まる。A・スミスは、蓄積を、単に生産的労働者による剰余生産物の消費として、または、剰余価値の資本化を、単に剰余価値の労働力への転換として、説明することを流行させた。たとえばリカードの言うところを聞いてみよう・・
・ 「一国の生産物はすべて消費されるものと理解されるに違いない。しかし、それが別の価値を再生産する者によって消費されるのか、それともこれを再生産しない者によって消費されるのかによって、考えられる限りの最大の相違が生じる。収入が貯蓄されて資本に追加されると言う時、それが意味することは、収入のうち資本に追加されると言われる部分が、不生産的労働者ではなくて生産的労働者によって消費されるということである。資本が非消費によって増加すると想定することほど大きな誤りはない(30)」。

 ④リカードとその後のすべての人々が、A・スミスの口まねで次のように言うことほど大きな誤りはない・・
・ 「収入のうち資本に追加されると言われる部分は、生産的労働者によって消費される。」

 ⑤この考え方によれば、資本に転化される剰余価値はすべて可変資本になるであろう。ところが、剰余価値は、最初に前貸しされた価値と同様に、不変資本と可変資本とに、生産手段と労働力とに、分かれる。労働力は、可変資本が生産過程の内部に存在する際の形態である。この過程において、労働力そのものは資本家たちによって消費される。労働力は、その機能、・・労働・・によって生産手段を消費する。それと同時に、労働力の購入に支払われた貨幣は生活手段に転化し、この生活手段は、「生産的労働」によってではなく「生産的労働者」によって消費される。A・スミスは根本的にまちがった分析によって次のようなおろかな結論に到達した。すなわち各個別資本は不変的構成部分と可変的構成部分とに分かれるとしても、社会的資本はただ可変資本のみに帰着する、すなわち労賃の支払いのみに支出される、というのである。たとえば、ある織物工場主が二〇〇〇ポンド・スターリングを資本に転化するとしよう。彼は、この貨幣の一部分を織布工の雇い入れに支出し、他の部分を毛糸や毛織機械などに支出する。しかし、彼が糸や機械を買う相手の人々は、さらにその代金の一部をもって労働に支払い、以下同様にして、ついには、この二〇〇〇ポンド・スターリングの全部が労賃の支払に支出される、すなわちこの二〇〇〇ポンド・スターリングで代表される生産物の全部が生産的労働者によって消費されつくす、というわけである。明らかに、この議論の全力点は、われわれをたらいまわしにする「以下同様にして」という言葉にある。実際、A・スミスは、ちょうど研究が困難になろうとするところで研究を打ち切ってしまう(31)。

 ⑥年総生産の財源のみに注目する限り、年々の再生産過程は容易に理解できる。しかし、年生産のすべての構成部分が商品市場に持ち出されなければならないのであって、そこから困難が始まる。個別諸資本と個人的諸収入の運動が、全般的な場所変換・・社会的富の流通・・では交錯し、混雑しあい、消失するのであり、この全般的な場所変換が見る目を混乱させ、非常にもつれた課題の解決を研究に提起する。第2部、第3編において、私は、現実的関連の分析を行うであろう・・流通から出てくる際の姿態で年生産の形象を示すという試みを彼らの“経済表 Tableau economique ”の中ではじめて行ったことは、重農主義者の大きな功績である(32)。

 ⑦なお、純生産物のうちから資本に転化される部分がすべて労働者階級によって消費されるというA・スミスの命題を、経済学が資本家階級のためにぬかりなく利用したのは、自明の理である。
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by shihonron | 2010-08-03 23:30 | 学習会の報告


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