『資本論』を読む会の報告

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2010年 12月 07日

第207回 12月7日 第24章 第3節

12月7日(火)第207回の学習会を行いました。
「第24章 第3節 15世紀以後の被収奪者に対する血の立法 労賃引き下げのための諸法律」の第1段落から第16段落までについてレジュメに基づく報告を受け、検討しました。


第24章 いわゆる本源的蓄積   

第3節 15世紀以後の被収奪者にたいする血の立法
    労賃引き下げのための諸法律
 


①封建家臣団の解体によって、また、断続的で暴力的な土地収奪によって追い払われた人々は、それが生み出されたのと同じ速さでは、新たに起こりつつあるマニュファクチュアに吸収されることはできなかった。
・他面、自分たちの歩き慣れた生活の軌道から突然投げ出された人々も、新しい状態の規律に慣れることができなかった。彼らは大量に乞食や盗賊や浮浪人に転化した。それは、一部には性向からであったが、大多数は周囲の事情に強制されたものであった。
・それゆえ、15世紀末から16世紀全体にわたり、全西ヨーロッパで浮浪罪に対する流血の立法が行われた。こんにちの労働者階級の祖先は、彼らのよぎなくされた浮浪人化と受救貧民化のために罰せられた。立法は彼らを「自由意志による」犯罪者として取りあつかいもはや存在していない古い諸関係のもとで労働を続けることが、彼らの善意に依存していると想定した。

②イギリスではこの立法はヘンリー7世のもとで始まった。
 
③ヘンリー8世、1530年・・老齢で労働能力のない乞食は乞食鑑札を受ける。強健な浮浪人には鞭打ちと拘禁とが科される。彼らは、体から血が流れるまで鞭打たれ、それから、自分の出生地あるいは最近三年間の居住地に帰って「仕事につく」(to put himself to labour)ことを宣誓しなければならない。
・ヘンリー8世の第27年には、新たな追加によっていっそう厳しくされる。二度目に浮浪罪で逮捕されれば、鞭打ちがくり返され耳を半分切り取られるが、三度罪を犯すと、死刑に処せられる。
 
④エドワード六世。その治世の第1年、1547年の一法規によれば、労働することをこばむ者は、彼を怠け者として告発した人の奴隷になることを宣告される。主人は鞭と鎖とによって自分の奴隷をパンと水、薄いスープと彼にふさわしいと思われる屑肉とをもって、養わなければならない。主人は、奴隷にどんないやな労働でもさせる権利を持っている。奴隷は14日間仕事を離れれば、終身奴隷の宣告を受け、額か頬にS字のらく印を押され、3回逃亡すると、国家の反逆者として死刑に処せられる。主人は、奴隷を他の動産や家畜とまったく同様に、売却し、遺贈し、奴隷として賃貸しすることができる。奴隷が主人に逆らって何事かを企てれば、やはり死刑に処せられる。浮浪者が3日間ぶらぶらしていたことがわかると、出生地に送られ、赤熱のコテで胸にV印をらく印され、その地で鎖につながれて街路上やその他の労役に使われる。浮浪人が虚偽の出生地を申し立てた場合には、その地の住民または団体の終身奴隷にされる罰を受け、Sをらく印される。すべての人が、浮浪人からその子供を取り上げ男児は24歳まで、女児は20歳まで徒弟にしておく権利を持っている。彼らが逃亡すれば、この年齢になるまで親方の奴隷にされ、親方は彼らを意のままに鎖につないだり鞭打ったりなどすることができる。すべての主人は、自分の奴隷の首、腕、または足に鉄の環をはめて見分けやすいようにし、自分のものであることを確実にすることを許される。この法の最後の部分は、特定の貧民たちは、彼らに飲食物を給し仕事を与えようとする地区または個人に雇われるべきだと規定している。この種の教区奴隷は、イギリスでは19世紀に入ってまでも roundsmen(まわり歩く人)という名で保存されていた。

⑤エリザベス、1572年。鑑札を持たない14歳以上の乞食は、2年間彼らを使おうとする人がいなければ、ひどく鞭打たれ、左の耳たぶにらく印される。再犯の場合は、18歳以上ならば、二年間彼らを使おうとする人がいなければ、死刑に処せられるが、3犯目の場合には、容赦なく国家の反逆者として死刑に処せられる。同様の法としては、エリザベス第18年の法、第13号、および1597年のものがある。

⑥ジェームズ一世。放浪し乞食をする者は、放浪者で浮浪人だと宣告される。“小治安裁判所 Petty Sessions ”の治安判事は、彼を公衆の面前で鞭打たせ、初犯は6ヵ月、再犯は2年入獄させる権限を有する。入獄中は、治安判事が適当と考えるたびごとに、また適当と考える数だけ鞭打たれる。矯正の見こみのない危険な放浪者は、左肩にRをらく印されて強制労働を課せられ、ふたたび乞食をして逮捕されれば、容赦なく死刑にされる。これらの規定は、18世紀の初期まで有効であったが、アン第12年の法、第23号によってはじめて廃止された。

⑧こうして、暴力的に土地を収奪され、追放され、浮浪人にされた農村民は、グロテスクで凶暴な法律によって、鞭打たれ、らく印を押され、拷問されて、賃労働制度に必要な訓練をほどこされた。
 
⑨一方の極には労働諸条件が資本として現れ、他方の極に自分の労働力以外に売るものが何もない人間が現れるというだけでは十分ではない。このような人間が自発的に自分を売るようによぎなくされるだけでも、まだ十分ではない。資本主義的生産が進むにつれ、教育、伝統、慣習によって、この生産様式の諸要求を自明の自然法則として認めるような、労働者階級が発展する。
・十分に発達した資本主義的生産過程の機構はあらゆる抵抗を打破し、相対的過剰人口の絶え間ない生産は労働の需要供給の法則を、したがって労賃を、資本の増殖欲求に照応する軌道内に保ち、経済的諸関係の無言の強制は労働者に対する資本家の支配を確定する。経済外的な直接的な暴力もあい変わらず用いられはするが、しかしそれはただ例外的であるにすぎない。物事が普通に進行する場合には、労働者は「生産の自然法則」に、すなわち、生産諸条件そのものから発生し、それらによって保証され永久化される資本への労働者の従属に、まかせておくことができる。
・資本主義的生産の歴史的創生記中では、事情は違っていた。勃興しつつあるブルジョアジーは、労賃を「調節する」ために、すなわち、貨殖に適合する制限内に労賃を押しこめるために、また労働日を延長して労働者自身を標準的な従属度に維持するために、国家権力を必要とし、利用する。これこそは、いわゆる本源的蓄積の本質的な一契機である。
 
⑩14世紀の後半に発生した賃労働者の階級は、その当時もその次の世紀にも人民のうちのほんのわずかな構成部分をなしていただけで、それは農村の自立的農民経営と都市の同職組合組織とによって強くその地位を保護されていた。農村でも都市でも、雇い主と労働者とは社会的に接近していた。資本への労働の従属は、形式的でしかなかった。すなわち、生産様式そのものは、まだ特殊な資本主義的性格を帯びてはいなかった。資本の可変的要素は不変的要素よりもずっと重きをなしていた。したがって、賃労働に対する需要は、資本が蓄積されるにつれて急速に増大したが、他方、賃労働の供給は、緩慢にしか需要についていかなかった。国民的生産物の一大部分は、のちには資本の蓄積財源に転換されたが、当時はまだ労働者の消費財源の中に入っていった。
 
⑪もともと労働者の搾取を目的とし、その進行中もつねに同じように労働者に敵対的である、賃労働に関する立法は、イギリスでは1349年、エドワード3世の“労働者規制法 Statute of Labourers ”によって開始される。フランスでこれに照応するものは、ジャン王の名で公布された1350年の王令である。イギリスとフランスの立法は並行して進み、内容からみても同一である。これらの労働者法が労働日の延長を強制しようとする限りでは、私はそれには立ち戻らないことにする。この点は先に(第8章、第5節)論じたからである。
 
⑫“労働者規制法”は下院の切迫した訴えに基づいて公布された。 あるトーリー党員は素朴にも次のように言っている。「以前は貧民たちが高い労賃を要求して、産業と富とをおびやかした。今では彼らの賃金はあまりにも低くて、同じように産業と富とをおびやかしているが、しかし事態は当時とは違っており、おそらく当時よりもいっそう危険である」。

 
⑬法定賃金率が、都市と農村について、出来高仕事と日ぎめ仕事について確定された。農村労働者は一年契約で、都市労働者は「公開市場」で雇用されなければならない。法定賃金よりも高く支払うことは禁固刑をもって禁止されるが、しかし法定よりも高い賃金を受け取ることは、それを支払うことよりも重く処罰される。こうして、エリザベス徒弟法の第18条および19条においても、法定より高い賃金を支払うものは10日の禁固刑を科されるのに対して、これを受け取るものは21日の禁固刑を科される。
・1360年の一法令は、刑罰をいっそうきびしくし、さらに肉体的強制によって法定賃金率で労働をしぼり取る権限をも雇い主に与えた。レンガ積み工や大工を相互に団結させるいっさいの結合、契約、誓約などは無効と宣言されている。労働者の団結は、14世紀から団結禁止法が廃止された1825年まで、重罪として取りあつかわれている。
・1349年の労働者法やそれに続いて誕生した諸法の精神は、労賃の最高限は国家によってたしかに命令されるが、しかし最低限は決して命令されないということから見て、まったく明らかである。

 
⑭16世紀には、周知のように、労働者の状態は非常に悪化した。貨幣賃金は上昇したが、貨幣の減価とそれに照応する物価の騰貴に比例しては上昇しなかった。したがって、賃金は実際には下落した。それにもかかわらず、賃金を引き下げるための諸法律は、「だれもこれを雇おうと欲しない」人々の耳切りやらく印と共に存続した。エリザベス第5年の徒弟法第3章によって、治安判事は、ある種の賃金を確定し季節や物価に応じてそれを修正する権限を与えられた。ジェームズ一世はこの労働規制を、織物工、紡績工、およびありとあらゆる労働者の部類に拡張し、ジョージ二世は労働者の団結を禁止する諸法律をすべての製造業に拡張した。
 
⑮本来のマニュファクチュア時代には、資本主義的生産様式は労賃の法律的規制を実行不可能で不用なものにするに十分な強さに達していたが、それでも、人々は非常事態にそなえて古い兵器庫の武器なしですませようとは望まなかった。ジョージ二世第8年の法も、ロンドンとその周辺の裁縫職人に対して、一般的服喪の場合を除き、2シリング7ペンス半よりも多い日賃金を禁止した。ジョージ三世第13年の法、第68章も、絹職工の労賃の規制を治安判事に一任した。1796年になっても、労賃に関する治安判事の命令が非農業労働者にも適用されるかどうかを決定するためには、上級の裁判所の二つの判決が必要であった。1799年にもまだ、スコットランドの鉱山労働者の賃金は、エリザベスの一法と1661年および1671年のスコットランドの二つの法とによって規制されるということが、一つの法律によって確認された。そのあいだに事情がいかに激変したかは、イギリスの下院における前代未聞の一事件によって証明された。下院では400年以上も前から、労賃が絶対に超えてはならない最高限についての諸法律が製造されてきたが、この下院で1796年に、ウィットブレドが農業日雇い労働者のために一つの法定最低賃金を提案した。ピットは反対したが、「貧民の状態が悲惨(cruel)である」ことは認めた。ついに1813年に、賃金規制に関する諸法律は廃止された。資本家が自分の私的立法によって工場を取り締まり、救貧税によって農村労働者の賃金を不可欠な最低限まで補足されるようになってからは、これらの法律はこっけいな変則になっていた。契約を破った雇い主に対して民事訴訟を起こすことだけしか許さないのに、契約を破った労働者に対しては刑事訴訟を起こすことを許す、このような雇い主と賃労働者との契約や起源つき解除予告、その他に関する労働者法規〔第3版と第4版では、労働法規・・ディーツ版編集者〕の諸規定は、こんにちにいたるまで完全に有効である。

⑯団結を禁止する残酷な諸法律は、1825年にプロレタリアートの威嚇的態度にあって破滅した。けれども破滅したのは一部分だけであった。古い諸法規のいくつかのうるわしい残片は、1859年になってやっと消滅した。最後に1871年6月29日の法律は、“労働組合 Trades' Unions ”の法律承認によってこの階級立法の最後の痕跡を除去するふりをした。しかし、同じ日付の一法律(“暴力、脅迫、妨害に関する刑法改正法 An act to amend the criminal law relating to violence, threats and molestation ”)は、事実上、以前の状態を新しい形態で再現した。この議会的手品によって、ストライキやロック・アウト(工場主たちが同盟し、自分たちの工場を同時に閉鎖することによって行うストライキ)に際して労働者が用いうる手段が、普通法による規制から特別刑法による規制に移され、この刑法の解釈は治安判事の資格を持つ工場主自身にゆだねられた。2年前には、この同じ下院と同じグラッドストン氏とが、周知の誠実なやり方で、労働者階級に対するいっさいの特別刑法を廃止するため一つの法案を提出した。しかし、それは第二読会より先には進められず、こうして事態が長引かされて、ついに「大自由党」は、トーリー党との提携に勇気づけられて、自分を支配的地位に押し上げてくれたまさにそのプロレタリアートに、断固として敵対するにいたった。この裏切りだけでは満足しないで、「大自由党」は、支配階級に奉仕していつでも尻尾を振っているイギリスの裁判官たちに、「陰謀」を規制するための古ぼけた諸法律をふたたび掘り出してそれらを労働者の団結に適用することを許した。要するに、イギリスの議会は、ただいやいやながら大衆の圧力のもとにストライキや“労働組合”を禁止する諸法律を放棄したが、それも、すでにこの議会そのものが5世紀の久しきにわたり、労働者に対抗する常設の資本家“組合”としての地位を、恥知らずの利己主義をもって保持してきてから後のことだったのである。

⑰革命の嵐が始まると同時に、フランスのブルジョアジーは、労働者がやっと獲得したばかりの団結権をふたたび彼らから取り上げた。1791年6月14日の布告によって、ブルジョアジーはいっさいの労働者団結を「自由と人権宣言とに対する侵害」だと宣言し、500リーヴルの罰金と一年間の公民権剥奪とをもって罰せられるべきものとした。この法律は、資本と労働との競争戦を国家の警察権によって資本に好つごうな限度内に押しこめるのであるが、それはいくつかの革命や王朝の交替を通して生き続けた。恐怖政治でさえもこれには手を触れなかった。それはようやく最近になって“刑法典 Code Penal ”から抹消された。このブルジョアのクーデターの口実以上に特徴的なものはない。報告者ル・シャプリエは次のように言う・・「労賃が現在より高くなることによって、これを受け取る者が、生活必需品の欠乏に基づく、ほとんど奴隷的従属である絶対的従属からまぬがれることは望ましいことである」が、しかし労働者が彼らの利害について協定し、共同で行動し、それによって彼らの「ほとんど奴隷状態である絶対的従属」を軽減することは許されない。彼らはまさにそうすることによって「彼らの“かつての親方 cidevant maitres ”である今の企業家の自由」(労働者を奴隷状態に維持する自由!)を侵害するからであり、また、以前の同職組合親方の専制に対抗する団結は―何を言い出すことやら!―フランス憲法によって廃止された同職組合の再建だからである!。
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by shihonron | 2010-12-07 23:30 | 学習会の報告


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