『資本論』を読む会の報告

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2011年 02月 08日

第213回  2月8日 第1章 貨幣資本の循環 第1節 その2

 
⑪他方では、貨幣状態にある資本価値もまた、貨幣諸機能を果たしうるだけで、他の機能は果たし得ない。この貨幣諸機能を資本諸機能にするものは、資本の運動の中での貨幣諸機能の一定の役割であり、それゆえまた、貨幣諸機能が現われる段階と資本の循環の他の諸段階との連関である。たとえば、さしあたりいまの場合には、貨幣が諸商品に転化されるのであって、それら諸商品の結合が生産資本の現物形態をなし、したがって、この形態は、潜在的に――可能性から見て――すでに資本主義的生産過程の結果を自己のうちに包蔵しているのである。

★貨幣資本Gは、貨幣の機能を果たし商品(労働力Aと生産手段Pm)を購入する。しかし購入した労働力Aと生産手段Pmは、生産的消費=商品を生産するためのものである。G―W<A Pm(労働力と生産手段の購入)の後に続く資本の運動は、生産過程で剰余価値を含む商品を生産することである。購入された労働力Aと生産手段Pmは、生産資本の現物形態であり、潜在的に――可能性から見て――すでに資本主義的生産過程の結果を自己のうちに包蔵している。

★《この形態は、潜在的に――可能性から見て――すでに資本主義的生産過程の結果を自己のうちに包蔵している》の《この形態》を、労働力と生産手段と理解したのだが、それでいいのだろうか。

⑫G―W<A Pmにおいて貨幣資本の機能を果たす貨幣の一部分は、この流通そのものの完了によって、一つの機能――そこではその貨幣部分の資本性格が消え失せてその貨幣性格が残る一機能――へ移るようになる。貨幣資本Gの流通は、G―PmとG―Aとに、生産諸手段の購買と労働力の購買とに、分かれる。このあとのほうの過程そのものを考察してみよう。G―Aは、資本家の側から見れば、労働力の購買である。それは、労働者すなわち労働力の保有者の側から見れば、労働力――ここでは労賃という形態が前提されているのだから労働と言ってもよい――の販売である。買い手にとってG―W(=G―A)であるものが、ここでは、どの購買の場合にもそうであるように、売り手(労働者)にとってはA―G(W―G)であり、彼の労働力の販売である。これは、商品の第一の流通段階または第一の変態である(第一部、第三章、第二節a〔本訳書、第一巻、一七七―一九四ページ〕)。これは、労働の売り手の側から見れば、彼の商品の、その貨幣形態への転化である。こうして手に入れた貨幣を、労働者は徐々に、自分の諸欲求を満たす諸商品総額に、消費諸物品に、支出していく。したがって、彼の商品の総流通は、A―G―W、すなわち第一にはA―G(=W―G)、第二にはG―Wとして現われ、したがって、単純な商品流通の一般的形態であるW―G―W――そこでは貨幣は、単なる束の間の流通手段、すなわち商品と商品との交換の単なる媒介者の役を演じる――として現われる。
 
⑬G―Aは、貨幣資本の生産資本への転化を特徴づける契機である。なぜなら、それは、貨幣形態で前貸しされた価値が現実に資本に――剰余価値を生産する価値に――転化するための本質的条件だからである。G―Pmは、G―Aによって購買された労働総量を実現するために必要であるにすぎない。それ故、第一部、第二篇「貨幣の資本への転化」〔本訳書、第一巻、二四九―三〇二ページ〕では、G―Aがこの観点から叙述された。ここでは事態が、さらにもう一つ別の観点から、特に資本の現象形態としての貨幣資本に関連して考察されなければならない。
 
⑭G―Aは、一般に、資本主義的生産様式にとって特徴的なものとみなされる。しかし、一般にそうみなされるのは、労働力の購買が、労働力の価格である労賃の補填に必要であるよりも多量の労働の提供――すなわち、前貸価値の資本化のための、または同じことであるが剰余価値の生産のための根本条件である剰余労働の提供――の、約定がなされる購買契約であるという、上述の理由からでは決してない。そうではなく、むしろ、労働が労賃の形態で貨幣で購買されるという労働力購買の形態の為であり、これが貨幣経済の特徴的標識とみなされるのである。

★《貨幣経済》と《資本主義的生産様式》はここでは同じ意味なのだろうか。一資本主義的生産様式を一般には、貨幣経済としてとらえられているということか。
《貨幣経済》は、「商品経済」の別名なのだろうか。
 
⑮さらに、ここで特徴的なこととみなされるのは、形態の不合理さでもない。この不合理さはむしろ見逃される。不合理さは、価値形成要素としての労働そのものはなんらの価値ももち得ないということ、したがってまた一定分量の労働は、その労働の価格――その労働と一定分量の貨幣との価格――で表わされるなんらの価値ももち得ないということにある。しかし、われわれが知っているように、労賃は一つの仮装形態にすぎないのであり、この形態においては、たとえば労働力の日価格は、この労働力によって一日のあいだに流動化される労働の価格として表わされ、したがって、たとえば、この労働力によって六時間の労働で生産される価値が、この労働力の一二時間の機能または労働の価値として表現されるのである。
 
⑯G―Aがいわゆる貨幣経済に特徴的なもの、その標識とみなされるのは、ここでは労働がその所有者の商品として現われ、それ故貨幣が買い手として現われるからである――したがって貨幣関係(すなわち人間活動の売買)のためである。ところでしかし、Gが貨幣資本に転化しなくても、すなわち経済の一般的性格が変革されなくても、貨幣はすでにずいぶん早くからいわゆる勤労(サーヴィス)の買い手として現われる。

■《勤労》は、岡崎訳では《用役》となっている。
 
⑰貨幣がどんな種類の商品に転化されるかは、貨幣にとってはまったくどうでもよいことである。貨幣はすべての商品の一般的等価形態であり、すべての商品は、それらが観念的に一定額の貨幣を表わし、貨幣への転化を期待し、そして貨幣との場所変換によってのみ、商品所有者にとっての使用価値に転化されうる形態を受け取るということを、すでにそれらの価格において示している。それ故、労働力がひとたびその所有者の商品として市場に現われ、その販売が労働に対する支払いの形態で――労賃の姿態で――行なわれるやいなや、労働力の売買は、他のどの商品の売買と比べても、奇異な感を与えるような点はまったく見られない。商品である労働力が買いうるものであるということが特徴的なのではなく、労働力が商品として現われることが特徴的なのである。
 
⑱生産の対象的諸要因と人的諸要因とが商品からなる限り、資本家は、G―W<A Pmすなわち貨幣資本の生産資本への転化によって、この両要因の結合を達成する。貨幣がはじめて生産資本に転化されるとき、または貨幣がその所有者のためにはじめて貨幣資本として機能するときには、その所有者は、労働力を購買する前に、まず生産諸手段、すなわち、作業用建物、機械などを購買しなければならない。というのは、労働力が彼の支配下に移るやいなや、それを労働力として使用しうるためには、そこに生産諸手段が存在しなければならないからである。
 
⑲資本家の側から見れば、事態は以上のごとくである。
 
⑳労働者の側から見れば――彼の労働力の生産的活動は、その労働力が販売されて生産諸手段と結合される瞬間からはじめて可能になる。すなわち、労働力は、その販売以前には、生産諸手段――活動の対象的諸条件――から分離されて存在する。この分離状態にあっては、労働力は、直接にその所有者のための使用価値の生産にも、またその所有者が生活しうるために販売する商品の生産にも、使用され得ない。しかし、労働力は販売されることによって生産諸手段と結合されるやいなや、労働力も、生産諸手段と同じように、その買い手の生産資本の一構成部分をなす。

★購買され資本家のものとなった労働力と生産手段が生産資本と呼ばれている。販売者の手にあっては、労働力も生産手段も商品であったが、資本家のものとなった労働力と生産手段はすでに商品ではなく、生産資本である。
 
(21)それ故、G―Aという行為では、貨幣所有者と労働力所有者とは、買い手および売り手として関係し合い、貨幣所有者および商品所有者として相対するにすぎず、したがってこの面から見れば互いに単なる貨幣関係にあるにすぎないとはいえ――それにもかかわらず、買い手は、最初から同時に生産諸手段の所有者として登場するのであって、この生産諸手段は、労働力の所有者が労働力を生産的に支出するための対象的諸条件をなしている。言い換えれば、この生産諸手段は、労働力の所有者に対して他人の所有物として相対する。他方では、労働の売り手は、その買い手に対して他人の労働力として相対するのであり、この労働力は、買い手の資本が現実に生産資本として自己を発現するために買い手の支配下に移り、彼の資本に合体されなければならない。したがって、資本家と賃労働者との階級関係は、両者がG―A(労働者の側から見ればA―G)という行為で相対する瞬間に、すでに現存し、すでに前提されている。それは、売買であり、貨幣関係であるが、しかし、買い手は資本家として、売り手は賃労働者として、前提される売買であり、この関係は、労働力の具現のための諸条件――生活諸手段および生産諸手段――が他人の所有物として労働力の所有者から分離されるとともに、与えられている。

★貨幣関係=商品の買い手と売り手の関係
 資本家と賃労働者の階級関係(資本・賃労働関係あるいは資本関係)=生産手段を持ち労働力の購買 者である資本家と 生活手段と生産手段を所有せず労働力を販売する以外に生きていくことのできな い賃労働者との関係

 ■《さらに明らかなように、労働日の支払部分すなわち六時間の労働を表している三シリングの価値が、六不払時間を含む一二時間の総労働日の価値または価格として現れる。したがって、労賃の形態は、必要労働と剰余労働への、支払労働と不払労働への労働日の分割のあらゆる痕跡を消してしまう。すべての労働が支払労働として現れる。夫役労働では、自分自身のための夫役者の労働と領主のための彼の強制労働とは、空間的にも、時間的にも、はっきり感性的に区別される。奴隷労働では、労働日のうち、奴隷が自分自身の生活手段の価値を補填するにすぎない部分、したがって、彼が実際に自分自身のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現れる。彼のすべての労働が不払労働として現れる(28)。その反対に、賃労働では、剰余労働または不払労働さえも支払労働として現れる。奴隷の場合には所有関係が、奴隷の自分自身のための労働を隠蔽し、賃労働の場合には貨幣関係が、賃労働者の無償労働を隠蔽する》(『資本論』第17章 労働力の価値または価格の労賃への転化 第12段落)
 
(22)この分離がどのようにして生じるかは、われわれはここでは論じない。この分離は、G―Aが行なわれるやいなや、存在する。ここでわれわれが関心をもつのは次のことである。すなわち、G―Aが貨幣資本の一機能として現われるとしても、すなわち、貨幣がここで資本の存在形態として現れるとしても、それは、決して、単に、貨幣がここではある有用効果をもつある人間活動すなわちある勤労に対する支払手段として登場するからではない――したがって、決して支払手段としての貨幣の機能によってではない――ということである。貨幣がこの形態で支出されうるのは、ただ、労働力がそれの生産諸手段(労働力そのものの生産諸手段としての生活諸手段を含む)から分離された状態にあるからにすぎず、そしてこの分離は、ただ、労働力が生産諸手段の保有者に販売されることによってのみ、したがってまた、労働力の流動体――流動化〔労働すること〕の限界は、労働力それ自身の価格の再生産に必要な労働総量の限界とは決して一致しない――も買い手に所属するということによってのみ、取り除かれるからである。資本関係が生産過程中に出現してくるのは、ただ、この関係自体が流通行為のうちに、買い手と売り手とが相対し合う異なる経済的基本諸条件のうちに、彼らの階級関係のうちに、実存するからにすぎない。貨幣の本性とともにこの関係が与えられているのではない。むしろ、この関係の定在こそが、単なる貨幣機能を資本機能に転化させうるのである。

★《異なる経済的基本条件》とは、資本家は生産手段を所有しており、賃労働者は生活手段と生産手段を所有しておらず労働諸条件から切り離されているということ。
 
(23)貨幣資本(われわれは、さしあたり、貨幣資本がわれわれに対してここで立ち現われる特定の機能の範囲内でのみこれを問題にする)の把握においては、通常、二つの誤りが並立または交錯している。第一には、資本価値が貨幣資本として果たす――そして資本価値が貨幣形態にあるからこそ果たしうる――諸機能が、誤って資本価値の資本性格から導き出される。それらの機能は、ただ資本価値の貨幣状態、資本価値の貨幣としての現象形態のせいにすぎないのにである。また、第二にはその逆に、貨幣機能を同時に一つの資本機能にする貨幣機能の独自な内実が貨幣の本性から導き出される(それ故貨幣が資本と混同される)。この資本機能は、ここでG―Aが遂行される場合にもそうであるが、単なる商品流通およびそれに照応する貨幣流通では決して与えられていない社会的諸条件を前提しているのにである。

★《単なる商品流通およびそれに照応する貨幣流通では決して与えられていない社会的諸条件》とは、労働者(直接的生産者)が、労働諸条件から分離されているということ。
 
(24)奴隷の売買も、その形態から見れば、商品の売買である。しかし、奴隷制が存在しなければ、貨幣はこの機能を果たし得ない。奴隷制が存在すれば、貨幣は奴隷の購入に投じられうる。逆に、貨幣が買い手の手中にあるだけでは、決して、奴隷制を可能にするのに十分ではない。
 
(25)自己の労働力の販売(自己の労働をうるという形態での、すなわち労賃という形態での)が、孤立した現象としてではなく、諸商品の生産の社会的標準的な前提として現れるということ、したがって貨幣資本がここで考察される機能G―W<A Pmを社会的規模で果たすということ――このことは、生産諸手段と労働力との本源的結合を解体させた歴史的諸過程を想定しており、〔したがって〕その諸過程の結果、この生産諸手段の非所有者としての人民大衆すなわち労働者と、この生産諸手段の所有者としての非労働者とが相対するにいたる諸過程を想定している。この場合、この結合が、それが分解するまで、労働者自身が生産手段として他人の生産諸手段の一部であるという形態をとっていたのか、それとも労働者が生産諸手段の所有者であったのか、ということは、まったく問題ではない。

★労働力を購買することができるのは、労働力が商品となっているからであり、労働力が商品となるのは、労働者が生産手段を(したがって生活手段も)所有していないからである。
 
(26)したがって、ここでG―W<A Pmという行為の基礎になっている事実は分配なのである。といっても、消費諸手段の分配という普通の意味での分配ではなく、生産の諸要素そのものの分配であって、これら諸要素のうち、対象的諸要因は一方の側に集中しており、労働力はそれとは離れて反対の側にある。
 
(27)したがって、生産資本の対象的部分である生産諸手段は、G―Aという行為が一般的社会的行為となりうる以前に、すでにそういうものとして、資本として、労働者に相対していなければならない。
 
(28)前述したように〔本訳書、第一巻、九六七―一三二五ページ参照〕、資本主義的生産は、ひとたび創始されると、その発展中にこの分離を再生産するだけでなく、絶えずより大きな範囲にそれを拡大しもするのであって、ついにはこの分離が一般的支配的な社会状態になってしまう。しかし事態はもう一つ別の面を呈する。資本が形成され、それが生産を支配できるようになるためには、商業の――したがってまた商品流通の、それとともに商品生産の――ある一定の発展段階が前提される。というのは、物品は、販売のために、すなわち商品として、生産されない限りは、商品として流通に入り込むことはできなからである。ところが、商品生産は、資本主義的生産の基礎上ではじめて生産の正常な性格として現われる。
(29)ロシアの土地所有者たちは、いわゆる農民解放の結果、いまや農奴的強制労働者の代わりに賃労働者を使って彼らの農業を営んでいるが、彼らは二つのことについて不平を言う。第一には貨幣資本の欠乏について。たとえば次のように言う――収穫物を売る前に比較的大きな金額を賃労働者に支払わなければならないが、その時、その第一条件である現金が足りない、と。生産を資本主義的に営むためには、貨幣の形態にある資本が、まさにこの労賃の支払のために、絶えず手もとになければならない。しかし、この点では土地占有者たちは気を落とすにはおよばない。時がくればバラの花が摘めるのであり、〔やがて〕産業資本家は、自分の金(カネ)だけでなく”他人の金(カネ)”をも自由に利用するのである。
 
(30)しかし、もっと特徴的なのは第二の不平である。すなわち――たとえ金はあっても、買うことのできる労働力が十分な程度で任意の時に自由には使えない、というのである。それというのも、ロシアの農村労働者は、土地に対する村落共同体の共同所有のためにまだ完全にはその生産諸手段から分離されておらず、それ故まだ言葉の完全な意味での「自由な賃労働者」ではないからである。しかし、社会的規模のでのこの賃労働者の現存は、G―Wすなわち貨幣の商品への転化が貨幣資本の生産資本への転化として現われうるためには、欠くことのできない条件である。
 
(31)こうして、貨幣資本の循環を表わす定式G―W・・P・・W’―G’が、すでに発展した資本主義的生産の基礎上でのみ、資本循環の自明な形態であることは、自ずから明らかである。なぜなら、それは、社会的規模での賃労働者階級の現存を前提するからである。資本主義的生産は、すでに見たように、商品および剰余価値を生産するだけではない。それは、賃労働者の階級を、しかも絶えず拡大する規模で再生産し,直接的生産者の圧倒的大多数を賃労働者に転化させる。それ故、G―W・・P・・W’―G’は、その進行の第一の前提が賃労働者階級の恒常的な現存であるから、すでに、生産資本の形態にある資本を、それ故また生産資本の循環の形態を想定している。
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by shihonron | 2011-02-08 23:25 | 学習会の報告


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