『資本論』を読む会の報告

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2011年 02月 22日

第215回 2月22日 第3節

2月22日(火)に第215回の学習会を行いました。
「第3節 第三段階、W’―G’」についてレジュメに基づく報告を受け、第1段落から第17段落までを検討しました。

以下は第3節の検討した範囲のレジュメです。

第一篇 資本の諸変態とそれらの循環
    第三節、第三段階、W’―G’

(1)商品は、すでに価値増殖された資本価値の、直接に生産過程そのものから生じた機能的定在形態として、商品資本となる。商品生産がその全社会的範囲において資本主義的に営まれるならば、すべての商品は、はじめから商品資本の要素であろう。
 
(2)資本は、その商品形態においては商品機能を果たさなければならない。資本を構成する諸物品は、はじめから市場のために生産されるもので、販売され、貨幣に転化され、したがってW―Gという運動を経過しなければならない。

★ ・商品機能とは、販売され、貨幣に転化されること。価値の大きさは変化しない。(2)(23)
  ・貨幣機能とは、購買し、商品に転化すること。価値の大きさは変化しない。(22)(23)
  ・資本機能とは、剰余価値を生み出し、より大きい価値になること。(3)
 
(3)資本家の商品が一万ポンドの綿糸からなるとしよう。紡績過程で三七二ポンド・スターリングの価値の生産諸手段が消費され、一二八ポンド・スターリングの新価値がつくり出されたとすれば、この糸は五〇〇ポンド・スターリングの価値をもち、その価値をそれと同名の価格で表現する。この価格が販売W―Gによって実現されるとしよう。すべての商品流通のこの単純な過程を、同時に一つの資本機能にするものはなにか? それは、この過程の内部で生じる変化ではない。すなわち、商品の使用上の性格に関して生じる変化でもなければ――というのは、この商品は使用対象として買い手の手に移るのであるから――、またその価値に関して生じる変化でもない――というのは、その価値は大きさの変化をこうむるのではなく、形態変換をこうむるだけであるから。その価値は、はじめは綿糸の中に存在したが、いまやそれは貨幣の中に存在する。こうして、最初の段階G―Wと最後の段階W―Gとのあいだには一つの本質的な区別が現われる。G―Wでは、前貸しされた貨幣が貨幣資本として機能する。なぜなら、それが流通の媒介によって独自な使用価値をもつ諸商品に転換されるからである。W―Gでは、商品が資本として機能しうるのは、その流通が始まる前に、この資本的性格を既成のものとして生産過程から持ち込んでくる限りのことでしかない。

 1万ポンドの糸の価値500=422P+78M=(372Pm+50A)+78M=W(422)+w(78)=W’

一万ポンドの糸の価値表現として、WをW’にするものは、W’の価値の絶対的大きさ(五〇〇ポンド・スターリング)ではない。というのは、この価値の〔絶対的〕大きさは、何らかの他の商品額の価値表現である他のすべてのWの場合と同様に、その商品額に対象化されている労働の大きさによって規定されているからである。WをW’にするものは、W’の価値の相対的大きさ、W’の生産に消費された資本Pの価値に比べてのW’の価値の大きさである。資本Pの価値は、生産資本によって提供された剰余価値をプラスして、W’の価値の大きさに含まれている。W’の価値は、この剰余価値wだけ、より大きく、この資本価値を超過している。一万ポンドの糸は、価値増殖された――剰余価値で増大された――資本価値の担い手である。そして、それがそうであるのは、資本主義的生産過程の生産物としてである。W’は価値関係を表現する。すなわち、商品生産物の価値とそれの生産に支出された資本の価値との関係、したがって、商品生産物の価値が資本価値と剰余価値とから構成されていることを、表現する。一万ポンドの糸は、生産資本Pの転化された形態としてのみ、したがって、さしあたりこの個別資本の循環のうちだけに存在する連関の中でのみ、言い換えれば、自己の資本で糸を生産した資本家にとってのみ、商品資本W’である。価値の担い手としての一万ポンドの糸を商品資本にするものは、いわば内的関係だけであって、決して外的関係ではない。この糸は、その価値の絶対的大きさにおいてではなく、その価値の相対的大きさにおいて、すなわち、この糸に含まれている生産資本が商品に転化される以前にもっていた価値の大きさにおいて、その資本主義的母斑をそなえている。それ故、もしこの一万ポンドの糸が五〇〇ポンド・スターリングというその価値通りに販売されるならば、この流通行為は、それ自体として考察すれば、W―Gであり、ある不変な価値の商品形態から貨幣形態への単なる転化である。しかし、一つの個別資本の循環の中の特殊な段階としては、この同じ行為が、商品によって担われた資本価値四二二ポンド・スターリング、プラス、商品によって担われた剰余価値七八ポンド・スターリング、の実現であり、したがってW’―G’であり、商品形態から貨幣形態への商品資本の転化である。

★G―Wでは、貨幣で生産手段と労働力を購買する。購買して資本家の手の中にある生産手段と労働力が生産資本として機能するからこそ、Gは貨幣資本(貨幣形態をとっている自己増殖する価値)として機能する。W’―G’で商品資本(商品形態をとっている自己増殖する価値)として機能しうるのは、その資本的性格を生産過程の結果として受け取っているからである。

★内的関係とは、W’がPの転化形態であり、前貸し資本価値に剰余価値を加えた価値を持っていること。外的関係とは、貨幣に転化することを指している。

(4)さて、W’の機能は、すべての商品生産物の機能である――すなわち、自己を貨幣に転化すること、販売されること、流通局面W―Gを経過することである。いまや価値増殖された資本が商品資本の形態にとどまり続け、市場に滞留する限り、生産過程は停止する。この資本は、生産物形成者としても価値形成者としても作用しない。資本がその商品形態を脱ぎ捨ててその貨幣形態をとる速度の相違に応じて、すなわち、販売の迅速さに応じて、同じ資本価値が生産物形成者および価値形成者として役立つ程度はおおいに異なり、再生産の規模は拡大または縮小されるであろう。与えられた一資本の作用度が、その資本自身の価値の大きさにはある程度まで依存しない、生産過程の諸力能によって条件づけられている。ということは、第一部で明らかにされた〔第1部第22章「絶対的剰余価値の生産」〕。ここでは、流通過程が、資本の価値の大きさには依存しない、資本の作用度――すなわち資本の膨張および収縮――の新たな諸力能を運動させることが明らかにされている。

■第1部第22章「絶対的剰余価値の生産」の指示されている箇所では「労働力のより高度な緊張によって生み出される追加労働は、それに比例して不変資本部分を高めることなしに、剰余生産物と剰余価値を、すなわち蓄積の実体を増加させることができる」「(鉱山業のような採取産業では)不変資本をあらかじめ増加することなしに蓄積の領域が拡大される」ことなどが指摘され、「一般的な結論――資本は、富の二つの原形成者、すなわち労働力と土地とをみずからに合体させることによって膨張力を獲得するのであって、これにより資本は、一見すると資本自身の大きさによって定められた限界を超えて、すなわち資本の定在形態たる、すでに生産されている生産手段および総量によって定められた限界を超えて、自己の蓄積の諸要素を拡大させることができる」と延べている。
 
(5)商品総量W’は、価値増殖された資本の担い手として、その全部がさらに変態W’―G’を成し遂げなければならない。ここでは、販売されるものの量が本質的な規定となる。個々の商品は、いまではもはや総量の不可欠な部分としての役を演じるにすぎない。五〇〇ポンド・スターリングの価値が一万ポンドの糸の中に実存する。もし資本家が七四四〇ポンドだけを三七二ポンド・スターリングというその価値で販売するのに成功するならば、彼は、彼の不変資本の価値の大きさを補填したにすぎない。彼は、剰余価値を実現するためには、もっと多く販売しなければならないのであり、七八ポンド・スターリング(=一五六〇ポンドの糸)という全剰余価値を実現するためには、一万ポンドの糸を全部販売しなければならない。したがって、五〇〇ポンド・スターリングの貨幣では、彼は販売された商品の等価物を受け取るにすぎない。流通内部での彼の取り引きは、単純なW―Gである。
 
(6)W’=W+w(=422ポンド・スターリング+78ポンド・スターリング)――Wは、Pすなわち生産資本の価値に等しく、この後者(生産資本の価値)は、生産諸要素の購買G―Wに前貸しされたGの価値に等しい。われわれの例では、四二二ポンド・スターリングである。この商品総量がその価値通りに販売されるならば、Wは四二二ポンド・スターリングに等しく、wは、一五六〇ポンドの糸という剰余生産物の価値である七八ポンド・スターリングに等しい。貨幣で表現されたwをgと呼べば、W’―G’=(W+w)―(G+g)であり、したがって、G―W・・P・・W’―G’という循環は、その明細な形態では、G―W<A Pm ・・P・・(W+w)―(G+g)である。

★W―G w―g
 
(7)第一段階では、資本家は使用物品を本来の商品市場および労働市場から持ち去る。第三段階では、彼は商品を投げ返す――ただし、ただ一つの市場、本来の商品市場にだけ。しかし彼は、自分の商品によって、自分が最初に市場に投げ入れたよりも多くの価値を再び市場から持ち去るが、それは、彼が最初に持ち去ったよりも大きい商品価値を投げ入れるからに他ならない。彼は価値Gを投げ入れ、そして等価値Wを持ち去った。彼はW+wを投げ入れ、そして等価値G+gを持ち去る。――Gはわれわれの例では八四四〇ポンドの糸の価値に等しかった。ところが彼は、一万ポンドを市場に投げ込むのであり、したがって、彼は自分が市場から取ったよりも大きい価値を市場に与える。他方では、彼がこの増大した価値を投げ入れたのは、彼が生産過程で剰余価値(剰余生産物で表わされた、生産物の加除部分としての)を労働力の搾取によって生産したからに他ならない。この過程の生産物としてのみ、商品総量は商品資本であり、増殖された資本価値の担い手である。W’―G’の遂行によって、前貸資本価値も剰余価値も実現される。この両者の実現は、W’―G’で表現される総商品量の順次の販売あるいはまた一括販売で、同時に行なわれる。しかし、同じ流通過程W’―G’も、それが資本価値の場合と剰余価値の場合とでは、それぞれにとって両者の流通の異なる一段階を表現する限りにおいて、すなわち両者が流通の内部で経過すべき変態系列の中の異なる一部分を表現する限りにおいて違いがある。wすなわち剰余価値は、生産過程の内部ではじめて生み出された。したがってそれは、はじめて商品市場に、しかも商品形態で現われる。商品形態は剰余価値の最初の流通形態であり、それ故w―gという行為も剰余価値の最初の流通行為またはその最初の変態であり、したがって、この変態は反対の流通行為または逆の変態g―wによってさらに補足されなければならない。

(8)資本価値Wが同じ流通行為W’―G’で行なう流通については事情は異なるのであって、このW’―G’は、資本価値Wにとっては流通行為W―Gであり、そこではW=P〔生産資本の価値〕で、最初に前貸しされたGに等しい。資本価値は、その最初の流通行為を、Gとして、貨幣資本として開始し、W―Gという行為によって同じ形態に復帰する。このように、それは、(一)G―Wと(二)W―Gという対立する二つの流通局面を経過して、再び、同じ循環過程を新たに開始しうる形態にある。剰余価値にとっては、商品形態の貨幣形態への最初の転化であるものが、資本価値にとっては、その最初の貨幣形態への復帰または再転化である。
 
(9)G―W<A Pmによって、貨幣資本は、同じ価値額の商品総額AおよびPmに転化された。それらの価値は、いまやそれらの買い手の手中に、資本家の手中に、彼の生産資本の価値として存在する。そして、Pの機能である生産的消費において、それらの商品は、生産諸手段とは素材的に異なる一つの商品種類、すなわち糸に転化され、この糸において、それらの商品の価値は単に維持されるだけでなく、四二二ポンド・スターリングから五〇〇ポンド・スターリングに増大される。この現実的変態によって、第一段階G―Wで市場から持ち去られた諸商品は、素材的にも異なる商品――いまや商品として機能し、貨幣に転化され、販売されなければならない商品――に置き換えられる。それ故生産過程は、資本価値の流通過程の中断としてのみ現われるのであり、この時までには、資本価値の流通過程のうちの第一局面G―Wを経過しているだけである。資本価値は、Wが素材的および価値的に変化したのち、第二の終結の局面W―Gを経過する。しかし、資本価値をそれ自体として取り上げて考察する限りでは、それは生産過程でその使用形態の変化を受けただけである。それは、AおよびPmのうちに四二二ポンド・スターリングの価値として存在したが、いまやそれは八四四〇ポンドの糸の、四二二ポンド・スターリングの価値として存在する。したがって、剰余価値から切り放して考えた資本価値の流通過程の両局面だけを考察すれば、この資本価値は(一)G―Wと、(二)W―G――この場合第二のWは、第一のWとは使用形態は変わっているが、価値は同じである――とを経過する。すなわち、資本価値は、G―W―G――貨幣から商品への転化および商品から貨幣への転化という反対の方向での商品の二重の場所変換によって、貨幣として前貸しされた価値の貨幣形態への復帰すなわち前貸価値の貨幣への再転化を必然的に生じさせる流通形態――を経過するのである。

★現実的変態とは、生産過程において、生産手段とは素材的に異なる一つの商品種類に転化されること。
流通の過程では、商品が貨幣に、あるいは貨幣が商品に転化するが、商品の使用価値には何の変化も生じない。こうした流通過程での変態に対して生産過程における変態を現実的変態と呼んでいる。
 
(10)貨幣で前貸しされた資本価値にとっては、第二の終結の変態であり貨幣形態への復帰であるこの同じ流通行為W’―G’が、商品資本によって同時に一緒に担われ商品資本の貨幣形態への転換によって同時に一緒に実現される剰余価値にとっては、第一の変態、商品形態から貨幣形態への転化、W―G、第一の流通局面である。
 
(11)したがって、ここでは二つのことが注意されなければならない。第一に、最初の貨幣形態への資本価値の最終的再転化は、商品資本の機能である。第二に、この機能は、その最初の商品形態から貨幣形態への剰余価値の第一の形態転化を含む。すなわち貨幣形態は、ここでは二重の役割を演じる。それは、一方では、最初に貨幣で前貸しされた価値の復帰形態であり、したがって、過程を開始した価値形態への復帰である。それは、他方では、最初に商品形態で流通にはいる価値の第一の転化形態である。商品資本を構成する諸商品が、ここで前提されているように、その価値通りに販売されるとすれば、W+wは同じ価値のG+gに転化される。このG+g(422ポンド・スターリング+78ポンド・スターリング=500ポンド・スターリング)という形態で、実現された商品資本がいまや資本家の手中に存在する。資本価値と剰余価値とは、いまや貨幣として、すなわち一般的等価形態で、現存する。
 
(12)このように、過程の終わりには、資本価値は、再び、それが過程に入ったときと同じ形態にあり、したがって、貨幣資本として再び新たに過程を開始し、経過することができる。過程の出発形態および終結形態が貨幣資本(G)の形態であるからこそ、循環過程のこの形態がわれわれによって貨幣資本の循環と呼ばれるのである。過程の終わりに変化しているのは、前貸しされた価値の形態ではなく、その大きさだけである。
 
(13)G+gは、一定の大きさ――われわれの場合では五〇〇ポンド・スターリング――の貨幣額以外のなにものでもない。しかし、資本の循環の結果としては、実現された商品資本としては、この貨幣額は資本価値と剰余価値とを含む。しかも、これらの二つは、いまはもう糸の中でのように互いに結合しあってはいない。それらはいまや互いにならび合っている。それらの実現が両者のそれぞれに自立的貨幣形態を与えたのである。その 211/250 は、資本価値、四二二ポンド・スターリングであり、その 39/250 は七八ポンド・スターリングの剰余価値である。商品資本の実現によって引き起こされたこの分離は、すぐ述べるような形式上の内実をもつだけではない。この分離は、gがGに全部つけ加えられるか、一部分がつけ加えられるか、またはまったくつけ加えられないかに応じて、すなわちgが前貸資本価値の構成部分として機能し続けるかいなかに応じて、資本の再生産過程において重要になる。gとGとがまったく異なる流通を経過することもありうる。

★《糸の中でのように互いに結合しあってはいない》とはどういうことか? 1万ポンドの糸のうち8440ポンドの糸は資本価値、1560ポンドは剰余価値を担っているといえるように思えるのだが。

★《gとGとがまったく異なる流通を経過する》とは、gが資本家の個人的消費に使われることを念頭に置いている。
 
(14)G’において、資本は再びそれの最初の形態Gに、それの貨幣形態に復帰している――しかし、それが資本として実現されている形態において。
 
(15)第一に、そこには量的な差がある。資本はG、四二二ポンド・スターリングであった。それがいまやG’、五〇〇ポンド・スターリングであり、この差は、量的に異なる循環の両極G・・G’で表わされ、循環の運動そのものは点線・・によって示されるだけである。G’はGよりも大きく、G’マイナスGはMすなわち剰余価値に等しい。――しかし、この循環G・・G’の結果としてはいまではもうG’が存在するだけである。それは生産物であり、この生産物ではそれの形成過程は消えてしまっている。G’はいまや、それを生み出した運動から独立して、自立的にそれ自体として存在する。運動は過ぎ去り、それに代わってG’がそこにある。

★G’を《生産物である》と述べているのは、G’が生産過程の結果として生み出されるW’の価格を実現したものであるという意味だと思われる。
 
(16)しかし、G+gとしてのG’、四二二ポンド・スターリングの前貸資本プラスその増分七八ポンド・スターリングとしての五〇〇ポンド・スターリングは、同時に質的関係を表わす――とはいえ、この質的関係そのものは、同名の総額の諸部分の関係としてのみ、すなわち量的関係としてのみ、存在するのであるが。いまや再びその最初の形態(四二二ポンド・スターリング)で現存する前貸資本Gは、いまでは実現された資本として存在する。それは自己を維持しただけでなく、自己を資本としてg(七八ポンド・スターリング)から区別することによって――このgに対してGは、自己の増加分、自己の果実、G自身によって生み出された増分に対する関係として、関係させられる――自己を資本としても実現した。Gは資本として実現されている。なぜなら、価値を生み出した価値として実現されているからである。G’は資本関係として実存する。Gはもはや単なる貨幣として現われるのではなく、はっきりと貨幣資本として措定されており、自己を増殖した価値として、したがってまた自己を増殖し自己自身がもっているよりも多くの価値を生み出す属性をもつ価値として、表わされている。Gは、G’のうちの他の部分――すなわち、Gによって措定され原因としてのGから生じさせられたものとしての、Gを根拠とする帰結としての、他の部分――にたいする自己の関係によって、資本として措定されている。こうして、G’は、自己の中で分化し、それ自身の中で機能的(概念的)に自己を区別し、資本関係を表わす、価値総額として現われる。

★「資本関係」という言葉は、第1部では「資本―賃労働関係」という意味で用いられていた。ここでの「資本関係」はそれとはやや異なっているように思える。「貨幣関係」が商品の貨幣への転化と商品の貨幣への転化という価値量に変化のない形態転換であることに対して、自己増殖する価値であること(剰余価値の生産)を「資本関係」といっているのではないか。

■《発展した商品生産である資本主義的生産では、労働する諸個人から生産手段が完全に分離して資本の形態をとっており、労働する諸個人は、資本の人格的代表者である資本家に自己の労働力を販売して生活する賃労働者となっている。このような生産関係を資本・賃労働関係、略して資本関係という。》
(大谷禎之介『図解社会経済学』35頁)

■《したがって、資本主義的生産過程は、その関連の中で考察すれば、すなわち再生産過程としては、商品だけを、剰余価値だけを生産するのではなく、資本関係そのものを、一方には資本家を、他方には賃労働者を生産し、再生産するのである》(第1部 第21章 単純再生産 第24段落) 

(17)しかし、この関係は、結果として、この結果を生じる過程の媒介なしに、表わされているにすぎない。

★G・・G’
 
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by shihonron | 2011-02-22 23:30 | 学習会の報告


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