『資本論』を読む会の報告

shihonron.exblog.jp
ブログトップ
2011年 03月 08日

第217回 3月8日 第1章 第4節

3月8日(火)に第217回の学習会を行いました。
「第4節 総循環」第4段落から第20段落までについてレジュメに基づく報告を受け検討しました。

第4節の検討した範囲のレジュメです。


     第一篇 資本の諸変態とそれらの循環
     第一章 貨幣資本の循環 第四節 総循環


 (4)資本価値がその流通段階の内部でとる両形態は、貨幣資本および商品資本という形態である。生産段階に属するそれの形態は、生産資本という形態である。それの総循環の経過中にこれらの形態を身につけてはまた脱ぎ、それぞれの形態においてその形態に照応する機能を果たす資本は、産業資本である――産業とは、ここでは、上記の資本が資本主義的に経営されるどの生産部門をも包括する、という意味である。
 
(5)したがってここでは、貨幣資本、商品資本、生産資本は、自立的な資本諸種類――すなわち、それらの機能が同じく自立的な相互に分離された事業諸部門の内容をなしているそのような自立的な資本諸種類を言い表すのではない。これらの三資本は、ここではただ産業資本の特殊な機能諸形態を言い表すだけで、産業資本はこれらの機能形態のすべてを三つとも次々にとるのである。
 
(6)資本の循環は、それの様々な局面が停滞することなく次々と移っていく限りでのみ、正常に進行する。もし資本が第一局面G―Wで停滞すれば、貨幣資本は凝固して蓄蔵貨幣となる。もし生産局面で停滞すれば、一方の側には生産諸手段が機能しないで横たわり、他方の側には労働力が就業しない状態におかれたままである。もし最後の局面W’―G’で停滞すれば、売れないで山と積まれた商品が流通の流れをせき止める。
 
(7)他方において、循環そのものが、一定の期間、循環の個々の部分において資本の固着化を生じさせることは、当然の成りゆきである。産業資本は、その諸局面のそれぞれにおいて、一定の形態に――貨幣資本、生産資本、商品資本として――縛りつけられている。産業資本は、そのときどきの形態に照応した機能を成し遂げたのちにのみ、新たな転化局面に入り込みうる形態を受け取る。このことを明らかにするために、われわれの例では、生産段階で生産された商品総量の資本価値は、最初に貨幣として前貸しされた価値の総額に等しいと仮定した。言い換えれば、貨幣として前貸しされた資本価値は全部いちどきに一つの段階からその都度次に続く段階に入ると仮定した。しかし、すでに見たように(第一部、第六章、〔本訳書、第一巻、三四〇―三五九ページ。特に三四六―三四七ページ〕)、不変資本の一部分である本来の労働諸手段(たとえば機械)は、同じ生産諸過程の多かれ少なかれ何回かの反復において、絶えず新たに役に立ち、それ故また、その価値を一部分ずつしか生産物に引き渡さない。この事情がどの程度まで資本の循環過程を修正するかは、のちに示されるであろう。ここでは次のことだけで十分である。われわれの例では、生産資本の価値=四二二ポンド・スターリングは、工場建物、機械設備などの平均的に計算された摩滅分だけを、すなわち、一万六〇〇ポンドの綿花を一万ポンドの糸に転化する際に、これらの労働諸手段が、後者〔一万ポンドの糸〕に――すなわち、毎週六〇時間の紡績過程の生産物に――移転する価値部分だけを、含んでいた。それ故また、前貸不変資本三七二ポンド・スターリングが転化する生産諸手段のうちに、建物、機械設備などの労働諸手段は、あたかも市場で毎週の分割払いで賃借りされたにすぎないかのように現われた。とはいえ、このことは事態を絶対に何一つ変えない。一週間のうちに生産される糸の量一万ポンドに、ある何年かの年数をもとに計算された週の数を掛けさえすればよいのであり、そうすれば購買されてこの期間に使い尽くされた労働諸手段の全価値が糸に移転される。こうして、前貸貨幣資本は、生産資本Pとして機能しうる前に、まずこれらの〔労働諸〕手段に転化されていなければならないこと、すなわち第一段階G―Wからすでに抜け出していなければならないことは明らかである。それと同様に、われわれの例で、生産過程中に糸に合体された資本価値額四二二ポンド・スターリングは、糸ができあがる前には、一万ポンドの糸の価値構成部分として流通局面W’―G’に入り込み得ないことも明らかである。糸は紡がれる前には販売され得ない。
 
(8)一般的定式ではPの生産物は、生産資本の諸要素とは異なる物質的な物――すなわち、生産過程から分離された実存をもつ一対象、生産諸要素の使用形態とは異なる使用形態をもつ一対象――とみなされる。そして、生産過程の結果が物として現われる場合にはいつでもそうであり、生産物の一部分が、更新された生産に再び要素としてはいりこむ場合でさえも、やはりそうである。たとえば、穀物は種子としてそれ自身の生産に役立つ。しかし、生産物は穀物だけからなっており、したがって、一緒に使用された諸要素である労働力、用具、肥料とは異なる姿態をもつ。ところが、生産過程の生産物が新たな対象的生産物でなく、商品でないような自立的な産業諸部門がある。そのうちで経済的に重要なのは交通業――商品と人間を運ぶ本来の運送業であれ、単に報道、手紙、電信などの輸送であれ――だけである。

★ここで《一般的定式》とよばれているものは、G―W・・P・・W’―G’のことであろう。

(9)これについてA・チュプローフは次のように言う――
 「工場主はまず物品を生産することができ、それからそれの消費者を求めることができる」。{彼の生産物は、完成品として生産過程から放出されたあと、生産過程とは分離された商品として流通へと移っていく}。「こうして、生産と消費とは、空間的にも時間的にも分離された二つの行為として現われる。新たな生産物をつくり出すのではなく、人間と物とを移すにすぎない輸送業では、この両方の行為が一つに融合している。その〔原文は「鉄道の」〕役立ち」{場所の変更}「は、それが生産されるのと同じ瞬間に消費されなければならない〔原文は「消費される」〕。それ故、鉄道が顧客〔原文は「自己の役立ちの販路」〕を求めうる区域は、せいぜい両側五〇ヴェルスタ」(五三キロメートル)「におよぶだけである」。
 
(10)その結果は――輸送されるものが人間であろうと商品であろうと――それらの所在場所の変更であって、たとえば、糸がいまや、それが生産されたイギリスにではなくインドにあるということである。
 
(11)ところで、輸送業が販売するものは、場所の変更そのものである。生み出される有用効果は、輸送過程すなわち輸送業の生産過程と不可分に結び付けられている。人間と商品は輸送手段と一緒に旅をする。そして、輸送手段の旅、輸送手段の場所的運動が、まさに輸送手段の作用によって生じた生産過程である。その有用効果は、生産過程の期間中にのみ消費されうる。その有用効果は、この過程とは異なる使用物――すなわち、その生産後にはじめて取り引き物品として機能し、商品として流通する使用物――としては存在しない。しかし、この有用効果の交換価値は、他のどの商品の交換価値とも同じく、その有用効果〔の生産〕に消費された生産諸要素(労働力および生産諸手段)の価値、プラス、輸送業に就業している労働者たちの剰余労働が創造した剰余価値、によって規定されている。この有用効果は、その消費とともに消え失せる。それが生産的に消費されるならば、したがって、それ自身が輸送中の商品の一生産段階であるならば、その価値は、追加価値としてその商品そのものに移転される。したがって、輸送業についての定式は、G―W<A Pm・・P―G’であろう。生産過程から分離されうる生産物ではなく、生産過程そのものが、支払われ消費されるからである。したがってこの定式は、貴金属生産についての定式とほとんどまったく同じ形態をもつのであり、ただ、輸送業ではG’は生産過程中に生み出された有用効果の転化形態であって、この過程中に生み出されてそこから放出された金または銀の現物形態でないだけのことである。
 
(12)産業資本は、そこにおいて剰余価値または剰余生産物の取得だけでなく、同時にそれの創造も資本の機能となっている、資本の唯一の定在様式である。それ故、産業資本は、生産の資本主義的性格の条件となる。産業資本の定在は、資本家と賃労働者との階級対立の定在を含む。産業資本が社会的生産を支配する程度に応じて、労働過程の技術と社会的組織が変革され、それと同時に社会の経済的歴史的類型が変革される。産業資本以前に、過去の、または没落しつつある社会的生産状態のまっただ中に現われた他の諸種類の資本は、産業資本に従属させられ、そして自己の諸機能の機構の点で産業資本に適応するように変化させられるだけでなく、いまではもう産業資本の基礎上で運動するにすぎず、それ故、この自己の基礎〔産業資本〕と生死存亡を共にする。それらの諸機能によって独自の事業部門の担い手として産業資本とならんで登場する限りでの貨幣資本と商品資本とは、いまではもう、産業資本が流通部面の内部で、あるいはとり、あるいは脱ぐ様々な機能形態の、社会的分業によって自立化され一面的に発達させられた存在様式であるにすぎない。

★《産業資本以前に、過去の、または没落しつつある社会的生産状態のまっただ中に現われた他の諸種類の資本》とは、前近代的な商業資本(商人資本)と高利資本のこと。この二つを前期的資本と呼ぶことがある。
 
(13)循環G・・G’は、一方では一般的商品流通と絡み合い、それから出てはまたそれに入り込み、それの一部分をなす。他方では、この循環は、産業資本家にとっては資本価値の独自な自立的運動――すなわち、一部は一般的商品流通の内部で行なわれ、一部はその外部で行なわれるが、しかし常にその自立的性格を保持する運動――を形成する。それは、第一に、流通部面で行なわれるこの運動の両局面G―WとW’―G’とは、資本運動の諸局面として機能的に規定された性格を有するからである。すなわち、G―Wでは、Wは労働力および生産諸手段として素材的に規定されており、W’―G’では、資本価値は剰余価値をプラスして実現される。第二に、生産過程Pは生産的消費を含むからである。第三に、運動の出発点への貨幣の復帰は、運動G・・G’を、それ自身において終結する循環運動にするからである。
 

(14)したがって、一方では、各個別資本は、その流通の前半と後半の二つの部分G―WおよびW’―G’において、一般的商品流通――その中で各個別資本は、貨幣として、もしくは商品として、機能し、または連結されている――の起動力を形成し、このようにして、それ自身、商品世界の一般的変態系列の中で一環を形成する。他方では、各個別資本は一般的流通の内部で、それ自身の自立的循環を経過し、この循環の中で生産部面は一つの経過段階を形成し、そしてこの循環の中で各個別資本は出発したときと同じ形態でその出発点に復帰する。同時に、各個別資本は、生産過程におけるその現実的変態を含むそれ自身の循環の内部で、その価値の大きさを変える。それは、単に貨幣価値として復帰するのではなく、増大された、増加した貨幣価値として復帰する。
 
(15)最後に、G―W・・P・・W’―G’を、資本の循環過程の特殊な形態として、のちに研究されるべき他の諸形態と比べて、考察するならば、この循環は次の諸点で際立っている。
 
(16)(一)それは、貨幣資本の循環として現われる。なぜなら、産業資本が、その貨幣形態において、貨幣資本として、その総過程の出発点および復帰点をなしているからである。この定式そのものが、貨幣はここでは貨幣として支出されるのではなく、前貸しされるだけであり、したがって資本の貨幣形態、貨幣資本でしかないことを表わす。この定式は、さらに、使用価値でなく交換価値が運動の規定的自己目的であることを表わす。価値の貨幣姿態が手でつかみうる自立的な価値の現象形態であるからこそ、その出発点および終結点が現実の貨幣である流通形態G・・G’は、金儲け、すなわち資本主義的生産の推進的動機を、最も明白に表わす。生産過程は、金儲けのための避けられない中間の環――必要悪――としてのみ現われる。{それ故、資本主義的生産様式のすべての国民は、周期的に、生産過程の媒介なしに金儲けを成し遂げようとする思惑〔投機熱〕に襲われる。}
 
(17)(二) 生産段階、すなわちPの機能は、この循環の中で、G―W・・W’―G’という流通――この流通はこれまた単純流通G―W―G’の媒介であるにすぎない――の二つの局面の中断をなす。生産過程は、循環過程のこの形態そのものにおいて、形態的に、かつ明確に、資本主義的生産様式の中で生産過程があるがままに、前貸価値の増殖のための単なる手段として、現われ、したがって、致富そのものが生産の自己目的として現われる。
 
(18)(三) 諸局面の系列はG―Wによって開始されるのであるから、流通の第二の環はW’―G’である。したがって、出発点はG、増殖されるべき貨幣資本であり、終結点はG’、増殖された貨幣資本G+gであって、ここではGは実現された資本として、それの新芽のgとならんで現われる。このことは、循環Gを他の両循環PおよびW’から区別する――しかも二重の仕方で。一方では、両極の貨幣形態によって。しかし、貨幣は手でつかみうる自立的な価値の存在形態であり、自立的な価値形態――そこでは諸商品の使用価値のすべての痕跡が消滅している――にある生産物の価値である。他方では、P・・Pという形態は必ずしもP・・P’(P+p)とはならず、またW’・・W’という形態ではおよそ両極のあいだの価値の差はなんら見られない。――したがって、定式G・・G’に特徴的なことは、一方では、資本価値が出発点をなし、増殖された資本価値が復帰点をなすこと、その結果、資本価値の前貸しが全操作の手段として現われ、増殖された資本価値が全操作の目的として現われることであり、他方では、この関係が貨幣形態で、自立的な価値形態で表わされ、それ故、貨幣資本が貨幣を生む貨幣として表わされているということである。価値による剰余価値の産出が、過程のアルファとオメガ〔核心〕として表わされるだけでなく、光きらめく貨幣形態ではっきり表わされている。
 
(19)(四) G―Wを補足しかつ終結する局面W’―G’の結果としての、実現された貨幣資本G’は、この貨幣資本がその最初の循環を始めたときと完全に同じ状態にあるのであるから、その循環から出てくるやいなや、増大された(蓄積された)貨幣資本G’=G+gとして再び同じ循環を開始することができる。そして、循環の反復に際してgの流通がGの流通から分離するということは、少なくともG・・G’という形態では表わされていない。それ故、貨幣資本の循環は、その一回だけの姿態で考察すれば、形態的には、価値増殖過程および蓄積過程だけを表わす。消費は、この循環の中では生産的消費としてだけG―W<A Pmによって表わされており、生産的消費だけが、個別資本のこの循環の中に含まれている。G―Aは、労働者の側からすれば、A―GまたはW―Gである。すなわち、彼の個人的消費を媒介する流通A―G―W(生活諸手段)の第一局面である。第二局面G―Wはもはや個別資本の循環には入らない。しかし、第二局面はこの循環によって準備され、それによって前提されている。――労働者が資本家の搾取しうる材料として絶えず市場に存在するためには、彼は何よりもまず生活しなければならず、したがって個人的消費によって自己を維持しなければならないからである。しかし、この消費そのものは、ここでは、資本による労働力の生産的消費の条件としてのみ、したがってまた、労働者がその個人的消費によって自己を労働力として維持し再生産する限りでのみ、前提されている。ところが、循環に入り込む本来の諸商品Pmは、ただ生産的消費の養分をなすにすぎない。A―Gという行為は、労働者の個人的消費を、彼の血と肉とへの生活諸手段の転化を媒介する。もちろん、資本家として機能するためには、資本家も実在しなければならず、したがってまた生活して消費しなければならない。そのためには、彼は実際には労働者と同じだけ消費しさえすればよいであろうし、それ故、それ以上のことは流通過程のこの形態では前提されていない。形態的にはそういうことさえ表わされていない。――この定式は、G’で、すなわち増大された貨幣資本としてすぐにまた機能しうる結果で、終結するからである。
 
(20)W’―G’にはW’の販売が直接に含まれている。しかし、一方の側からの販売W’―G’は、他方の側の購買G―Wであって、商品は究極的にはその使用価値のためにのみ購買され、(中間販売を別とすれば)消費過程――この消費過程が、購買された物品の性質に応じて、個人的なそれであろうと、生産的なそれであろうと――に入り込む。しかし、この消費は、W’を生産物とする個別資本の循環には入り込まない。この生産物は、まさに販売されるべき商品として循環から突き出される。このW’は明らかに他人の消費にあてられることになっている。それ故われわれは、重商主義(定式G―W・・P・・W’―G’がその基礎になっている)の代弁者たちのもとで、非常に冗長なお説教――個々の資本家は労働者と同じだけを消費すべきであり、また、資本主義国民は、自国の商品の消費および一般に消費過程を、他の愚かな諸国民に任せ、それに反して生産的消費を自分の一生の事業にすべきだ、ということについての――を見いだす。これらのお説教は、しばしば、形式から見ても内容から見ても、教父たちのこれにそっくりの禁欲的訓戒を思い起こさせる。
[PR]

by shihonron | 2011-03-08 23:30 | 学習会の報告


<< 第218回 4月5日 第1章 ...      第216回 3月1日 第1章 ... >>