『資本論』を読む会の報告

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2011年 04月 05日

第218回 4月5日 第1章 第4節 

4月5日(火)に第218回の学習会を行いました。
「第4節 総循環」第21段落から最後(第33段落)までについてレジュメに基づく報告を受け検討しました。

第4節の検討した範囲のレジュメです。


     第一篇 資本の諸変態とそれらの循環
     第一章 貨幣資本の循環 第四節 総循環


(21)このように、資本の循環過程は、流通と生産との統一であり、この両者を包含する。両局面G―WとW’―G’とが流通過程である限りでは、資本の流通は一般的商品流通の部分をなす。しかし、流通部面だけでなく生産部面にも属する資本循環の中の、機能的に規定された諸部分・諸段階としては、資本は、一般的商品流通の内部でそれ独自の循環を行なう。一般的商品流通は、資本にとっては、第一段階では、資本が生産資本として機能しうる姿態をとるのに役立ち、第二段階では、商品機能では自らの循環を更新し得ない資本がその商品機能を捨て去るのに役立つ。それと同時にそれは、資本にとっては、その独自な資本循環を、資本に寄生した剰余価値の流通から分離する可能性を開くのに役立つ。

★《資本に寄生した剰余価値の流通》とは、資本家による個人的消費のための購買を指している。
 
(22)それ故、貨幣資本の循環は、産業資本の循環の最も一面的な、それ故最も適切で最も特徴的な現象形態であり、産業資本の目的および推進的動機――すなわち価値増殖、金儲け、および蓄積――が一目瞭然に表わされている(より高く売るために買う)。第一局面がG―Wであることによって、生産資本の構成諸部分の商品市場からの由来も、また一般に流通による、商業による資本主義的生産過程の被制約性も、現われてくる。貨幣資本の循環は、商品生産であるだけではない。それは、それ自身、流通によってのみ成立し、流通を前提する。このことは、すでに、流通に属する形態Gが前貸資本価値の最初のかつ純粋な形態として現われる――他の両循環形態ではそうではない――ということのうちに示されている。

★《商業による資本主義的生産過程の被制約性》とは、資本主義的生産過程の前提としてのG―W<A Pmという局面が進行するためには、市場に生産諸手段と労働力が商品として登場していなければならないと言うことであろう。
 
(23)貨幣資本の循環は、その循環が常に前貸資本の増殖を含んでいる限りでは、相変わらず常に産業資本の一般的な表現である。P・・Pにおいては、資本の貨幣表現は、生産諸要素の価格としてのみ、したがって計算貨幣で表わされた価値としてのみ現われてくるのであって、記帳ではこの形態で書き留められる。

■【計算貨幣】 Rechengeld  諸商品の価値の大きさは価値尺度たる商品,たとえば金の種々の分量として表現される,――緒商品の価格.そしてこの金の諸分量は,一定の度量標準――たとえば標準金1オンスは..3ポンド17シリング10ペンス1/2とか,純金2分は1円といったような――をもって測られ,かくて緒商品の価値は. したがって価格は.何ポンド何シリング何ペンス,あるいは何円,というように表現されることになる。このように,すべての商品はその交換価値をいい表わすさい,貨幣名でいい表わすことになる. これを貨幣の側からいえば,貨幣は計算貨幣として役立つことになる。計算貨幣というのは,貨幣が価値尺度として機能L,さらに価格の度量標準として機能するという二つの機能にもとづくものである。この二つの機能が結びついて計算貨幣という機能が形成されるのであって,この二つの機能にたいして第三の機能として計算貨幣という機能があるわけではない。(『資本論辞典』より)

 
(24)産業資本がある事業部門から別の事業部門に移る場合にであろうと、それが事業から退く場合にであろうと、新たに登場する資本がまず貨幣として前貸しされ、同じ形態で回収される限りでは、G・・G’が産業資本の循環の特殊な形態になる。この形態は、始めて貨幣形態で前貸しされる剰余価値の資本機能を含むのであり、剰余価値がそれで自己が生まれた事業とは別な事業で機能する場合に最も明確に現われてくる。G・・G’は、一資本の最初の循環で有り得る。それは、その最後の循環で有り得る。それは、社会的総資本の形態として通用しうる。それは、新たに投下される資本――貨幣形態で新たに蓄積された資本としてであれ、一生産部門から他の生産部門に移されるために全部貨幣に転化される旧来の資本としてであれ――の形態である。
 
(25)常に全ての循環に含まれる形態として、まさしく貨幣資本は、剰余価値を生む資本部分すなわち可変資本のためにこの循環〔G・・G’〕を行なう。労賃の前貸しの正常な形態は、貨幣での支払いである。この過程は、比較的短い期限内に絶えず更新されなければならない。なぜなら、労働者はその日暮らしだからである。それ故、労働者に対しては、資本家は絶えず貨幣資本家として、また彼の資本は貨幣資本として、相対されなければならない。ここでは、生産諸手段の購買と生産用諸商品の販売の場合のように直接または間接の決済(その結果、貨幣資本の大部分は実際に商品の形態でのみ現われ、貨幣は計算貨幣の形態でのみ現われ、そして最後に差額の決済のためにのみ現金が現われる)を行なうことはできない。他方では、可変資本から生じる剰余価値の一部分は資本家によって彼の私的消費のために支出されるが、この消費は小売り取引に属し、どのような回り道をするにせよ、現金で、剰余価値の貨幣形態で、支出される。剰余価値のこの部分がどんなに大きかろうと小さかろうと、事態になんの変わりもない。可変資本は絶えず新たに、労賃に投じられる貨幣資本(G―A)として現われ、gは、資本家の私的諸欲求の支弁に支出される剰余価値として現われる。したがって、前貸可変資本価値としてのGと、その増加分としてのgとは、どちらも必ず貨幣形態で保持され、貨幣形態で支出される。
 
(26)G’=G+gという結果を伴う定式G―W・・P・・W’―G’は、その形態のうちに欺瞞を含み、幻惑的性格――前貸しされて増殖された価値がその等価形態すなわち貨幣で定在することから生じる幻惑的性格――を帯びている。〔この定式の〕力点は、価値の増殖にあるのではなく、この過程の貨幣形態に、最初に流通に前貸しされたよりも多くの価値が最後に貨幣形態で流通から引き出されるということに、したがって資本家に帰属する金銀量の増加に、ある。いわゆる重金主義は、没概念的形態G―W―G’の表現、すなわち、一つの運動――もっぱら流通の中で行なわれる、それ故、(一)G―W、(二)W―G’という両行為を、第二行為でWがその価値以上に販売され、それ故その購買によって流通に投げ込まれたよりも多くの貨幣を流通から引き出す、ということによってのみ説明しうる一つの運動――の表現にすぎない。これに反して、G―W・・P・・W’―G’は、唯一の形態として固定されて、より発展した重商主義の基礎をなしているのであり、そこでは商品流通だけでなく商品生産も必要な要素として現われる。

★G―W―G’が没概念的形態だというのは、剰余価値をWが価値以上に販売されることによってもたらされることの表現だからであり、生産過程を含まない流通のみを表している形態だからである。
 
(27)G―W・・P・・W’―G’の幻惑的性格と、この定式に照応した幻惑的解釈とは、この形態が流動的な絶えず更新されるものとしてでなく一度だけのものとして固定されるやいなや、それ故、この形態が循環の諸形態の一つとしてでなくそれの唯一の形態とみなされるやいなや、そこに現われてくる。しかし、この形態は、それ自身、他の諸形態を指し示す。

★《G―W・・P・・W’―G’の幻惑的性格と、この定式に照応した幻惑的解釈》の内容はどのようなものなのか?
 
(28)第一に、この全循環は、生産過程そのものの資本主義的性格を前提し、それ故、この生産過程――それによって制約される独自な社会状態をも含めて――を基盤として前提する。G―W=G―W<A Pmであるが、G―Aは賃労働者を、それ故生産諸手段を、生産資本の部分として想定し、それ故労働過程および価値増殖過程、すなわち、生産過程をすでに資本の機能として想定する。
 
(29)第二に、G・・G’が反復されるならば、貨幣形態への復帰は、第一段階での貨幣形態と同じく、消え失せていく〔一時的な〕ものとして現われる。G―Wは消え失せて、Pに席を譲る。貨幣での絶え間ない再前貸しは、それの貨幣としての絶え間ない復帰と同じく、それ自身、循環の中で消え失せていく諸契機にすぎないものとして現われる。
 
(30)第三に――

  
  G―W・・P・・W’―G’・G―W・・P・・W’―G’・G―W・・P・・等々

 

(31)すでに循環の第二の反復に際して、Gの第二の循環が完了する前に、P・・W’―G’・G―W・・Pという循環が現われ、このようにしてその後の全ての循環はP・・W’―G―W・・Pという形態のもとで考察されうるのであり、そのため最初の循環の第一局面としてのG―Wは、常に反復する生産資本の循環の〔ための〕消え失せていく準備をなすにすぎないのであり、はじめて貨幣資本の形態で投下される産業資本の場合には、実際にその通りである。
 
(32)他方では、Pの第二の循環が完了する前に、最初のW’―G’・G―W・・P・・W’(簡略にすればW’・・W’)という循環、すなわち商品資本の循環が進行している。このように、第一の形態はすでに他の両形態を含んでおり、こうして貨幣形態は、それが単なる価値表現ではなく、等価形態すなわち貨幣での価値表現である限り、消え失せる。

★《単なる価値表現》とは、計算貨幣のことであり定式のPやW’を、《等価形態すなわち貨幣での価値表現》は定式のGを念頭に置いているのではないか。PやW’もまた価値であるが貨幣という形態を取っていない。それが一定の大きさの価値であることは、その価格として表現される。
 
(33)最後に――はじめてG―W・・P・・W’―G’という循環を進行する新たに登場する個々の一資本をとってみれば、G―Wは、この個々の資本が経過する最初の生産過程の、準備局面、先駆である。それ故、このG―Wという局面は、前提されているのではなく、むしろ生産過程によって措定され、または条件づけられるのである。しかしこれは、この個々の〔新登場の〕資本についてだけ言えることである。産業資本の循環の一般的形態は、資本主義的生産様式が前提されている限りでは、したがって資本主義的生産によって規定されている社会状態の内部では、貨幣資本の循環である。それ故資本主義的生産過程は、一つの”先行条件”として前提されている。たとえ新たに投下される産業資本の貨幣資本の最初の循環の中ではそうでないとしても、この循環を越え出る場合にはそうである。この生産過程の絶え間のない定在は、絶えず更新されるP・・Pという循環を想定する。第一段階G―W<A Pmの内部にすでにこの前提そのものが現われる。というのは、一方では、この段階は、賃労働者階級の定在を前提するからであり、他方では、生産諸手段の買い手にとって第一段階G―Wであるものは、その売り手にとってはW’―G’であり、したがって、W’において商品資本を、それ故資本主義的生産の結果としての商品そのものを、したがって生産資本の機能を、前提するからである。

■[貨幣資本循環の特色]貨幣資本の循環は次のような特色を持っている。
① 循環は流通過程で始まり、生産過程を経たのち、流通過程で終わる。
② 産業資本の運動の目的・動機が資本の増殖であることを鮮明に示す。
③ 生産過程は資本の増殖のための不可避の中間項、必要悪として現れる。
貨幣資本の循環は、重商主義者たちが資本を把握すし分析するさいの循環形態であった。
(大谷禎之介『図解社会経済学』248頁)
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by shihonron | 2011-04-05 23:30 | 学習会の報告


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