『資本論』を読む会の報告

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2011年 05月 31日

第224回 5月31日 第3章 商品資本の循環 第4章 循環過程の三つの図式

5月31日(火)に第224回の学習会を行いました。
「第3章 商品資本の循環」の第33段落から最後(第45段落)までを輪読し検討しました。また「第4章 循環過程の三つの図式」の第一段落から第17段落までについてレジュメに基づく報告を受け検討しました。

以下はレジュメです。


    第4章 循環過程の三つの図式            

(1)三つの図式は、Ckを総流通過程とすれば、次のように表わすことができる。

    (Ⅰ) G―W・・P・・W’―G’

    (Ⅱ) P・・Ck・・P

    (Ⅲ) Ck・・P(W’)

(2)三つの形態のどれも、過程の前提は、過程の結果として、過程自身によって生産された前提として、現われている。総過程は生産過程と流通過程との統一として表わされる。
 
(3)三つの循環のどれにも共通なものは、規定目的としての、推進的動機としての、価値の増殖である。
 
(4)色々な個別資本の変態の現実の関連を見れば、すなわち、事実上、社会的総資本の再生産過程の諸部分運動としての諸個別資本の諸循環の関連を見れば、この関連を貨幣と商品との単なる形態転換から説明することはできない。
 
(5)それぞれの特殊な循環が他のそれを(暗黙のうちに)前提しているだけではなく、ある一つの形態での循環の繰り返しは、他の諸形態で循環を描くことを含んでいる。各循環の相違の全体が、単に形式上の相違として、あるいは単に主観的な、ただ考察者にとって存在するだけの相違として、現われるのである。
 
(6)これら循環のそれぞれが、色々な個別産業資本のとる特殊な運動形態と見られる限りでは、この相違もやはりただ個別的な相違として存在するだけである。しかし、現実には、どの個別産業資本も三つの循環の全てを同時に行なっているのである。この三つの循環、資本の三つの姿の再生産形態は、連続的に相並んで行なわれる。どの形態、どの段階にある資本の再生産も、これらの形態の変態や次々になされる三つの段階の通過と同じに、連続的である。ここでは総循環はその三つの形態の現実の統一なのである。
 
(7)われわれの考察では、資本価値はその総価値量から見てその全体が貨幣資本か生産資本か
商品資本かのどれかとして現れるということが想定された。ここではそれぞれの段階がそれらと同じ数の中断をなしている。

★3章までの考察では、資本がいっきょに循環過程に投じられるものとされていた。
 
(8)実際、このことは、運動している個々の資本部分のどれにもあてはまることであって、資本の全ての部分が順々にこの運動を行なってゆくのである。資本の循環過程は、不断の中断であり、一つの段階を去り、次の段階に入ることである。それは、一つの形態を捨て、別の形態で存在することである。これらの段階のそれぞれが次の段階の条件になるだけではなく、また同時にこれを排除する。
 
(9)しかし、連続性は、資本主義的生産の特徴であって、その技術的基礎によって必然的にされている。資本の全ての部分が順々に循環過程を通り、同じ時に循環過程の別々の段階にあるのである。産業資本は、その循環の連続性によって、同時に循環の全ての段階にあり、それらの段階に対応する別々の機能形態にあるのである。

★資本主義的生産の特徴とは、機械性大工業を基礎とした市場向けの大量生産といえる。
 
(10)それ故、連続的に行なわれる産業資本の現実の循環は、ただ単に流通過程と生産過程との統一であるだけではなく、その三つの循環全部の統一である。しかし、それがこのような統一でありうるのは、ただ資本のそれぞれの部分が循環の相続く諸段階を次々に通り過ぎることができ、一つの段階、一つの機能形態から次のそれに移行することができ、したがってこれらの部分の全体としての産業資本が、同時に別々の段階にあって別々の機能を行ない、こうして三つの循環の全てを同時に描くという限りでのことである。各部分が次々に続くことは、ここでは、諸部分が相並ぶことを、すなわち資本の分割を、条件としている。生産の連続性の条件をなす〔各部分の〕並列は、ただ資本の諸部分が次々に別々の段階を通って行く運動によってのみ存在する。この並列はそれ自体この継起の結果に他ならない。たとえば、ある部分についてW’―G’が止まり、商品が売れないならば、この部分の循環は中断されて、その生産手段との取り替えは行なわれない。そのあとに続いて生産過程からW’となって出てくる諸部分は、その機能転換を先行者によって妨げられている。そんなことがしばらく続けば、生産は制限されて全過程が休止状態に置かれる。継起が止まればその都度並列は撹乱され、一つの段階での停滞は、その都度、単に停滞している資本部分の総循環にだけではなくこの個別資本全体の総循環にも大なり小なりの停滞を引き起こす。
 
(11)過程を表わしているすぐ目につく形態は、新たな段階への資本の移行が他の段階からの退去によって必然的にされているという諸段階の連続の形態である。したがってまた、それぞれの特殊な循環はどれも資本の機能形態のどれか一つを出発点とし帰着点としている。他方、総過程は事実上三つの循環の統一であって、これらの循環はそれぞれ過程の連続性を表わしている別々の形態である。総循環は、資本のそれぞれの機能形態についてその独自な循環として表わされており、しかもこれらの循環のそれぞれが総過程の連続性の条件となる。一つの機能形態の循環が他の循環の条件となる。総生産過程が同時に再生産過程であり、したがってまたその各継起の循環でもあるということは、総生産過程のための、またことに社会的資本のための一つの必然的な条件である。資本の別々な断片が次々に別々な段階と機能形態を通って行く。このことによって、それぞれの機能形態は、その形態にある資本部分は絶えず違っているとはいえ、他の機能形態と同時にそれ自身の循環を通る。いつでも三つの形態の全てが存在しているということは、まさにこの三つの段階を通る総資本の循環によって媒介されているのである。
 
(12)そうだとすれば、資本は全体としては同じときに空間的に相並んで別々の段階にあるわけである。しかし、各部分は絶えず順々に一つの段階、一つの機能的形態から次のそれに移って行き、こうして順々に全ての段階、全ての機能形態で機能して行く。どの形態も他の形態の後に続き、また他の形態に先行するのであって、ある一つの資本部分が一つの形態に帰ることは、別の資本部分が別の形態に帰ることを条件としている。どの部分も絶えずそれ自身の循環を描いているのであるが、この形態にあるのはいつでも資本の別々の一部分であって、これらの特殊な循環はただ総過程の同時的で継起的な諸契機をなしているだけである。

(13)個別資本にとっては、再生産の連続性は場合によって多かれ少なかれ中断される。第一に、いろいろな価値量がしばしば違った時期に違った割合で別々の段階と機能形態に配分されている。第二に、生産される商品の性質によって、つまり資本が投ぜられている生産部面の特殊性によって、この配分の割合が違っていることがありうる。第三に、季節に左右される生産部門では連続性は多かれ少なかれ中断されることがありうる。それは、自然的条件によることもあれば(農業やにしん漁業など)、たとえばいわゆる季節労働者の場合のように慣習的な事情によることもある。過程がもっとも規則的にもっとも一様に進行するのは、工場と鉱山業である。しかし、このような生産部門のあいだの相違は、循環過程の一般的な形態の相違をひき起こすものではない。

★(13)では、再生産の連続性を中断する要因について3つあげている。第三で述べられていることは理解できるが、第一と第二であげていることがよくわからない。

(14)自分を増殖する価値としての資本は、階級関係を、賃労働としての労働の存在にもとづく一定の社会的性格を、含んでいるだけではない。それは、一つの運動であり、いろいろな段階を通る循環過程であって、この過程それ自身また循環過程の三つの違った形態を含んでいる。だから資本は、ただ運動としてのみ理解できるのであって、静止している物としては理解できないのである。価値の独立化を単なる抽象と見る人々は、産業資本の運動が現実における[in actu]この抽象だということを忘れているのである。価値はここではいろいろな形態、いろいろな運動を通って行くのであつて、この運動の中で自分を維持すると同時に自分を増殖し拡大するのである。
われわれはここではまず第一に単なる運動形態を問題にしているのだから、資本価値がその循環過程のなかで経験することがありうる革命は考慮されていないのである。しかし、明らかなことであるが、あらゆる価値革命にもかかわらず資本主義的生産が存在しているのは、また存在を続けることができるのは、ただ資本価値が増殖されるかぎりのことであり、言い換えれば独立した価値としてその循環過程を描くかぎりのことであり、したがって、ただ価値革命がどうにかして克服され埋め合わされるかぎりでのことである。資本の運動は個々の産業資本家の行為として現れる。すなわち、彼が商品と労働との買い手、商品の売り手、生産資本家として機能するのであり、つまり彼の活動によって循環を媒介するのである。もし社会的資本価値が価値革命にさらされれば、彼の個別資本はこの価値運動の諸条件をみたすことができないためにこの革命に敗れて没落するということも起こりうる。価値革命がいっそう急性になり頻繁になるにつれて、独立化された価値の自動的な運動、不可抗力的な自然過程の力で作用する運動は、個々の資本家の予見や計算に反してますます威力を発揮し、正常な生産の進行はますます非正常な投機に従属するようになり、個別資本の生存にとっての危険はますます大きくなる。こうして、このような周期的な価値革命は、それが否定すると称するものを、すなわち価値が資本として経験し自分の運動によって維持し強調する独立化を、確証するのである。

★《価値の独立化を単なる抽象と見る人々は、産業資本の運動が現実における[in actu]この抽象だということを忘れている》とはどういうことか? 長谷部訳では「顕勢的抽象[Abstraktion in actu]」という言葉が用いられている。顕勢的とは、潜勢的の対義語で、可能態[性]に対する実現態[性]の意味で用いられるようである。価値の独立化(新日本版や長谷部訳では自立化)とは、価値が主体として運動するということであろう。それは思惟による抽象(主観の産物)ではなく、産業資本の運動という目に見えるものとして存在する現実そのもの(客観的事実)だということか? 

(15)過程を進行しつつある資本のこのような変態列には、循環のなかで生じた資本の価値量の変化と最初の価値との不断の比較が含まれている。価値を形成する力に対する、すなわち労働力に対する価値の独立化が、G―A(労働力の買い)という行為で準備され、労働力の搾取としての生産過程で実現されるならば、このような価値の独立化はもはやこの循環の中では現われないのであって、この循環の中では貨幣も商品も生産要素も、ただ過程を進行しつつある資本価値の次々に入れ替わる諸形態でしかないのであり、そこでは資本の過去の価値量が現在の変化した価値量と比較されるのである。

★価値の独立化は、労働力の買いによって準備され、労働力の搾取としての生産過程で実現される。
 
(16)ベーリ(7)は、資本主義的生産様式を特徴づける価値の独立化を、ある種の経済学者の幻想として取り扱っており、それに対して次のように言っている。
 「価値は同じ時に存在する諸商品のあいだの関係である。というのは、ただこのような商品だけが互いに交換されることができるからである。」〔"value is a relation between contemporary commodities,because such only admit of being exchanged with each other."〕
 
(17)彼がこのように言うのは、それぞれ違った時期にある諸商品価値を比較することに反対しているのであるが、このような比較は、各時期について貨幣価値を固定しておきさえすれば、ただ、色々に違った時期に同種の商品の生産のために必要な労働支出の比較を意味しているだけである。このような反対は、彼の一般的な誤解から生ずるのであった、それによれば、交換価値は価値と同じであり、価値の形態が価値そのものである。つまり、諸商品価値は、それらが現実に交換価値として機能しなくなり、したがって現実に違いに交換されることができなくなれば、もはや比較されることはできないというのである。つまり、彼は、価値が資本価値または資本として機能するのは、ただ、その循環のけっして同時的ではなく継起的な種々の段階を通じてつねに価値が自分自身と同じであり、自分自身と比較される限りでのことだということには、少しも気がつかないのである。  
 
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by shihonron | 2011-05-31 23:00 | 学習会の報告


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