『資本論』を読む会の報告

shihonron.exblog.jp
ブログトップ
2011年 06月 07日

第225回 6月7日 第4章 循環過程の三つの図式

6月7日(火)に第225回の学習会を行いました。
「第4章 循環過程の三つの図式」の第18段落から第33段落までについてレジュメに基づく報告を受け検討しました。

以下は検討した範囲のレジュメです。

    第4章 循環過程の三つの図式

(18)循環の定式を純粋に考察するためには、商品が価値通りに売られると想定するだけでは十分でなく、他の事情も変化することなしに価値通りの売買が行なわれると想定しなければならない。たとえば形態P・・Pをとり、その際、特定の一資本家の生産資本を減価させるかもしれない生産過程内の技術的革命は全て無視することにしよう。また、既存の商品資本の価値は、もしその在庫があれば、生産資本の価値要素の変動の反作用によって高くなったり低くなったりすることがありうるのであるが、このような反作用も全て無視することにしよう。W’である一万ポンドの糸は、その価値通りに五〇〇ポンド・スターリングで売れるものとし、八四四〇ポンドの糸=四二二ポンド・スターリングは、W’に含まれている資本価値を補填するものとしよう。しかし、綿花や石炭などの価値が高くなれば(ここでは単なる価格変動は問題にしないのだから)、おそらくこの四二二ポンド・スターリングは生産資本の諸要素を全部補填するには足りないであろう。追加貨幣資本が必要であり、貨幣資本は拘束される。かの綿花や石炭などの価格が下がれば、逆である。貨幣資本は遊離させられる。過程がまったく正常に進行するのは、価値関係が不変な場合だけである。実際には、循環が繰り返されるあいだに諸撹乱が相殺される限り、過程は進行する。撹乱が大きければ大きいほど、それらが相殺されるまで待つことができるためには、産業資本家はますます大きな貨幣資本をもっていなければならない。そして、資本主義的生産が進行するにつれて各個別生産過程の規模が拡大され、またそれにつれて前貸しされる資本の最小限が大きくなるのだから、前述の事情が他の諸事情に加わって、ますます産業資本家の機能を個々別々の、または結合された、巨大な貨幣資本家の独占に転化させるのである。
 
(19)ここでついでに注意しておきたいのは、もし生産要素の価値変動が生ずるならば、一方の形態G・・G’と他方の形態P・・PおよびW’・・W’とのあいだに一つの相違が現れるということである。

★マルクスは「ここでついでに注意しておきたい」と述べている。その範囲は(20)から(23)までであろう。
 
(20)まず貨幣資本として登場する新たに投下される資本の定式としてのG・・G’では、生産手段、たとえば原料や補助材料などの価値が下がれば、一定の規模の事業を始めるために必要な貨幣資本の投下額は、価値低下の前よりも少なくなるであろう。というのは、生産過程の規模は(生産力の発展が変わらなければ)、与えられた量の労働力で処理できる生産手段の量と規模とによって定まるのであって、この生産手段の価値によって定まるのでも労働力の価値によって定まるのでもないからである。(後者はただ価値増殖の大きさだけに影響する。)逆に、もし生産資本の諸要素になる諸商品の価値が上がれば、与えられた規模の事業を起こすためには前よりも多くの貨幣資本が必要である。どちらの場合にも、ただ新たに投下される貨幣資本の量が影響を受けるだけである。新たな個別産業資本の増加が、与えられた生産部門での通常の仕方で行なわれる限り、第一の場合には貨幣資本が過剰になり、第二の場合には貨幣資本が拘束される。
 
(21)循環P・・PとW’・・W’がそれ自身をG・・G’として表わすのは、ただ、PやW’の運動が同時に蓄積であり、したがって追加貨幣gが貨幣資本に転化される限りでのことである。このような場合を別とすれば、この二つの循環が生産資本の諸要素の価値変動から受ける影響は、G・・G’が受ける影響とは違っている。われわれは、ここでもまた、このような価値変動が生産過程にある資本成分に及ぼす反作用を無視する。ここでは、直接に影響を受けるのは、最初の投資ではない。それを受けるのは、すでに再生産過程に入っていてもはや最初の循環にあるのではない産業資本である。つまりW’・・W<A Pmであり、商品からなっている限りでの自分の生産要素への商品資本の再転換である。価値低下(または価格低下)では三つの場合が可能である。再生産過程が同じ規模で続行される場合には、これまでの貨幣資本の一部分が遊離させられて貨幣資本の積み立てが行なわれるが、しかし現実の蓄積(拡大された規模での生産)またはそれを準備しそれに伴うg(剰余価値)の蓄積財源への転化は行なわれない。あるいは、技術的に必要な釣合が許しさえすれば、再生産過程の規模が、他の場合に行なわれるであろう以上に拡大される。あるいはまた、原料などのいっそう大きな在庫形成が行なわれる。

★《現実の蓄積(拡大された規模での生産)またはそれを準備しそれに伴うg(剰余価値)の蓄積財源への転化は行なわれない》について、「現実の蓄積が行われない」ことは理解できるが、「(現実の蓄積)を準備しそれに伴うg(剰余価値)の蓄積財源への転化は行なわれない」とはどういうことなのか? 蓄積財源と貨幣資本の積み立てとでは区別があるのか? 
 
(22)商品資本と取り替えられる諸要素の価値が上がる場合は、反対である。この場合には、再生産はもはやその正常な規模では行なわれない。(たとえば作業時間が短縮される。)あるいはまた、再生産を元通りの規模で続けるために追加貨幣資本が入ってこなければならない。(貨幣資本の拘束。)あるいはまた、蓄積財源がすでにある場合には、その全部または一部分が、再生産過程の拡大にではなく、元のままの規模でのその経営に役立てられる。これもまた貨幣資本の拘束であるが、ただ、この場合には追加貨幣資本が外から、市場から、くるのではなくて、産業資本家自身の資力から出てくるだけのことである。
 
(23)しかし、P・・PとW’・・W’とでは、事態を変える事情が起こることがありうる。たとえば、もしわれわれの紡績業者が多量の綿花在庫を(つまり彼の生産資本の大きな部分を在庫綿花の形で)もっているとすれば、彼の生産資本の一部分は綿花の価格の低落によって価値を減らされる。反対に綿花の価格が上がれば、彼の生産資本のこの部分の価値上昇が起きる。他方、もし彼が商品資本の形で、たとえば綿糸で、大量を固定させているとすれば、綿花の下落に際しては彼の商品資本の一部分が、したがって一般に彼の循環中の資本の一部分が、価値を減らされる。綿花価格が上がれば、その反対である。最後に、過程W’―G―W<A Pmでは、もし、W’―Gすなわち商品資本の実現が、Wの諸要素の価値変動よりも前に行なわれたとすれば、資本は、ただ、第一の場合に考察した仕方で、すなわち第二の流通行為G―W<A Pmで、影響を受けるだけである。しかし、W’―Gが行なわれる前に価値変動が生じたとすれば、他の事情が変わらない限り、綿花価格の下落はそれに対応する綿糸価格の下落を引き起こし、また逆に綿花価格の上昇は綿糸価格の上昇を引き起こす。同じ生産部門に投ぜられた種々の個別資本への影響は、それらの資本が置かれてありうる事情の相違にしたがって、非常に違ったものでありうる。――同様に貨幣資本の遊離と拘束は、流通過程の時間の長さの相違、したがってまた流通速度の相違からも生ずることがありうる。とはいえ、これは回転の考察に属する。ここでわれわれが関心をもつのは、ただ、生産資本の諸要素の価値変動に関してG・・G’と循環過程の他の二つの形態とのあいだに現われる現実の相違だけである。

★生産資本となる諸要素の価値が変動した場合に、G・・G’では循環中の資本の一部の価値が変動することはないが、P・・PとW’・・W’とでは循環中の資本(生産資本あるいは商品資本)の一部の価値が変動する。
 
(24)資本主義的生産様式がすでに発展しており、したがって優勢になっている時代には、流通段階G―W<A PmではPmすなわち生産手段となる諸商品の一大部分はそれら自身が他人の機能中の商品資本であろう。だから、売り手の立場からは、W’―G’すなわち商品資本から貨幣資本への転化が行なわれるのである。しかし、これは無条件に言えることではない。逆である。産業資本が貨幣かまたは商品として機能している流通過程の中では、産業資本の循環は、貨幣資本としてのそれであろうと商品資本のそれであろうと、非常に様々な社会的生産様式――といっても同時に商品生産である限りでのそれ――の商品流通と交錯している。商品が奴隷性に基づく生産の生産物であろうと、あるいは農民(中国人、インドのライオット)の、あるいは共同体(オランダ領東インド)の、あるいは国営生産(ロシア史の古い時代に現われる農奴制に基づくそれのような)の、あるいは半開の狩猟民族などの生産物であろうと、それらは、産業資本を表わす貨幣または商品に対して商品または貨幣として相対するのであって、それらは産業資本の循環にも入れば、商品資本によって担われる剰余価値の循環にも、この剰余価値が収入として支出される限りでは、入っていくのである。つまり商品資本の二つの流通分岐の両方に入るのである。その商品が出てくる生産過程の性格はなんでもかまわないのである。それらは商品として市場で機能し、商品として産業資本の循環にも産業資本によって担われる剰余価値の流通にも入る。だから、産業資本の流通過程を特色づけるものは、諸商品の出生地の多方面的性格であり、世界市場としての市場の存在である。他国の商品について言えることは、他国の貨幣についても言える。商品資本は他国の貨幣に対してただ商品として機能し、この他国の貨幣はこの商品資本に対してただ貨幣として機能する。貨幣はここでは世界貨幣として機能するのである。
 
(25)しかし、ここで二つのことを注意しておかなければならない。
 
(26)第一に。諸商品(Pm)は、G―Pmという行為が済めば、商品ではなくなって、生産資本Pとしての機能形態にある産業資本の存在様式の一つになる。しかし、それと同時に商品の素姓は消えてしまっている。諸商品は、ただ産業資本の存在形態として存在するだけで、産業資本に合体されている。とはいえ、それらの補填にはそれらの再生産が必要だということには変わりはないのであって、その限りでは、資本主義的生産様式はその発展段階の外にある諸生産様式によって制約されているのである。しかし、資本主義的生産様式の傾向は、あらゆる生産をできる限り商品生産に変えることである。そのための主要手段は、まさに、あらゆる生産をこのように資本主義的生産様式の流通過程に引き入れることである。そして、発展した商品生産こそは資本主義的商品生産なのである。産業資本の侵入はどこでもこの転化を促進するのであり、それとともにまたすべての直接生産者の賃金労働者への転化をも促進するのである。
 
(27)第二に。産業資本の流通過程に入る諸商品(可変資本が労働者に支払われてから労働力の再生産のために転換されてゆく必要生活手段もこれに属する)は、その出所、それが出てくる生産過程の社会的形態がなんであろうと、産業資本そのものに対しては、すでに商品資本の形態で、商品取引資本または商人資本の形態で、相対する。そして、この商人資本は、その性質上、あらゆる生産様式の商品を包括しているのである。

(28)資本主義的生産様式は生産の大規模を前提するので、また必然的に販売の大規模をも前提する。つまり、個々の消費者へのではなく、商人への販売を前提する。この消費者自身が生産的消費者であり、産業資本家である限りでは、つまり、ある生産部門の産業資本が他の部門に生産手段を供給する限りでは、一人の産業資本家から他の多くの産業資本家への直接販売も(注文などの形で)行なわれる。その限りでは、どの産業資本家も直接の販売者であり、彼自身が彼の商人である。あるいはまた商人に売るときにもやはりそうである。
 
(29)商人資本の機能としての商品取引は前提されており、それは資本主義的生産の発展につれてますます発展する。だから、われわれは、時には資本主義的流通過程の個々の側面を説明するために商品取引を想定することがある。しかし、この流通過程の一般的な分析に際しては、商人の介在しない直接販売を仮定する。なぜならば、商人の介在は運動の色々な継起を覆い隠すからである。
 
(30)このことをいくらか素朴に述べているシスモンディを見てみよう。
 「商業は多額の資本を使用するが、この資本は、一見したところでは、われわれがその運動を詳しく述べてきた資本の成分をなすものではないように見える。織物商人の倉庫に積んである織物の価値は、さしあたりは、年間生産物のうちの富者が貧者を働かせるために賃金として与える部分とは、なんの関係もないように見える。ところが、この資本は、われわれがこれまで述べてきた別の資本に代わったものでしかない。富の発展を明瞭に把握するために、われわれは富の創造を論じ、それが消費されるまでを追跡した。そのさい、たとえば織物製造に充用される資本は、いつでも同じものであるように見えた。消費者の収入との交換では、それはただ二つの部分に分かれただけである。一方の部分は収益となって工場主の収入として役立ち、他方の部分は賃金となって新たな織物を製造している労働者の収入として役だったのである。
 しかし、やがてわかったことは、この資本の色々な部分が互いに入れ替わるほうが、また、もし工場主と消費者とのあいだの全流通を行なうために一〇万エキューで足りるとすれば、この一〇万エキューが工場主と卸売商人とのあいだに均等に分配されるほうが、皆の利益のためにいっそうよい、ということである。工場主は、彼が全額で行なったのと同じ仕事をわずかに三分の一で行なうことになる。なぜならば、彼は、自分の製造が終わった瞬間に、以前に消費者を見いだしたよりもずっと早く商人を買い手として見いだすからである。卸売商人の資本も、ずっと早く小売商人の資本によって補填された。・・・・前貸しされた賃金額と最終消費者の購買価格との差額は、資本の利潤にならなければならなかった。この利潤は、工場主と卸売商人と小売商人とが互いに彼らの機能を区分するようになってからは、彼らのあいだに分配された。そして、なされた仕事は、一人の人間と一つの資本とに代わって三人の人間と三つの資本部分とを要したとはいえ、同じだった。」(『新経済学原理』、第一巻、一三九、一四〇ページ。〔菅間訳、上、一三八―一三九ページ。〕)――「皆が」(商人たちが)「間接に生産に参加した。なぜならば、生産は消費を目的としているのだから、生産物を消費者のあいだに送り込んでしまうまでは、生産が完了したとみなすことはできないからである。」(同前、一三七ページ。〔菅間訳、上、一三七ページ。〕)
 
(31)われわれは、循環の一般的形態を考察するにあたって、また一般にこの第二部の全体にわたって、貨幣を金属貨幣と考え、象徴貨幣、すなわち特定諸国の特殊性をなすにすぎない単なる価値章標や、まだ発展していない信用貨幣を除外する。第一に、これは歴史的な歩みである。信用貨幣は資本主義的生産の初期にはなんの役割も演じないか、またはただあまり重要でない役割を演ずるだけである。第二に、この歩みの必然性は次のことによって理論的にも立証されている。すなわち、これまでトゥックやその他の人々によってなされてきた信用貨幣の流通に関する批判的説明は、全て、単なる金属流通の基礎の上では事態がどのように現われるかということの考察に繰り返し立ち帰ることを彼らに強制したということがそれである。しかし、忘れてはならないのは、金属貨幣は購買手段としても支払手段としても機能することができるということである。簡単にするために、一般にこの第二部の中では貨幣はただ第一の機能形態だけにあるものとみなすことにする。
 
(32)産業資本の個別的循環過程のただ一部分をなすだけの産業資本の流通過程は、一般的な商品流通の中の一連の過程を表わすにすぎない限りでは、前に(第一部第三章)展開された一般的な諸法則によって規定されている。たとえば五〇〇ポンド・スターリングというような同じ貨幣量でも、貨幣の流通速度が大きければ大きいほど、つまり各個の資本がその商品変態または貨幣変態の列を通ることが速ければ速いほど、ますます多くの産業資本(または商品資本の形態にある個別資本)を次々に流通させて行く。したがって、貨幣が支払手段として機能することが多ければ多いほど、たとえば商品資本をその生産手段と取り替える際にただ差額だけを支払えばよいということが多ければ多いほど、また、たとえば労賃の支払では支払日と支払日との間隔が短ければ短いほど、資本の同じ価値量がその流通のために必要とする貨幣はますます少ないのである。他方、流通速度やその他の事情を全て不変と前提すれば、貨幣資本として流通しなければならない貨幣の量は、諸商品の価格総額(価格に商品量をかけたもの)によって規定されており、または、諸商品の量と価値とが与えられていれば、貨幣そのものの価値によって規定されている。
 
(33)しかし、一般的な商品流通の諸法則が妥当するのは、ただ資本の流通過程が一連の単純な流通事象をなしている限りでのことであって、これらの流通事象が個別産業資本の循環の機能的に規定された諸段階をなしている限りでは、妥当しないのである。
 
[PR]

by shihonron | 2011-06-07 23:00 | 学習会の報告


<< 第226回  6月14日 第4...      第224回 5月31日 第3章... >>