『資本論』を読む会の報告

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2011年 06月 14日

第226回  6月14日 第4章 循環過程の三つの図式

6月14日(火)に第226回の学習会を行いました。
「第4章 循環過程の三つの図式」の第34段落から最後(第60段落)までについてレジュメに基づく報告を受け検討しました。

以下は検討した範囲のレジュメです。

    第4章 循環過程の三つの図式


(34)このことを明らかにするためには、流通過程を、次の二つの形態に現われるような中断されない関連の中で考察するのが最も適当である。
(Ⅱ) P・・W’{W、w}―G’{G、g}―W<A Pm・・P(P’)、g―w
(Ⅲ) W’{W、w}―G’{G、g}―W<A Pm・・P・・W’、g―w

★(Ⅰ)G・・G’の場合には、流通過程は生産過程によって中断される。
     (Ⅰ)G―W<A Pm・・P・・W’―G’
 
(35)一連の流通事象の列としては、一般に流通過程は(W―G―WとしてであろうとG―W―Gとしてであろうと)ただ商品変態の二つの反対方向の列を表わしているだけで、これらの商品変態のそれぞれは、また他人の商品またはそれに相対している他人の貨幣の側での反対方向の変態を含んでいるのである。
 
(36)商品所持者の側でのW―Gは、買い手の側でのG―Wである。W―Gでの商品の第一の変態は、Gとして登場する商品の第二の変態である。G―Wではその逆である。だから、一方の段階にある商品変態と他方の段階にある他の商品の変態との絡み合いについて示されたことは、資本家が商品の買い手および売り手として機能する限りでは、したがって彼の資本が他人の商品に対しては貨幣として機能し他人の貨幣に対しては商品として機能する限りでは、資本流通にもあてはまるのである。しかし、この絡み合いが同時に諸資本の諸変態の絡み合いの表現なのではない。
 
(37)第一に、G―W(Pm)は、われわれが見たように、色々な個別資本の諸変態の絡み合いを表わしていることがありうる。たとえば、綿紡績業者の商品資本である綿糸は、一部分は石炭と取り替えられる。彼の資本の一部分は貨幣形態にあって、この形態から商品形態に転換されるが、他方、資本家的石炭生産者の資本は商品形態にあって、この形態から貨幣形態に転換される。同じ流通行為がここでは二つの(別々の生産部門に属する)産業資本の反対方向の変態を表わしており、したがってこれらの資本の変態列の絡み合いを表わしている。とはいえ、すでに見たように、Gが転換されるPmは、範疇的な意味での商品資本、すなわち産業資本の機能形態である必要はなく、資本家によって生産されたものである必要はない。それは常に一方の側でのG―Wであり他方の側でのW―Gであるが、しかし常に諸資本変態の絡み合いであるとは限らない。また、G―A、労働力の買い入れは、決して諸資本変態の絡み合いではない。なぜならば、労働力は労働者の商品であるには違いないが、それは資本家に売られてからはじめて資本になるのだからである。他方、過程W’―G’では、G’は商品資本が転換したものである必要はない。それは、労働力という商品の資本化(労賃)、または独立労働者や奴隷や農奴や共同体によって生産された生産物の貨幣化でもありうるのである。

★(27)の内容と矛盾するように思えるが、(29)で《この流通過程の一般的な分析に際しては、商人の介在しない直接販売》が仮定されている。

(38)また第二に、一つの個別資本の流通過程の中で行なわれる各変態が演ずる機能的に規定された役割については、それは別の資本の循環の中ではそれに呼応する反対方向の変態を表わしている、とは決して言えないのであって、世界市場の総生産が資本主義的に営まれていると前提しても、そうは言えないのである。たとえば、循環P・・PではW’を貨幣化するG’は、買い手の側では彼の剰余価値の貨幣化でしかないこともありうる(商品が消費財である場合)。あるいはまた、G’―W’<A Pm(すなわち資本が蓄積されて入ってくる場合)では、G’はPmの売り手にとってはただ彼の前貸資本の補填として入るだけのこともあり、または、G’が分かれて収入の支出に入って行く場合には、もはや彼の資本流通に入らないこともありうる。

★資本家によって消費財の購買に支出される貨幣は資本ではなく、彼の資本流通に入らない。

(39)こういうわけで、個別資本を自分のただ独立に機能しているだけの構成部分として含んでいる社会的総資本の色々な構成部分が――資本についても剰余価値についても――どのようにして流通過程で互いに補填されるかは、資本流通の諸事象にも他の全ての商品流通にも共通な、商品流通上の単なる諸変態の絡み合いからは、明らかにならないのであって、別の研究方法を必要とするものである。それだのに、人々は、これまで、詳しく分析すればただ全ての商品流通に必要な諸変態の絡み合いから借りてきただけの不明確な観念の他には何も含んではいない決まり文句で満足してきたのである。

――――――――――
 
(40)産業資本の循環過程の、したがってまた資本主義的生産の、だれにでもわかる特性の一つは、一方では生産資本の形成要素が商品市場から出てきて絶えず繰り返してそこから商品として買われなければならないという事情であり、他方では労働過程の生産物が商品として労働過程から出て行って絶えず繰り返して商品として売られなければならないという事情である。たとえば、低地スコットランドの近代的借地農業者を大陸の古風な小農民と比較してみればよい。前者は自分の全生産物を売るのであって、したがって生産物の全ての要素を、種子までも、市場で補填しなければならないのであるが、後者は自分の生産物の最大の部分を直接に消費し、できるだけ売買を少なくし、道具や衣類などをできるだけ自分で制作するのである。
 
(41)このようなことから、人々はこれまで現物経済と貨幣経済と信用経済とを社会的生産の三つの特徴的な経済的運動形態として対比してきた。

(42)第一に、この三つの形態は対等な発展段階を表わしてはいない。いわゆる信用経済は、それ自体、ただ貨幣経済の一つの形態でしかない。すなわち、この二つの名称が生産者たち自身のあいだの交易機能または交易様式を表わしている限りでは、そうである。発展した資本主義的生産では、貨幣経済はただ信用経済の基礎として現われるだけである。したがって、貨幣経済と信用経済とはただ資本主義的生産の別々な発展段階に対応しているだけであって、決して現物経済に対する別々な独立な交易形態ではないのである。
 
(43)第二に、貨幣経済、信用経済という範疇で人々が強調し区別的特徴としてあげるものは、経済そのもの、すなわち生産過程そのものではなくて、経済に対応する様々な生産担当者間または生産者間の交易様式なのだから、第一の範疇の場合にもそうでなければならないであろう。つまり、現物経済ではなく交換経済になってしまう。完全に閉鎖された現物経済、たとえばペルーのインカ国は、これらの範疇のどれにも入らないことになるであろう。
 
(44)第三に、貨幣経済は全ての商品生産に共通であるし、また生産物は非常に様々な社会的生産組織体の中で商品として現われる。だから、資本主義的生産を特徴づけるものは、ただ、生産物が取引商品として、商品として生産される範囲の広さ、したがってまた生産物自身の形成要素が、生産物の出てくる経済に再び取引物品として、商品として入って行かなければならない範囲の広さだけだということになるであろう。

★資本主義的生産を特徴づけるものは、資本-賃労働関係であろう。

(45)じっさい、資本主義的生産は生産の一般的形態としての商品生産なのであるが、しかし、そうであるのは、そしてまたその発展につれてますますそうなるのは、ただ、ここでは労働がそれ自身商品として現われるからであり、労働者が労働を、すなわち自分の労働力の機能を売り、しかも、われわれが仮定するところでは、その再生産費によって規定される価値で売るからである。労働が賃労働になるその範囲で、生産者は産業資本家になる。それ故、資本主義的生産は(したがってまた商品生産も)、農村の直接生産者もまた賃金労働者になったときにはじめてその十分な広さで現われるのである。資本家と賃金労働者との関係では、貨幣関係が、買い手と売り手との関係が、生産そのものに内在する関係になる。しかし、この関係は、その基礎から見れば、生産の社会的性格に基づいているのであって、交易様式の社会的性格に基づいているのではない。逆に後者が前者から生ずるのである。とにかく、生産様式の性格のうちにそれに対応する交易様式の基礎を見るのではなく、それとは逆に見るということは、小商売のことで頭がいっぱいになっているブルジョア的な視野にふさわしいことである(7)。
(7) 以上第五稿。――以下、本章の終わりまでは、一八七七年または一八七八年の一冊の中で諸書の抜粋のあいだに見いだされる覚え書きである。

――――――――――

★以下の(46)~(60)で書かれていることは、第2部第3篇「社会的資本の再生産と流通」での課題である。

(46)資本家は、自分が流通から引き出すよりも少ない価値を貨幣の形で流通に投げ入れるのであるが、それは、自分が商品の形で流通から引き出したよりも多くの価値を商品の形で投げ入れるからである。彼がただ資本の人格化としてのみ、産業資本家としてのみ機能する限りでは、彼による商品価値の供給は常に商品価値に対する彼の需要よりも大きい。この点で彼の供給と需要とが一致するということは、彼の資本が増殖しないということに等しいであろう。彼の資本は生産資本として機能しなかったことになるであろう。生産資本は、剰余価値をはらんでいない商品資本に転化したことになるであろう。それは生産過程で労働力から商品の形で剰余価値を引き出さなかったことになり、したがっておよそ資本としては機能しなかったことになるであろう。実際、彼は「自分が買ったよりも高く売ら」なければならないのであるが、彼がこれに成功するのは、ただ、自分の買った、価値がより小さいために価格がより安い商品を、資本主義的生産過程の媒介によって、価値がより大きい、したがって価格がより高い商品に転化させたからに他ならない。彼がより高く売るのは、自分の商品の価値よりも高く売るからではなく、自分の商品の生産要素の価値総額よりも大きい価値のある商品を売るからである。
 
(47)資本家が自分の資本を価値増殖する率は、彼の供給と彼の需要との差が大きければ大きいほど、すなわち彼の供給する商品価値が彼の需要する商品価値を越える超過分が大きければ大きいほど、ますます大きい。彼の供給と需要との一致ではなく、可能な限りの不一致が、彼の供給が彼の需要を超過することが、彼の目的なのである。
 
(48)個々の資本家について言えることは、資本家階級についても言える。
 
(49)資本家がただ産業資本の人格化でしかない限りでは、彼自身の需要は生産手段と労働力とにたいする需要だけである。Pmに対する彼の需要は、その価値の点から見れば、彼の前貸資本よりも小さい。彼が買う生産手段の価値は彼の資本の価値よりも小さく、したがって彼が供給する商品資本の価値に比べればもっとずっと小さいのである。

(50)労働力に対する彼の需要について言えば、それは、その価値の点から見れば、彼の総資本に対する可変資本の割合、つまりv:Cによって規定されており、したがって資本主義的生産では、割合から見れば、生産手段に対する彼の需要よりもますます小さくなる。彼がAの買い手であるよりもより多くPmの買い手であるという度合いは、絶えず増大する。
 
(51)労働者が自分の賃金をほとんど全部生活手段に転換し、しかも最大部分を必要生活手段に転換する限りでは、労働力に対する資本家の需要は、間接には、同時に、労働者階級の消費に入って行く消費手段に対する需要でもある。ところが、この需要はvに等しく、決してそれよりも大きくはない。(もし労働者が自分の賃金の一部分を貯蓄するとすれば――われわれはここでは当然いっさいの信用関係を度外視する――、それは、彼が賃金の一部分を蓄蔵貨幣にしてその程度だけ需要者すなわち買い手としては現われないということを意味する。)資本家の需要の最大限はC=c+vであるが、彼の供給はc+v+mである。だから、もし彼の商品資本の構成が 80c+20v+20m であれば、彼の需要は 80c+20v であって、価値の点から見れば彼の供給よりも五分の一だけ小さい。彼が生産するmの量の百分率(利潤率)が大きければ大きいほど、彼の需要は彼の供給に比べてますます小さくなる。労働力に対する、したがって間接には必要生活手段に対する資本家の需要は、生産の進歩につれて、生産手段に対する彼の需要よりもますます小さくなるとはいえ、他方、忘れてならないのは、Pmに対する彼の需要は、毎日計算して見れば、いつでも彼の資本よりも小さいということである。つまり、生産手段に対する彼の需要は、同額の資本で同じ事情のもとで作業しながら彼にこの生産手段を供給する資本家の商品生産物よりも、常にその価値が小さくなければならない。このような資本家が大勢であって一人ではないということは、少しも事柄を変えるものではない。彼の資本は一〇〇〇ポンド・スターリングでその不変部分は八〇〇ポンド・スターリングだとしよう。そうすれば、資本家全体に対する彼の需要は八〇〇ポンドである。彼らは一〇〇〇ポンドについて(そのうちどれだけが彼らのうちの各個人のものであるか、また各人に属する量が彼の総資本のどれだけの部分をなすかにかかわりなく)、利潤率が等しければ、合計して一二〇〇ポンドという価値の生産手段を供給する。したがって、価値量から見れば、彼の需要は彼らの供給の三分の二にしかあたらないし、他方、彼自身の総需要は彼自身の供給の五分の四にしかならないのである。
 
(52)ついでにここで前もって回転の考察をしておかなければならない。彼の総資本は五〇〇〇ポンド・スターリングで、そのうち四〇〇〇は固定資本、一〇〇〇は流動資本だとしよう。前の仮定に従えば、この一〇〇〇は 800c+200v である。彼の総資本が一年に一回転するためには、彼の流動資本は一年に五回転しなければならない。そうすれば、彼の商品生産物は六〇〇〇ポンド・スターリングで、彼の前貸資本よりも一〇〇〇ポンド大きく、剰余価値の割合は前の場合と同じになる。
 
(53)すなわち、5000C:1000m=100(c+v):20mである。だから、この回転は彼の総供給に対する彼の総需要の割合を少しも変えるものではなく、総需要はやはり総供給よりも五分の一だけ小さい。
 
(54)彼の固定資本は一〇年で更新されるとしよう。そうすれば、彼は年々一〇分の一すなわち四〇〇ポンド・スターリングを償却して行くことになる。これによって、彼は固定資本では三六〇〇ポンドだけの価値をもっており、そのほかに貨幣で四〇〇ポンドの価値をもっている。修理が必要である限り、そしてそれが平均程度を越えない限り、それは彼が後から追加的に行なう資本投下に他ならない。われわれは事態を次のように見ることができる。すなわち、彼は年間の商品生産物に入ってくる限りでの彼の投下資本を評価するにあたって同時に修理費を算入しており、したがって修理費は一〇分の一の償却の中に含まれているのだ、と。(もし彼の必要とする修理が実際は平均より少ないとすれば、それは彼のもうけであり、同様に、もしそれが平均より多ければ彼の損である。しかし、これは同じ産業部門に従事する資本家の全体について見れば、平均される。)とにかく、彼の総資本の回転が年一回ならば、彼の年間需要は常に五〇〇〇ポンド・スターリングで、彼の最初の前貸資本価値に等しいのであるが、この需要は資本の流動部分に関しては増えて行き、他方、資本の固定部分に関しては絶えず減って行くのである。
 
(55)そこで、再生産の問題になる。資本家は剰余価値gを全部消費して最初の資本量Cだけを再び生産資本に転換するとしよう。いまでは資本家の需要は彼の供給と同じ価値である。しかし、彼の資本の運動についてはそうではない。資本家としては彼の自分の供給の五分の四(価値量から見て)しか需要しない。五分の一を彼は非資本家として消費するのであり、資本家としての彼の機能においてではなく、自分の個人的な必要または享楽のために消費するのである。
 
(56)そうすれば彼の計算は百分比ではこのようになる。
資本家として 需要=一〇〇 供給=一二〇
享楽家として 需要= 二〇 供給= ――
 合計 需要=一二〇 供給=一二〇
 
(57)この前提は、資本主義的生産が存在しないという、したがって産業資本家そのものが存在しないという前提と同じである。なぜならば、致富そのものがではなく享楽が推進的動機として働くという前提によっては、資本主義はすでにその基礎において廃止されているからである。
 
(58)しかし、この前提は技術的にも不可能である。資本家は、価格の変動に備えて、また売買のために最も有利な市況を待つことができるようにするために、準備資本を設けなければならないが、それだけではない。彼は、生産を拡大し技術的進歩を彼の生産有機体に合体させるために、資本を蓄積しなければならない。
 
(59)資本を蓄積するためには、彼はまず第一に、流通から彼の手に流れてきた貨幣形態にある剰余価値の一部分を流通から引き上げて、それを、旧来の事業の拡張のためかまたは付属事業の開始のために必要な大きさに達するまで、蓄蔵貨幣として増大させなければならない。貨幣蓄蔵が続くあいだは、それは資本家の需要を増加させない。貨幣は不動化されている。この貨幣は、供給された商品と引き換えに貨幣等価を商品市場から引きあげたか、この貨幣等価に代わる商品での等価を商品市場から引き上げないのである。
 
(60)信用はここでは考慮されない。そして、たとえば、貨幣がたまるにしたがってそれを資本家が銀行に当座勘定で利子付きで預金するとすれば、それは信用の問題なのである。
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by shihonron | 2011-06-14 23:00 | 学習会の報告


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