『資本論』を読む会の報告

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2011年 08月 15日

第233回 8月9日 第10章 固定資本と流動資本に関する諸学説 重農学派とアダム・スミス

8月9日(火)に第233回の学習会を行いました。
「第10章 固定資本と流動資本に関する諸学説 重農学派とアダム・スミス」の第9段落から第27段落までについてレジュメに基づく報告を受け検討しました。

以下はレジュメです。

第一〇章 固定資本と流動資本とに関する諸学説
      重農学派とアダム・スミス



⑨このような姿で充用される資本!スミスは,農業に,工業に,投下されている資本のことを言って いる。しかも,彼は,もっと後では,こうして投下された資本が固定資本と流動資本とに分かれる のだ,と言う! つまり,このような仕方での資本の投下[商人資本]は,資本を固定資本にするこ とも流動資本にすることもできない。
⑩彼の言おうとしたのは,資本は,商品に転化された後に売られ,この販売によって第一には売り手 の所有から買い手の所有に移り,第二には商品としてのその現物形態からその貨幣形態に転換さ れなければならず,それが所有者の手に留まっているかまたは(彼にとって)同じ形態に留まっ ているあいだは彼にとっては役に立たないということか?
・もしそうだとすれば,事柄は次のようになる。以前は生産資本の形態すなわち生産過程に属する 形態で機能していたその同じ資本価値が,いまでは商品資本および貨幣資本として,流通過程に属 する形態で機能しており,もはや固定資本でも流動資本でもない。このことは,原料や補助材料つ まり流動資本によってつけ加えられる資本要素にも,労働手段の消費によって,つまり固定資本に よってつけ加えられる価値要素にも,同じにあてはまる。われわれは固定資本と流動資本との区 別にやはり一歩も近づかない。

⑪さらに次のように言う。「商人の財貨は,彼がそれを貨幣と引換に売るまでは,彼に収入も利潤も もたらさない。また,この貨幣も,それが再び財貨と交換されるまでは,やはり彼に何ももたらさ ない。彼の資本は絶えず一方の姿で彼から離れて行き他方の姿で彼に帰ってくるのであって,た だこのような流通または連続的な交換によってのみ,彼の資本は彼にいくらかの利潤をもたらす ことができる。それゆえ,このような資本はまったく正当に流動資本と呼ばれてよい。」
⑫ここでA・スミスが流動資本として規定しているものは,私が流通資本と呼ぼうとしているもの, すなわち,流通過程に属する形態にある資本であり,生産資本の形態に対立する商品資本と貨幣資 本である。これをA・スミスは資本価値が生産資本の形態にあるあいだに生ずる形態的区別と混 同している。この形態的区別は,生産資本の色々な要素が価値形成過程に参加して自分の価値を 生産物に移す仕方の相違から生ずる。
・このような,一方では生産資本と流通部面にある資本(商品資本と貨幣資本) との,他方では固定 資本と流動資本との,混同の結果は,もっと後で見る。
・固定資本に前貸しされた資本価値も,流動資本に前貸しされた資本価値と同様,生産物(商品資  本)の流通によって貨幣資本に転化する。区別は前者の価値は少しずつ流通し,また長短の期間 にわたって少しずつ補塡され現物形態で再生産されなければならない,ということから生ずる。

⑬A・スミスが流動資本と言っているのは,流通資本(商品資本と貨幣資本) に他ならないという こと----例としてあげている資本種類は,全然生産過程には属しない商人資本。
⑭「商人の資本はその全体が流動資本である。」

⑮流動資本と固定資本との区別は,生産資本そのものの中での本質的な区別から生ずる。A・スミ スの念頭にあるのは,一方では重農学派的な区別であり,他方では資本価値がその循環の中で受け る形態的区別である。そして,この二つのものがごちゃまぜになっている

⑯しかし,どうして利潤が貨幣と商品との形態変換によって生ずるのか,つまり,ただ価値がこれら の形態の一つから他の一つに転化するだけのことによってどうして利潤が生ずるのかは,どうし てもわからない。彼はただ流通部面の中だけで運動する商人資本で話を始めるのだから,説明は 全然不可能になる。
・彼が固定資本について言っていること。「第二にそれ」(資本) 「は,土地の改良に,有用な機械 や作業用具の買い入れに使用されうる。このような資本はまったく正当に固定資本と呼ばれてよ い。とはいえ,すべてのこのような手工業親方」(たとえば裁縫師や靴匠や織匠のような) 「の 資本のずっと大きな部分は,彼らの職人の賃金かまたは彼らの材料の価格として流通し,製品の価 格によって利潤をつけて払い戻される。」

⑰利潤の源泉についての幼稚な規定は別としても,弱点と混乱はたちまち次の点に現われてくる。 たとえば,機械製造業者にとっては機械は商品資本として流通する生産物であり,したがって「手 放され,持ち主を取り替え,さらに流通する。」
⑱それならば,機械は,彼自身の規定によれば,固定資本ではなくて流動資本であろう。
・このような混乱もまた,スミスが,生産資本の色々な要素の流通の仕方の相違から生ずる固定資本 と流動資本との区別を,同じ資本が(生産過程では生産資本として機能するが流通部面では商品 資本または貨幣資本として機能する限り)通って行く形態的区別と混同していることから生ずる。
・それゆえ,A・スミスにあっては,同じ物が,資本の生活過程で占める位置の相違によって,固定資 本として(労働手段,生産資本の要素として) 機能したり,「流動」資本,商品資本として機能し たりすることができる。
⑲ところが,A・スミスは,にわかに自分が数行前では全研究の出発点としていたことと矛盾したこ とを言う。「資本がその使用者に収入または利潤をもたらすように使用されうる二つの違った仕 方がある。」すなわち,流動資本としてか,または固定資本としてか,である。
・つまり,この命題によれば,その仕方というのは,互いに独立な別々の資本のいろいろに違う充用 の仕方,たとえばそれらの資本が工業や農業で充用されうる仕方だったのである。
・ところが,今度は次のように言う。「職業が違えば,それに使用される固定資本と流動資本との割 合も非常に違うことが必要になる。」
⑳固定資本と流動資本とは今度は別々な独立の資本投下ではなく,同じ生産資本の色々な部分であ り,これらの部分は投下部面が違えばこの資本の総価値の中で違った割合をなす。
・つまり,それは,生産資本そのものの適当な分割から生ずる区別であり,したがってただ生産資本 だけにあてはまる区別である。
・ところが,再びこれと矛盾して,商業資本が単なる流動資本として固定資本に対置されることにな る。スミスは言う。「商人の資本はその全体が流動資本である。」
21実際,商業資本は,ただ流通部面の中だけで機能する資本であって,生産資本に対立するのである が,生産資本の流動的成分として生産資本の固定的成分に対立することはできない。
22スミスがあげている例では彼は作業用具を固定資本として規定し,労賃と補助材料を含めての原 料とに投下された資本部分(製品の価格によって利潤をつけて払い戻されるもの)を流動資本と して規定している。
23労働過程の色々な成分,すなわち一方では労働力(労働) と原料,他方では労働用具が出発点にな っている。これらのものは生産資本(生産過程で機能する資本)の素材的な要素であり存在様式 である。では,なぜ一方の部分が固定的と呼ばれるのか?「資本のある部分は作業用具に固定さ れていなければならない」からである。
24だが,他方の部分も労賃や原料に固定されている。とはいえ,機械や「作業用具(もうそれ以上流 通することなしに収入または利潤をもたらすような諸物)それゆえ,このような資本は正当に固 定資本と呼ばれてよい。」
25鉱山業。ここでは,原料はまったく使用されない。労働対象,たとえば銅は天然産物だから。
・他方,この生産過程の他の諸要素,労働力も石炭や水などの補助材料も,やはり素材としては生産 物に入らない。この例では生産資本の成分で持ち主を取り替えるものはない。言い換えれば,さ らに流通させられるものはない。というのは,素材として生産物に入るものはないから。では,こ こでは流動資本はどこに残るのか? A・スミス自身の定義によれば,銅鉱山で使用される資本 は全部固定資本だけから成っているということになる。
26別の産業。生産物,たとえば糸と一緒に,それの原料である綿花も持ち主を取り替えて生産過程か ら消費過程に入る。
・しかし,綿花が生産資本の要素として機能しているあいだは,その所有者はそれを売るのではなく, それに加工し,糸をつくらせる。彼は,「それを手放す(流通させる)ことによって」利潤をあげ ない。彼の材料は,紡績機や工場の建物と同様に,生産過程に固定されている。違うのは,たとえ ば毎週の糸の生産に必要な綿花や石炭など,生産資本のこれらの要素は,常に同種の新品からなっ ているのに,他方,紡績機や工場建物は,同種の新品によって補塡されることなしに,引き続き何回 もの週生産のために協力する。生産資本の要素としては,生産資本の成分はすべていつでも生産 過程に固定されている。そして,生産資本のすべての要素は,固定的でも流動的でも,等しく生産 資本として流通資本に,すなわち商品資本および貨幣資本に,相対している。
27労働力についても同じこと。生産資本の一部分はいつでも労働力に固定されている。労働力と機 械との相違は,(機械は一度に買われるが労働者はそうではないということにあるのではなく) 労働者が支出する労働は全部生産物の価値に入ってしまうが機械の価値のほうは少しずつ入って 行くということにある。
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by shihonron | 2011-08-15 11:33 | 学習会の報告


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