『資本論』を読む会の報告

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2011年 08月 31日

第234回 8月31日 第10章 固定資本と流動資本に関する諸学説 重農学派とアダム・スミス

8月31日(火)に第234回の学習会を行いました。
「第10章 固定資本と流動資本に関する諸学説 重農学派とアダム・スミス」の第28段落から第55段落までについてレジュメに基づく報告を受け検討しました。

以下はレジュメです。

28スミスが固定資本に対立させて流動資本について次のように言うとき,彼は色々な規定を混同 している。「このような仕方で充用される資本は,その充用者の所有に留まるかまたは同じ姿で 存続しているあいだは,その充用者に収入も利潤ももたらさない。」

29彼は,商品の単に形態的な変態を,生産資本の色々な要素が生産過程で通る物体的な変態(生産要 素の生産物への転化)と混同している。彼が流動資本としてあげている例は,商人資本であり,商 品流通に属する形態変換W-G-Wである。
・機能している産業資本にとってこのような流通のなかでの形態変換がもっている意義は,貨幣が 再転化されて行く諸商品が生産要素(労働手段と労働力) だということ。この形態変換が産業資 本の機能の連続を媒介し,連続的な生産過程(再生産過程)を媒介するということ。この形態変 換は流通のなかで行なわれ,一つの手から別の手への諸商品の現実の移行を媒介する。
・これに反して,生産資本がその生産過程の中で通る諸変態は,労働過程に属する諸変態であって, 生産要素を目的通りの生産物に転化させるために必要な諸変態である。A・スミスが固執するの は,生産手段の一部分(本来の労働手段) は,その現物形態を変えることなしにだんだん損耗して 行くだけで労働過程で役立つが(このことを彼は間違って「その持ち主に利潤をもたらす」と言 い表している) ,もう一つの部分である諸材料は,それ自身が変化し,またまさにそれが変化する ことによって生産手段としての自分の使命を果たす,ということである。
・労働過程で生産資本の諸要素が違った働き方をするということは,固定資本と非固定資本との区 別の出発点をなしているだけ。このような素材としての違った働き方には,生産物への価値の引 き渡しが対応し,また生産物の販売による価値補塡が対応する。これが前述の区別をなす。
・資本が固定資本であるのは,労働手段に投下されたその価値の一部分が,他の部分は生産物の価値 成分として流通しているのに,労働手段に固定されたままになっているから。「もしそれ(資本) が将来の利潤を得るために使用されるとすれば,それは,彼(使用者)のもとに留まることによっ てか,または彼のもとから去ることによって,この利潤を得なければならない。一方の場合にはそ れは固定資本であり,他方の場合には流動資本である。」

30ここでまず第一に目につくのは,普通の資本家の見方から取ってきた粗雑な経験的な利潤観念で あって,これはA・スミスの深奥な見解とはまったく矛盾する。
・生産物の価格では材料の価格も労働力の価格も補塡されているが,労働用具から損耗によって生 産物に移された価値部分も補塡されている。この補塡からは利潤はわいてこない。ここで根底に あるのは,剰余価値は生産物の販売,生産物の流通によってはじめて実現されるのだから,それは ただ販売だけから,流通だけから生ずるのだ,という見解。
・利潤の色々な発生の仕方というのはスミスの場合,ただ,生産資本の色々な要素は違った役立ち方 をし,生産要素として労働過程で違った働き方をするということを言い表すための間違った決ま り文句でしかない。結局,区別は,労働過程・価値増殖過程からは,導き出されないで,ただ個々の 資本家にとって主観的に認められるだけだということになり,この資本家にとっては一方の資本 部分はこの仕方で役立ち他方の資本部分はあの仕方で役立つというようなことになる。

31ケネーはすでにこの区別を再生産過程とその必然的条件そのものから導き出していた。この過程 が連続的であるためには,年間生産物の価値から年間前貸の価値が年々全部補塡されなければな らないが,原前貸資本の価値はただ少しずつ補塡され,何年かの後に,たとえば10年後に同種の新 品と取り替えられればよい。スミスはケネーよりもずっと後退している。

32A・スミスでは,固定資本の規定として,それが労働手段であって,その助けによって形成される 生産物に対立して,生産過程でその姿を変えないで損耗してしまうまで引き続き生産に役立つと いうことの他には,まったくなにも残らない。彼が忘れているのは,生産資本の要素はすべていつ でもその現物形態で(労働手段や諸材料や労働力として) 商品として流通する生産物に,対立し ているということ。また,諸材料や労働力から成っている部分と労働手段からなっている部分と の相違は,労働力については,ただ,それが絶えず新しく買われるという点,諸材料については,絶 えず同種の新品が労働過程で機能しているという点だけにあるということ。それと同時に,固定 資本の価値は流通もしないかのような間違った外観が持ち出されるが,とはいえ,A・スミスも, もちろん,固定資本の損耗分を以前は生産物価格の一部分として説明しいた。

33固定資本に対立するものとしての流動資本については次のことが強調されていない。すなわち, 対立をなすのは,固定資本とは違って生産物の価値から全部補塡され,したがって生産物の変態に 全部一緒に参加しなければならない部分だということ。[スミスの場合]流動資本は,資本が生産 部面から流通部面に移るときに商品資本および貨幣資本としてとる姿と混同される。この二つの 形態は,生産資本の固定的成分と流動的成分との両方の価値の担い手である。どちらも,生産資本 に対立する流通資本ではあるが,固定資本に対立する流動資本ではないのである。

34固定資本によって利潤が得られるのは固定資本が生産過程に留まっているからであり,流動資本 によって得られるのは流動資本が生産過程を去って流通させられるからだというまったく間違っ た説明によって----可変資本と不変資本の流動的成分とが,回転については同じ形態をもってい るために価値増殖過程および剰余価値形成での両者の本質的な区別が隠蔽され,したがって資本 主義的生産の全秘密がますます不明にされる。流動資本という共通な名称によって,この本質的 な区別がなくされてしまう。
・それはその後の経済学によってさらに進められた。可変資本と不変資本という対立がではなく, 固定資本と流動資本という対立が,本質的なものであり唯一の区別であるとして固執された。

35A・スミスは,固定資本と流動資本とを資本投下の二つの特殊な仕方と呼び,それぞれが利潤をあ げると言ってから,次のように言う。「固定資本は流動資本の助けによらなければ収入をもたら すことはできない。どんなに有用な機械や作業用具でも,それらによって加工される材料やそれ らを使用する労働者の生活手段を供給する流動資本がなければ,なに一つ生産しない。」

36ここでは「収入をもたらす」とか「利潤をあげる」とかいう以前の表現が何を意味するかが明ら かになってくる。どちらの資本部分も生産物形成者として役立つということである。

37A・スミスは例をあげる。「農業経営者の資本のうち,農具に使用される部分は固定資本であり, 彼の労働僕婢の賃金や生活手段に使用される部分は流動資本である。」

38(すなわちここでは固定資本と流動資本との区別は,正当に,ただ生産資本の色々な成分の流通の 相違,回転の相違だけに関するものになっている) 。「彼は,固定資本からはそれを彼自身の所有 物にしておくことによって利潤をあげ,流動資本からはそれを手放すことによって利潤をあげる。 彼の役畜の価格または価値も固定資本であり,」

39(ここでも,区別は価値に関するものであって素材的要素に関するものではないという正しいこ とが言われている)。「ちょうど農具の価格または価値がそうであるのと同様である。(役畜の) 生活手段は流動資本であって,労働僕婢の生活手段がそうであるのと同様である。農業経営者は, 役畜を保有すること,そして役畜の生活手段を手放すことによって,利潤をあげる。」

40(農業経営者は家畜の飼料を保有するのであって,それを売るのではない。彼はそれを家畜の飼 料として消費するとともに,家畜そのものを作業用具として消費する。違うのは,役畜の維持に用 いられる飼料は全部食いつくされてしまって,農産物またはその販売によって得られる新たな飼 料によって絶えず補塡されなければならないが,家畜そのものは,一頭ずつ順々に労働不能になっ て行くにしたがって補塡されて行く) 。「売るために買ってきて太らせた家畜の価格もその飼料 も流動資本である。農業経営者はそれを手放すことによって彼の利潤をあげる。」

41(商品生産者(資本家的商品生産者)は,自分の生産物を売るが,生産物は,今では,商品資本とし て機能しなければならない形態にある。肥育家畜が生産過程で機能するのは,原料としてであっ て,役畜のように用具としてではない。それは実体として生産物に入るのであって,その全価値が 補助材料{その飼料}の価値と同様に生産物に入る。それは生産資本の流動的な部分である。生 産物がこのような形態をもっていることは偶然である。スミスは,この例から,生産要素に含まれ ている価値に固定と流動という規定を与えるものは,生産要素の物的な姿ではなくて,生産過程の 中で生産要素が行なう機能だということを知ることもできたであろう。)
・「種子の全価値もまた固定資本である。種子は,決して持ち主を取り替えないのであって,それゆ え,それは本来の意味では流通しないのである。農業経営者が彼の利潤をあげるのは,種子の販売 によるのではなく,その増殖によるのである。」

42スミスの不思慮。彼によれば,もし種子が直接に年間生産物から補塡され年間生産物から控除さ れれば,種子は,固定資本だということになる。もし全生産物を売って,その価値の一部分で他人 の種子を買えば,種子は流動資本ということになる。一方の場合には持ち主の取り替えが起き,他 方の場合には起きない。スミスはここで再び流動資本と商品資本とを混同している。生産物は商 品資本の素材的な担い手である。といっても,生産物のうち現実に流通に入る部分だけが。

43種子が直接に生産物からその一部分として控除されようと,生産物全体が売られてその価値の一 部分が他人の種子を買うことに費やされようと,どちらの場合にも補塡が行なわれるだけで,少し も利潤は得られない。どちらの場合にも,生産資本の流動的成分であることに変わりはない。

44「原料や補助材料は,それらが使用価値として労働過程に入ったときの独立の姿をなくしてしま う。本来の労働手段はそうではない。用具や機械や工場建物や容器などが労働過程で役立つのは, 明日もまた昨日とまったく同じ形態で労働過程に入って行く限りでのことである。それらのもの は,労働過程にあるあいだ,生産物に対して自分の独立の姿を保持しているが,それらが死んでか らもやはりそうである。機械や道具や作業用建物などの死骸は,相変わらず,独立に,それらに助 けられてつくられた生産物とは別に,存在している。」(第一部第六章)

45生産手段が生産物の形成のために消費される仕方の相違,すなわち,一方の生産手段は生産物に対 して独立の姿を保持し,他方はその姿を変えるかまたはすっかりなくしてしまうという相違,---- このような,労働過程そのものに属する区別----この区別をA・スミスは歪めている。
・彼は,(一) 一方はその姿を保持することにより,他方はその姿を失うことによって所有者に利潤 をもたらすというここではまったく不当な利潤規定を持ち込んでいる,(二) 彼は,労働過程で生 産要素の一部分に起きる変化を,諸生産物の交換すなわち商品流通に属する形態変換(売買) と, すなわち同時に流通商品の所有の変換を含む形態変換と,混同している。

46回転は,再生産が流通によって媒介されること(生産物の販売によって,生産物の貨幣への転化と 貨幣から生産物の生産要素への再転化とによって,再生産が媒介されること)を前提する。
・資本家的生産者自身にとって彼自身の生産物の一部が直接に再び生産手段として役立つ限り,そ の生産者は自分自身へのその部分の売り手として現われる。この場合には,再生産のこの部分は 流通によって媒介されてはいないで直接的である。
・生産物のうちでこのように再び生産手段として役立つ部分は,(一) その価値が全部生産物に入 ってしまう限り,また,(二) それ自身が新たな生産物のうちから新品によって現物で全部補塡さ れている限り,流動資本を補塡するのであって,固定資本を補塡するのではない。

47A・スミスは,流動資本と固定資本とが何から成っているかを語る。まるで,このような規定がこ れらの物に素材的に天然に備わってでもいるかのように。そして,このような規定はこれらの物 が資本主義的生産過程の中で果たす特定の機能から生ずるのではないかのように。
・とはいえ,彼は同じ章で次のように言う。直接的消費のための住宅のようなものは,「その所有者 に収入をもたらし,彼にとっては資本の機能によって役立つかもしれないが,公衆にとっては収入 をもたらすことも資本の機能によって役立つこともできないのであって,それによって人民全体 の収入がほんの少しでもふやされることは決してありえない。」

48ここでは,資本属性は色々な物そのものにどんな事情のもとでも備わっているものではなくて,そ れらの物が事情によって備えていたり備えていなかったりする機能だということを明言している。 しかし,資本一般について言えることは,資本の細区分についても言える。

49同じ物でも,労働過程で果たす機能の違いに応じて,流動資本の成分をなす事もあれば,固定資本 の成分をなす事もある。役畜(労働手段) と肥育家畜(原料) 。他方では,同じ物が生産資本の 成分として機能することもあれば,直接的消費財源に属することもありうる。家屋の例。同じ労 働手段が時には生産手段として,時には消費手段として機能する場合はたくさんある。

50固定資本と流動資本という性格を物に備わっている性格と考えることは,スミスの見解から出て くる誤りの一つだった。労働過程の分析(第一部第五章) は,同じ一つの物がこの過程の中で占 める役割が違うのにしたがって,労働手段,労働材料,生産物という規定がどのように入れ替わる か,を示している。固定資本と非固定資本という規定もまた,これらの要素が労働過程の中で,し たがってまた価値形成過程の中で演ずる特定の役割に基づいている。

51そして第二に,固定資本と流動資本とを形成する色々な物を数え上げることでは,次のこともすっ かり明白になった。スミスは,ただ生産資本(生産的な形態にある資本) だけに関して妥当であ り意味をもっている生産資本の固定的成分と流動的成分との区別を,生産資本と流通過程にある 資本に属する諸形態すなわち商品資本および貨幣資本との区別と混同しているということ。
・彼は次のように言っている。「流動資本はそれぞれの商人の手にある各種の生活手段,材料,およ び完成品と,それらを流通させ分配させるために必要な貨幣とから成っている。」

52ここでは,前のところとは反対に,流動資本が商品資本および貨幣資本と同一視されている。つま り,決して生産過程に属するものではなく,固定資本に対立する流動資本をなすのではなく生産資 本に対立する流通資本をなすところの,二つの資本形態と,同一視されている。
・その次にただ,これら二つの資本形態と並んで,諸材料(原料または半製品) に前貸しされて現実 に生産過程に合体されている生産資本の諸成分が姿を見せる。「社会の総資本が自然に分かれて 行く三つの部分のうち,第三で最後のものは,流動資本であって,その特徴は,それがただ流通また は持ち主変換によってのみ収入をもたらすということである。これもまた四つの部分からなって いる。第一に貨幣から----。」

53(しかし,貨幣は決して生産資本すなわち生産過程で機能している資本の一形態ではない。それ は,いつでも,ただ,資本がその流通過程の中でとる諸形態の一つであるに過ぎない。) 「第二に, 屠畜業者や飼畜業者や農業経営者の手にあって彼らがそれを売って利潤を得ようと思っている食 料の在庫から。第四に,できあがってはいるがまだ商人や製造業者の手にある製品から。」そし て,「第三には,全然未加工かまたは多少とも加工されている材料から。つまり,衣類や家具や建 物の材料でまだこれらの三つの形のどれにも仕上げられていないで農業者や製造業者や絹物商や 反物商や材木商や大工や指物師や煉瓦製造業者などの手に留まっているものから。」

54第二と第四は,生産物として生産過程から押し出され,今では商品(商品資本)として,機能する のであり,生産資本の何の要素もなさないような形態をもっている。このような生産物は,第二で は食料であり,第四ではその他のすべての完成生産物,つまり,それ自身またただ完成労働手段ま たは完成嗜好品(第二項に含まれている食料以外の) だけから成っている生産物である。

55スミスの混乱。生産者が自分の生産物を商人に売った限りでは,生産物は彼の資本のなんらの形態もなさない。社会的に見れば,たとえその生産者の手とは別の手にあっても,やはり商品資本である。しかし,商品資本であるからこそ,それは固定資本でも流動資本でもない。
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by shihonron | 2011-08-31 23:30 | 学習会の報告


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