『資本論』を読む会の報告

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2011年 09月 06日

第235回 9月6日 第10章 固定資本と流動資本に関する諸学説 重農学派とアダム・スミス

9月6日(火)に第235回の学習会を行いました。
「第10章 固定資本と流動資本に関する諸学説 重農学派とアダム・スミス」の第56段落から最後(第81段落)までについてレジュメに基づく報告を受け検討しました。

以下はレジュメです。


56直接的自家需要に向けられていない生産では生産物は商品として流通しなければならない。利潤 をあげるためにではなく,生産者が暮らして行けるようにするため。資本主義的生産の場合にこ れに加わるのは,商品が売れれば商品に含まれている剰余価値も実現されるということ。

57スミスはここでは自分の言ったことを否定する。生産物は,ここではすべて商品資本であり,つま り流通過程に属する形態にある資本である。それが売られればその買い手の手の中で生産資本の 流動的成分なり固定的成分なりに成る。ここで明らかなように,ある時には生産資本に対立する 商品資本として市場に現れれるその同じ物が,ひとたび市場から引きあげられれば,生産資本の流 動的成分または固定的成分として機能することも機能しないことも有り得るのである。

58綿糸紡績業者の生産物(綿糸)は彼の資本の商品形態であり,商品資本である。それはもはや彼 の生産資本の成分として機能することはできない。労働材料としても労働手段としても機能する ことはできない。しかし,それを買う織物業者の手の中では,それは彼の生産資本にその流動的成 分の一つとして合体される。しかし,紡績業者にとっては,綿糸は彼の固定資本と流動資本と両方 の一部分の価値の担い手である(剰余価値は別として) 。
・同様に,機械は,機械製造業者の生産物としては,彼の資本の商品形態であり,彼にとっては商品資 本である。そして,この形態に留まる限り,それは流動資本でも固定資本でもない。それを使用す る製造業者に売られれば,それは生産資本の固定的成分になる。
・生産物の一部分がそれの出てきた過程に再び生産手段として入ることができる場合,たとえば石 炭が石炭生産に入るような場合にも,石炭生産物中の販売に向けられた部分そのものが表わして いるのは,流動資本でも固定資本でもなくて,商品資本なのである。

59生産物が,その使用形態から見て,労働材料としてであろうと労働手段としてであろうと生産資本 の要素をなすことは決してできないという場合も有り得る。たとえば,生活手段。それにもかか わらず,それはその生産者にとっては商品資本であり,固定資本と流動資本と両方の価値の担い手 である。その資本が自分の価値を全部生産物に移しているかそれとも部分的に移しているかにし たがって,この生産物は,あるいは流動資本の,あるいは固定資本の,価値の担い手になる。

60スミスの場合,第三項では材料(原料,半製品,補助材料) が,一方では,すでに生産資本に合体さ れた構成成分としては現われないで,事実上ただ,社会的生産物一般を構成する諸使用価値の特殊 な種類(第二項や第四項で数え上げられている他の素材的成分すなわち生活手段などと並ぶ商品 群中の特殊な種類)として,現われるにすぎない。
・他方では,材料は,確かに,生産資本に合体されているものとして,したがってまた生産者の手の中 にある生産資本の要素として,あげられている。
・混乱が現われるのは,材料が一方では生産者の手の中で(栽培業者や製造業者などの手の中で)  機能するものとして考えられており,他方では,商人の手の中で,すなわち材料が単なる商品資本 であって生産資本の成分ではないところの商人(絹織物商や反物商や材木商) の手の中で機能す るものとして考えられていると言う点である。

61事実上,A・スミスは,ここで流動資本の諸要素を数え上げるときには,ただ生産資本だけにあて はまる固定資本と流動資本との区別をすっかり忘れている。彼は,むしろ,商品資本と貨幣資本, すなわち流通過程に属する二つの資本形態を,生産資本に対立させているのであるが,しかしそれ もただ無意識にやっているだけ。

62A・スミスが流動資本の成分を数えるときに労働力を忘れている。二重の理由から。

63いま見てきたところでは,貨幣資本を別とすれば,流動資本とは商品資本の別名。ところが,労働 力が市場で流通している限り,それは商品資本の形態ではない。それは資本ではない。労働者は 資本家ではない。労働力が売られて生産過程に合体されたときに----つまり商品として流通する ことを止めてから,はじめて生産資本の成分になる。すなわち,剰余価値の源泉として可変資本に なり,労働力に投下された資本価値の回転に関しては生産資本の流動的成分になる。
・スミスは,ここでは流動資本を商品資本と混同しているので,労働力を彼の言う流動資本の項に入 れることができない。だから,可変資本は,ここでは,労働者が自分の賃金で買う商品の形態すな わち生活手段という形態で現われる。この形態では労賃に投下される資本価値は流動資本に属す るというわけである。生産過程に合体されるものは,労働力であり,労働者自身であって,労働者 が生きて行くための生活手段ではない。すでに見たように(第一部第二一章) ,社会的に見れば, 労働者の個人的消費による労働者そのものの再生産も社会的資本の再生産過程に属する。
・しかし,このことは,われわれがここで考察しているような,個々の,それ自身で完結する生産過程 にはあてはまらない。スミスが固定資本の部類にあげている「修得された有用な諸能力」は,そ れが賃金労働者の諸能力であって賃金労働者が自分の労働をその諸能力と一緒に売ったならば, 反対に流動資本の成分をなすのである。

64スミスが社会的富の全体を,(一) 直接的消費財源,(二) 固定資本,(三) 流動資本に分類して いるのは,彼の大きな誤り。これによれば,富は次のように分けられるであろう。(一) 消費財源。 これは,そのある部分はいつでも資本として機能することができるとはいえ,機能しつつある社会 的資本のどんな部分をもなしてはいない。(二) 資本。この分類によれば,富の一部分は資本と して機能し,他の部分は非資本または消費財源として機能する。そして,ここでは,固定的か流動 的のどちらかであるということが,どの資本にとっても避けられない必然として現われる。
・しかし,固定的と流動的との対立はただ生産資本の諸要素だけに適用できる。その他にも,固定的 でも流動的でもない形態にある非常にたくさんの資本(商品資本や貨幣資本)がある。

65生産物のうちで,直接に現物形態で再び生産手段として消費される部分を別とすれば,社会的生産 物の全量が(資本主義的基礎の上では)商品資本として市場で流通するのだから,商品資本価値 からは,生産資本の固定的要素・流動的要素・消費財源のすべての要素も引き出されるというこ とは,明らか。このことが事実上意味するところは,資本主義的生産の基礎の上では生産手段も消 費手段も,さしあたりはまず商品資本として現れるということ。同様に労働力も,たとえ商品資本 としてではなくても,商品として市場で見いだされる。

66そのために,A・スミスでは次のような新しい混乱が現われる。「これら四つの部分」(商品資 本と貨幣資本という流通過程に属する形態にある資本の,四つの部分のことであって,二つの部分 が四つになるのは,スミスが商品資本の諸成分をさらに素材的に区別しているから) 「のうちの 三つ(食料と諸材料と完成品)は,年々かまたはもっと長いかもっと短い期間に原則的に流動資 本から取り去られて,固定資本かまたは直接的消費のための在庫かに繰り入れられる。どの固定 資本も最初は流動資本から出てきたものであり,絶えず流動資本によって維持されなければなら ない。すべての有用な機械や工具は,最初は,それらをつくるための材料とそれらをつくる労働者 の生活手段とを供給する流動資本から出ているのである。それらはまた,いつでもよく手入れを しておくためにも,同種の資本を必要とする。」

67生産物のうちで直接にその生産者によって再び生産手段として消費される部分は別問題として, 資本主義的生産では次のような一般的な命題が妥当する。すべての生産物は商品として市場にや ってくるのであり,資本家にとっては自分の資本の商品形態(商品資本)として流通するのであ って,これらの生産物が,その使用価値から見て,生産資本の(生産過程の) 要素として,生産手段 として,したがって生産資本の固定的または流動的な要素として機能するか,それとも,ただ個人 的消費の手段として役立つことができるだけかということは,問題ではない。すべての生産物は 商品として市場に投げ込まれる。また,商品として買われることによって再び市場から引きあげ られなければならない。それは生産資本の固定的要素にも,流動的要素にも,あらゆる形態の労働 手段にも労働材料にも,あてはまる(そのほかにも,生産資本の要素のうちには天然に存在してい て生産物ではないものもある)。 機械も市場で買われるという点では,綿花と同じ。だからとい って,どの固定資本も最初は流動資本から出ているということには決してならない。----こんな ことは,ただ,流通資本と流動資本すなわち非固定資本のスミス的混同から出てくるだけである。
・おまけにスミスは自分の言ったことを自分で取り消す。機械は商品としては,流動資本の第四項 の部分をなしている。しかしスミスは,機械をつくるには労働や原料が必要だという理由で固定 資本を流動資本から導き出すのであるが,この場合,第一に,機械をつくるにはさらに労働手段,つ まり固定資本も必要なのであり,また第二に,原料をつくるにもやはり機械やその他の固定資本が 必要なのである。というのは,生産資本は常に労働手段を含んでいるが,必ずしも労働材料を含ん でいるとは限らないから。彼自身もすぐ続けて言っている。「土地や鉱山や漁場はすべてそれを 開発するために固定資本と流動資本との両方を必要とする。」

68(つまり,彼は,原料の生産には流動資本だけでなく固定資本も必要だということを認めている)
「そして」(ここで新しい間違いがでてくる) 「そこから生まれる生産物は,単にこれらの資本だけではなく社会にあるすべての他の資本をも,利潤をつけて補塡する。」

69これは,まったく間違い。それらの生産物はすべての他の産業部門のために原料や補助材料など を供給する。しかし,それらの生産物の価値はすべての他の社会的資本の価値を補塡しはしない。 この価値はそれら自身の資本価値(プラス剰余価値) を補塡するだけである。

70商品資本のうちで,ただ労働手段としてしか役立たないような生産物から成っている部分は,早か れ遅かれ資本主義的生産の基礎の上では,社会的生産資本の固定的部分の前もって予測できるよ うな現実の要素をなさなければならないということは,社会的に見れば正しい。

71ここで生産物の現物形態から生ずる一つの区別が現われる。

72たとえば紡績機械は,もし紡績に使用されないならば,つまり生産要素として,したがって資本家 的立場からは生産資本の固定的成分として,機能しないならば,何の使用価値も持たない。しかし, それが生産された国から輸出されることがある。そういう場合には,それが生産された国では,商 品資本として機能しただけで,売られてからも,決して固定資本としては機能しない。

73これに反して,土地に合体され,その場所でしか消費され得ない生産物,たとえば工場の建物,鉄道, 橋,トンネル,ドック,土地改良,等々は,物体として輸出できない。それらは無駄になるか,それと も,売られたならば,生産された国で固定資本として機能しなければならないか,どちらかである。
・思惑で工場を建てたり土地を改良したりして売ろうとする資本家的生産者にとっては,これらの 物は彼の商品資本の形態であり,したがってA・スミスによれば流動資本の形態である。しかし, 社会的に見れば,これらの物は結局はその国内でそれら自身の所在地によって固定された生産過 程で固定資本として機能するより他はない。
・だからといって,移動させられないものは無条件に固定資本だということにはならない。これら の物は,住宅などとしては消費財源に属し,決して社会的資本には属しないということも有り得る。 これらの物の生産者は,スミス流に言えば,それらを売ることによって利潤をあげる。だから流動 資本なのだ! これらの物の利用者,その最終の買い手は,ただそれらを生産過程で使用すること によってのみ,それらを利用することができる。だから固定資本なのだ!

74所有権,たとえば鉄道のそれは,毎日でもその持ち手を取り替えることができ,その所有者はこの 権利を外国で売ることによってさえ,利潤をあげることができる。しかし,これらの物は,それら の所在地である国の中では,遊休するか,生産資本の固定的成分として機能するかしなければなら ない。同様に,工場主Aは自分の工場を工場主Bに売ることによって利潤を得ることができるが, その工場が相変わらず固定資本として機能することを少しも妨げない。

75場所的に固定されていて土地から分離できない労働手段は,その生産者にとっては商品資本とし て機能しうるもので彼の固定資本の要素をなすものではないが,それにもかかわらず当然その国 内で固定資本として機能するより他はないということが予想されるとしても,逆に,固定資本は必 ず非可動物から成っているということにはならない。船や機関車は,ただその運動によってのみ 作用する。それでも,これらの物は,その使用者にとっては固定資本として機能する。
・他方,生産過程に固定されていて,一度そこに入ったからには二度とそこを去らないような物のう ちにも,生産資本の流動的成分をなすものがある。たとえば,機械の運転のための石炭,照明のた めのガスなど。これらの物が流動的であるのは,それらの価値が生産される商品の価値の中に入 り,したがってまた商品の販売によって全部補塡されなければならないからである。

76次の文句に注意する必要がある。
 「それら」(機械など) 「をつくる労働者の生活手段を供給する流動資本」。

77重農学派では,労賃として前貸しされる資本部分は,正しく,原前貸に対する年前貸の中に入れら れている。他方,重農学派では,借地農業者の充用する生産資本の成分として現われるものは,労 働力そのものではなく,農業労働者に与えられる生活手段である。これは彼らの独自な学説と関 連している。彼らにあっては,労働が生産物につけ加える価値部分は(原料や作業用具など,不変 資本の素材的成分が生産物につけ加える価値部分と同様に) ,労働者たちに支払われて労働力と しての彼らの機能を維持するために必ず消費されなければならない生活手段の価値に等しいだけ である。不変資本と可変資本との区別を発見することは,彼らには彼らの学説そのものによって 不可能にされている。労働は剰余価値を生産する(労働そのものの価格の再生産の他に) とすれ ば,それは工業でも農業でと同じに剰余価値を生産する。しかし,この学説によれば,ただ一方の 生産部門,農業だけで労働は剰余価値を生産するのだから,剰余価値は,労働から生ずるのではな く,この部門での自然の特殊な働き(助力) から生ずるということになる。それだけの理由から, 彼らにとっては農業労働が,他の種類の労働とは違って,生産的労働だということになる。

78A・スミスは労働者の生活手段を固定資本に対立する流動資本として規定するのであるが,それ は,
(一) 彼が固定資本に対立する流動資本を,流通部面に属する資本の諸形態すなわち流通資本と混 同しているからである。この混同は,彼以後も無批判に受け継がれてきた。彼は商品資本を生産 資本の流動的構成分と混同するのである。社会的生産物が商品という形態をとるところでは,労 働者の生活手段も非労働者の生活手段も,諸材料も労働手段そのものも,商品資本のうちから供給 されなければならないということは,自明のこと。
(二) スミスには重農学派の見解も紛れ込んでいる。かれ自身の展開の深奥な(真に科学的な)部 分とは矛盾しているのであるが。

79前貸しされた資本は一般に生産資本に転換される。これらの生産要素はそれ自体また以前の労働 の生産物である(生産要素のうちには労働力も含まれる) 。この生産要素という形態でのみ,前 貸資本は生産過程の中で機能することができる。
・もし資本の可変部分が転換されたものである労働力そのもののかわりに,労働者の生活手段を持 ってくるならば,この生活手段そのものが価値形成に関しては生産資本の他の諸要素(原料や役 畜の生活手段)からも区別されないことは明らかであり,それだから,スミスは重農学派にならっ て,役畜の生活手段と労働者の生活手段とを同列に置いている。
・生活手段は自分の価値に剰余価値つけ加えることはできない。生活手段の価値は,生産資本の他 の諸要素の価値と同様に,ただ生産物の価値の中に再現する。生活手段は,原料や半製品などと同 様に,ただ次のことによってのみ労働手段から成っている固定資本から区別される。すなわち,生 活手段は生産物の生産のためにすっかり消費されてしまい,その価値も全部補塡されなければな らないが,固定資本の場合にはこのことは徐々に少しずつ行なわれる,ということによって。だか ら,生産資本のうちで労働力(または労働者の生活手段) として前貸しされた部分は,生産資本中 の他の素材的要素から,区別されるだけで,労働・価値増殖過程に関しては区別されない。

80資本のうちの労賃に投ぜられた部分が生産資本の流動的部分に属し,この流動制を,生産資本の固 定的成分に対立して,原料などのような対象的な生産物形成者の一部分と共通に持っているとい うことは,資本のうちのこの可変部分が不変部分に対立して価値増殖過程で演ずる役割とは絶対 に何の関係もない。それはただ,どのようにして前貸資本価値のこの部分が流通を介して生産物 の価値から補塡され,更新され,したがって再生産されなければならないかということに関係があ るだけ。労働力の反復的購買は流通過程に属する。ところが,労働力に投ぜられた価値は,生産過 程の中ではじめて一定の不変量からある可変量に転化するのであり,また,この転化によっておよ そはじめて前貸価値は資本に,自分を増殖する価値に,転化させられる。
・スミスにのように,労働力に投下された価値がそう規定されるということになれば,可変資本と不 変資本との区別の理解は不可能にされ,したがって資本主義的生産過程一般の理解も不可能にさ れる。対象的な生産物形成者に投下された不変的な資本に対立して可変的な資本であるというこ の資本部分の規定は,労働力に投ぜられた資本部分は回転に関しては生産資本の流動的部分に属 するという規定のもとに葬られてしまう。この埋葬は,労働力に代わって労働者の生活手段が生 産資本の要素として数えられるということによって,完全にされる。労働力の価値が貨幣で前貸 しされるか,それとも直接に生活手段で前貸しされるかは,どちらでも構わない。もちろん,後の ほうの場合は資本主義的生産の基礎の上ではただ例外でしかありえないのであるが 。

81このようにA・スミスによって流動資本という規定が労働力に投ぜられた資本価値にとって決定 的なものとして固定されたということによって,スミスはついに彼の後継者たちが労働力に投下 された資本部分を可変資本として認識することを不可能にしてしまった。他の箇所で彼自身が与 えたもっと深い正しい展開は勝利を得なかったが,彼がやったこの突進は勝利を得た。彼らは,労 働者のための生活手段に投下されるということを,流動資本の本質的な規定にした。これには当 然つぎのような説が結びついた。この説によれば,必要な生活手段から成っている労働元本は一 つの与えられた大きさであって,この大きさは,一方では社会的生産物の中の労働者の分け前の限 界を物理的に画するが,他方ではまた労働力の買い入れのためにその全部が支出されなければな らない,というのである。
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by shihonron | 2011-09-06 23:30 | 学習会の報告


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