2011年 09月 13日
9月13日(火)に第236回の学習会を行いました。 「第11章 固定資本と流動資本とに関する諸学説 リカード」の第1段落から第19段落までについてレジュメに基づく報告を受け検討しました。 以下はレジュメです。 第2部 第11章 固定資本と流動資本とに関する諸学説 リカード (1)リカードが固定資本と流動資本との区別を持ち出すのは、ただ、価値法則の例外、すなわち労賃の率が物価に影響を及ぼす場合を説明するためでしかない。これについては第三部に入ってから述べることにしよう。 (2)しかし、もとからの不明瞭さは、次のような無造作な並置のうちにはじめから現われている。 「固定資本の耐久度のこのような相違、そして二つの資本種類が組み合わされて有り得る割合のこのような多種多様(25)。」 (25) リカード『経済学原理』、二五ページ。〔岩波文庫版、小泉訳『経済学及び課税の原理』、上、三三ページ。 ★リカードは、固定資本の耐久度の相違と固定資本と流動資本の組み合わせの割合を「無造作に並置」している。 (3)そこで、二つの資本種類とは何かと問えば、次のような答えが聞かれる。 「また、労働を維持するべき資本と、道具や機械や建物に投下されている資本とがいろいろに組み合わされて有り得る割合(26)。」 (4)つまり、固定資本は労働手段であり、流動資本は労働に投ぜられている資本なのである。労働を維持するべき資本、これがすでに、A・スミスから受け継がれたばかげた表現なのである。ここでは流動資本は一方では可変資本と混同される。しかしまた他方では、対立が価値増殖過程から――不変資本と可変資本として――取り出されないで、流通過程から取り出されている(古いスミス的混乱)ので、二重に間違った規定が出てくるのである。 (26) リカード『経済学原理』、二五ページ。〔岩波文庫版、上、三三ページ。〕 ★「労働を維持するべき資本」がA・スミスから受け継がれたばかげた表現だというのは、労働に投ぜられている資本(可変資本=資本のうち、労働力に転化される部分)を労働者が消費する生活手段に投じられている資本と考えているからか? (5)第一に、固定資本の耐久度の相違と、不変資本と可変資本とから成る資本構成の相違とが、同等なものと考えられている。しかし、後のほうの相違は剰余価値の生産における相違を規定する。これに反して、前のほうの相違は、価値増殖過程が考察される限りでは、ただ、ある与えられた価値が生産手段から生産物に移される仕方に関係があるだけであり、流通過程が考察される限りでは、ただ、投下資本の更新の周期に、または、別の見方からすれば、資本が前貸しされている期間に、関係があるだけである。もし資本主義的生産過程の内的な機構を見抜こうとはしないで、既成の現象の立場に立つならば、これらの区別は事実上一致する。色々な経営部門に投ぜられた諸資本のあいだへの社会的剰余価値の分配では、資本が前貸しされる色々な期間の相違(たとえば固定資本では寿命の相違)と、資本の有機的構成の相違(したがってまた不変資本と可変資本との流通の相違)とは、一般的利潤率の平均化や価値の生産価格への転化では両方とも一様に作用するのである。 ★「既成の現象の立場」とは、資本としての貨幣は自己増殖するといったブルジョア的な観念のことか? (6)第二に、流通過程の立場から見れば、一方の側には労働手段、すなわち固定資本があり、他方の側には労働材料と労賃、すなわち流動資本がある。これに反して、労働・価値増殖過程の立場から見れば、一方の側には生産手段(労働手段と労働材料)、すなわち不変資本があり、他方の側には労働力、すなわち可変資本がある。資本の有機的構成(第一部、第二三章、第二節、六四七ページ)にとっては、同じ価値量の不変資本が多くの労働手段と少ない労働材料とから成っているか、それとも多くの労働材料と少ない労働手段とから成っているかは、まったくどうでもよいことであって、いっさいは、生産手段に投ぜられた資本と労働力に投ぜられた資本との割合にかかっている。逆に、流通過程の立場、すなわち固定資本と流動資本との区別の立場から見れば、与えられた価値量の流動資本がどんな割合で労働材料と労賃とに分かれるかは、やはりどうでもよいことである。一方の立場から見れば、労働材料は労働手段と同じ範疇に属していて、労働力に投ぜられた資本価値に対立する。他方の立場から見れば、労働力に投ぜられた資本部分は、労働材料に投ぜられた資本部分と同じ部類に入って、労働手段に投ぜられた資本部分に対立する。 ■《資本の構成は二重の意味に解されなければならない。価値の面から見れば、この構成は、資本が不変資本すなわち生産手段の価値と、可変資本すなわち労働力の価値、労賃の総額とに分割される比率によって規定される。生産過程で機能している素材の面から見れば、どの資本も生産手段と生きた労働力に分かれるのであり、この場合の資本の構成は、一方では充用される生産手段の総量と、他方ではその充用に必要な労働量との、比率によって規定される。私は、第一の資本の構成を資本の価値構成と名づけ、第二のそれを資本の技術的構成と名づける。この両者のあいだには緊密な相互関係がある。この関係を表現するために、私は、資本の技術的構成によって規定され技術的構成の変化を反映する限りでの資本の価値構成を、資本の有機的構成と名づける。単純に資本の構成と言う場合には、つねに資本の有機的構成と解すべきである。》 (国民文庫188頁・原頁640 第1部第23章第2段落) ★労働・価値増殖過程の立場からは不変資本(生産手段=労働手段と労働材料)と可変資本(労働力)の区別、流通過程の立場からは固定資本(労働手段)と流通資本(労働材料と労賃)の区別が問題になる。「労働・価値増殖過程」とは、労働過程と価値増殖過程との統一との資本主義的生産過程のこと。 (7)こういうわけで、リカードでは、資本価値のうち労働材料(原料と補助材料)に投ぜられた部分はどちらの側にも現われない。それはまったく姿を消している。すなわち、それは固定資本の側にふさわしくない。というのは、それは、その流通様式では、労働力に投ぜられた資本部分とまったく一致しているからである。他方、それはまた流動資本の側に置かれるわけにもゆかない。というのは、もしそうだとすれば、A・スミスから引き継がれて暗黙のうちに行きわたっているところの、固定資本対流動資本という対立と不変資本対可変資本という対立との同一視がそれ自身を廃棄するだろうからである。このことを関知しないでおくにはリカードはあまりにも論理的な感覚をもちすぎているので、そのために彼にとってはこの資本部分がまったく姿を消してしまうのである。 (8)ここで言っておきたいのは、資本家は労賃に投じた資本を色々な期限で、経済学の用語で言えば、前貸しするのであって、その期限は彼がこの賃金をたとえば毎週支払うか、毎月支払うか、三カ月毎に支払うかにしたがって違ってくるということについてである。実際は、事柄は逆なのである。労働者は、毎週支払を受けるか、それとも毎月か三カ月毎かにしたがって、自分の労働を資本家に一週とか一カ月とか三カ月とかのあいだ前貸ししておくのである。もしも資本家が労働力の代価を後で支払うのではなく労働力を買うのだとすれば、つまり、一日分とか一週間分とか三カ月分とかの労賃を労働者に前払いするのだとすれば、これらの期間の前貸と言ってもよいであろう。ところが、資本家は、労働が何日も何週も何ヵ月も続いた後で支払うのであって、労働を買って労働がこれから続くべき期間について支払をするのではないから、全ては資本家的な取り違えなのである。そして、労働者から資本家に労働で与えられる前貸が、資本家が貨幣で労働者に与える前貸に変えられてしまうのである。資本家が生産物そのものかまたはその価値を――その生産に必要ないろいろに違う期間またはその流通に必要ないろいろに違う期間に応じて――長短の期間を経てからはじめて(それに合体されている剰余価値と一緒に)流通から回収するかまたは実現するということは、少しも事柄を変えるものではない。ある商品の買い手がその商品で何をしようと、売り手にとってはまったくどうでもよいことである。資本家は機械の全価値を一度に前貸ししなければならないのにその価値は彼の手にだんだん少しずつ流通から還流してくるだけだからといって、彼がその機械をより安く手に入れるわけではない。また、綿花の価値はそれでつくられる生産物の価値の中に全部入ってしまい、したがって全部一度に生産物の販売によって補填されるからといって、彼は綿花により高く支払うわけでもない。 (9)リカードに帰ることにしよう。 (10)(一) 可変資本の特徴は、一定の、与えられた(つまりそのものとして不変な)資本部分、すなわち与えられた価値額(労働力の価値に等しいと仮定された価値額、といっても労賃が労働力の価値に等しいか、それよりも大きいか、小さいかは、ここではどうでもよいのだが)が、自分を増殖し価値を創造する力――資本家から支払われた自分の価値を再生産するだけではなく同時に剰余価値すなわち前から存在していたのではなくどんな等価によって買い取られたものでもない価値を生産する労働力――と交換されるということである。労賃に投ぜられる資本部分のこのような特徴的な属性は、この資本部分を可変資本として完全に不変資本から区別するのであるが、この属性も、労賃に投ぜられた資本部分がただ単に流通過程の立場から考察されて、労働手段に投ぜられた固定資本に対して流動資本として現われるならば、たちまち消えてしまうのである。このことはすでに次のことからも出てくる。すなわち、その場合にはこの資本部分が不変資本の一つの成分すなわち労働材料に投ぜられた成分と一緒に一つの部類――流動資本という部類――に入れられて、不変資本の他の成分すなわち労働手段に投ぜられた成分に対置されるということからも出てくる。その場合、剰余価値は、したがって投下される価値額を資本に転化させる事情そのものは、まったく無視される。同様に、次のことも無視される。すなわち、労賃に投ぜられた資本が生産物につけ加える価値部分は、新たに生産される(したがってまた現実に再生産される)のであるが、原料が生産物につけ加える価値部分は、新たに生産されるのではなく、現実に再生産されるのではなく、ただ生産物価値の中に維持され保存されるだけであり、したがって生産物の価値成分としてただ再現するだけだということも、無視される。その時流動資本と固定資本との対立の観点から現われる区別は、ただ次の点にあるだけである。商品の生産に充用される労働手段の価値は、ただ一部分ずつ商品の価値に入って行き、したがってその商品の販売によってやはりただ一部分ずつ補填されて行き、したがってまた一般にただ少しずつだんだんに補填されて行くだけである。他方、商品の生産に使用される労働力と労働対象(原料など)との価値は、全部その商品の中に入り、したがってその商品の販売によって全部補填される。その限りでは、流通過程に関しては資本の一方の部分は固定資本として現われ、他方の部分は流動資本として現われる。どちらの場合にも、問題は、与えられた前貸価値の生産物への移転であり、生産物の販売による前貸価値の再補填である。区別は、いまではただ、価値移転が、したがってまた価値補填が少しずつだんだん行なわれてゆくか、それとも一度に行なわれてしまうかという点にあるだけである。こうして、いっさいを決定する可変資本と不変資本との区別は消されてしまい、したがって、剰余価値の形成と資本主義的生産との全秘密、すなわちある一定の価値とそれを表わす物とを資本に転化させる事情は、消されてしまうのである。資本の全ての構成部分はもはやただ流通様式によって区別されるだけである。(そして、商品の流通は、もちろん、ただ既存の与えられた価値に関係があるだけである。)そして、労賃に投ぜられた資本と原料や半製品や補助材料に投ぜられた資本部分とには一つの特殊な流通様式が共通なのであって、これによって、労働手段に投ぜられた資本部分に対立するのである。 (11)以上によって、A・スミスがやった「不変資本と可変資本」という範疇と、「固定資本と流動資本」という範疇との混同を、なぜブルジョア経済学が本能的に固執し、一世紀にわたって代々無批判に口まねしてきたのか、がわかるであろう。ブルジョア経済学では、労賃に投ぜられた資本部分は、原料に投ぜられた資本部分からはもはや全然区別されないのであって、ただ単に形式的に――それが生産物によって少しずつ流通させられるか全部一緒に流通させられるかによって――不変資本から区別されるだけである。こうして、資本主義的生産の、したがってまた資本主義的搾取の、現実の運動を理解するための基礎は一挙にうずめられてしまうのである。ただ前貸価値の再現が問題にあるだけである。 (12)リカードでは、スミス的混同の無批判的な受け入れは、彼より後の、概念混同がむしろ非撹乱的なものになっている弁護論者たちの場合に比べてより撹乱的であるだけではなく、A・スミス自身の場合に比べてもより撹乱的になっている。というのは、リカードはスミスに比べてより徹底的に、より明確に価値と剰余価値とを展開しており、事実上、浅薄なA・スミスに対して深奥なA・スミスを固守しているからである。 ■【撹乱】かき乱すこと。混乱が起きるようにすること。 ★俗流経済学は、剰余価値の生産を覆い隠すことにおいては終始一貫している。リカードは弁護論者(俗流経済学者)たちに比べていっそう混乱しているということだろう。 (13)重農学派ではこのような混同は少しも見いだされない。年前貸〔avances annuelles〕と原前貸〔avances primitives〕との区別は、ただ資本、特に農業資本の色々な成分の再生産期間の相違だけに関するものである。他方、剰余価値の生産に関する彼の見解は、彼らの学説のうちでこのような区別にはかかわりのない部分をなしており、しかも、彼らが学説の眼目として指し示すものをなしている。剰余価値の形成が、資本そのものからは説明されないで、ただ、資本の一つの特定の生産部面である農業だけのものとして主張されるのである。 (14)(二) 可変資本の規定で――したがってまたある任意の価値額の資本への転化について――本質的なものは、資本家が一定の与えられた(そしてこの意味で不変な)価値量を、価値を創造する力と交換するということである。ある価値量を、価値生産と、価値の自己増殖と、交換するということである。資本家が労働者に貨幣で支払うか、生活手段で支払うかは、この本質的な規定を少しも変えるものではない。それは、ただ、資本家によって前貸しされる価値の存在様式を変えるだけで、この価値が一方の場合には貨幣という形で存在していてこの貨幣で労働者は自分自身のために市場で自分の生活手段を買うのであり、他方の場合にはこの価値が生活手段という形で存在していてそれを労働者は直接に消費するのである。発展した資本主義的生産は、実際には、労働者が貨幣で支払を受けることを前提するのであって、ちょうど、一般に資本主義が流通過程に媒介される生産過程を前提し、つまり貨幣経済を前提するのと同様である。しかし、剰余価値の創造――したがって前貸価値額の資本化――は、労賃すなわち労働力の買い入れに投ぜられた資本の貨幣形態からも現物形態からも生じない。それは、価値と価値創造力との交換から、不変量の可変量への転換から、生ずるのである。―― (15)労働手段の固定性の大小は、その耐久度によって、つまり一つの物理的な属性によって、定まる。他の事情を不変とすれば、労働手段は、その耐久度に応じて、あるいはより速くあるいはより遅く消耗し、したがってあるいはより長くあるいはより短く固定資本として機能するであろう。しかし、労働手段が固定資本として機能するのは、決してただ単にこの耐久性という物理的な属性だけによるのではない。金属工場で用いられる原料は、製造に用いられる機械と同様に耐久的であり、また、この機械のいくつかの構成部分、かわや木などに比べればそれら以上に耐久的である。それにもかかわらず、原料として役だっている金属は流動資本の一部分をなしているのであり、また、おそらくは同じ金属でつくられている機能しつつある労働手段は固定資本の一部分をなしているのである。だから、同じ金属が一方の場合には固定資本の部類に入れられ、他方の場合には流動資本の部類に入れられるのは、素材的な物理的な性質のせいでもないし、その損耗性の大小によるのでもないのである。この区別は、むしろ、その金属が生産過程で一方の場合には労働対象として演じ他方の場合には労働手段として演ずる役割から生ずるのである。 (16)労働手段が生産過程で行なう機能は、平均的に見れば、繰り返し行なわれる労働過程で労働手段が長短の期間にわたって絶えず繰り返し役立つことを必要とする。それ故、労働手段の機能によって、その素材の大なり小なりの耐久性が予定されているわけである。しかし、労働手段がつくられる素材の耐久性が労働手段をそれ自体として固定資本にするのではない。同じ素材でも、原料としては流動資本になる。そして、商品資本と生産資本との区別を流動資本と固定資本との区別と混同している経済学者たちでは同じ素材、同じ機械が、生産物としては流動資本であり、労働手段としては固定資本なのである。 (17)ところで、労働手段がつくられている耐久的な素材がその労働手段を固定資本にするのではないとはいえ、それが労働手段として演ずる役割は、それが比較的耐久的な材料から成っていることを必要とする。つまり、労働手段の素材の耐久性は、労働手段としてのその機能の一条件なのであり、したがってまた、労働手段を固定資本にする流通様式の物質的基礎なのである。他の事情を不変とすれば、労働手段の素材の損耗性の大小は、労働手段に押印される固定性を低くまたは高くするのであり、したがって労働手段の固定資本としての資格と非常に根本的に合生しているのである。 (18)ところで、労働力に投ぜられた資本部分がただ流動資本の観点だけから、つまり固定資本に対立するものとして、考察されるならば、したがってまた、不変資本と可変資本との区別が固定資本と流動資本との区別と混同されるならば、ちょうど労働手段の素材的実在が固定資本としての性格の本質的な基礎をなしているように、今度は、それに対立するものとして、労働力に投ぜられた資本の素材的実在から流動資本としての性格を導き出し、それからまた可変資本の素材的実在によって流動資本を規定するということは、当然のことである。 (19)労賃に投ぜられた資本の現実の素材は労働そのものであり、活動している、価値を創造する労働力であり、生きている労働であって、これを資本家は死んでいる対象化された労働と交換して自分の資本に合体したのであり、そうすることによって、はじめて、彼の手にある価値は自分自身を増殖する価値に転化するのである。だが、資本家はこの自己増殖力を売るのではない。それは常にただ彼の生産資本の成分をなしているだけであって、ちょうど彼の労働手段がそうであるのと同様であり、決して、たとえば彼の売る完成生産物のように彼の商品資本の成分をなしているのではない。生産過程の中では、生産資本の成分としては、労働手段は労働力に固定資本として対立するのではない。この両方に対して労働力は人的要因として対立するのであって、他のものは物的要因なのである――これは労働過程の立場から見てのことである。両方とも労働力すなわち可変資本に対して不変資本として対立するのである――これは価値増殖過程の立場から見てのことである。または、ここでは流通過程に影響する限りでの素材的な相違を問題にするべきであるならば、ただ次のように言えるだけである。対象化された労働でしかない価値の性質からは、また、自分を対象化しつつある労働でしかない活動しつつある労働力の性質からは、労働力はその機能が続いているあいだ絶えず価値を創造し剰余価値を創造するということになる。そして、労働力の側で運動として現われ、価値創造として現われるものが、その生産物の側では静止した形態で現われ、創造された価値として現われる、ということになる。労働力が働いてしまえば、資本はもはや一方における労働力、他方における生産手段から成っているのではない。労働力に投ぜられた資本化は、いまでは(剰余価値と一緒に)生産物につけ加えられた価値である。過程を繰り返すためには、生産物を売って、その代金で絶えずあらためて労働力を買って生産資本に合体しなければならない。そこで、このことが、労働力に投ぜられた資本部分に、ちょうど労働材料などに投ぜられた資本部分にと同様に、労働手段に固定されたままの資本に対立して流動資本という性格を与えるのである。 ■《労働過程の単純な諸契機は、合目的的な活動または労働そのもの、労働の対象、および労働の手段である。》(国民文庫313頁・原頁193) 《全過程を、その結果である生産物の立場から考察すれば、労働手段と労働対象の両者は生産手段として、労働そのものは生産的労働として現われる。》(国民文庫317頁・原頁196) 《労働過程と価値形成過程との統一としては、生産過程は商品の生産過程である・・労働過程と価値増殖過程との統一としては、それは資本主義的生産過程、商品生産の資本主義的形態である。》(国民文庫344頁・原頁211)
by shihonron
| 2011-09-13 23:30
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