『資本論』を読む会の報告

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2011年 09月 27日

第238回 9月27日 第11章 固定資本と流動資本とに関する諸学説 リカード

9月27日(火)に第238回の学習会を行いました。
「第11章 固定資本と流動資本とに関する諸学説 リカード」の第27段落から第36段落までについてレジュメに基づく報告を受け検討しました。

以下はレジュメです

(27)このようなことは、リカードの価値論とも、事実上剰余価値論である彼の利潤論とも、まったく矛盾している。彼は一般に固定資本と流動資本との区別を、ただ、資本の大きさが同じでも事業部門が違えば固定資本と流動資本との割合が違っているということが価値法則に影響を及ぼす限りで、考察しているだけであり、しかも、この二つの結果としての労賃の暴落がどの程度まで物価に影響するかを考察しているだけである。しかし、彼は、このような局限された研究範囲の中でさえも、固定資本と流動資本を不変資本と可変資本と混同することによって、最大の誤りを犯しているのであって、実際、まったく間違った研究基礎から出発しているのである。すなわち、(一) 資本価値のうち労働力に投ぜられた部分が流動資本の部類に入れられる限りでは、流動資本そのものの規定が間違って展開され、ことに、労働に投ぜられた資本部分をこの部類に入れる事情が間違って展開される。(二) 労働に投ぜられた資本部分を可変資本とする規定と、それを固定資本に対立する流動資本とする規定との混同が生ずる。
 
(28)はじめから明らかなことであるが、労働力に投ぜられた資本を流動的だとする規定は第二次的な規定であって、この規定では生産過程でのこの資本の種差は消し去られているのである。なぜならば、この規定では、一方では、労働に投ぜられた資本と原料などに投ぜられた資本とが同等になっているからである。不変資本の一部分を可変資本と同一視する項目は、不変資本に対立する可変資本の種差とは関係がないのである。他方では、労働に投ぜられた資本部分と労働手段に投ぜられた資本部分とが互いに対置されるのではあるが、しかし、決して、この二つの資本部分がまったく違った仕方で価値生産に参加するということに関連してではなく、両方の資本部分からそれらの与えられた価値が生産物に移されるのであってただその時間が違っているだけだということに関してである。
 
(29)すべてこれらの場合には、商品の生産過程で労賃なり原料の価格なり労働手段の価格なりとして投ぜられる与えられた価値がどのようにして生産物に移されるのか、したがってまた、どのように生産物によって流通させられ、生産物の販売によってその出発点に帰されるか、すなわち補填されるか、が問題なのである。ここにある唯一の区別は、「どのようにして」であり、この価値の移転の、したがってまたその流通の、特殊な仕方である。

★本質的な問題は不変資本と可変資本の区別である。
 
(30)それぞれの場合にあらかじめ契約によって定められている労働力の価格が貨幣で支払われるか、それとも生活手段で支払われるかは、それが一定の与えられた価値だという性格を少しも変えるものではない。とはいえ、貨幣で支払われる労賃の場合には、生産手段の場合にその価値だけではなくその素材もまた生産過程に入るのとは違って、貨幣そのものが生産過程に入るのではないということは明らかである。ところが、労働者が自分の賃金で買う生活手段が、直接に流動資本の素材的な姿として原料などと一緒に一つの部類に入れられて、労働手段に対置されるならば、それは事態に別の外観を与えることになる。一方の物の価値、生産手段の価値が、労働過程で生産物に移されるとすれば、他方の物の価値、生活手段の価値は、それを消費する労働力の中に再現して労働力の活動によってやはり生産物に移される。すべてこれらの場合に一様に問題にされるのは、生産中に前貸しされた価値が生産物の中にただ再現するということである。(重農学派は本気にそう考えたので、工業労働が剰余価値を創造するということを否定したのである。)前にウェーランドから引用した箇所の中でもそうである。
 
「どんな形で資本が再現するかは、問題ではない。・・・・人間の生存や慰楽のために必要な各種の食糧や衣服や住居もまた変化させられる。それらは次から次へと消費され、そしてそれらの価値は・・・・再現する。」(『経済学綱要』、三一、三二ページ。)
 
(31)生産に生産手段の姿で前貸しされた資本価値も生活手段の姿で前貸しされた資本価値もここでは一様に生産物の価値の中に再現する。こうして、資本主義的生産過程の完全な神秘化は首尾よく成し遂げられて、生産物の中にある剰余価値の起源はすっかり隠されてしまうのである。
 
(32)さらにまた、こうして、社会的生産過程で諸物に刻印される社会的な経済的性格を、これらの物の素材的性質から生ずる自然的な性格に転化させるところの、ブルジョア経済学特有の呪物崇拝が完成されるのである。たとえば、労働手段は固定資本である――この、矛盾と混乱に導くスコラ学的規定。労働過程のところ(第一部第五章)では、対象的諸成分が労働手段として機能するか、労働材料として機能するか、それとも生産物として機能するかは、まったくただそれらが一定の労働過程で演ずるその都度の役割によって、それらの機能によって、定まるということが示されたが、――それとまったく同様に、労働手段が固定資本であるのは、ただ、生産過程が一般に資本主義的生産過程である場合、したがって生産手段が一般に資本であり、資本という経済的規定、資本という社会的性格をもっている場合だけである。また、第二に、労働手段が固定資本であるのは、ただ、それが自分の価値をある特殊な仕方で生産物に移す場合だけである。そうでない場合には、それはやはり労働手段ではあるが、固定資本ではない。同様に、たとえば肥料のような補助材料は、もしそれが労働手段の大部分と同じに特殊な仕方で価値を引き渡すならば、労働手段ではないにもかかわらず固定資本になる。ここでは、諸物がそのもとに包摂される定義が問題なのではない。問題は、特定の諸範疇で表現される特定の機能なのである。

★「第二に」は労働手段が生産資本ではなく商品資本である場合のことか?
 
(33)労賃に投ぜられた資本だということは、生活手段そのものにどんな事情のもとでも備わっている属性である、と言えるならば、「労働を維持する」to support labour{リカード『経済学原理』、二五ページ〔岩波文庫版、上、三三ページ〕}ということもまたこの「流動」資本の性格になる。そこで、もし生活手段が「資本」でないならば、それは労働力を維持しないということになるであろう。ところが、生活手段の資本性格は生活手段に、まさに、他人の労働によって資本を維持するという属性を与えるのである。
 
(34)もし生活手段それ自体が――資本が労賃に転化した後では――流動資本であるならば、さらに、労賃の大きさは与えられた流動資本量に対する労働者数の割合によって定まる――好んで用いられる経済学的命題――ということになるが、実際には、労働者が市場から引き上げる生活手段量と、資本家が自分の消費のために処分することのできる生活手段量とは、労働の価格に対する剰余価値の割合によって定まるのである。
 
(35)リカードは、バートン(29a)と同様に、どこでも不変資本に対する可変資本の割合を固定資本に対する流動資本の割合と混同している。それがどんなに利潤率に関する彼の研究を誤らせているかは、もっと後で見るであろう。
(29a) 『社会の労働者階級の状態に影響する諸事情の考察』、ロンドン、一八一七年。これに該当する箇所は第一部、六五五{誤り? 六六〇?}ページ、注七九に引用されている。

 
(36)リカードは、さらに、固定資本と流動資本との区別とは別の原因から生ずる回転上の区別を、固定資本と流動資本との区別と同一視している。
 「流動資本が流通する時間またはその使用者の手に返される時間は、非常に不等でありうるということも、注意しておかなければならない。農業者が播種のために買った小麦は、パン屋がパンにするために買った小麦に比べれば、固定資本である。前者はそれを地中に放置しておいて、一年間はそれを回収することができない。後者はそれを粉にひかせ、パンにして客に売ることができ、そして一週間のうちに自分の資本を自由にして、同じ仕事を繰り返すか、または何か他の仕事を始めることができる(30)。」
(30) リカード『経済学原理』、二六、二七ページ。〔岩波文庫版、上、三四ページ。〕
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by shihonron | 2011-09-27 23:30 | 学習会の報告


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