『資本論』を読む会の報告

shihonron.exblog.jp
ブログトップ
2011年 10月 11日

第240回 10月11日 第12章 労働期間

10月11日(火)に第240回の学習会を行いました。
「第12章 労働期間」にの第10段落から第20段落までついてレジュメに基づく報告を受け検討しました。

以下はレジュメです


(10)生産物または達成されるべき有用効果の独自な性質がその生産のために必要とする労働期間の長短の持続に応じて、流動資本(労賃、原料、補助材料)の不断の追加支出が必要であるが、そのどの部分もまだ流通可能な形態にはなっていないので、どの部分もまだ同じ作業の更新に役立つことはできないであろう。むしろ、どの部分も生産部面の中で生成中の生産物の成分として次々に固定されて行き、生産資本の形態に拘束されている。だが、回転期間は資本の生産期間と流通期間との合計に等しい。だから、生産期間の延長は流通期間の延長と同様に回転速度を減らすのである。しかし、当面の場合には次の二つの点に注意しなければならない。
 
(11)第一には、生産部面での滞留が長引くこと。たとえば第一週に労働や原料などに前貸しされた資本は、固定資本から生産物に移された価値部分と同様に、三カ月という全期間にわたって生産部面に拘束されたままになっている。そして、まだ生成中の未完成の生産物に合体されているので、商品として流通に入って行くことができない。
 
(12)第二に、生産行為のために必要な労働期間は三カ月続いて、実際にはただ一つの関連した労働過程をなしているだけだから、絶えず一週間毎に新たな一回分の流動資本が前回のそれにつけ加えられなければならない。だから、次々に前貸しされて行く追加資本の量は、労働期間の長さにつれて増大するのである。
 
(13)われわれが仮定してきたのは、紡績にも機械製造にも同じ大きさの資本が投ぜられていると言うこと、これらの資本が同じ割合で不変資本と可変資本とに分かれ、またやはり同じ割合で固定資本と流動資本とに分かれているということ、労働日の長さが同じだということ、要するに、労働期間の長さの他はすべての事情が同じだということである。第一週には投下額はどちらにとっても同じ大きさであるが、しかし紡績業者の生産物は売ることができ、その売上げで新しい労働力や新しい原料などを買うことができ、要するに生産を同じ規模で続けることができる。ところが、機械製造業者のほうは、第一週に支出した流動資本を、三カ月後に自分の生産物を完成してからはじめて貨幣に再転化させることができ、こうしてまたあらためて作業することができる。だから、まず第一に、同じ投下資本量の還流が違っている。しかし、第二に、三カ月のあいだ紡績と機械製造とに同じ大きさの生産資本が充用されているのであるが、しかし資本投下の大きさは紡績業者と機械製造業者とではまったく違っている。なぜならば、一方の場合には同じ資本が急速に更新され、したがって同じ作業をまた新たに繰り返すことができるが、他方の場合には資本が比較的緩慢にしか更新されないのでその更新期がくるまでは絶えず新たな資本量が従来の資本量に追加されて行かなければならないからである。だから、資本の一定部分が更新される時間の長さ、すなわち前貸期間の長さも違うし、労働過程の長さに応じて前貸しされなければならない資本の量も(毎日または毎週充用される資本は同じだとはいえ)違うのである。この事情は次のような理由から注意しておかなければならない。というのは、次章で考察される色々な場合のように、前貸の期間が長くなっても前貸しされる資本の量がこの長さに比例して増大することなしに前貸の長さが増すことも有り得るからである。資本はより長く前貸しされなければならず、そしてより大量の資本が生産資本の形態に拘束されているのである。

★次章の冒頭では《労働期間はつねに生産期間である。すなわち、資本が生産部面に拘束されている期間である。とはいえ、逆に、資本が生産期間にあるすべての期間が必ず労働機関であるとはかぎらない。》と述べている。生産期間は労働期間よりも長いことがあり得る。
 
(14)資本主義的生産の未発展な段階では、長い労働期間を必要とするためにかなり長期間にわたって大きな資本投下を必要とする諸企業は、ことにそれがただ大規模にしか実行できない場合には、決して資本主義的には経営されない。たとえば共同体や国家の費用による(労働力に関する限りではやや古い時代にはたいてい強制労働による)道路や運河などの場合である。あるいはまた、その生産に比較的長い労働期間の必要な生産物は、ごくわずかな部分だけが資本家自身の資力によってつくられる。たとえば、家屋の建築の場合には、家屋を建てさせる個人は建築業者に前貸金を一部分ずつ支払って行く。だから、この人は実際には家屋の生産過程が進行するにつれて少しずつ家屋の代金を支払って行くわけである。ところが、発展した資本主義時代には、一方では大量の資本が個々人の手の中に集積されており、他方では個別資本家と並んで結合資本家(株式会社)が現われていて同時に信用制度も発達しているのであるが、このような時代には、資本家的建築業者は個々の私人の注文ではもはや例外的にしか建築をしない。彼は立ち並ぶ家屋や市区を市場目当てに建築することを商売にする。それは、ちょうど個々の資本家が請負業者として鉄道を建設することを商売にするようなものである。
 
(15)どんなに資本主義的生産がロンドンの家屋建築を変革してきたか、これについては一八五七年の銀行委員会である建築業者の行なった証言がわれわれに事情を伝えている。彼の語ったところによれば、彼の若いときには、家屋はたいてい注文で建築され、その金額は建築中にいくつかの建築段階の完了毎に分割して請負業者に支払われた。思惑で建築することはわずかしかなかった。請負業者がそれをやったのは、おもに、自分の労働者を規則的に就業させて手元に集めておくためでしかなかった。最近の四〇年間のあいだにすべてが変わった。注文での建築はごくわずかしか行なわれない。新たな家を必要とする人は、思惑で建てたものかまだ建築中のものの中から探し求める。請負業者はもはや注文客のために仕事をするのではなく、市場目当てに仕事をする。他のどの産業家ともまったく同じように、彼も市場で完成商品をもっていることを余儀なくされている。以前は一人の建築業者が一時に思惑で建築していたのはおそらく三戸か四戸だったが、今では広大な地所を買って(すなわち大陸の言い方ではたいてい九九年ぎめで賃借りして)その上に一〇〇戸も二〇〇戸もの家を建て、自分の資力の二〇倍から五〇倍にもなる仕事をしなければならない。賃金は抵当借入れによって調達され、個々の家屋の建築が進むにつれて貨幣が建築業者に用立てられる。そういう時に恐慌が起きて、前貸金の支払が停止されるならば、全事業が挫折するのが普通である。最善の場合でも、家屋は景気が回復するまで未完成のままでほうっておかれ、最悪の場合には競売に出されて半値で売り飛ばされる。思惑建築、しかも大規模のそれなしには、今日では建築業者はもうやってゆけなくなっている。建築そのものからの利潤はごくわずかである。彼の主な利得は地代の騰貴にあり、敷地の巧妙な選択と利用とにある。このような、家屋の需要を予測した思惑というやり方でベレグレヴィアやタイバーニアのほとんどすべての家屋もロンドンの周囲の無数の郊外住宅も建築されたのである。(『銀行法特別委員会報告書』、第一部、一八五七年、証言、質問第五四一三―五四一八号、第五四三五―五四三六号からの要約。)
 
(16)労働期間がかなり長い大規模な事業の遂行がはじめて完全に資本主義的生産のものになるのは、資本の集積がすでに非常に大きくなっており、他方では、信用制度の発達が資本家に提供する便利な手段によって、自分の資本の代わりに他人の資本を前貸しし、したがってまたそれを危険にさらすことができるようになっているときである。とはいえ、言うまでもなく、生産に前貸しされる資本がその充用者自身のものであるかそうでないかという事情は、回転速度や回転期間には何の影響も与えないのである。
 
(17)個々の労働日の生産物を増大させる諸事情、すなわち協業や分業や機械の充用は、同時にまた、関連した生産行為の労働期間を短縮する。たとえば機械は家や橋などの建設期間を短縮する。刈取機や打穀機などは、実った穀物を完成商品にするために必要な労働期間を短縮する。造船の改良は、速度を増すことによって、海運に投下された資本の回転期間を短縮する。とはいえ、このような、労働期間を短縮し、したがってまた流動資本が前貸しされていなければならない期間を短縮する諸改良は、たいていは固定資本の投下の増大と結びついている。他方、ある種の部門での労働期間は、ただ協業を拡張するだけでも短縮することができる。鉄道の完成は、労働者の大軍を動員して多くの方面から工事に着手することによって、短縮される。回転期間はここでは前貸資本の増大によって短縮される。より多くの生産手段とより多くの労働力とが資本家の指揮のもとにまとめられていなければならないのである。
 
(18)それ故、労働期間の短縮は、たいていは、この短縮された期間に前貸しされる資本の増大と結び付けられており、したがって、前貸期間が短くなるにつれて資本の前貸しされる量が大きくなるのであるが、――そうだとすれば、ここでは次のことを注意しておかなければならない。すなわち、社会的資本の現在量を別とすれば、問題は、生産手段や生活手段またはそれらに対する処分力がどの程度に分散しているか、または個々の資本家の手の中にまとめられているか、つまり資本の集積がすでにどれほどの規模に達しているか、に帰着するということである。信用が一人の手の中での資本の集積を媒介し、促進し、増進する限り、それは労働期間の短縮を助け、したがってまた回転期間の短縮を助けるのである。
 
(19)労働期間が、連続的であろうと断続的であろうと、特定の自然条件によって定められている生産部門では、前述のような手段による短縮が行なわれることはできない。
 「より速い回転という言葉を穀作に適用することはできない。というのは穀作では、一年に一回転しかできないからである。家畜については簡単に尋ねたい。二歳羊や三歳羊、また四歳牛や五歳牛の回転はどうすれば速くすることができるか?」(W・ウォルター・グッド『政治・農業・商業に関する謬見』、ロンドン、一八六六年、三二五ページ。)
 
(20)早くから現金を用意しておく必要(たとえば租税や地代などのような固定支払をすますための)はたとえば、家畜が経済的標準年齢に達しないうちに売られたり殺されたりして農業が大損害を受けることによって、この問題を解決する。それはまた結局は肉類価格の騰貴をひき起こす。
「以前はおもに家畜を飼っていて、夏は中部諸州の牧場に、冬は東部諸州の畜舎に家畜を供給していた人々は・・・・穀物価格の変動と下落とによってひどく零落してしまったので、今ではバターやチーズの高価格から利益を引き出すことができるのを喜んでいる。バターのほうは日常の支出をまかなうために毎週市場に持って行く。チーズに対しては仲買人から前払金を受け取り、仲買人はチーズが運搬できるようになりしだいにそれを取りに行くのであるが、価格はもちろん仲買人が自分で定めるのである。このような理由から、そしてまた農業は経済学の諸原則によって規制されるので、以前は酪農地帯から飼育のために南部に送られた子牛が、今ではバーミンガムやマンチェスターやリヴァプールやその他近隣の大都市の屠殺場でたくさんいっしょに、しばしば生後わずかに八日か一〇日で、屠殺されてしまう。ところが、もし麦芽が無税だったならば、農業者たちはもっと多くの利潤をあげて、自分たちの幼牛がもっと年をとって体重が増えるまで手元におくことができたであろうし、またその上に、牝牛をもっていない人々のもとでは麦芽が牛乳の代わりに子牛を育てるのに役だったでもあろう。そして、現在のような恐ろしい幼牛の不足はほとんど避けられたであろう。今もしこれらの小農民に子牛の飼育を進めれば、彼らはこう言うであろう。乳で育てれば引き合うだろうということはわれわれはよく知っている。だが、第一には、現金を出さなければならないであろうが、われわれにはそれができない。また第二に、現金を取り返すまでには長く待たなければならないであろうが、酪農業でならばすぐに取り戻せるのである。」(同前、一一、一二ページ。)
 
[PR]

by shihonron | 2011-10-11 23:30 | 学習会の報告


<< 第241回 10月18日 第1...      第239回 10月4日 第11... >>