『資本論』を読む会の報告

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2006年 04月 06日

第14回  4月4日 A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態 

 4月4日(火)に『資本論』を読む会@所沢 第2期 第14回の学習会を行いました。「第1章商品 第3節 価値形態または交換価値 3 等価形態」の第12段落から最後(第17段落)までを輪読、検討しました。

■内容要約と議論

第3節 価値形態または交換価値 
A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態 
3 等価形態
 

第12段落
・具体的労働である裁縫が、無差別な人間労働の単なる表現として認められるということによって、それ(裁縫)は、リンネルに含まれている労働との、同等性の形態をもつのであり、したがってまた、それ(裁縫)は、すべての他の商品生産労働と同じに私的労働でありながら、しかもなお直接に社会的な形態にある労働なのである。
・それだからこそ、この労働(裁縫)は、他の商品(リンネル)と直接に交換されうる生産物となって現れるのである。だから、私的労働がその反対物の形態すなわち直接に社会的な形態にある労働になるということは、とうかぶつの第三の特色である。

●【裁縫が無差別な人間労働(抽象的人間的労働)の現象形態という意義しかもたなくなる】

【裁縫は、リンネルに含まれている労働(抽象的・人間的労働)との同等性の形態をもつ】

【裁縫は、私的労働でありながら直接的に社会的な形態にある労働になる】

【だから裁縫は、リンネルと直接に交換されうる生産物(上着)となって現れる】

●「私的労働」と「直接に社会的な形態にある労働」とはどんなことなのかが問題となりました。
 まず「私的労働」については、「社会的でない労働」という意見が出さ、『資本論』のこれまでの叙述のなかで「私的労働」について述べられている箇所を探しました。そして「第2節 商品に表される労働の二重性」の第5段落で次のように述べられているのを見つけました。
「ただ、独立に行われていて互いに依存しあっていない私的労働の生産物だけが、互いに商品として相対するのである。」(第5段落、国民文庫84頁 原頁57)
「社会の生産物が一般に商品という形態をとっている社会では、すなわち商品生産者の社会では、独立生産者の私事として互いに独立に営まれるいろいろな有用労働のこのような質的な相違が、一つの多肢的体制に、すなわち社会的分業に、発展するのである。」(第6段落、国民文庫84頁 原頁57)
「私的労働」とは「独立生産者の私事として互いに独立に行われ、互いに依存しあっていない労働」だろうということになりました。
「直接に社会的な形態にある労働」については「社会的労働とは違うのだろうか」という疑問や「最初から社会の総労働の一部となっている労働のことではないか」という意見が出されましたが、明確な結論は出ず、調べたり考えたりしていくことになりました。

第13段落
最後に展開された二つの特色は、アリストテレスにさかのぼってみればもつと理解しやすくなる。

●等価形態の3つの特色
①使用価値が、その反対物の、価値の、現象形態になる
②具体的有用労働が、その反対物の、抽象的人間労働の現象形態になる
③私的労働が、その反対物の形態すなわち直接に社会的な形態にある労働になる

第14段落
・アリストテレスは「5台の寝台=1軒の家」というのは「5台の寝台=これこれの額の貨幣」というのと「違わない」と述べている。
・彼は、商品の貨幣形態は、ただ、単純な価値形態のいっそう発展した姿、すなわちある商品の価値を任意の一商品で表現したみののいっそうの発展した姿でしかないことを明言しているのである。

第15段落
・彼は価値表現がひそんでいる価値関係は、家が寝台に等置されることを条件とすること、感覚的に違った諸物は、このような本質の同等性なしには、通約可能な量として互いに関係することはできないであろうということを見抜いている。
・しかし彼は「しかしこのように種類の違うも諸物が通約可能だということ」すなわち質的に等しいということは「ほんとうは不可能なのだ」といって価値形態のそれ以上の分析をやめている。
・このような等置は諸物の真の性質とは無縁なものであり、ただ「実際上の必要のための応急手段」でしかありえないというのである。

●「通約」は「約分の古いいい方」で「分数の分子と分母を共通の約数で割って簡単な分数にすること」である。ここでの「通約可能」とは二つのものが同じ性質をもっていること、質的に等しいという意味だと考えられる。 7/14、5/10、3/6などは、分母や分子の数は違っているが、そのいずれもが約分すると1/2になる。それらは1/2という割合を表しているという点で等しい。

第16段落
・アリストテレスには価値概念がなかったことが分析の挫折をもたらした。
・寝台の価値表現のなかで家が寝台のために表している共通な実体は、人間労働である。

第17段落
・アリストテレスが商品価値の形態では、すべての労働が同等な人間労働として、したがって同等と認められるものとして表現されているということを、価値形態そのものから読みとることができなかった。
・それは、ギリシャの社会が奴隷労働を基礎とし、したがって人間やその労働力の不等性を自然的基礎としていたからである。
・価値表現の秘密、すなわち人間労働一般であるがゆえの、またそのかぎりでの、すべての労働の同等性および同等な妥当性は、人間の同等性の概念がすでに民衆の先入見としての強固さをもつようになつたときに、はじめてその謎を解かれることができるのである。
・しかし、そのようなことは、商品形態が労働生産物の一般的な形態であり、したがつてまた商品所有者としての人間の相互の関係が支配的な社会的関係であるような社会において、はじめて可能なのである。
・アリストテレスの天才は、諸商品の価値表現のうちに一つの同等性関係を発見しているということのうちに、光り輝いている。彼の生きていた社会の歴史的な限界が、この同等性関係がなんであるかを見つけだすことを妨げているだけである。



【参考】マルクス「経済学批判への序説」より

 労働はまつたく簡単な範疇のように見える。このような一般性においての―労働一般としての―労働の概念も非常にに古いものである。それにもかかわらず、経済学的にこの簡単性において把握されたものとしては、「労働」は、この簡単な抽象を生みだす諸関係と同様に近代的な範疇である。たとえば、重金主義は、富を、まだまったく客体的に、自分の外に貨幣の姿をとっている物として、定立している。マニュファクチュア主義または重商主義が、対象から主体的活動に―商業労働とマニュファクチュア労働に―富の源泉を移しているのは、重金主義にたいして大きな進歩だった。といっても、まだこの活動そのものを金儲けという局限された意味でしか把握していないのであるが。この主義にたいして、重農主義は、労働の一定の形態―農業―を、富を創造する労働として定立し、また対象そのものを、もはや貨幣という仮想のなかでではなく、生産物一般として、労働の一般的結果として、定立するのである。しかしまだこの生産物を、活動の局限性に対応して、やはりまだ自然に規定された生産物―農業生産物、とくに土地生産物―として考えているのである。
 富を生みだす活動のあらゆる限定を放棄したのは、アダム・スミスの大きな進歩だった。―マニュファクチュア労働でもなく、商業労働でもなく、農業労働でもないが、しかもそのどれでもあるたんなる労働。富を創造する活動の抽象的一般性とともに、いまやまた、富として規定される対象の一般性、生産物一般、あるいはさらに労働一般、といっても過去の対象化された労働としてのそれ。この移行がどんなに困難で大きかったかは、アダム・スミス自身もまだときどき重農主義に逆もどりしているということからも明らかである。ところで、これによっては、ただ、人間が―どんな社会形態のもとであろうと―生産をするものとして現れる最も簡単で最も古い関係を表す抽象的な表現が見いだされただけのように思われるかもしれない。これは、一面から見れば正しい。他面からは正しくない。労働の一定種類にたいする無関心は、現実の労働種類の非常に発展した総体を前提するのであって、これらの労働種類のどの一つももはやいっさいを支配する労働ではないのである。こうして、最も一般性な抽象は、一般にただ、ある一つのものが多くのものに共通に、すべてのものに共通に現れるような、もっとも豊富な具体的な発展のもとでのみ成立するのである。そのときは、ただ特殊な形態でしか考えられないということはなくなる。他方、
このような、労働一般という抽象は、たんに種々の労働の具体的な総体の精神的な結果であるだけではない。特定の労働にたいする無関心は、個々人がたやすく一つの労働から他の労働に移り彼らにとっては労働の特定の種類は偶然でありしたがつてどうでもよいものになるという社会形態に対応する。労働は、ここではたんに範疇としてだけではなく現実にも富一般の創造のための手段となっており、職分としての個人と一つの特殊性において合生したものではなくなっている。このような状態は、ブルジョア社会の最も近代的な定在形態―合衆国―で最も発展している。だから、そこで、「労働」「労働一般」、単なる労働という範疇の抽象が、近代経済学の出発点が、はじめて実際に真実になるのである。だから近代経済学が先頭に立てている最も簡単な抽象、そしてすべての社会形態にあてはまる非常に古い関係を表している最も簡単な抽象は、そりにもかかわらず、最も近代的な社会の範疇としてはじめて、実際に真実にこの抽象において現われるのである。ある人は、合衆国では歴史的産物として現われるものが、たとえばロシア人の場合には―特定の労働にたいするこの無関心が―生まれながらの素質として現われるのだ、と言うかもしれない。しかし、第一に、未開人がなんにでも用いられるという素質をもっているということと、文明人が自分自身をなんにでも用いるということとのあいだには、たいへんな違いがある。そして、第二に。ロシア人の場合には、労働の特定性にたいするこの無関心には、彼らの一つのまつたく特定の労働に伝統的に固着していて外からの影響によらなければそこから投げだされないということが、実際に対応しているのである。
 この労働の例が適切に示しているように、最も抽象的な範疇でさえも、それが―まさにその抽象性のゆえに―どの時代にも妥当するにもかかわらず、このような抽象の規定性そのものにあってはやはり歴史的諸関係の産物なのであって、ただこの歴史的諸関係だけにたいして、またただこの諸関係のなかだけで十分な妥当性を持っているのである。
       (『経済学批判』国民文庫298-301頁 原頁634-636)
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by shihonron | 2006-04-06 00:00 | 学習会の報告


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