『資本論』を読む会の報告

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2006年 04月 22日

第15回  4月11日 A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態

 4月11日(火)に『資本論』を読む会@所沢 第2期 第15回の学習会を行いました。「第1章商品 第3節 価値形態または交換価値 A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態 4 単純な価値形態の全体」を輪読、検討しました。

■内容要約と議論

第3節 価値形態または交換価値 
A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態 
3 単純な価値形態の全体 


第1段落
・ある一つの商品の単純な価値形態は、異種の一商品にたいするその商品の価値関係のうちに、すなわち異種の一商品との交換関係のうちに、含まれている。
・商品Aの価値は、質的には、商品Aとの商品Bの直接的交換可能性によって表現される。
・商品Aの価値は、量的には、商品Aの与えられた量との商品Bの一定量の交換可能性によって表現される。
・言いかえれば、一商品の価値は、それが「交換価値」として表示されることによって独立に表現されている。
・この章のはじめに、普通の言い方で、商品は使用価値であるとともに交換価値である、と言ったが、これは厳密に言えばまちがいだった。商品は、使用価値または使用対象であるとともに「価値」なのである。
・商品は、その価値が商品の現物形態と違った独特な現象形態、すなわち交換価値という現象形態をもつとき、そのあるがまのこのような二重物として現われるのであって、商品は孤立的に考察されたのでは、この交換価値という形態をけっしてもたないのであり、つねにただ第二の異種の一商品に対する価値関係または交換関係のなかでのみこの形態をもつのである。とはいえ、このことを知っておきさえすればさきの言い方も有害なものではなく、かえって、簡単にすることに役だつのである。

●商品Aの価値の質的表現については「商品Aとの商品Bの直接的交換可能性」といい、量的表現については「交換可能性」と書かれているが、違いはあるのだろうかとの疑問が出されました。商品Aの価値表現のなかで、等価物である商品Bが商品Aに対して直接的交換可能性を持つという点では、「交換可能性」もまた「直接的交換可能性」と違ってはいない。ただ、直接的交換可能性は、価値という質の表現であり、量的表現は価値としての質的に等しいことを前提にして問題になるので「交換可能性」と書かれているのではないかという意見が出されました。

●商品を「孤立的に考察」するとはどういうことか。商品のあるがままの姿は使用対象(使用価値)であり、それを一つだけ取り出してくることではないか。しかし、それは、孤立した使用対象でしかなく、価値形態(交換価値)をもっていない。それが商品であることさえわからない。他の商品との価値関係(「20エレのリンネルは1着の上着に値する」とか「20エレのリンネルは5000円である」とか)のなかでのみ商品は価値形態をもつ、別の言い方をすれば商品であることが表現されるということだろう。

第2段落
・われわれの分析が証明したように、商品の価値形態または価値表現は商品価値の本性から出てくるのであって、逆に価値や価値量がそれらの交換価値としての表現様式からでてくるのではない。
・ところが、この逆の考え方は、重商主義者たちやその近代的蒸し返し屋であるフェリエやガニルなどの妄想であるとともに、彼らとは正反対の近代の自由貿易外交店員、バスティアやその仲間の妄想でもある。
・重商主義者たちは価値表現の質的な面に、したがって貨幣をその完成形態とする商品の等価形態に、重きをおいているが、これとは反対に、どんな価格でも自分の商品を売りさばかなければならない近代の自由貿易行商人たちは相対的価値形態の量的な面に重きをおいている。したがって、彼らにとっては、商品の価値も価値量も交換関係による表現のなかよりほかにはないのであり、したがってまた、ただ日々の物価表のなかにあるだけである。
・スコットランド人マクラウドは、ロンバート街の混乱をきわめた諸観念をできるだけ学問らしく飾り立てるというその機能において、迷信的な重商主義者たちと啓蒙された自由貿易行商人たちとをみごとに総合したものになっているのである。

■重商主義
マーカンティリズムmercantilismの訳。16―18世紀,資本主義が産業革命によって確立されるまでの初期的段階に,西欧諸国が国富増大を目ざして採った政策と理論。英国での展開が典型的。貿易による金銀獲得を目ざす重金主義から金銀よりも貿易黒字を目ざすべしとする貿易差額主義に発展した。市民革命後の未成熟な産業資本を保護しようとする本来の重商主義(英国,ナポレオン1世治下のフランスの保護主義)と,産業資本の発達を阻止しようとする絶対主義的重商主義(フランスのコルベール主義,ドイツの官房学派など)が区別される。 (マイペディア)

■ 自由貿易主義 
貿易に対する国家の干渉を排して自由な対外取引を行うという考え方や政策。まず重商主義的保護貿易主義批判として現れた。A.スミス,リカードらが唱えて,経済活動の自由に対する産業資本の要請に理論的裏付を与えた。のちマンチェスター学派が運動として展開し,19世紀半ばの英国では関税改正,穀物法や航海法の廃止が行われた。以後通商条約網を通じて各国に広がったが,20世紀に入り各国の工業化の進展,国際競争激化の中で保護貿易主義にとって代わられた。第2次大戦後は貿易為替自由化という新しい姿で現れている。 (マイペディア)

■保護貿易主義
国家が貿易に一定の干渉を加えて自国産業,国内市場の育成・防衛をはかる考え方,政策。輸出入の統制・奨励と,関税政策がある。重商主義下には高率関税,輸出奨励金などの保護を行った。次いで幼弱なドイツ産業保護のためF.リストが唱え,ドイツや米国など当時の発展途上国で育成関税を実施。さらに成長した産業のための国内市場防衛策としての防御関税,独占資本維持強化をはかる独占関税,1930年代の不況期に一般化した輸入割当制,為替管理などが行われている。  (マイペディア)

■フェリエ 1777-1861 フランスの経済学者。新重商主義・保護貿易主義の立場だとマルクスは評価している。

■ガニル 1758-1836 フランスの経済学者・金融評論家で、新重商主義者。富は交換価値からなり、貨幣―貨幣たるかぎりの商品―だと主張、商品の価値を交換の生産物と考えた。

■バスティア 1801-1850 フランスの俗流経済学者で自由貿易論者。彼は、人間のすべてのサーヴィスが生産的であるとし、価値は交換されたサーヴィスの比例であるとした。

■マクラウド 1821-1902 イギリスの経済学者。

●重商主義は、保護貿易主義であり、自由貿易主義とは「正反対」である。重商主義者(重金主義者)たち、は「金こそ富である」と考え、自由貿易行商人は「いくらで売れるか」が最大の関心事だったということ。

第3段落
・商品Bにたいする価値関係に含まれている商品Aの価値表現のいっそう詳しい考察は、この価値関係のなかでは商品Aの現物形態はただ使用価値の姿として、商品Bの現物形態はただ価値形態または価値の姿としてのみ認められているということを示した。
・つまり商品のうちに包みこまれている使用価値と価値との内的な対立は、一つの外的な対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表されるのであるが、この関係のなかでは、自分の価値が表現されるべき一方の商品は直接にはただ使用価値として認められるのであり、これにたいして、それで価値が表現される他方の商品はただ交換価値として認められるのである。つまり、一商品の単純な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態なのである。

●商品は、使用価値であると同時に価値である。しかし、そのことは一つの商品だけをとりだしてきても分かるわけではない。20エレのリンネル=1着の上着という単純な価値表現(価値形態)において、20エレのリンネルが使用価値であるとともに価値であることがはっきりと示される。リンネルは、そのままの姿で使用価値であり、上着と等しいものとして価値なのである。

●「それで価値が表現される他方の商品はただ交換価値として認められる」と書かれているが、「価値として認められる」ではないだろうかという疑問が出されました。リンネル=上着という価値関係のなかで、上着は価値として認められ、直接的交換可能性の形態にあると言えるが、ここでは上着がリンネルの価値の現象形態となっていることを指摘しているのではないかとの意見が出されました。

●「使用価値と価値との対立」という言葉が出てくるが、この「対立」とはどういうことかとの疑問が出されました。第1節では「使用価値としては、諸商品は、なによりもまず、いろいろに違った質であるが、交換価値としては、諸商品はただいろいろに違った量でしかありえないのであり、したがって一分子の交換価値もふくんではいないのである。」(国民文庫76頁、原頁52)と述べられていた。価値は使用価値とは無関係であり、まったくちがったあるものだということ、互いに相容れない、排除しあう関係ということではないかとの意見が出されました。

第4段落
・労働生産物は、どんな社会状態のなかにあっても使用対象であるが、しかし労働生産物を商品にするのは、ただ、一つの歴史的に規定された発展段階、すなわち使用物の生産に支出された労働をその物の「対象的」な属性として、すなわちその物の価値として表すような発展段階だけである。
・それゆえ、商品の単純な価値形態は同時に労働生産物の単純な商品形態だということになり、したがってまた商品形態の発展は価値形態の発展にいったするということになるのである。

●第3節の冒頭では次のように書かれていた。「商品は、使用価値または商品体の形態をとって、鉄やリンネルや小麦として、この世に生まれてくる。これが商品のありのままの現物形態である。だが、それらが商品であるのは、ただ、それらが二重なものであり、使用対象であると同時に価値の担い手であるからである。それゆえ、商品は、それが二重形態、すなわち現物形態と価値形態をもつかぎりでのみ、商品として現われるのであり、言いかえれば商品という形態をもつのである。」(国民文庫92-93頁 原頁62)

第5段落
単純な価値形態、すなわち一連の諸変態を経てはじめて価格形態にまで成熟するこの萌芽形態の不十分さは、一見して明らかである。


第6段落
・ある一つの商品Bでの表現は、商品Aの価値をただ商品A自身の使用価値から区別するだけであり、したがってまた、商品Aをそれ自身とは違ったなんらかの一つの商品種類に対する交換関係のなかにおくだけであって、ほかのすべての商品との商品Aの質的同等性と量的な割合とを表すものではない。
・一商品の単純な相対的価値形態には、他の一商品の個別的な等価形態が対応する。こうして、上着は、リンネルの相対的価値表現のなかでは、ただこの一つの商品種類リンネルにたいして等価形態または直接的交換可能性の形態をもつだけである。

●ここでは単純な価値形態の不十分さが述べられている。
①商品Aの価値をただ商品A自身の使用価値から区別するだけである。
②ほかのすべての商品との商品Aの質的同等性と量的な割合とを表していない。
③個別的な等価物である商品は、単純な相対的価値形態にあるただ一つの商品にたいして等価形態または直接的交換可能性の形態をもつだけである。

第7段落
・とはいえ、個別的な価値形態はおのずからもっと完全な形態に移行する。個別的な価値形態によっては、一商品Aの価値はただ一つの別種の商品で表現されるだけである。しかし、この第二の商品がどんな種類のものであるか、上着や鉄や小麦などのどれであるは、まったくどうでもよいのである。つまり、商品Aが他のどんな商品種類にたいして価値関係にはいるかにしたがって、同じ一つの商品のいろいろな単純な価値表現が生ずるのである。商品Aの可能な価値表現の数は、ただ商品Aとは違った商品種類の数によって制限されているだけである。それゆえ、商品Aの個別的な価値表現は、商品Aのいろいろな単純な価値表現のいくらでも引き伸ばせる列に転化するのである。

●最初に取り上げられ分析される価値形態をマルクスは「単純な、個別的な、または偶然的な価値形態」と名づけている。「単純な(簡単な)」の意味は、「最も単純な価値関係は、明らかに、なんであろうとただ一つの異種商品にたいするある一つの商品の価値関係である。それゆえ、二つの商品の価値関係は、一商品のための最も単純な価値表現を与えるのである」(国民文庫94頁 原頁62)と述べられていることから明らかである。また、「個別的な」というのは、一商品の価値の異種の一商品の使用価値による、個別的な表現、一商品の価値だけの表現だということだろう。そして、「偶然的な」というのは、等価物商品が何であるかは、この単純な価値形態にとってはどうでもいいのであり、例えば上着が等価物になっているのは「偶然的」だということではないかという意見が出されました。
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by shihonron | 2006-04-22 09:55 | 学習会の報告


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