2006年 04月 24日
4月18日(火)に『資本論』を読む会@所沢 第2期 第16回の学習会を行いました。「第1章商品 第3節 価値形態または交換価値 B 全体的な、または展開された価値形態」の最初から「C 一般的価値形態 1 価値形態の変化した性格」の第5段落までを輪読、検討しました。 ■内容要約と議論 第3節 価値形態または交換価値 B 全体的な、または展開された価値形態 z量の商品A=u量の商品B または=v量の商品C または=w量の野商品D または=x量の商品E または=etc ●Bのタイトルの「全体的な」はどういう意味か? 個別的な価値形態では、商品Aの価値は商品Aとは違った他の一つの商品で表現されるだけであるが、全体的な価値形態では、商品Aの価値は他のどんな商品種類でも価値を表現している。「全体的な」は、他商品の全体によって商品Aの価値が表現されているからだろうということになりました。 1 展開された価値形態 第1段落 ・ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネルの価値の鏡になる。 ・こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれとひとしいとされる労働として表されているからである。 ・すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金のどれに対象化されていようと、すべてこの労働に等しいとされているからである。 ・それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。 ・同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。 ●「・・・こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現れる」とあるが、「はじめてほんとうに」はどういう意味で使われているか? 今までの個別的価値形態が嘘とか架空であったとかではなく、全体的な価値形態においては誰にでも目に見える形で、また、実際においてもAの価値が無差別な人間労働の凝固として現れる、ということではないかとの意見が出されました。 ●最後の文章で「商品として、リンネルはこの世界の市民である。」とあるが、「世界の市民」とは? リンネルは商品世界に対して社会的な関係に立つことを言っている。「市民」は辞書では「国政に参与する権利をもつ人。公民。中世ヨーロッパ都市の自治に参与する特権をもつ住民に由来する。」と説明されている。単に構成員というだけではなく、積極的にかかわりを持つという意味合いが含まれているのではないか。 第2段落 ・第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されるということは、偶然的事実でありうる。 ・これに反して、第二の形態では、偶然的現象と本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表されようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。 ・交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる。 ●第一形態、第二形態はAとBに対応していることが確認された。 ●「交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合をきせいするのだ」はどういう意味との疑問が出され、リンネルの価値は上着やコーヒーなど無数の商品のどれで表されようとも常に同じである。その結果、第一の形態のような二つの商品の関係、すなわち二人の個人的商品所有者の偶然的な関係はなくなり、第二の形態では商品の価値量こそが商品の交換割合を規制するもであることが誰の目にも明瞭になる、ということではないかとの意見が出されました。 2 特殊的等価形態 ・上着や茶や小麦や鉄などの商品はどれもリンネルの価値表現では等価物として、したがって価値物として、認められている。これらの商品のそれぞれの特定の現物形態は、いまでは他の多くのものと並んで一つの特殊的等価形態である。 ・同様に、いろいろな商品体に含まれているさまざまの具体な労働種類も、いまでは、ちょうどその数だけの、人間労働そのものの特殊的な実現形態または現象形態として認められているのである。 ■「特殊」〔particular〕については、辞書(大辞林 第二版)では次のように説明されています。【普遍が全体にかかわり、個別がその全体に含まれる個々の要素にかかわるのに対し、全体の一部にかかわることをいう。例えば、「人間」「この人間」に対して「ある人間」。】 3 全体的な、または展開された価値形態の欠陥 第1段落 ・第一にその表示の列は完結することがなく、未完成である。 ・第二に、この連鎖はばらばらな雑多な価値表現の多彩な寄木細工をなしている。 ・最後に、それぞれの商品の相対的価値が、当然そうならざるをえないこととして、この展開された形態で表現されるならば、どの商品の相対的価値形態も、他のどの商品の相対的価値形態とも違った無限の価値表現列である。 ・展開された相対的価値形態の欠陥は、それに対応する等価形態に反映する。ここでは各個の商品種類の現物形態が、無数の他の特殊的等価形態と並んで一つの特殊的等価形態なのだから、およそただそれぞれが互いに排除しあう制限された等価形態があるだけである。 ・同様に、それぞれの特殊的商品等価物に含まれている特定の具体的な有用な労働種類も、ただ人間労働の特殊的な、したがって尽きるところのない現象形態でしかない。 ・人間労働は、その完全な、または全体的な現象形態を、たしかにあの特殊的諸現象形態の総範囲のうちにもってはいる。しかし、そこでは人間労働は統一的な現象形態をもってはいないのである。 ● 「およそただそれぞれが互いに排除しあう制限された等価形態があるだけである」とはどういうことか? ・展開された価値形態において、商品Aは無数の他の商品と相対する。しかし、商品Aは同時に他の現物形態にて価値を表現することはできない。それゆえ、商品Aの価値を表現する他の商品の現物形態は無数の特殊等価形態であるが、それぞれは一つの特殊な等価形態でしかなく統一した等価形態ではないことを言おうとしているのではないかとの意見が出されました。 ■大谷禎之介氏はこの点について次のように説明しています。 「もしも、どの商品も自分の価値をこの開展された形態で表現するとすれば、どの商品の相対的価値形態も、それぞれみな違った無限の価値表現列である。それぞれの商品の価値表現のなかでは、他のすべての商品はただ等価物の形態で現われるだけであるから、ここでは諸商品の共通な価値表現はすべて直接に排除されている。相対的価値形態のこれらの欠陥は、等価形態に反映する。1)等価形態にある諸商品の現物形態のそれぞれが、互いに並ぶ特殊的な等価形態なのだから、ひとつひとつの特殊的な等価形態は全体の一部分をなす制限された等価形態にすぎない。しかもここには、こうした制限された等価形態しか存在しない。」(「価値形態」『経済志林』第61巻第2号211頁) 第2段落 とはいえ、展開された相対的価値形態は、単純な相対的価値表現すなわち第一の形態の諸等式から成っているにすぎない。たとえば 20エレのリンネル=1着の上着 20エレのリンネル=10ポンドの茶 などの総計からである。 第3段落 ・じっさい、ある人が彼のリンネルを他の多くの商品と交換し、したがってまたリンネルの価値を一連の他の商品で表現するならば、必然的に他の多くの商品所持者もまた彼らの商品をリンネルと交換しなければならず、したがってまた彼らのいろいろな商品の価値を同じ第三の商品で、すなわちリンネルで表現しなければならない。――そこで、20エレのリンネル=1着の上着 または=10ポンドの茶 または=etcという列を逆にすれば、すなわち事実上すでにこの列に含まれている逆関係を言い表してみれば、次のような形態が与えられる。 C 一般的価値形態 1着の上着 = 10ポンドの茶 = 40ポンドのコーヒー = 1クォーターの小麦 = 〕 20エレのリンネル 2オンスの金 = 1/2トンの鉄 = x量の商品A = 等々の商品 = 1 価値形態の変化した性格 第1段落いろいろな商品はそれぞれの価値をここでは(1)単純に表している、というのはただ一つの商品で表しているからであり、そして、(2)統一的に表している、というのは同じ商品で表しているからである。諸商品の価値形態は単純で共通であり、したがつて一般的である。 第2段落 ・形態ⅠとⅡはどちらも、ただ、一商品の価値をその商品自身の使用価値またはその商品体とは違ったものとして表現することしかできなかった。 第3段落 第一の形態は、1着の上着=20エレのリンネル、10ポンドの茶=1/2トンの鉄、などという価値等式を与えた。上着価値はリンネルにひとしいもの、茶価値は鉄に等しいものというように表現されたのではあるが、しかし、リンネルに等しいものと鉄に等しいものとは、すなわち上着や茶のこれらの価値表現は、リンネルと鉄とが違っているように違っている。 ・この形態が実際にはっきりと現われるのは、ただ、労働生産物が偶然的な時折りの交換によって商品にされるような最初の時期だけのことである。 第4段落 ・第二の形態は第一の形態よりももっと完全に一商品の価値をその商品自身の使用価値から区別している。なぜならば、たとえば上着の価値は、いまではあらゆる可能な形態で、すなわちリンネルに等しいもの、茶に等しいもの、等々として、つまりただ上着に等しいものだけを除いて他のあらゆるものに等しいものとして、上着の現物形態に相対しているからである。 ・他方、ここでは諸商品の共通な価値表現はすべて直接に排除されている。なぜならば、ここではそれぞれの商品の価値表現のなかでは他のすべての商品はただ等価物の形態で現われるだけだからである。 ・展開された価値形態がはじめて実際に現われるのは、ある労働生産物、たとえば家畜がもはや例外的にではなくすでに慣習的にいろいろな他の商品と交換されるようになったときのことである。 第5段落 ・新たに得られた形態は、商品世界の価値を、商品世界から分離された一つの同じ商品種類、たとえばリンネルで表現し、こうして、すべての商品の価値を、その商品とリンネルとの同等性によって表す。リンネルと等しいものとして、どの商品の価値も、いまではその商品自身の使用価値から区別されるだけでなく、いっさいの使用価値から区別され、まさにこのことによって、その商品とすべての商品とに共通なものとして表現されるのである。それだからこそ、この形態がはじめて現実に諸商品を互いに価値として関係させるのであり、言いかえれば諸商品を互いに交換価値として現われさせるのである。 ●「新たに得られた形態」とは「一般的価値形態」のことかとの疑問が出され、そうだということになりました。
by shihonron
| 2006-04-24 00:00
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