『資本論』を読む会の報告

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2006年 06月 30日

第22回  6月6日 第1章 第四節 商品の呪物的性格とその秘密

6月6日(火)に『資本論』を読む会@所沢 第2期 第22回の学習会を行いました。「第1章商品 第四節 商品の呪物的性格とその秘密」の第16段落から第19段落までを輪読、検討しました。

■内容要約と議論
第1章商品 第四節 商品の呪物的性格とその秘密


第16段落・商品生産者の一般的な社会的生産関係は、彼らの生産物を商品として、したがって価値として取り扱い、この物的な形態において彼らの私的労働を同等な社会的労働として互いに関係させるということにあるのであるが、このような商品生産者の社会にとつては、抽象的人間に対する礼拝を含むキリスト教、ことにそのブルジョア的発展であるプロテスタント教や理神論などとしてのキリスト教が最も適当な宗教形態である。
・古代アジア的とか古代的などの生産様式では、生産物の商品への転化、したがってまた人間の商品生産者としての定在は、一つの従属的な役割、といっても共同体がその崩壊過程にはいるにつれて重要さを増してくる役割を演じている。
・本来の商業民族は、エピクロスの神々のように、またポーランド社会の気孔の中でのユダヤ人のように、ただ古代世界のあいだの空所に存在するだけである。
・あの古い社会的諸生産有機体は、ブルジョア的生産有機体よりもずっと単純で透明ではあるが、しかし、それらは、他の人間との自然的な臍帯(せいたい)からまだ離れていない個人的人間の未成熟か、または直接的な支配隷属関係かにもとづいている。
・このような生産有機体は、労働の生産力の低い発展段階によって制約されており、また、それに対応して局限された、彼らの物質的な生活生産過程のなかでの人間の諸関係、したがって彼らどうしのあいだでの関係と自然にたいする関係とによって制約されている。
・このような現実の被局限性は、観念的には古代の自然宗教や民族宗教に反映している。
・およそ、現実の世界の宗教的反射は、実践的な日常生活の諸関係が人間にとって相互間および対自然のいつでも透明な合理的関係を表すようになったときに、はじめて消滅しうるのである。社会的生活過程の、すなわち物質的生産過程の姿は、それが自由に社会化された人間の所産として人間の意識的計画的な制御のもとにおかれたとき、はじめてその神秘のベールを脱ぎ捨てるのである。
・しかし、そのためには、社会の物質的基礎または一連の物質的存在条件が必要であり、この条件そのものがまた一つの長い苦悩にみちた発展史の自然発生的所産なのである。

●キリスト教での「抽象的人間に対する礼拝」とは何か? 理神論とは?
 この箇所については浜林正夫氏は次のように解説しています。「キリスト教には、カトリックとプロテスタントがあります。カトリックのほうは飾りたてた物を拝むという傾向があります。カトリックの教会には十字架やキリスト像など飾り物がいっぱいあります。それにたいしてプロテスタントの教会には飾り物はありません。そこで、人びとは十字架を拝むのではなく、自分の心の中に神を思いうかべて拝むという内面的、抽象的な形をとります。理神論というのは、さらにそれが徹底され、特定の神を思いうかべない。つまり、具体的にキリストやエホバなどの特定の神ではなく、心の中に思いうかべる神といった抽象性をもつようになります。そういうかたちが、ブルジョア社会、商品生産の社会にいちばんふさわしいのはなぜか。そこでは、身分の違いをこえて人間がすべて平等に考えられているようなそういう社会だということです。」(「『資本論』を読む(上)」137‐138頁)

■プロテスタントとはプロテスタンティズムを奉ずる人びとのこと。

■プロテスタンティズム
ローマ・カトリック教会,東方正教会とならぶキリスト教の三大勢力の一つ。宗教改革の結果キリスト教世界に成立したルターやカルバンの福音主義的信仰,ないしはその伝統を受けついだ諸教派の総称で,日本では〈新教〉とも呼ばれ,〈旧教〉たるカトリック教会と対比されるが,適当ではない。教会の伝承ではなく聖書を唯一の信仰のよりどころとする聖書原理,善行の功徳によってでなく信仰によって義とされるとする〈信仰義認説〉,また,信仰者は等しく祭司であるとする〈万人祭司説〉をとる。サクラメントは聖餐(せいさん)と洗礼のみを認める。プロテスタンティズム,特にカルビニズムないしピューリタニズム(ピューリタン)の倫理が近代資本主義の成立に果たした役割を強調するM.ウェーバーの所説は有名。 (マイペディア)

■理神論 
・一七、八世紀ヨーロッパの啓蒙主義時代の合理主義的な宗教観。世界の創造者として神を認めるが、神が世界の出来事に関与することは信じない。聖書批判・比較宗教への道を開いた。自然神論。
(大辞林 第二版)
・英語deismの訳。〈自然宗教natural religion〉とも。世界の創造者,合理的な支配者としての神は認めるが,賞罰を与えたり,啓示・奇跡をなす神には反対するキリスト教宗教思想。チャーベリーのハーバート,シャフツベリー(3代伯),とりわけ《キリスト教は神秘的ではない》(1696年)の著者トーランド,M.ティンダル,J.A.コリンズらが代表的論者。近代における宗教批判,寛容思想を支える運動として,英国のみならずディドロ,ボルテール,レッシングらにも影響を与えた。(マイペディア)

■定在 ヘーゲルなどが用いた哲学用語だと思われますが、説明を辞書などではまだ見つけられていません。

■共同体
(1)社会学的概念としてはコミュニティの訳語として用いられる。
(2)経済史的概念としては,集団的な土地占有を基盤とし,資本制生産に先行する諸生産段階において成立する歴史的な共同社会。無階級のいわゆる原始共同体と歴史的関連をもち,マルクスは共同体の形態としてアジア的,古典古代的,ゲルマン的諸共同体の三つをあげているが,それぞれは本質的には種族共同体,都市共同体,村落共同体であるとしている。(マイペディア)

■気孔
植物の表皮にあって、周囲の孔辺細胞の膨圧の変化によって開閉する小さなすき間。一般に葉の裏面に多く、ガス交換および水蒸気の通路となる。(大辞林 第二版)

■自然宗教
宗教の分類の一つで,英語ではnatural religion。人為宗教(創唱宗教)や啓示宗教に対する。人間本来の理性に基づく宗教と民族宗教や原始宗教のように自然発生的な宗教の両義がある。前者は18世紀の啓蒙思想や理神論に代表的にみられ,D.ヒュームの奇跡の否定,ディドロのすべての啓示宗教を自然宗教の異端とする説などのように,無神論へ傾斜した。ヘーゲルは絶対的宗教の下に自然宗教を置き,仏教,儒教などをこれに含めた。ティーレは宗教の発達を自然宗教と倫理宗教に大別し,前者にアニミズム的宗教,純化された呪術(じゅじゅつ)的宗教,人間形態観的宗教を含めた。(マイペディア)

■民族宗教
宗教の分類法の一つ。民族の成立とともに自然発生的に成立し,伝統的に受け継がれている宗教をいう。民族の伝承文化,血縁地縁,風俗習慣などと密接に関連し,特定の教祖はなく,教理よりも儀礼が中心。神道,古代ユダヤ教,ゾロアスター教,ヒンドゥー教,道教などがこの範疇に入れられることが多いが,〈民族〉の概念自体が歴史に規定されている以上,その用法には注意を要する。一方,仏教,キリスト教,イスラムのように地域や民族を超えて広がったものは〈世界宗教〉と呼ばれる。
(マイペディア)

第17段落・ところで、経済学は、不完全ながらも、価値と価値量とを分析し、これらの形態のうちに隠されている内容を発見した。しかし、経済学は、なぜこの内容があの形態をとるのか、つまりなぜ労働が価値に、そしてその継続時間による労働の計測が労働生産物の価値量に、表されるのか、という問題は、いまだかつて提起したことさえもなかったのである。
・そこでは生産過程が人間を支配していて人間はまだ生産過程を支配していない社会構成体に属するものだということがその額に書かれてある諸定式は、経済学のブルジョア的意識にとっては、生産的労働そのものと同じに自明な自然必然性として認められている。
・それだから、社会的生産有機体の前ブルジョア的諸形態は、たとえばキリスト教以前の諸宗教が教父たちによって取り扱われるように、経済学によって取り扱われるのである。

●ここでマルクスは、スミスやリカードなどの古典派経済学者を念頭において述べている。古典派経済学は、価値の大きさはその物の生産に投下される労働量によって決まるということを明らかにしたが、なぜ労働が価値という形態をとるのかについては、そうした問題を提起することはなかった。それは、彼らが、価値を歴史的なものとしてではなく、自然なもの、永遠なものだと考えていたからである。彼らにとっては、資本制的生産様式が自然であり、それ以前の封建的生産様式などは、不自然でまちがったもの、不合理なものとされたのである。

●「そこでは生産過程が人間を支配していて人間はまだ生産過程を支配していない社会構成体に属するものだということがその額に書かれてある諸定式」とは何かという疑問が出されました。価値や商品、資本といった概念のことではないかという意見が出されました。また、「三位一体の定式」を念頭においているのではないかとの意見も出されました。「三位一体の定式」とは「3つの生産要素である労働、資本、土地が、それぞれ賃金、利子、地代という3つの収入の源泉であり、それらが生産物の付加価値を構成する」という観念のこと。

注31
・古典派経済学は、価値となって現われる労働を、その生産物の使用価値として現われるかぎりでの同じ労働から、どこでも明文と明瞭な意識とをもっては区別していない。諸労働の単に量的な相違がそれらの質的な一元性または同等性を前提し、したがって諸労働の抽象的人間労働への還元を前提するということには、古典派経済学は考えつかないのである。
・俗流経済学の浅薄さは、ある商品(ここでは労働)の価値を前提しておいて、それによってあとから他の商品の価値を規定しようとするところにある。

注32
・古典派経済学の根本欠陥の一つは、商品の分析から、価値をまさに交換価値となすところの価値の形態を見つけ出すことに成功しなかったことである。
・その原因は、たんに価値量の分析にすっかり注意を奪われてしまったということだけではなく、なによりもブルジョア的生産様式を社会的生産の永遠の自然形態と見誤ったことにある。

注33 (略)

第18段落
・商品世界に付着している呪物崇拝、または社会的な労働の対象的外観によって、一部の経済学者がどんなに惑わされているか、このことをとりわけよく示しているのは、交換価値の形成における自然の役割についての長たらしくてつまらない争論である
・交換価値は、ある物に投ぜられた労働を表す一定の社会的な仕方なのだから、たとえば為替相場などと同じように、それが自然素材を含んでいることはありえないのである。

●「商品世界に付着している呪物崇拝」とは? 労働生産物が、「それ自身の生命を与えられてそれら自身のあいだでも人間とのあいだでも関係を結ぶ独立した姿に見える」(国民文庫136頁、原頁86)ことである。

●「社会的な労働の対象的外観」とは?
商品生産社会では、それぞれがおこなう労働は私的労働である。生産者たちは、直接に労働において人と人との関係をとりむすぶのではなく、商品の交換関係・価値関係という物と物との関係を通じて、互いの生産における関係(生産関係)をとりむすぶ。こうした中では、社会的労働は、価値という物の性質として現われる。そして価値は、交換価値としてはじめて表現される。だから、「社会的な労働の対象的外観」とは、交換価値(価値の現象形態=値価値形態)のことだろう。

第19段落・商品形態は、ブルジョア的生産のもっとも一般的でもっとも未発展な形態であり、それだからこそ、今日と同じように支配的な、したがって特徴的な仕方ではないにせよ、早くから出現するのであって、そのためにその呪物的性格はまだ比較的容易に見ぬかれるように見えるのである。
・それよりももっと具体的な諸形態では、この単純性の外観さえ消えてしまう。重金主義の幻想はどこからくるのか? 重金主義は、金銀から、それが貨幣としては社会的生産関係を、といっても特別な社会的属性をもった自然物の形態で、表しているということを、見てとらなかった。
・また、近代の経済学は、高慢に重金主義を冷笑してはいるが、その呪物崇拝はそれが資本を取り扱うやいなやたちまちに明白になるのではないのか?
・地代は土地から生まれるもので社会から生まれるもではないという重農主義の幻想が消えたのは、どれほど以前のことだろうか?

■【参考】第1章第3節A「単純な、個別的な、または偶然的な価値形態」の「三 等価形態」の終わり近くのところでは次のように述べられていた。
「労働生産物は、どんな社会状態のなかにあっても使用対象であるが、しかし労働生産物を商品にするのは、ただ、一つの歴史的に規定された発展段階、すなわち使用物の生産に支出された労働をその物の「対象的」な属性として、すなわちその物の価値として表すような発展段階だけである。それゆえ、商品の単純な価値形態は同時に労働生産物の単純な商品形態だということになり、したがってまた商品形態の発展は価値形態の発展にいったするということになるのである。」(国民文庫117頁、原頁76)

●「それよりももっと具体的な諸形態」とは?
あとで触れている事柄からも明らかなように、貨幣、資本、利潤、地代などであろう。
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by shihonron | 2006-06-30 20:00 | 学習会の報告


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