『資本論』を読む会の報告

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2006年 07月 17日

第26回  7月11日 第2章 交換過程

7月11日(火)に 『資本論』を読む会@所沢 第2期 第26回の学習会を行いました。
「第2章 交換過程」の第1段落から第7段落までを輪読、検討しました。

■内容要約と議論
第2章 交換過程

第1段落
・商品は、自分で市場に行くことはできないし、自分で自分たちを交換し合うこともできない。だから、われわれは商品の番人、商品所持者を捜さなければならない。
・これらの物を商品として互いに関係させるためには、商品の番人たちは、自分たちの意志をこれらの物にやどす人として、互いに相対しなければならない。したがって、一方はただ他方の同意のもとにのみ、すなわちどちらもただ両者に共通な一つの意志行為を媒介としてのみ、自分の商品を手放すことによって、他人の商品を自分のものにする。のである。
・それゆえ、彼らは互いに相手を私的所有者として認めあわなければならない。契約をその形態とするこの法的関係は、法律的に発展していてもいなくても、経済的関係がそこに反映している一つの意志関係である。この法律関係、または意志関係の内容は、経済的関係そのものによって与えられている。ここでは、人々はただ互いに商品の代表者としてのみ、存在する。
・一般に、われわれは、展開が進むにつれて、人々の経済的扮装はただ経済的諸関係の人化でしかないのであり、人々はこの経済的諸関係の担い手として互いに相対するのだということを見いだすであろう。

● 「商品の番人たちは、自分たちの意志をこれらの物にやどす人として、互いに相対しなければならない」というのはどういう意味なのかという疑問が出されました。商品という物には意志がないが、人間である商品所有者には意志がある。商品所有者は、自分の商品を自分の意志に基づいて取り扱うということではないかとの意見が出されました。

●「ここでは、人々はただ互いに商品の代表者としてのみ、存在する」とは、商品交換の関係においては、商品所有者は、どんな人か、だれであるかなどとは関係なく、ただ商品を代表する人(人格)としてだけ認められるということだろう。私たちは人を「パン屋さん」とか「靴屋さん」と呼んだりすることがある。それは、その人の名前や年齢や性別、容姿、性格、思想などは全く問題にせず、ただパンや靴という商品の所持者としてのみとらえているるからだ。

■契約 〔法〕 私法上、相対する二人以上の合意によって成立する法律行為。債権の発生を目的とするもののほか、身分上の合意や物権的な合意も含まれる。典型契約・非典型契約・混合契約、有償契約・無償契約、諾成契約・要物契約等に区分される。また、より広く合同行為も含めた、複数の意思表示によって成立する法律行為を意味することもある。(大辞林 第二版)

■法律 (1)社会生活の秩序を維持するために、統治者や国家が定めて人民に強制する規範。法。
    (2)憲法に基づいて国家の立法機関により制定される成文法。 (大辞林 第二版)

■法律関係 法律によって律せられる関係。例えば、家主と借家人の間の権利・義務の関係。

第2段落
・商品所持者を特に商品から区別するものは、商品にとっては他のどの商品体もただ自分の価値の現象形態として認められるだけだという事情である。だから生まれながらの平等派であり、犬儒派である商品は、他のどの商品とでも、心だけではなくからだまでも取り交わそうといつでも用意しているのである。このような、商品に欠けている、商品体の具体的なものにたいする感覚を、商品所持者は自分自身の五つ以上もの感覚で補うのである。
・彼の商品は、彼にとっては直接的使用価値をもっていない。もしそれを持っているなら、彼はその商品を市場にもってゆかないであろう。彼の商品は、他人とっての使用価値をもっている。彼にとっては、それは、直接にはただ、交換価値の担い手でありしたがって交換手段であるという使用価値をもっているだけである。それだからこそ、彼はその商品を、自分を満足させる使用価値をもつ商品とひきかえに、手放そうとするのである。
・すべての商品は、その所持者にとっては非使用価値であり、その非所持者にとっては使用価値である。だから商品は、全面的に持ち手を取り替えねばならない。そして、この持ち手の取り替えが商品の交換なのであり、また商品の交換が商品を価値として互いに関係させ、商品を価値として実現するのである。それゆえ、商品は、使用価値として実現されうるまえに価値として実現されなければならないのである。

●欲望をもたない物である商品にとっては、他のどんな商品体(商品の現物形態=使用価値)も自分の価値形態(価値の現象形態)として認められる。だから商品は、他のどんな商品との交換にでも応じる準備がある。しかし、人間である商品所持者は、自分の欲求を満たす商品と引き替えでなければ自分の商品を譲渡しようとはしない。

■犬儒派(キニク学派)〔(ギリシヤ) kynikos(「犬のような」の意)〕アンティステネスを祖とする古代ギリシャの哲学の一派。幸福とは外的な条件に左右されない有徳な生活であるとし、無所有と精神の独立を目指したため反文化的な乞食生活を送る者もいた。シノペのディオゲネスが有名。犬儒学派。キュニコス学派。

●直接的使用価値とは、消費の対象としての本来的な使用価値のことであり、商品所有者にとっては自分のもっている商品は交換手段であるという使用価値(形態的使用価値)をもつだけだ。

●「他人にとっての使用価値」については、第1章第1節の最後でもふれられていた。商品を生産するためには、彼は使用価値を生産するだけではなく、他人のための使用価値、社会的使用価値を生産しなければならない。(国民文庫82頁、原頁55)

●「使用価値としての実現」は販売、「価値としての実現」は購買のことだと理解できないかとの意見が出されました。これに対して「この箇所ではまだ貨幣が登場していないので、販売・購買とはいえない」との反論がありました。

●・「使用価値の実現」とは、「一定の欲望の充足に役立ちうる属性を物がもっている、それを実際に役立たすこと、すなわち物がもっているそういう可能性を実現することであって、これはいうまでもなく消費の過程で行われる。これに反して、使用価値としての商品の実現は交換過程上の問題であって、消費過程上の問題ではない。商品の使用価値は、単なる使用価値ではなくて、一定の社会的な規定性をもつ使用価値である。すなわちそれは、現にそれを商品としてもっている者のための使用価値ではなくて、他人のための使用価値である。だからそれは、それを必要とする他人の手に移らねばならぬ。そうすることによってはじめて、使用価値として実際に役立ちうることになる。マルクスが「使用価値としての商品の実現」といっているのはこのことをさすのであって、消費の過程においてではなく、交換の過程において行われる。」(久留間鮫造『価値形態論と交換過程論』14頁)
・「価値の実現ということは、いわば即自的にのみある商品の価値を、現実の価値に、客観的に妥当な価値の姿態に、すなわち貨幣に転化することであって、これはいうまでもなく販売の過程においておこなわれる。ところが、交換過程論で価値としての商品の実現が問題とされている場では、貨幣はまだ形成されておらず、交換の過程はまだ販売および購買の二つの過程に分裂していないのであるから、この点からだけみても、価値としての商品の実現という言葉が商品の価値の実現ということとはちがった意味に用いられていることは明らかなはずである。では、それはどういう意味であるかというと、現にマルクス自身が「彼[商品所持者]は彼の商品を価値として実現しようと欲する。すなわち、彼自身の商品がその他商品の所有者にとって使用価値をもつと否とにかかわらず、同じ価値ある任意の他商品で実現しようと欲する」(「資本論」第1巻、九二頁)といっているのによっても明らかなように、商品を現に価値であるものとして妥当させること、価値としての能力を実現すること、を意味するのである。」(久留間鮫造『価値形態論と交換過程論』15頁)

●「商品は、使用価値として実現されうるまえに価値として実現されなければならないのである。」とはどういうことか? 商品所有者は、自分の欲しい他商品と引き替えにでなければ、自分の商品を相手に譲渡しようとはしない。それを必要とする人に譲渡されることによってはじめて使用価値としての実現がなされるのだが、その譲渡のためには、自分の欲しい商品を手に入れる(価値として実現する)ことが条件になる。


第3段落
他方では、商品は価値として実現しうるまえに、自分を使用価値として実証しなければならない。なぜならば、商品に支出された人間労働は、ただ他人にとって有用な形態で支出されたかぎりでしか、数にはいらないからである。ところが、その労働が他人にとって有用であるかどうか、したがってまたその生産物が他人の欲望を満足させるかどうかは、ただ商品の交換だけが証明することができるのである。

●「商品所有者は、自分の欲する他商品を手に入れる(価値として実現する)ためには、自分の商品が他人にとって有用であることを実証する(使用価値としての実現)ことが条件になる。しかし、自分の商品が他人にとって有用であることは、交換によってしか実証されない。」ということではないかという意見が出され、これについて「使用価値としての実現」と「使用価値として実証する」に区別はないのだろうかとの疑問が出されました。

第4段落
・どの商品所有者も、自分の欲望を満足させる使用価値をもつ別の商品とひきかえにでなければ自分の商品を手放そうとはしない。そのかぎりでは、交換は彼にとってはただ個人的な過程でしかない。他方では、彼は自分の商品を価値として実現しようとする。すなわち、自分の気にいった同じ価値の商品でさえあれば、その商品の所有者にとって彼自身の商品が使用価値をもっているかどうかにかかわりなく、どれででも実現しようとする。そのかぎりでは、交換は彼にとって一般的な社会的過程である。だが、同じ過程が、すべての商品所持者にとって同時にただ個人的でありながらまた同時にただ一般的社会的であるということはありえない。

●「そのかぎりでは、交換は彼にとってはただ個人的な過程でしかない」「そのかぎりでは、交換は彼にとって一般的な社会的過程である」とはどういうことかという疑問が出されました。はっきりとした結論には至りませんでした。
「社会的」の対義語としては「個人的」「私的」「自然的」などが考えられる。
「一般的」「全般的」の対義語は「個別的」・「特殊的」が考えられる。
英語版ではprivate transactionとなっており、「私的取引」(私事)と訳すこともできる。

この箇所は英語版では以下のようです。
Every owner of a commodity wishes to part with it in exchange only for those commodities whose use-value satisfies some want of his. Looked at in this way, exchange is for him simply a private transaction. On the other hand, he desires to realise the value of his commodity, to convert it into any other suitable commodity of equal value, irrespective of whether his own commodity has or has not any use-value for the owner of the other. From this point of view, exchange is for him a social transaction of a general character. But one and the same set of transactions cannot be simultaneously for all owners of commodities both exclusively private and exclusively social and general.

 Looked at in this way, exchange is for him simply a private transaction. 
 「このようにみれば、交換は彼にとっては単なる私的取引である」

 From this point of view, xchange is for him a social transaction of a general character.
 「この観点からすると、交換は彼にとって、一般的な性格をもつ社会的取引である」

第5段落
・もっと詳しく見れば、どの商品所持者にとっても、他人の商品はどれでも自分の商品の特殊的等価物とみなされ、したがって自分の商品はすべての他の商品の一般的等価物とみなされる。
・だがすべての商品所持者が同じことをするのだから、どの商品も一般的等価物ではなく、したがってまた諸商品は互いに価値として等置され価値量として比較されるための一般的な相対的価値形態をもっていない。
・したがつてまた、諸商品は、けっして商品として相対するのではなく、ただ生産物または使用価値として相対するだけである。

●自分の商品を一般的等価物とみなすとは、自分の商品は任意の他商品と直接に交換できるものだとみなすことである。しかし、それはひとりよがりにすぎない。実際に他の任意の商品と直接に交換可能なわけではない。
商品は、自分で一般的等価物になることはできない。自分を除いたすべての商品によって、受動的に一般的等価物にされるのである。商品世界が歩調を合わせ、ある一商品を商品世界から除外し、その商品だけを等価物だと認めることによって、その商品は一般的等価物にされるのである。(価値形態C=第3形態)
それぞれの商品が、自分は一般的等価物であり、他商品と等しく、いつでも他商品と交換可能だと言ってみても、通用しないのである。別の言い方をすれば、それぞれの商品を代表するそれぞれの商品所持者たちが自分の商品を一般的等価物だとみなしてみても通用しないのである。なぜなら、すべての商品所持者が自分の商品を一般的等価物であるとみなし、他の商品所持者の商品を一般的等価物とは認めようとはしないからである。

●「商品として相対するのではなく、ただ生産物または使用価値として相対するだけである」とはどういうことか? 労働生産物は、使用価値に加えて、価値形態をもつことによって商品となる。ここでは、一般的価値形態をもつことができないので、労働生産物は価値形態をもつことができず、商品として、価値として等しいものとして相対することができないということを述べているのではないか。

第6段落
・われわれの商品所持者たちは、当惑のあまり、ファウストのように考え込む。太初(はじめ)に(わざ)ありき。だから、彼らは、考えるまえにすでに行っていたのである。商品の本性の諸法則は、商品所持者の自然本能において自分を実証したのである。
・彼らが自分たちの商品を互いに価値として関係させ、したがってまた商品として関係させることができるのは、ただ自分たちの商品を、一般的等価物としての別の或る一つの商品に対立的に関係させることによってのみである。このことは、商品の分析が明らかにした。
・しかし、ただ社会的行為のみが、ある一定の商品を一般的等価物にすることができる。それだから、他のすべての商品の社会的行動が、ある一定の商品を除外して、この除外された商品で他の全商品が自分たちの価値を全面的に表すのである。
・このことによって、この商品の現物形態は、社会的に認められた等価形態になる。一般的等価物であることは、社会的過程によって、この除外された商品の独自な社会的機能になる。こうして、この商品は――貨幣になるのである。

●第2段落から第5段落で商品交換の困難あるいは不可能性が取り上げられてきた。
・「商品は、使用価値として実現されうるまえに価値として実現されなければならないのである。」(第2段落)「他方では、商品は価値として実現しうるまえに、自分を使用価値として実証しなければならない。」(第3段落)
・「同じ過程が、すべての商品所持者にとって同時にただ個人的でありながらまた同時にただ一般的社会的であるということはありえない。」(第4段落)
・「どの商品も一般的等価物ではなく、したがってまた諸商品は互いに価値として等置され価値量として比較されるための一般的な相対的価値形態をもっていない。」(第5段落)
これでは商品の交換は行き詰まってしまうように思える。しかし、こうした困難は、商品の社会的行動によって一般的等価物が生み出され、一般的等価物の機能を社会的に独占する一商品=貨幣が成立することで解決される。

第7段落
・貨幣結晶は、種類の違う労働生産物が実際に互いに等置され、したがって実際に商品に転化される交換過程の、必然的な産物である。
・交換の歴史的な広がりと深まりとは、商品の本性のうちに眠っている使用価値と価値との対立を展開する。
・この対立を交易のために外的に表わそうという欲求は、商品価値の独立形態に向かって進み、商品と貨幣とへの商品の二重化によって最終的にこの形態に到達するまでは、少しも休もうとしない。それゆえ、労働生産物の商品への転化が実現されるのと同じ程度で、商品の貨幣への転化が実現されるのである。

●「商品価値の独立形態」とは何かという疑問が出され、価値しか表していない形態=等価形態と理解できるが、事実上貨幣が念頭に置かれているのではないかということになりました。

■資料 「使用価値の実現」と「使用価値としての実現」
     『資本論』学ぶ会発行・『資本論』学ぶ会ニュースNO.27(1999年3月11日)より引用

 前回は第二章の三つのパラグラフを進んだだけでしたが、しかしかなり突っ込んだ議論を行い、理解もそれだけ深まったのではなかったかと思います。

 まず最初のパラグラフでは、交換過程では商品は価値と使用価値の統一物として現われること、だからそこでは第一章では捨象されていた商品所有者の存在(よって彼の欲望等)が分析の対象に新たに加わることが指摘されていること、ただその場合の商品所有者は現実の商品交換という経済的関係の反映したものであること、一般に『資本論』で取り扱われる「諸人格の経済的扮装は経済的関係の人格化にほかならない」こと等が述べられていることが確認されました。ここで「諸人格の経済的扮装」とは具体的には何かが質問として出ましたが、例えば「資本家」や「労働者」、「土地所有者」等々のことだろうということになりました。

 次に第二パラグラフと第三パラグラフでは、現実の交換過程で生じる矛盾が明らかにされています。マルクスはこうした矛盾として三つのものを指摘しているように思えるのですが、第二・三パラグラフで展開されているものは、その最初のものです。これらの三つの矛盾の関連をどうとらえるかも問題なのですが、それはまた別の機会にします。

 マルクスが最初に問題にしている矛盾とは、「諸商品は、みずからを使用価値として実現しうるまえに、価値として実現しなければならない」ということと「価値として実現しうるまえに、みずからが使用価値であることを実証しなければならない」ということです。つまり使用価値も交換価値もその実現のためには相手の実現を前提し合う関係にあるということです。ということは現実には商品交換は不可能だということになります。『経済学批判』ではマルクスはこれを「悪循環」とも述べています。

 問題はこれはいったいどういう現実を言っているのだろうか、ということです。しかしこれはそれほど難しいことではなくて、現実の生産物の物々交換(つまり貨幣がまだ現われていない交換)を想定してみれば分かります。私が魚をとって市場で野菜と交換したいと考えても、たまたま野菜を市場に持って来ている人が、魚をほしがっているならば交換可能ですが、そうでなければ交換できません。両者の欲求が一致するのはまったく偶然であって、実際にはなかなか一致せず、だから交換も出来ないのです。マルクスが明らかにしている矛盾はまさにこうした現実を示しているのではないでしょうか。

 交換過程を問題にするときには、商品は使用価値と価値の統一物であり、商品所有者の欲求が分析の対象にならなければなりません。だからまたこうした矛盾が生じるのです。第一章では20エレのリンネルは上着一着と交換されましたが、しかし等価形態に上着が来るか、鉄がくるかコーヒーが来るかは問題ではありませんでした。それは何でも良かったのです。というのは第一章では商品が交換されている現実を前提にしてそれを直接分析の対象にしていたからであって、そこでは商品所有者も彼の欲望も捨象されて問題にはされなかったからです。しかし第二章では商品交換はより具体的に分析され、商品は現実の商品としていわば運動するものとしてとらえられているともいえます。

 ところでここでは、報告者のレジュメで紹介されていた久留間鮫造氏の『価値形態論と交換過程論』の解説の理解が問題になりました。そこでは氏は「使用価値としての商品の実現」と「使用価値の実現」とは違うこと、後者は一定の欲望を満足させるという属性をもっていること、すなわち実際に役立つ可能性を実現することで、それは消費過程の問題だが、前者はあくまで交換過程上の問題である、「だからそれは、それを必要とする他人の手に移らねばならぬ。そうすることによってはじめて、使用価値として役立ちうることになる、マルクスが『使用価値としての商品の実現』といっているのは、このことをさすのであって、消費の過程ではなく、交換の過程において行われる」と述べていることを、如何に理解するかということです。またそれと関連して、「使用価値としての実現」と「使用価値であることを実証する」ということとは同じなのか、違いはあるのかどうかも問題になりました。

 マルクスは第一章第一節の使用価値の説明のところで、「使用価値は、使用または消費においてのみ、実現される。……われわれが考察しようとする社会形態においては、それは同時に交換価値の素材的担い手をなしている」(新日本新書版61頁)と述べていました。また『経済学批判』では「彼(商品所有者--引用者)にとっては、それはむしろ非使用価値であり、すなわち、交換価値のたんなる素材的な担い手、またはたんなる交換手段である。……だから諸商品の使用価値は、商品が全面的に位置を転換し、それが交換手段である人の手から、それを使用対象とする人の手に移ることによって、使用価値として生成するのである」「諸商品の使用価値としての生成は、その全面的外化、その交換過程へはいることを予想している」等々(全集⑬26~7頁)とあります。

 第一節の説明でも明らかなように、「使用価値の実現」は明らかに消費過程の問題です。他方、『批判』の一文を見ても分かるように、「使用価値として実現する」というのは、「使用価値として生成する」とも言われていますが、要するにここでは「商品の位置の転換」が言われるのみです。つまりそれを必要とする人の手に渡るということです。それが「使用価値としての実現」の意味ではないでしょうか。だからここでは使用価値は交換されるだけで、まだ消費は問題になっていないともいえます。それが「使用価値としての実現」の内容ではないでしょうか。

 それでは「実現」と「実証」には区別があるのでしょうか? 学習会では大体同じことではないか、という意見が大勢でした。だからあえて問題にする必要もないのかもしれませんが、この両者の相違を主張する見解もあることだけは紹介しておきましょう。

 すでに何度か紹介した白須五男氏は次のように説明しています。

 まず「使用価値としての実現」とは「商品が有用労働の生産物であり人間の一定の欲望を充足する対象であることを、その商品を必要とする人の手に移すことによって真にそうした内容を持つものであるとして現実的に明示すること、これである」とし、さらに「使用価値としての実証というのは、右にいう実現とは違って、商品交換が事実上なされる以前に、交換部面で対峙し合っているその商品の使用価値が他方の商品所有者にとって本当に有用労働の成果であり、他方の人の特定の欲望を満たす生産物であることをまずもって証明すること、このことである」と説明しています(『マルクス価値論の地平と原理』210~1頁)。

 果たしてこのように両者の相違を見るのが正しいのかどうか、それは皆さんの検討を待ちましょう。
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by shihonron | 2006-07-17 00:00 | 学習会の報告


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