『資本論』を読む会の報告

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2006年 12月 17日

第40回  12月12日 第3章 第1節 価値の尺度

12月12日(火)に第40回の学習会を行いました。「読む会通信№229」を使って前回の復習をした後、「第3章 貨幣または商品流通 第1節 価値の尺度」の第18段落から最後(第21段落)までを輪読、検討しました。

■テキストの内容と議論    
第3章 貨幣または商品流通 第1節 価値の尺度


第18段落
・価格は、商品に対象化されている労働の貨幣名である。それだから、商品と、その名が商品の価格であるところの貨幣量とが等価だということは、一つの同義反復である。というのは、およそ一商品の相対的価値表現はつねに二つの商品の等価性の表現だからである。
・しかし、商品の価値量の指標としての価格は、その商品と貨幣との交換割合の指標だとしても、逆にその商品と貨幣との交換割合の指標は必然的にその商品の価値量の指標だということにはならないのである。
・かりに、同じ量の社会的必要労働が1クォーターの小麦と2ポンド・スターリング(約1/2オンスの金)とで表されるとしよう。2ポンド・スターリングは1クォーターの小麦の価値量の表現、すなわち価格である。いま、事情が1クォーターの小麦を3ポンド・スターリングに値上げすることを許すか、またはそれを1ポンド・スターリングに値下げすることを強いるとすれば、1ポンド・スターリングと3とは、この小麦の価値量の表現としては過小または過大であるが、それにもかかわらずこの小麦の価格である。というのは、第一にはそれは小麦の価値形態、貨幣であり、第二には小麦と貨幣との交換割合の指標だからである。
・生産条件が変わらないかぎり、また労働の生産性が変わらないかぎり、相変わらず1クォーターの小麦の再生産には同じだけの社会的労働時間が支出されなければならない。このような事情は、小麦生産者の意志にも他の商品所持者たちの意志にもかかわりがない。だから、商品の価値量は、社会的労働時間にたいする或る必然的な、その商品の形成過程に内在する関係を表しているのである。
・価値量が価格に転化されるとともに、この必然的な関係は、一商品とその外にある貨幣商品との交換割合としてあらわれる。しかし、この割合では、商品の価値量が表現されるとともに、また与えられた事情のもとでその商品が手放される場合の価値量以上または以下も表現される。だから、価格と価値量との量的な不一致の可能性、また価値量からの価格の偏差の可能性は、価格形態そのもののうちにあるのである。
・このことは、けっしてこの形態の欠陥ではなく、むしろ逆に、この形態を、一つの生産様式の、すなわちそこでは原則がただ無原則性の盲目的に作用する平均法則としてのみ貫かれうるような生産様式の、適当な形態にするのである。

★価格は、ある商品の価値を貨幣商品である金の量で表したものである。しかし、価格は、ある商品の価値をいつでも正確に表現するわけではない。商品の価値量は、その生産に社会的に必要な労働の量(社会的必要労働時間)によつて決まる。価格は価値量を表現するとともに、価値量以上や価値量以下をも表現する。こうした価格形態は、資本主義的生産様式に適合した形態である。

●最後の文章の「適当」は、新日本出版社版では「適切」と訳されている。

●新日本出版版では、下線の箇所は「規律が、盲目的に作用する無規律性の平均法則としてのみ自己を貫徹しうる一つの生産様式」と訳されている。

●「そこでは原則がただ無原則性の盲目的に作用する平均法則としてのみ貫かれうるような生産様式」について、「原則」は何をさしているのか、この生産様式とは何かという疑問が出されました。「原則」については、価値法則を念頭に言われているのではないかという意見が出されました。また、この「生産様式」は、資本主義的生産様式をさしているだろうということになりました。
 これに関連して第1章第4節での以下の叙述が紹介されました。
「互いに独立に営まれながらしかも社会的分業の自然発生的な諸環として全面的に互いに依存しあう私的諸労働が、絶えずそれらの社会的に均衡のとれた限度に還元されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的な絶えず変動する交換割合をつうじて、それらの生産物の生産に社会的に必要な労働時間が、たとえばだれかの頭上に家が倒れてくるときの重力の法則のように、規制的な自然法則として強力的に貫かれるからである、という科学的認識が経験そのものから生まれてくるまでには、十分に発展した商品生産が必要なのである。それだから、労働時間による価値量の規定は、相対的な商品価値の現象的な運動の下に隠れている秘密なのである。それの発見は、労働生産物の単に偶然的な規定という外観を解消させるが、しかしけっしてその物的な形態を解消させない。」(国民文庫139-140頁・原頁89) 

■ 【指標】物事の見当をつけるためのめじるし
■【適当】ある状態・目的・要求などにぴったり合っていること。ふさわしいこと。また、そのさま。相当。
■【生産様式】現実の生産は、つねに、特定の発展段階の生産力を持って、特定の形態の生産関係のもとで行なわれる生産である。特定の発展段階の生産力とそれに対応する特定の形態の歴史的生産関係のもとで行なわれている特定の生産のあり方を生産様式と呼ぶ。(大谷禎之介『図解社会経済学』15頁)

第19段落
・しかし、価格形態は、価値量と価格との、すなわち価値量とそれ自身の貨幣表現との、量的な不一致の可能性を許すだけではなく、一つの質的な矛盾、すなわち、貨幣はただ商品の価値形態でしかないにもかかわらず、価格がおよそ価値表現ではなくなるという矛盾を宿すことができる。
・それ自体としては商品ではないもの、たとえば良心や名誉などは、その所有者が貨幣とひきかえに売ることもできるものであり、こうしてその価格をつうじて商品形態を受け取ることができる。それゆえ、ある物は、価値を持つことなしに、形式的な価格をもつことができるのである。ここでは価値表現は、数学上のある種の量のように、想像的な物になる。
・他方、想像的な価格形態、たとえば、そこには人間労働が対象化されていないので少しも価値のない未開墾地の価格のようなものも、ある現実の価値関係、またはこれから派生した関係をひそませていることがありうるのである。

●「ある現実の価値関係、またはこれから派生した関係をひそませている」とはどういうことかとの疑問が出され、土地は価値を持っていないが、それがもたらすであろう地代の大きさと現行の利子率によってその価格が変動するといったことだろうという結論になりました。また『図解社会経済学』では、「企業の利潤の大きさを反映する配当の大きさと利子率によって株式の価格が変動する」場合について指摘していることが紹介されました。

第20段落
・相対的価値形態一般がそうであるように、価格は、ある商品たとえば1トンの鉄の価値を、一定量の等価物たとえば1オンスの金が直接に交換されうるということによって表現するのであるがけっして、逆に鉄のほうが金と直接に交換されうるということによって表現するのではない。
・だから、実際に交換価値の働きをするためには、商品はその自然の肉体を捨て去って、ただ想像されただけの金から現実の金に転化しなければならない。たとえ商品にとってこの化体が、エロニュムスにとつての原罪の脱却よりも「もっとつらい」ことであろうとも、商品は、その実在の姿、たとえば鉄という姿のほかに、価格において観念的な価値姿態または想像された金姿態をもつことはできるが、しかし、現実に鉄であると同時に金であることはできない。商品に価格を与えるためには、想像された金を商品に等置すればよい。商品がその所持者のために一般的等価物の役を果たそうとするならば、それは金と取り替えられなければならない。たとえば、金の所持者がある享楽商品の所持者に対面して、彼に鉄価格を指し示して、これが貨幣形態だというならば、享楽商品の所持者は、天国で聖ペテロが自分の信仰箇条を暗唱したダンテに答えたように、答えるであろう。
「この貨幣(かね)の混合物(まぜもの)とその重さとは 汝すでによくしらべたり されど言え、汝はこれを己が財布のなかにもつや」

●冒頭の「相対的価値形態一般」の意味するものについて議論がありました。出された意見はおおよそ次のようなものです。〈ここでの「相対的価値形態」は、「相対的価値表現」あるいは「価値形態」のことであり、価値等式の左辺の商品をさしているのではない。「相対的価値形態一般」とは、A(単純な 個別的な 偶然的な価値形態)、B(全体的な、または展開された価値形態)、C(統一的な価値形態)、D(貨幣形態)のどの形態においても共通なという意味だ。〉これについては、意見を簡単な文書にまとめて提出し、再度議論することになりました。

★「交換価値の働きをする」「一般的等価物の役を果たす」は同じことの異なった表現であり、その内容は「価値として妥当する(通用する・ゲルテンする)」こと、任意の商品と交換することである。

■【直接的交換可能性】「すでに見たように、一商品A(リンネル)は、その価値を異種の一商品B(上着)の使用価値で表すことによって、商品Bそのものに、一つの独特な価値形態、等価物という価値形態を押しつける、リンネル商品はそれ自身の価値存在を顕わにしてくるのであるが、それは上着がその物体形態とは違った価値形態をとることなしにリンネル商品に等しいとされることによってである。だから、リンネルは実際にそれ自身の価値存在を、上着が直接にリンネルと交換されうるものだということによって、表現するのである。したがって、一商品の等価形態は、その商品の他の商品との直接的交換可能性の形態である。(国民文庫106-107頁・原頁70)

第21段落

・価格形態は、貨幣とひきかえに商品を手放すことの可能性とこの手放すことの必然性とを含んでいる。
・他方、金は、ただそれがすでに交換過程で貨幣商品としてかけまわっているからこそ観念的な価値尺度のうちには堅い貨幣が待ち伏せているのである。

★「この手放すことの必然性」とは、商品所有者は自分の欲する他人の所持している商品を入手するためには、まず自分の商品を貨幣に転化しなければならないと言うことではないか。言いかえれば、「商品は売ることができるし、売られなければならない」。

■「価格は或る量の金という自然物であるが、価格においてはこの自然物は表象されているだけで、そこにそれの現物があるわけではない。つまり、商品の値札、正札の上にある金は表象された金でしかないのであって、現物の金ではない。けれども、そこで表象されているのは実在的な金、つまり現物の金である。商品世界から排除されて貨幣になった金が実在し、諸商品に相対しているからこそ、それを表象することができるのである。要するに、価値尺度としての貨幣は表象された観念的な貨幣であるが、それが表象・指示しているのは実在の貨幣である。」(大谷禎之介『図解社会経済学』93頁)
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by shihonron | 2006-12-17 14:53 | 学習会の報告


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