『資本論』を読む会の報告

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2007年 01月 15日

第43回 1月10日  第3章 貨幣または商品流通 第2節 流通手段 a 商品の変態

1月10日(水)に第43回の学習会を行いました。「読む会通信」№231、№232を使って前回の復習をした後、「第3章 貨幣または商品流通 第2節 流通手段 a 商品の変態」の第9段落から第12段落までを輪読、検討しました。

■テキストの内容と議論    
第3章 貨幣または商品流通 第2節 流通手段 a 商品の変態


第9段落
・W―G、商品の第一変態または売り。
・商品体から金体への商品価値の飛び移りは、私が別のところで言ったように、商品の命がけの飛躍[Salto mortale]である。
・この飛躍に失敗すれば、商品にとっては痛くないが、商品所持者にとってはたしかに痛い。
・社会的分業は彼の労働を一面的にするとともに、彼の欲望を多面的にしている。
・それだからこそ、彼にとって彼の生産物はただ交換価値としてのみ役だつのである。
・しかし、彼の生産物はただ貨幣においてのみ一般的な社会的に認められた等価形態を受け取るのであり、しかもその貨幣は他人のポケットにある。
・それを引き出すためには、商品はなによりもまず貨幣所有者にとっての使用価値でなければならず、したがって、商品に支出された労働は社会的に有用な形態で支出されなければならない。
・言いかえれば、その労働は社会的総労働の一環として実証されなければならない。
・しかし、分業は一つの自然発生的な生産有機体であって、その繊維は商品生産者達の背後で織られたものであり、また絶えず織られているのである。

・場合によっては、商品は、新たに生まれた欲望を満足させようとするかまたは或る欲望をこれから自力で呼び起こそうとする或る新しい労働様式の生産物であるかもしれない。
・昨日まではまだ同じ一人の生産者の多くの機能のうちの一つの機能だった或る一つの作業が、おそらく、今日はこの関連から切り離されて、独立化されて、まさにそれゆえにその部分生産物を独立の商品として市場に送ることになる。
・この分離過程のために事情はすでに熟していることまた熟していないこともあるであろう。
・生産物は今日は或る一つの社会的欲望を満足させる。
・明日はおそらくその全部または一部が類似の種類の生産物によってその地位から追われるであろう。
・労働が、われわれの織職のそれのように、社会的分業の公認された一環であっても、まだそれだけでは彼の20エレのリンネルそのものの使用価値はけっして保証されてはいない。
・リンネルに対する社会的欲望、それには、すべての他の社会的欲望と同じに、その限度があるのであるが、それがすでに競争相手のリンネル織職たちによって満たされているならば、われわれの友人の生産物はよけいになり、したがって無用になる。
・もらい物ならば、いいもわるいもないのだが、彼は贈り物をするために市場を歩くのではない。

・しかし、かりに彼の生産物の使用価値が実証され、したがって貨幣が商品によって引き寄せられるとしよう。
・ところが、今度は、どれだけの貨幣がという問題が起きてくる。
・答えはもちろん、すでに商品の価格によって、商品の価値量の指標によって、予想されている。
・商品所有者がやるかもしれない純粋に主観的な計算のまちがいは問題にしないことにしよう。
・それは市場ではすぐに客観的に訂正される。
・彼は自分の生産物にただ社会的に必要な平均労働時間だけを支出したはずである。
・だから、その商品の価格は、その商品に対象化されている社会的労働の量の貨幣名でしかない。
・しかし、古くから保証されていたリンネル織物業の生産条件が、われわれの織職の同意もなしに、彼の背後で激変したとしよう。
・昨日までは疑いもなく1エレのリンネルの生産に社会的に必要な労働時間だったものが、今日は、そうではなくなる。
・それは、われわれの友人の何人もの競争相手の価格表から貨幣所有者が最も熱心に立証するところである。
・われわれの友人にとっては不幸なことだが、世の中にはたくさんの織職がいるのである。

・最後に、市場にあるリンネルは、どの一片もただ社会的に必要な労働時間だけを含んでいるものとしよう。
・それにもかかわらず、これらのリンネルの総計は、余分に支出された労働時間をふくんでいることがありうる。
・もし市場の胃袋がリンネルの総量を1エレ当たり2シリングとしい正常な価格で吸収できないならば、それは社会的総労働時間の大きすぎる一部分がリンネル織物業の形で支出されたということを証明している。
・結果は、それぞれのリンネル織職が自分の個人的生産物に社会的必要労働時間よりも多くの時間を支出したのと同じことである。
・ここでは、死なばもろともというわけである。
・市場にあるすべてのリンネルが一つの取引品目としかみなされず、どの一片もその可除部分としかみなされない。
・そて、実際にどの1エレの価値も、ただ、同種の人間労働の社会的に規定された同じ量が物質化されたものでしかないのである。

●この長い段落の内容は、3つに分けることができるとの意見が出されました。それは、商品の第一変態(売り)が、行なわれない場合(A)、行なわれたとしても価格で示されていたよりも少ない量の貨幣としか交換されない二つの場合(B、C)の指摘である。また、最初のところで述べられている、商品生産が、自然発生的な分業による生産が行なわれる体制であることをl理解することも重要です。

A.新製品やこれまでは商品として登場していなかったでなかった部分生産物が商品となるが、それに対する需要はあらかじめ確保されているとは限らず、売れないことがある。また、ある使用価値に対する社会の欲望には限度があり、競争者によってそれが満たされている場合には、売れないことがある。

B.生産条件が激変(競争者が新たな高度な生産方法を導入)した場合には、一定量の商品の価値は下落し、生産方法が不変な生産者の商品は、かつての価格以下でしか売ることができない。

C.ある産業部門に、社会が必要とする生産物を超えた生産がされるような総労働時間の一部が配分された場合には、個々の商品の生産に社会的に必要な労働時間だけが費やされていても、正常な価格(価値どおりの価格)以下でしか売れない。

●「市場にあるすべてのリンネルが一つの取引品目としかみなされず、どの一片もその可除部分としかみなされない。」とは、一物一価の法則のことだとの発言がありました。

■一物一価について、大谷禎之介氏は《商品の価値は社会的必要労働時間によって決まる。だから、同じ種類の商品の価値は同じである。そこで、商品の価値を表現する商品の価格も、一つの市場では同じである。これがいわゆる「一物一価」である。》と述べている。

■岩井克人氏は、《『資本論』のなかでマルクスは、商品を売ることはその商品に「とんぼ返り= 命がけの跳躍」を強いることだと茶化している。》(筑摩書房『貨幣論』187頁)と述べている。

●最後の「同種の人間労働の社会的に規定された同じ量が物質化されたもの」の箇所の「物質化」は、筑摩書房のマルクスライブラリーでは「受肉化」と訳されていることが紹介されました。

■ 【受肉】キリスト教の根本教義の一。神がキリストとして、人間となって現れること。霊が肉に結合すること。託身。インカルナチオ。(大辞林 第二版)


■自然発生的な社会的分業や社会的総労働についてこれまで述べられていたことを振り返っておこう。(電子テキスト版より引用)

「さまざまな種類の使用価値または商品体の総体のうちには、同じように多様な、属、種、科、亜種、変種を異にする有用労働の総体・・社会的分業・・が現れている。社会的分業は商品生産の存在条件である。…自立した、たがいに従属していない、私的労働の生産物だけが、たがいに商品として相対するのである。 したがって、われわれは次のことを見てきた・・どの商品の使用価値にも一定の合目的的な生産的活動または有用労働が含まれている。諸使用価値は、質的に異なる有用労働がそれらに含まれていなければ、商品として相対することはできない。その生産物が一般的に商品という形態をとっている社会においては、すなわち商品生産者たちの社会においては、独立生産者たちの私事としてたがいに従属せずに営まれる有用労働のこうした質的相違が、一つの多岐的な体制に、すなわち社会的分業に、発展する。」(原頁56-57)

「そもそも使用対象が商品になるのは、使用対象がたがいに独立に営まれる私的諸労働の生産物であるからにほかならない。これらの私的諸労働の複合体が社会的総労働をなす。生産者たちは彼らの労働生産物の交換を通してはじめて社会的接触に入るから、彼らの私的諸労働の特有な社会的性格もまたこの交換の内部ではじめて現れる。あるいは、私的諸労働は、交換によって労働生産物が、そしてまた労働生産物を媒介として生産者たちが、結ばれる諸関係を通して、事実上はじめて、社会的総労働の諸分肢として自己を発現する。だから、生産者たちにとっては、彼らの私的諸労働の社会的諸関係は、そのあるがままのものとして、すなわち、人と人とが彼らの労働そのものにおいて結ぶ直接的に社会的な諸関係としてではなく、むしろ、人と人との物的諸関係および物と物との社会的諸関係として現れるのである。」(原頁87)

「私的諸労働は、一面では、一定の有用労働として一定の社会的欲求を満たさなければならず、そうすることによって、総労働の、自然発生的な社会的分業の体制の諸分肢として実証されなければならない。」(原頁87)

「労働生産物の価値性格は、事実上、価値の大きさとしての諸生産物の発現によってはじめて固まる。価値の大きさは、交換者たちの意志、予見、および行為にはかかわりなく、たえず変動する。交換者たち自身の社会的運動が、彼らにとっては、諸物の運動という形態をとり、彼らは、この運動を制御するのではなく、この運動によって制御される。たがいに独立〔unabhaengig〕に営まれながら、しかも社会的分業の自然発生的な諸分肢としてたがいに全面的に依存している〔abhaengig〕私的諸労働が社会的に均斉のとれた基準にたえず還元されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的でつねに動揺している交換比率を通して、それらの生産のために社会的に必要な労働時間が・・たとえば、だれかの頭の上に家が崩れおちる時の重力の法則のように・・規制的な自然法則として暴力的に自己を貫徹するからである(28)、という科学的洞察が経験そのものから生じるためには、その前に、完全に発展した商品生産が必要である。だから、労働時間による価値の大きさの規定は、相対的な諸商品価値の現象的運動のもとに隠されている秘密である。この秘密の発見は、労働生産物の価値の大きさが単に偶然的に規定されるだけであるという外観を取りのぞくが、この規定の物的形態を取りのぞきはしない。」(原頁89)

第10段落
・このように、商品は貨幣を恋いしたう。だが「まことの恋がなめらかに進んだ試しはない」[“the course of true love never does run smooth ”] 。
・分業体制のうちにそのバラバラな四肢 [membra disjecta]を示している社会的生産有機体の量的編成は、その質的編成と同じに、自然発生的で偶然である。
・それだから、われわれの商品所持者たちは、彼らを独立の私的生産者にするその同じ分業が、社会的生産過程とこの過程における彼らの諸関係とを彼ら自身から独立なものにするということを発見するのであり、人々の相互の独立性が全面的な物的依存の体制で補われていることを発見するのである。

★「社会的生産有機体の量的編成」とは、総労働力の各産業部門へ配分のことだろう。言いかえると、各産業間のバランスではないか。「その質的編成」とは、社会全体でどんな使用価値の生産を行なうのかということだろう。商品生産の社会では、社会全体でどんなもの(質的)をどれだけ(量的)生産するかが自然発生的で偶然だということである。

第11段落
・分業は、労働生産物を商品に転化させ、そうすることによって、労働生産物の貨幣への転化を必然にする。
・同時に、分業は、この化体が成功するかどうかを偶然にする。
・とはいえ、ここでは現象を純粋に考察しなければならず、したがってその正常な進行を前提しなければならない。
・そこでとにかくことが進行して、商品が売れないようなことがないとすれば、商品の形態変換は、変則的にはこの形態変換で実体――価値量――が減らされたり加えられたりすることがあるにしても、つねに行なわれているのである。

●「その正常な進行」とは何かが問題になりました。「価値どおりに売れる(商品が貨幣に転化する)ことだ」という意見と「価値どおりであるかどうかに関わりなく、売れるということではないか」との二つの意見が出されました。叙述の中で「変則的には」として価値から乖離した価格での販売が述べられているので、「正常」は価値どおりということと理解できるとの結論になりました。

第12段落
・一方の商品所持者にとっては金が彼の商品にとって代わり、他方の商品所持者にとっては商品が彼の金にとって代わる。
・すぐに目につく現象は、商品と金との、20エレのリンネルと2ポンド・スターリングとの、持ち手変換または場所変換、すなわちそれらの交換である。
・だが、なにと商品は交換されるのか? それ自身の一般的価値姿態とである。
・そして金はなにと?その使用価値の一つの特殊な姿態とである。
・なぜ金はリンネルに貨幣として相対するのか? 2ポンド・スターリングというリンネルの価格またはリンネルの貨幣名が、すでにリンネルを貨幣としての金に関係させているからである。
・もとの商品形態からの離脱は、商品の譲渡によって、すなわち、商品の価格ではただ想像されているだけの金を商品の使用価値が現実に引き寄せる瞬間に、行なわれる。
・それゆえ、商品の価格の実現、または商品の単に観念的な価値形態の実現は、同時に、逆に貨幣の単に観念的な使用価値の実現であり、商品の貨幣への転化は、同時に貨幣の商品の転化である。
・この一つの過程が二面的な過程なのであって、商品所持者の極からは売りであり、貨幣所有者の反対極からは買いである。
・言いかえれば、売りは買いであり、W―Gは同時にG―Wである。

●最初の部分では、二人の商品所持者として述べられていて、最後では商品所持者と貨幣所持者として述べられているのはなぜかという疑問が出されました。内容的には最初から商品所持者と貨幣所持者が相対しているが、貨幣もまた商品であるということだろうかという意見が出されましたが、はっきりとした結論は出ませんでした。

● 「貨幣の単に観念的な使用価値の実現」について、貨幣は価値そのものとして通用し、あらゆる商品に対して直接的交換可能性をもっている。貨幣は、どんな使用価値にもなることができる一般的商品であり、可能性として(観念的には)はどんな使用価値でもありうるということだろうとの発言がありました。

■ 「金材料は、ただ価値の物質化として、貨幣として、認められているだけである。それゆえ、金材料は実在的には交換価値である。その使用価値は、その実在の使用姿態の全範囲としての対立する諸商品にそれを関係させる一連の相対的価値表現において、ただ観念的に現われているだけである。」(国民文庫189頁・原頁119)


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by shihonron | 2007-01-15 18:00 | 学習会の報告


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