『資本論』を読む会の報告

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2007年 01月 28日

第45回 1月23日  第3章 貨幣または商品流通 第2節 流通手段 a 商品の変態

1月23日(火)に第45回の学習会を行いました。「読む会通信」№234を使って前回の復習をした後、「第3章 貨幣または商品流通 第2節 流通手段 a 商品の変態」の第21段落から最後までと「b 貨幣の流通」の第1段落から第2段落までを輪読、検討しました。

■テキストの内容と議論    
第3章 貨幣または商品流通 第2節 流通手段 a 商品の変態


第21段落
・それだから、流通過程はまた、直接的生産物交換のように使用価値の場所変換または持ち手変換によって消えてしまうものでもない。
・貨幣は、最後には一つの商品の変態列から脱落するからといって、それで消えてしまうのではない。
・それは、いつでも、商品があけた流通場所に沈殿する。
・たとえばリンネルの総変態、リンネル―貨幣―聖書では、まずケンネルが流通から脱落し、貨幣がその場所を占め、次には聖書が流通から脱落し、貨幣がその場所を占める。
・商品による商品の取り替えは、同時に第三の手に貨幣商品をとまらせる。
・流通は絶えず貨幣を発汗している。

●「消えてしまうものではない」は、長谷部訳では「終わるものではない」となっていることが紹介されました。

■《直接的生産物交換は、一面では単純な価値表現の形態をもっているが、他面ではまだそれをもっていない。この形態は、x量の商品A=y量の商品B であった。直接的生産物交換の形態は、x量の使用対象A=y量の使用対象B である。AとBという物はこの場合には交換以前には商品ではなく、交換によってはじめて商品になる。》(国民文庫160頁・原頁102)

第22段落
・どの売りも買いであり、またその逆でもあるのだから、商品流通は、売りと買いとの必然的な均衡を生じさせる、という説ほどばかげたものはありえない。
・その意味するところが、現実に行なわれた売りの数が現実に行なわれた買いの数に等しい、というのであれば、それはつまらない同義反復である。
・しかし、それは、売り手は自分自身の買い手を市場につれてくるのだということを証明しようとするのである。
・売りと買いとは、二人の対極的に対立する人物、商品所持者と貨幣所持者との相互関係としては、一つの同じ行為である。
・それらは、同じ人の行動としては二つの対極的に対立した行為をなしている。
・それゆえ、売りと買いとの同一性は、商品が流通という錬金術の坩堝に投げ込まれたのに貨幣として出てこなければ、すなわち商品所持者によって売られず、したがって貨幣所持者によって買われないならば、その商品はむだになる、ということを含んでいる。・さらに、この同一性は、もしこの過程が成功すれば、それは一つの休止点を、長いことも短いこともある商品の生涯の一時期をなすということを含んでいる。
・商品の第一の変態は同時に売りでも買いでもあるのだから、この部分過程は同時に独立な過程である。
・買い手は商品をもっており、売り手は貨幣を、すなわち、再び市場に現われるのが早かろうとおそかろうと流通可能な形態を保持している一商品を、もっている。
・別のだれかが買わなければ、だれも売ることはできない。
・しかし、自分が売ったからといって、すぐに買わなければならないということはない。・流通は生産物交換の時間的、場所的、個人的制限を破るのであるが、それは、まさに、生産物交換のうちに存する、自分の労働生産物を交換のために引き渡すことと、それと引き換えに他人の労働生産物を受け取ることとの直接的同一性を、流通が売りと買いとの対立に分裂させるということによってである。
・独立して相対する諸過程が一つの内的統一をなしていることは、同時にまた、これらの過程の内的対立が外的な対立において運動するということを意味している。
・互いに補いあっているために内的には独立していないものの外的な独立化がある点まで進めば、統一は暴力的に貫かれる――恐慌というものによって。
・商品に内在する使用価値と価値との対立、私的労働が直接的に社会的な労働として現われなければならないという対立、特殊な具体的労働が同時にただ抽象的一般的労働としてのみ認められるという対立、物の人化と人の物化という対立――この内在的な矛盾は、商品変態の諸対立においてその発展した運動形態を受け取るのである。
・それゆえ、これらの形態は、恐慌の可能性を、しかしただ可能性だけを、含んでいるのである。
・この可能性の現実性への発展は、単純な商品交換の立場からはまだまったく存在しない諸関係の一大範囲を必要とするのである。

■ セーの法則
生産物の買手は自分の生産物をまず売って貨幣に換えて買うのだから,貨幣は結局生産物で,売手(供給者)の生産物の相手は買手(需要者)の生産物であり,売りと買い,供給と需要は一致するとするセーの主張。したがって恐慌は生産物の部分的不足からのみ生じ,一般的過剰生産恐慌は起こらぬとする。マルクスは売りと買いが時間的・場所的に分離することを指摘,ケインズは貯蓄がすぐ投資されるとするのは誤りだと批判。(マイペディア)

〈供給はそれみずからの需要をつくりだす〉あるいは〈生産物に対して販路を開くのは生産である〉というように要約される命題。提唱者であるフランスの経済学者J.B.セーの名にちなんで呼ばれるが, 販路説ともいう。セーみずからは販路の法則と呼んでいる (《政治経済学概論》1803)。この命題は,生産物が結局は生産物によって購買されることを意味し,貨幣を交換の単なる媒介手段つまり流通手段とみなすことによって初めて成立する。つまり,販売が反面において同時に購買であるような物々交換の場合にのみ成立する。セーは,この販路説にもとづいて全般的過剰生産は起こりえないと主張し,ただ企業家の誤算や国家の干渉のような偶然的・政治的原因によって部分的に過剰生産が起こりうることだけを認めた。実際,ナポレオン戦争後の恐慌 (1817‐19) の際, J.C.シスモンディやT.R.マルサスが全般的過剰生産が起こりうることを認め,いわゆる過少消費説 (〈恐慌〉の項参照) を主張したのに対し,セーは上述の理解から,ただ生産部門間の不均衡による部分的過剰生産を認めただけで全般的過剰生産を否定し,前 2 者とのあいだに〈市場論争〉と呼ばれる論争を展開した。この論争にはD.リカードやJ.ミルも参加し,全般的過剰生産を否定するセーの見解に賛意を表した。

 この論争自体は,恐慌を資本主義的生産様式の矛盾の現れとして最初に問題にしたものとして注目されるが,しかしセーの販路説は,もともと主観的な効用価値説を基礎としており, A.スミスやリカードの労働価値説を継承してその上に展開されたものではなかった。むしろそれは,商品価値を需要者と供給者とのそれぞれの評価の結果としてのみとらえる需要供給説に依拠して,資本主義的商品経済それ自体の調和的発展の可能性を示すための理論的武器とされたのであり,その意味では,近代的均衡理論 (市場均衡) への旋回を示す理論でもあった。セーの法則はのちに K.マルクスによって,資本主義的商品経済を物々交換と同一視し,商品の販売と購買との時間的・場所的分離の可能性を無視した見解と批判された。さらに 20 世紀になってからは J.M.ケインズによって,それは結局,貯蓄がつねに同額の投資を生みだして完全雇用を実現すると考えていて,不完全雇用の可能性を認めないことになる見解である,と批判された。 ⇒有効需要の原理

                            時永 淑(世界大百科事典)


★貨幣について「流通可能な形態を保持している一商品」と呼んでいることに注意しておこう。

★商品が売れた場合には、売りと買いとの同一性について語ることができるが、商品が売れない場合には、売りと買いの同一性など問題にならない。売れなかった商品はむだになったのである。

★「買い手は商品をもっており、売り手は貨幣を…」は、商品の第一変態が行なわれた後のことを言っている。買い手は貨幣をもって市場に現われ、買うことによって商品を手にする。

●「互いに補いあっているために内的には独立していないものの外的な独立化がある点まで進めば、統一は暴力的に貫かれる――恐慌というものによって。」という一文は、恐慌について語られる際には必ずといっていいほど引用されるが、内容を理解するのはなかなか難しい。

■ 恐慌 きょうこう
クライシスcrisisまたはパニックpanicの訳語。資本主義経済では利潤を目的としてますます大量の商品が生産されるが,その経費にあたる賃金はできるだけ低くおさえられるため,生産の増大に対して消費が伴わず,商品の過剰生産が起こり,価格暴落,破産,失業などの景気循環の最悪の危機的局面が生ずる。それが恐慌で,8~12年の周期をもつ。恐慌を切り抜けるため機械設備などの更新が広く行われるが,これら設備の耐久期間が恐慌の周期の基礎をなす。本格的恐慌は1825年英国に始まったが,1929年米国に始まった大恐慌が有名。日本では1890年の最初の恐慌以後,1897年,1900年,1907年,1920年,1927年,1929年に発生。(マイペディア)

★以上の説明には、過少消費説的な傾向がうかがえるようにおもえる。

■恐慌
資本主義的商品経済にしばしばくり返されてきた経済的な攪乱 (かくらん),麻痺 (まひ),破綻 (はたん) 状態を指す。原語に 2 系統あり,そのうち,クライシスはもともとは病気の危機的峠を意味し, パニックはギリシア神話の牧神パンの気まぐれのひきおこす狼狽 (ろうばい) を意味していた。それゆえ,パニックは資本主義経済の市場機構に生ずる急性的崩壊現象にあてはまり,クライシスはそれをも含めより構造的な経済危機に妥当する用語であって,恐慌という訳語は,文脈によってその両方の事象を含みうる。典型的な姿においては,恐慌は好況から不況への転換を媒介する景気循環の一局面をなしていた。第 2 次大戦後 1960 年代にかけての持続的な経済成長のなかで,経済恐慌はすでに歴史的に過去の事象となったとひろく信じられていたのであるが, 73 年末以降の長期世界不況の進展に伴い,ふたたび恐慌の歴史と理論に大きな関心がよせられつつある。
                             伊藤誠(世界大百科事典)

■ シスモンディ 1773-1842スイスの経済学者,歴史家。初めA.スミスの自由主義学説の支持者であったが,のちに資本主義の矛盾を知り恐慌理論を展開した。資本主義は生産の無制限な発展と同時に小生産者と労働者の破滅と窮乏を招き,消費が生産に対し過少になるという過少消費説を唱え,政府が自由競争を制限し小生産に復帰させよと主張した。主著《経済学新原理》(1819年)。イタリア,フランスの歴史の大著や《南欧文学史》もある。(マイペディア)

■ロートベルトゥス 1805-1875
ドイツの経済学者,政治家。1848年の三月革命時に文部大臣,1849年以後農場主として著述に専念。労働価値説の先駆者で,地代,利潤を不払労働とみ,恐慌は労働者の分け前の低下に基因するとして過少消費説を展開し,国家的方策による労働者救済策を唱えた。主著《国家経済の現状認識のために》(1842年)。 (マイペディア)

●「この内在的な矛盾は、商品の諸対立においてその発展した運動形態を受け取る」と述べられているが「商品の諸対立」とは、商品と貨幣との対立のことであり、「この発展した運動形態」とは商品の総変態(W―G―W、販売と購買)と理解していいのだろうかとの疑問が出されました。

●「単純な商品交換の立場からはまだまったく存在しない諸関係の一大範囲」とは何かという疑問が出されました。

第23段落
・商品流通の媒介者として、貨幣は流通手段という機能を持つことになる。

■《商品流通の媒介者として、貨幣は流通手段という機能をもつことになる。貨幣は商品変態の絡み合いのなかで、社会的物質代謝を媒介する交換手段として現われるのであるが、しかしこの媒介は、商品流通のなかでたえず、流通から脱落する商品のあとを埋めながら、商品所持者のあいだを転々と渡っていくという仕方で行なわれるのであって、流通手段は、このような流通過程によって特徴づけられた交換手段なのである。》(大谷禎之介「貨幣の機能」268頁 「経済志林」第61巻第4号1994)

第3章 貨幣または商品流通 第2節 流通手段 b 貨幣の流通

第1段落
・労働生産物の物質代謝がそれによって行なわれる形態変換、W―G―Wは、同じ価値が商品として過程の出発点をなし、商品として同じ点に帰ってくることを、条件とする。
・それゆえ、このような商品の運動は循環である。
・他方では、この同じ形態は貨幣の循環を排除する。
・その結果は、貨幣がその出発点から絶えず遠ざかることであって、そこに帰ってくることではない。
・売り手が自分の商品の転化した姿、貨幣を握りしめているあいだは、商品は第一の変態の段階にあるのであり、言いかえれば、ただその流通の前半を経過しただけである。
・この過程、買うために売る、が完了すれば、貨幣はさらにその最初の所持者から遠ざかっている。
・もちろん、リンネル織職が聖書を買ってからまたあらためてリンネルを売れば、貨幣はまた彼の手に帰ってくる。
・しかし、その貨幣ははじめの20エレのリンネルの流通によって帰ってくるのではなく、この流通によっては、貨幣はむしろリンネル織職の手から聖書の売り手へと遠ざかっている。
・貨幣は、ただ、新たな商品のための同じ流通過程の更新または反復によってのみ帰ってくるのであり、この場合も前の場合と同じ結果で終わるのである。
・それゆえ、商品流通によって貨幣に直接に与えられる運動形態は、貨幣が絶えず出発点から遠ざかること、貨幣が或る商品所持者の手から別の商品所持者の手に進んでいくこと、また貨幣の流通(currency, cours de la monnaie)である。

■〔* 英語版編集者の注・・この言葉〔currency ドイツ語原文では Umlauf〕は、ここでは、そのもとの意味、すなわち貨幣が手から手に渡る時に貨幣がたどる過程または経路という意味で使われており、流通〔circulation〕とは本質的にちがう過程である〕
〔なお、第3章「貨幣または商品流通」や同章第2節「流通手段」の表題などにあるのは『流通』(Zirkulation)である。〕(テキスト版編集視野による注記)
■cur・ren・cy 
  ━━ n. 流通, 通用, 流布(るふ); 通貨, 紙幣; 声価. (エクシード英和辞典)
■ cìr・cu・lá・tion
  ━━ n. 循環; 流通; 配布; 発行部数; 売れ行き; 通貨; (うわさなどの)流布, 伝播(でんぱ)
■ 【流通】(名)スル
   (1)滞ることなく、流れ通じること。「空気の―をよくする」
   (2)広く世間に通用すること。「その言葉はまだ世間に―していない」
   (3)貨幣・商品などが市場で移動すること。特に、商品が生産者から消費者まで移動すること。    「現在―している貨幣」「―機構」               (大辞林 第二版)

■区別を表現することを意図したのか、新日本出版社版では「貨幣の通流」と訳されている。

第2段落 
・貨幣の流通は、同じ過程の普段の繰り返しを示している。
・商品はいつでも売り手の側にたち、貨幣はいつでも購買手段として買い手の側にたっている。
・貨幣は商品の価格を実現することによって、購買手段として機能する。
・貨幣は、商品の価格を実現しながら、商品を売り手から買い手に移し、同時に自分は買い手から売り手へと遠ざかっていく、また別の商品と同じ過程を繰り返す。
・このような貨幣運動の一面的な形態が商品の二面的な形態運動から生ずるということは、おおい隠されている。
・商品流通そのものの性質が反対の外観を生みだすのである。
・商品の第一の変態は、ただ貨幣の運動としてだけでなく、商品自身の運動としても目に見えるが、その第二の変態はただ貨幣の運動としてしか見えないのである。
・商品はその流通の前半で貨幣と場所を取り替える。
・それと同時に、商品の使用姿態は流通から脱落して消費にはいる。
・その場所を商品の価値姿態または貨幣仮面が占める。
・流通の後半を、商品はもはやそれ自身の自然の皮をつけてではなく金の皮をつけて通り抜ける。
・それとともに、運動の連続性はまったく貨幣の側にかかってくる。
・そして、商品にとっては二つの反対の過程を含む同じ運動が、貨幣の固有の運動としては、つねに同じ過程を、貨幣とそのつど別な商品との場所変換を含んでいるのである。
・それゆえ、商品流通の結果、すなわち別の商品による商品の取り替えは、商品自身の形態変換によってではなく、流通手段としての貨幣の機能によって媒介されるように見え、この貨幣が、それ自体としては運動しない商品を流通させ、商品を、それが非使用価値であるところの手から、それが使用価値であるところの手へと、つねに貨幣自身の進行とは反対の方向に移して行くというように見えるのである。
・貨幣は、絶えず商品に代わって流通場所を占め、それにつれて自分自身の出発点から遠ざかって行きながら、商品を絶えず流通部面から遠ざけていく。
・それゆえ貨幣運動はただ商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ表れるのである。

★「貨幣運動の一面的な形態」とは G―W のことであり、「商品の二面的な形態運動」とは W―G―W のことである。

★「商品流通そのものの性質」とはどういうことか?

★W―G―W のGについて「商品の価値姿態または貨幣仮面」と述べている。

■《貨幣の流通は、同じ過程の不断の繰り返しとして現われる。すなわち、買い手の手の中にある貨幣が、いつでも、売り手の手にある商品にたいして、この商品を購買する手段として登場し、商品の価格を実現するのである。ここでは貨幣は、商品の価格を実現することによって商品を購買する手段、つまり購買手段として機能するのである。貨幣は購買手段としての機能を果たしながら、商品所持者の手を次々に移っていくことを不断に繰り返している。(前出第11図)
 すでに見たように、このような貨幣の運動は、商品の二面的な運動、すなわちW―GおよびG―Wという形態運動から生じるものであった。貨幣が流通手段の機能をもつのは、貨幣が諸商品の価値の自立化したものであり、諸商品の価値姿態だからであった。だから、流通手段としての運動は、実際には、商品自身の形態運動でしかない。前出の第13図における貨幣の運動を見れば明らかなように、同じ貨幣片が場所を変える運動のひんぱんな繰り返しに反映しているのは、商品世界における無数の商品の絡み合いなのである。
 ところが、商品流通そのものの本性がこれと反対の外観を生みだし、このことを覆い隠してしまうのである。商品の第2の変態は、商品がすでに商品形態を脱ぎ捨てて貨幣という価値姿態をとって行なわれる。しかも、商品はそれにたいする欲求をもつ貨幣所持者を見いだすことができてはじめて貨幣に転化できるのであるが、貨幣という価値姿態にある商品は、どの商品にもただちに転化することができる。そこで、運動の連続性はまったく貨幣の側にかかってくる。その結果、一方での販売と他方での購買とからなる商品所持者間の取引は、貨幣の側からの、貨幣所持者の側からのイニシアチヴだけによって生じるものであるかのように見えることになる。あるWが他のWと入れ替わる物質代謝は、商品自身の形態変換によって行なわれるのに、あたかも購買手段としての貨幣の機能によって媒介されるように見える。購買手段としての貨幣が、自分では運動できない商品を流通させるように見えるのである。こうして貨幣運動は、ただ商品流通の表現でしかないのに、逆に、商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ表れるのである。》(大谷禎之介「貨幣の機能」269-270頁 同前)

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by shihonron | 2007-01-28 10:24 | 学習会の報告


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