『資本論』を読む会の報告

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2007年 03月 31日

第52回  3月27日 その1  第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣 b 支払手段

3月27日(火)に第52回の学習会を行いました。「読む会通信」№241を使って前回の復習をした後、「第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣 b 支払手段」の第1段落から第3段落までを輪読、検討しました。
 
●は当日の議論の報告、■は資料的なもの、★は報告作成者の個人的意見です。

■テキストの内容と議論    
第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣 b 支払手段


第1段落
・これまで考察した商品流通の直接的形態では、同じ大きさの価値量がいつでも二重に存在していた。
・すなわち一方の極に商品があり、反対の極に貨幣があった。
・したがって、商品所持者たちは、ただ、現に双方の側にある等価物の代表者として接触しただけだった。
・ところが、商品流通の発展につれて、商品の譲渡を商品価格の実現から時間的に分離するような事情が発展する。
・一方の商品種類はその生産により長い時間を、他方の商品種類はより短い時間を必要とする。
・商品が違えば、それらの生産は違った季節に結びつけられている。
・一方の商品は、それの市場がある場所で生まれ、他方の商品は遠隔の市場に旅しなければならない。
・したがって、一方の商品所持者は、他方が買い手として現われる前に、売り手として現われることができる。
・同じ取引が同じ人々の間で絶えず繰り返される場合には、商品の販売条件は商品の生産条件によって調整される。
・他方では、ある種の商品の利用、たとえば家屋の利用は、一定の期間を定めて売られる。
・その期間が過ぎてからはじめて買い手はその商品の使用価値を受け取ったことになる。
・それゆえ、買い手は、その代価を支払う前に、それを買うわけである。
・一方の商品所持者は、現にある商品を売り、他方は、貨幣の単なる代表者として、または将来の貨幣の代表者として買うわけである。
・売り手は債権者となり、買い手は債務者となる。
・ここでは、商品の変態または商品の価値形態の展開が変わるのだから、貨幣もまた別の一機能を受け取るのである。
・貨幣は支払手段になる。

●「商品流通の直接的形態」とは現金売買のこと。

●「商品の譲渡を商品価格の実現から時間的に分離するような事情」として、すぐ後ろのところで3つのこと(生産に必要な時間、生産の季節性、生産地と市場との距離の相違)を指摘し、さらに家屋の利用のように一定の期間を定めて売られる場合をあげている。この家屋の利用(家賃や宿泊料)はここでは後払いとされている。

●掛売買の例として、収穫までに時間のかかる農作物の生産者が、肥料などを掛買いすめことがあげられました。

★「貨幣の単なる代表者」というのは、現にある貨幣の代表者ではないということを意味しているように思われる。

■フランス語版では「交換者の一方は現存する商品を売り、他方は将来の貨幣の代表者として買う。」となっている。(『フランス語版資本論 上巻』江夏美千穂・上杉聰彦訳 法政大学出版会116頁)

第2段落
・債権者または債務者という役割は、ここでは単純な商品流通から生ずる。
・この商品流通の形態の変化が売り手と買い手にこの新しい極印を押すのである。
・だから、さしあたりは、それは、売り手と書いてという役割と同じように、一時的な、そして同じ流通当事者たちによってかわるがわる演ぜられる役割である。
・とはいえ、対立は、いまではその性質上あまり気持ちのよくないものに見え、また、いっそう結晶しやすいものである。
・しかしまた、同じこれらの役割は商品流通にかかわりなく現われることもありうる。
・たとえば、古代世界の階級闘争は、主として債権者と債務者との闘争という形で行なわれ、そしてローマでは平民債務者の没落で終わり、この債務者は奴隷によって代わられるのである。
・中世には闘争は封建的債務者の没落で終わり、この債務者はかれの政治権力をその経済的基盤とともに失うのである。
・ともあれ、貨幣形態――債権者と債務者との関係は一つの貨幣関係の形態をもっている――は、ここでは、ただ、もっと深く根ざしている経済的諸条件の敵対的関係を反映しているだけである。

★商工ローンやサラ金の取り立ての実情を見れば、債権者が債務者に対してどのように振る舞うかの一端をうかがい知ることができる。「対立は、いまではその性質上あまり気持ちのよくないもの」に見えるのである。そして、債務者は常に債務者であり続けることをさして「結晶しやすい」と述べているように思える。

●ローマの例では、生産の担い手が平民(独立自営の農民)から奴隷に代わったことを述べているのではないかとの意見が出されました。

●封建的債務者がどんな人々をさしているのかが問題となり、領主・貴族のことだろうということになりました。

■フランス語版では「債務者にたいする債権者のこの貨幣関係は、この両時代では、もっと深い敵対関係を表面上反映しているにすぎない。」となっている。(同前117頁)

■【マルクスは『資本論』第3巻第5篇第36章「先資本制的なるもの」で「高利資本」について述べています。まず「古代ローマで、製造業がまだ古代的な平均的発展よりもはるかに低い状態にあった共和制後期いらい、商人資本、貨幣取扱資本、および高利資本が--古代形態の内部では--その最高点まで発展していた」と指摘しています。そして資本主義以前の高利資本は「第一には、浪費的豪族・本質的に土地所有者・への貨幣貸付による高利であり、第二には、自分自身の労働諸条件を所有している小生産者への貨幣貸付による高利である」と述べています。そして「ローマ貴族の高利がローマ平民--小農--をすっかり破滅させた時、この搾取形態は終わりをつげたのであって、純粋な奴隷経済が小農経済の代わりに現れた」と述べています。また別のところでは「ローマの貴族が平民を破滅させ、平民を軍務--平民が労働諸条件を再生産することを妨げた軍務--に駆り立て、かくして平民を窮乏化させた(そして再生産諸条件の窮乏化、萎縮または喪失はこの場合の支配形態である)ところの戦争、--この同じ戦争は、当時の貨幣たる分捕り品の銅をもって貴族の倉庫や地下室をいっぱいにした。貴族は平民にたいし、必要品たる穀物や馬や有角家畜を直接与える代わりに、自分自身にとっては無用なこの銅を貸付け、この状態を利用して法外な高利を搾り取り、かようにして平民を自分の債務奴隷たらしめた。カール大帝治下では、フランクの農民がやはり戦争によって破滅させられたのであって、彼らは債務者から農奴となるほかはなかった。ローマ帝国では周知のように、しばしば飢饉のために自由民が子供や自分自身を奴隷として富者に売るにいたる、ということが生じた」とあります。これで古代ローマについてはだいたい分かったのはないでしょうか?
 では中世についてはどうでしょうか? 『経済学批判1861-63年草稿』を見ると1527-8頁で、「近代社会の諸要素への中世的ブルジョア的社会の分解--世界貿易や金鉱発見によって促進された過程--の時代に生きていた」ルターの著書『富者と貧者ラザロについての福音書にたいする説教』から引用して、次のように解説しています。
《ルターがここでわれわれに言っているのは、何にによって高利貸資本が成立するか、ということである。すなわち、市民(小市民および農民)、騎士、貴族、君主の破滅によって成立するということである。一方では、城外市民や農民や同職組合の剰余労働とさらに労働条件とが高利資本の手に流れてくる。……他方では、高利資本が取り上げる地代の所有者からである。つまり、浪費的で享楽的な富者から、である。高利が二つのことを引き起こすかぎりでは、すなわち、第一には一般に独立な貨幣財産を形成するということを、第二には労働条件をわがものにする、すなわち古い労働条件の所有者たちを破滅させるということを、引き起こすかぎりでは、高利は、産業資本のための諸前提の形成における強力な一手段--生産者からの生産手段の分離における強力な一能因--である。……一方では封建的な富と所有との破壊者としての高利。他方では小市民的、小農民的生産の、要するに生産者がなお彼の生産手段の所有者として現れているようなあらゆる形態の、破壊者としての高利。》】(『資本論』学ぶ会ニュース NO.44 2000年8月15日)

第3段落・商品流通の部面に帰ろう。
・商品と貨幣という二つの等価物が売りの過程の両極に同時に現われることはなくなった。
・いまや貨幣は、第一に、売られる商品の価格決定において価値尺度として機能する。
・契約によって確定されたその商品の価格は、買い手の債務、すなわち定められた波源に彼が支払わなければならない貨幣額の大きさを示す。
・貨幣は、第二には、観念的な購買手段として機能する。
・それはただ買い手の貨幣約束のうちに存在するだけだとはいえ、商品の持ち手変換をひき起こす。
・支払期限がきたときはじめて支払手段が現実に流通にはいってくる。
・すなわち買い手から売り手にうつる。
・流通手段は蓄蔵貨幣に転化した。
・というのは、流通過程が第一段階で中断したからであり、言いかえれば、商品の転化した姿が流通から引きあげられたからである。
・支払手段は流通にはいってくるが、しかし、それは商品がすでに流通から出て行ってからのことである。
・貨幣はもはや過程を媒介しない。
・貨幣は、交換価値の絶対的定在または一般的商品として、過程を独立に閉じる。
・売り手が商品を貨幣に転化させたのは、貨幣によってある欲望を満足させるためであり、貨幣蓄蔵者がそうしたのは、商品を貨幣形態で保存するためであり、債務を負った買い手がそうしたのは、支払ができるようになるためだった。
・もし彼が支払わなければ、彼の持ち物の強制売却が行なわれる。
・つまり、商品の価値姿態、貨幣は、いまでは、流通過程そのものの諸関係から生ずる社会的必然によって、売りの自己目的になるのである。

●「流通手段は蓄蔵貨幣に転化した」とあるが、どういうことをさしているのかが問題になりました。債務者は、自分の商品を売って手にした貨幣で商品を買う(買うための売り W―G―W)のではなく、支払のために売る(W―G)ことではないかという結論になりました。はたしてこうした理解でよいのかについては、以下の資料を参照してください。

■ 英語版では《 The circulating medium was transformed into a hoard, because the process stopped short after the first phase, because the converted shape of the commodity, viz., the money, was withdrawn from circulation. The means of payment enters the circulation, but only after the commodity has left it.》となっている。

■フランス語版では「流通運動がその前半で止められたために、流通手段が蓄蔵貨幣に転化した。支払手段は流通に入るが、それは商品が流通から脱出した後のことであるに過ぎない。」

■同じ「本来の貨幣」である蓄蔵貨幣と支払手段との相違

【さて議論はまず第3パラグラフ全体にわたって行われましたが、今、それを便宜的に二つにわけることにしましよう。まず第3パラグラフの前半部分を紹介します。

 《さて、商品流通の部面に戻ろう。商品と貨幣という二つの等価物が販売過程の両極に同時に現れることは、すでになくなった。今や、貨幣は、第一に、売られる商品の価格規定における価値尺度として機能する。契約によって確定されたその商品の価格は、買い手の債務、すなわち彼が一定の期限に支払う責任のある貨幣額を示す。貨幣は、第二に、観念的購買手段として機能する。それは、ただ買い手の支払い約束のうちにしか存在しないけれども、商品の持ち手変換をひき起こす。支払い期限に達してはじめて支払手段は現実に流通に入る。すなわち、買い手から売り手に移る。流通過程が第一の局面で中断したので、すなわち、商品の転化された姿態が流通から引きあげられたので、流通手段は蓄蔵貨幣に転化した。支払手段が流通に入って来るのは、商品がすでに流通から出ていった後のことである。貨幣は、もはや、この過程を媒介するのではない。貨幣は、この過程を、交換価値の絶対的定在または一般的商品として、自立的に閉じる。》
 ここでまず最初に問題になったのは、1)「流通過程が第一の局面で中断したので、すなわち、商品の転化された姿態が流通から引き上げられたので、流通手段は蓄蔵貨幣に転化した」とあるが、この場合の蓄蔵貨幣に転化したとされる流通手段とは一体どういう貨幣なのか、ということです。なぜなら一般に蓄蔵貨幣に転化するのはW-G-Wの過程が、前半のW-Gで中断され、Gが流通から引き上げられた場合ですが、しかし今問題になっているのはW-Gの過程そのものが中断しており、WはGに転化していないのだから、蓄蔵貨幣になるというGは一体どこにあるのか、という問題です。2)第二に、報告者のレジュメでは「支払手段としての貨幣は、商品が流通から出て行った後(時間的に遅れて)流通に入ってくる。それゆえ……貨幣を支払うことによって商品流通は閉じてしまう」とあったのですが、マルクスが「貨幣は、この過程を、……自立的に閉じる」と述べているのは、果たして商品流通を閉じるといった意味なのかどうか、という問題についてでした。

 1)の問題はどう理解したらよいのでしょうか? これについては様々な意見が出ましたが、最終的には、結局、商品の購買者(債務者)は、支払期限に支払うためには貨幣を蓄蔵しなければならないのだから、そのことを言っているのではないか、といった理解に落ち着いたように思います。しかし果たしてそれでよいのでしょうか? そもそも商品が支払約束と引き換えに譲渡された場合には、どこにも貨幣はないのですから、それを蓄蔵することは出来ないからです。流通過程はWの一方的譲渡だけで中断しており、蓄蔵すべき流通手段なるものはどこにもありません。それは「観念的購買手段」としてあるだけです。つまりその存在は観念的であって、観念的なものを蓄蔵するわけには行きません。これは一体どう理解したらよいのでしょうか?


 こうした疑問が氷解したのは河上肇の『資本論入門』を読んだ時でした。とっいっても河上肇がそれについて言及しているわけではありません。河上肇が引用している「カウツキー版」の『資本論』の同じ箇所は次のようになっています。

 《流通手段が蓄蔵貨幣に転形したのは、流通過程が第一段階で中絶されたため、すなわ商品の転形する姿(金)が流通の外に取り出されたためであった。ところが支払手段は流通のうちにはいってゆく、しかしそれは商品がすでにそこから歩み出た後のことである。貨幣はもはや過程を媒介するのではない。それは交換価値の絶対的定在として、普遍的な商品として、独立的に過程の結末をつけるのである。》
 現行版には下線を引いた「ところが」といった助詞はありません。これは逆接の助詞ですが、前の文節と後の文節とは逆であることを示しています。つまり前の蓄蔵貨幣についての説明は、あとの文節をそれとは逆であると説明するためのものなのです。つまり私たちが理解困難に陥ったのは、明らかな読み誤りのためなのです(そしてそれは「ところが」という助詞をつけなかった翻訳者の訳文にも一因があるかもしれません)。

 掛け売買の場合、W-Gの過程が二つに分裂します。一つは販売者から購買者へのW(商品)の一方的譲渡です。二つには一定時間の経過後の購買者から販売者へのG(貨幣)の一方的譲渡です。河上肇は右図のように示しています。

 このように掛け売買の場合はW-Gの過程そのものが分裂するために、私たちは「流通過程が第一の局面で中断したので」というのをAがBに商品を譲渡してまだ貨幣の支払いを受けていない段階と考えたのでした。それを「第一の局面」と考えたのです。しかし河上肇の引用している『資本論』の当該箇所を見ると、必ずしもそう理解する必要がないこと、そればかりかそう理解するから混乱に陥ることが分かります。ここで「第一の局面」とはW-G-WのW-Gの局面のことです。商品流通の第一の変態が終わった局面のことなのです。つまりマルクスはここでは流通手段が蓄蔵貨幣に転形する場合を一般的に述べているに過ぎないのです。ではなぜここで蓄蔵貨幣について述べる必要があるのでしょうか?

 「本来の貨幣」あるいは「貨幣としての貨幣」である蓄蔵貨幣は流通手段が流通から引き上げられて初めてそうしたものに転形します(商品の一時的な価値の姿態である流通手段の場合は、貨幣はその代理物--例えば紙幣--に置き換えることは可能ですが、「本来の貨幣」である蓄蔵貨幣はそうはゆきません)。ところが同じ「本来の貨幣」である「支払手段」の場合は蓄蔵貨幣とは違って流通に入っていくのだ、とマルクスは述べているのです。つまり同じ「本来の貨幣」ではあるが、蓄蔵貨幣と支払手段とは一方は流通から引き上げられて、そうしたものになるが、他方は流通に入って行ってそうしたものとして機能するのだと言いたいのです。だから「ところが」という逆接の助詞がつけられているのです。つまりこうした両者の違いを対比して述べるために、流通手段が蓄蔵貨幣に転化する条件を一般的に述べているのだと思います。こうした対比は『経済学批判』の次の一文を読めば一層理解できます。

 《鋳貨準備金と蓄蔵貨幣とは、非流通手段としてのみ貨幣(この場合、この「貨幣」は定冠詞のないGeld、つまり「本来の貨幣」と理解すべきです--引用者)であったが、しかもそれらは、流通しなかったからこそ非流通手段であった。だが、いまわれわれが貨幣(先に同じ--引用者)を考察する場合にとる規定においては(つまり「支払手段」の規定においては--引用者)、貨幣は流通する。流通手段としては、貨幣はつねに購買手段であったが、いまやそれは、非購買手段として働くのである》(岩波文庫版180頁)
 このように同じ「貨幣としての貨幣」であっても蓄蔵貨幣と支払手段とは、一方は流通から引き上げられてそうなるが、他方は流通に入っていくのだというわけです。これがここでマルクスが言いたかったことなのです。分かってしまえば、どうということは無いのですが、ちょっとした翻訳の彩で意味がなかなか理解出来ないものの一例といえます。

 次に2)については報告者の勘違いだということで簡単にケリがつきました。つまりこの場合の「自立的に閉じる」「過程」とはW-Gの過程だということです。つまり商品流通(W-G-W)が完結するということではなく、その前半(第一段階)が終わるということが確認されました。

 ところでこれは学習会では問題として出されなかったのですが、ここで「自立的に閉じる」とありますが、「自立的に閉じる」とはそもそもどういうことなのでしょうか? なぜ「自立的」なのか、それが問題です。それはその先に述べている「貨幣は、もはや、この過程を媒介するのではない」ということと関連しているように思えます。ここでは明らかに債務者から債権者に貨幣が流通していくのですが、しかしそれはいうまでもなく流通手段、つまり鋳貨としてではありません。ここでの貨幣は、「交換価値の絶対的定在または一般的商品として」とあるように、債務者が債権者に価値そのものを引き渡すための形態ですから、もともとは、本来の貨幣のみが果たすことの出来る機能なのです(しかし本来の貨幣に代わりうる銀行券等々の貨幣形態が発展すると、そうした代理物も支払手段として流通することができるようになります)。しかもすでに商品は流通してしまっているのですから、貨幣はただ一方的に債務者から債権者に渡されるだけであって、それによっては何も媒介するわけではないのです。「自立的に」というのはそうした事態を述べているのではないかと思います。つまり何の媒介もなしにという意味で「自立的」だということです。そして債権・債務が最終的に決済されるという点でこの取引(=この過程)は「閉じている」わけです。

 後半部分についてもまずは本文を紹介しておきましょう。

 《売り手が商品を貨幣に転化したのは、貨幣によってある欲求を満たすためであり、貨幣蓄蔵者が商品を貨幣に転化したのは、商品を貨幣形態で保存するためであり、債務者である買い手が商品を貨幣に転化したのは、支払うことができるようになるためである。もしも彼が支払わなければ、彼の所有物の強制販売が行われる。こうして、商品の価値姿態である貨幣は、今や、流通過程そのものの諸関係から生じる社会的必然によって、販売の目的そのものになる。》
 ここで問題になったのは、最後の部分、「貨幣は、今や、……販売の目的そのものになる」とはどういうことか? という質問でした。これは議論のなかで解決したと思いますが、若干、補足しておきたいと思います。マルクスは『批判』で次のように述べています。

 《まえには(流通手段の考察では--引用者)価値標章が貨幣を象徴的に代理したのであるが、ここでは貨幣を象徴的に代理するものは買手自身である。しかも、前には価値標章の一般的象徴性が国家の保証と通用強制とを呼び起こしたように、ここでは買手の人格的象徴性が、商品所有者間の法律的強制力を持つ私的契約を呼び起こすのである。》
 つまりこうした法的強制力をもって債務者は支払いを強制される。もし支払えなければ破産を宣告されて、彼の所有物の強制販売が行われるのです。だから債務者は破産を免れるためには、とにかく商品を捨て値ででも投げ売って支払手段を手に入れなければなりません。つまり貨幣そのものが販売の目的になるのです。

 ところで『批判』でマルクスは「ここでは貨幣を象徴的に代理するものは買手自身である」と述べています。つまり債務者自身が貨幣を象徴的に代理しているというのです。これなどは「腎臓を売ってでも金をつくれ」などと脅して取り立てたどこかの悪徳金融業者を思い出させる指摘といえないでしょうか。あの金融業者は貨幣を象徴的に代理している債務者の身体そのものを現実の貨幣に変えようとしたと言うことができます。】(『資本論』学ぶ会ニュース NO.45 2000年8月30日)


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by shihonron | 2007-03-31 00:00 | 学習会の報告


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