『資本論』を読む会の報告

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2007年 07月 22日

第67回 7月18日 第4章 第2節 一般的定式の矛盾 第3節 労働力の売買

7月18日(水)に第67回の学習会を行いました。前回の復習をした後、「第2篇 貨幣の資本への転化 第4章 貨幣の資本への転化 第2節 一般的定式の矛盾」の第24段落から最後(第26段落)までと、「第3節 労働力の売買」の第1段落から第3段落までを輪読、検討しました。

■テキストの内容と議論
第4章 貨幣の資本への転化 第2節 一般的定式の矛盾 
   

第24段落
・つまり、資本は流通から発生することはできないし、また流通から発生しないわけにはゆかないのである。
・資本は、流通のなかで発生しなければならないと同時に流通のなかで発生してはならないのである。

●「いささかくどい言い回しだが、剰余価値は流通から発生しない、また自分の労働によって商品を生産する場合には流通の外でも剰余価値は発生しないというこれまでの叙述で確認してきたことをまとめている」との発言がありました。

第25段落
・こうして、二重の結果が生じた。

★「二重の結果」とは、貨幣の資本への転化は、流通部面で行なわれなければならないし、また流通部面で行なわれてはならないということ。

第26段落
・貨幣の資本への転化は、商品交換に内在する諸法則にもとづいて展開されるべきであり、したがって等価物どうしの交換が当然出発点とみなされる。
・いまのところまだ資本家の幼虫でしかないわれわれの貨幣所有者は、商品をその価値どうりに買い、価値どうりに売り、しかも過程の終わりには、自分が投げ入れたよりも多くの価値を引き出さなければならない。
・彼の蝶への成長は、流通部面で行なわれなければならないし、また流通部面で行なわれてはならない。
・これが問題の条件である。
・ここがロドスだ、さあ跳んでみろ![Hic Rhodus,hic salta!]

■第24段落から第26段落にあたる部分は、フランス語版では以下のようになっている。現行版での第24段落の文章は削除されている。
《こうして、われわれは二重の結果に到達した。
 貨幣の資本への転化は、商品流通の内在的法則を基礎として説明されるべきであるから、等価物同士の交換が出発点として役だつのである。まだ蛹の状態にしかない資本家であるわれわれの貨幣所有者は、まず商品をその正当な価格で買い、次いでその価値どおりに売らなければならないが、それでも最後には、彼が以前に前貸ししたよりも多くの価値を回収しなければならない。貨幣所有者の資本家への変態は、流通部面で起こらなければならず、同時にけっしてそこで起こってはならない。これが問題の条件である。ここがロドスだ、さあ跳べ!》

●岡崎訳の「幼虫」がフランス語版で「蛹」になっていることについて、「どちらであっても蝶として羽化すること――変態について述べている点では差異はない。」との発言がありました。

■【変態】(名)スル
(1)形や状態が変わること。また、その変わった形や状態。
「主権より民主政治に―するに於て/民約論(徳)」
(2)「変態性欲」の略。また、その傾向のある人。
(3)動物が成体とは形態・生理・生態の全く異なる幼生(幼虫)の時期を経る場合に、幼生から成体へ変わること。また、その過程。
(4)植物の根・茎・葉などの器官が本来のものと異なる形態に変わり、その状態で種として固定すること。捕虫葉・葉針・気根・巻きひげなど。
(5)〔物・化〕 同じ化学組成をもちながら、異なった物理的性質を示す状態または物質。特に、単体の場合は同素体、結晶の場合は多形ともいう。また、有機化合物が化学組成を変えずに原子・原子団の位置の変化で別の状態・物質に変わること。転位。(大辞林 第二版)

■ 【羽化】(名)スル
(1)昆虫が幼虫または蛹(さなぎ)から変態して成虫になること。〔養蚕では化蛾(かが)という〕→孵化(ふか)→蛹化(ようか)
(2)人間に羽が生え、空中を飛べる仙人となること。うけ。
「―して登仙(とうせん)するの想あらん/真善美日本人(雪嶺)」 (大辞林 第二版)


第4章 貨幣の資本への転化 第3節 労働力の売買

第1段落
・資本に転化するべき貨幣の価値変化はこの貨幣そのものには起こりえない。
・なぜならば、購買手段としても支払手段としても、貨幣は、ただ、それが買うかまたは支払う商品の価格を実現するだけであり、また、それ自身の形態にとどまっていれば、価値量の変ることのない化石に固まってしまうからである。
・同時に、第二の流通行為、商品の再販売からも変化は生じえない。
・なぜならば、この行為は商品をただ現物形態から貨幣形態に再転化させるだけだからである。
・そこで、変化は第一の行為G―Wで買われる商品に起きるのでなければならないが、しかしその商品の価値に起きるのではない。
・というのは、等価物どうしが交換されるのであり、商品はの価値どおりに支払われるのだからである。
・だから、変化はその商品の使用価値そのものから、すなわちその商品の消費から生ずるほかはない。
・ある商品の消費から価値を引き出すためには、われわれの貨幣所持者は、価値の源泉であるという独特な性質をその使用価値そのものがもっているような一商品を、つまりその現実の消費そのものが労働の対象化であり、したがって価値創造であるような一商品を、運よく流通部面のなかで、市場で、見つけ出さなければならないであろう。
・そして、貨幣所持者は市場でこのような独自な商品に出会うのである――労働能力または、労働力に。

★資本としての貨幣の流通G―W―G’において、G―Wは等価交換であり、W―G’もまた等価交換である。したがって事態は G―W……W’―G’ということになる。

第2段落
・われわれが労働力または労働能力と言うのは、人間の肉体すなわち生きている人格のうちに存在していて、彼がなんらかの種類の使用価値を生産するときにそのつど運動させるところの、肉体的および精神的諸能力の総体のことである。

■労働力について述べられていたいくつかの部分からの引用

《そこで今度はこれらの労働生産物に残っているものを考察してみよう。それに残っているものは、同じまぼろしのような対象性のほかにはなにもなく、無差別な人間労働の、すなわちその支出の形態にかかわりのない人間労働力の支出の、ただの凝固物のほかにはなにもない。これらの物が表わしているのは、ただ、その生産に人間労働力が支出されており、人間労働が積み上げられているということだけである。このようなそれらに共通な社会的実体の結晶として、これらのものは価値――商品価値なのである。》(第1章第1節第12段落 国民文庫77頁・原頁52)

《生産活動の規定性、したがってまた労働の有用的性格を無視するとすれば、労働に残るものは、それが人間の労働力の支出であるということである。裁縫と織布とは、質的に違った生産活動であるとはいえ、両方とも人間の脳や筋肉や神経や手などの生産的支出であり、この意味で両方とも人間労働である。それらは、ただ、人間の労働力を支出するための二つの違った形態でしかない。たしかに、人間の労働力そのものは、あの形態やこの形態で支出されるためには、多少とも発達していなければならない。しかし、商品の価値は、ただの人間労働を、人間労働(力)一般の支出を、表わしている。》(第1章第2節第10段落 国民文庫87頁・原頁58-59)

《すべての労働は、一面では生理学的意味での人間の労働力の支出であって、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性においてされは商品価値を形成するのである。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での労働力の支出であって、この具体的有用労働という属性においてそれは使用価値を生産するのである。》(第1章第2節第16段落 国民文庫87頁・原頁58-59)

《流動状態にある人間の労働力、すなわち人間労働は、価値を形成するが、しかし価値ではない。それは凝固状態において、価値になるのである。》(第1章第3節A―1 第6段落 国民文庫99頁・原頁65)

第3段落
・しかし、貨幣所有者が市場で商品としての労働力に出会うためには、いろいろな条件がみたされていなければならない
・商品交換は、それ自体としては、それ自身の性質から生ずるもののほかにはどんな従属関係も含んではいない。
・この前提のもとで労働力が商品として市場に現われることができるのは、ただ、それ自身の所持者が、それを自分の労働力としてもっている人が、それを商品として売りに出すかまたは売るかぎりでのことであり、またそうするからである。
・労働力の所持者が労働力を商品として売るためには、彼は、労働力を自由に処分することができなければならず、したがって彼の労働能力、彼の一身の自由な所有者でなければならない。
・労働力の所持者と貨幣所持者とは、市場で出会って互いに対等な商品所持者として関係を結ぶのであり、彼らの違いは、ただ、一方は買い手で他方は売り手だということだけであって、両方とも法律上では平等な人である。
・この関係の持続は、労働力の所有者がつねに一定の時間を限ってのみ労働力を売るということを必要とする。
・なぜならば、もし彼がそれをひとまとめにして一度に売ってしまうならば、彼は自分自身を売ることになり、彼は自由人から奴隷に、商品所持者から商品になってしまうからである。
・彼が人として彼の労働力にたいしてねつ関係は、つねに彼の所有物にたいする、したがって彼自身の商品にたいする関係でなければならない。
・そして、そうでありうるのは、ただ、彼がいつでもただ一時的に、一定の期間を限って、彼の労働力を買い手に用立て、その消費にまかせるだけで、したがって、ただ、労働力を手放してもそれにたいする所有権は放棄しないというかぎりでのことである。

●「それ自体としては」というのはどんな意味なのかが問題になり、「即自的にも向自的にも」「絶対的」と同じ意味ではないかとの発言がありました。

■【即自】
〔(ドイツ) an sich〕〔哲〕 物の在り方が直接的で自足しており、無自覚で他者や否定の契機をもたないこと。へーゲル弁証法では、未だ対立の意識をもたない直接無媒介の状態とされ、この直接態が矛盾を生じ自と他の対立から反省を経て対自となり、さらに自他を止揚した即自かつ対自に至るとされる。これらは弁証法の正・反・合に対応している。アン-ジッヒ。(大辞林 第二版)

■【対自】
〔哲〕〔(ドイツ) für sich〕存在者が自己自身を対象化する自覚的在り方。ヘーゲル弁証法の一契機。向自。フュール-ジッヒ。

■【即自且つ対自】
〔(ドイツ) an und für sich〕ヘーゲル弁証法で、「即自(アン-ジッヒ)」と「対自(フュール-ジッヒ)」の統一。即自は自己発展により対自となり、さらにこの対立が否定されて即自かつ対自となる。アン-ウント-フュール-ジッヒ。(大辞林 第二版)

■「それ自体としては」という表現が用いられているいくつかの箇所からの引用

《より大きい量の使用価値は、それ自体として、より大きい素材的富をなしている。》(国民文庫90頁・原頁60)

《諸物はそれ自体としては人間にとって外的なものであり、したがって手放されうるものである。》(国民文庫160頁・原頁102)

《それ自体としては商品でないもの、たとえば良心や名誉などは、その所持者が貨幣とひきかえに売ることのできるものであり、こうしてその価格をつうじて商品形態を受け取ることができる》(国民文庫185頁・原頁117)

●「従属関係」は、他の訳本では「依存関係」と訳されており、「従属依存関係」という訳のほうが適切だろうとの結論になりました。商品交換は、自給自足ではなく、社会的分業が行なわれていることを前提している。個々の商品生産者は特定の使用価値の生産に従事し、自分では生産しない生活に必要な使用価値を他の商品生産者から買うことによって生きていく。ここでは、相互の依存関係がある。従属関係というと、奴隷主と奴隷、領主と農奴との関係のような支配・隷属関係をさすように思える。

■人格的な依存関係と物象的な依存関係

《人類が最初に経験した生産関係は、原始共同体とその解体過程に生じたさまざまな形態の共同体を基礎とする生産関係である。ここでは、労働する諸個人はなんらかの共同体に帰属し、共同体の成員として相互に人格的依存関係を取り結び、労働諸条件すなわち生産手段にたいして、共同体に属するものにたいする仕方でかかわる。社会的生産のなかでの彼らの関係の特徴は、それが相互間の人格的な依存関係であるか、さもなければ、労働しない諸個人が労働する諸個人を人格的に支配する支配・隷属関係であるところにある。》(大谷禎之介『図解社会経済学』30頁)

《自然発生的な共同体的生産関係をも人格的な支配・隷属関係をも根底からくつがえして、諸個人の物象的な――つまり物象を通じての――依存関係に置き換えたのは、資本主義的生産様式である。資本主義的生産関係のかなめは資本・賃労働関係という独自の生産手段依存関係であるが、この生産関係は、諸個人の物象的な依存関係である商品生産関係を基礎に成立し、商品生産関係によってすっかりおおわれている。
 商品生産関係では、労働する諸個人は生産手段にたいして、相互に自立した私的個人としてかかわる。ここでの労働は直接には私的労働である。しかし、こうした私的労働が社会の総労働を形成しているのであり、それらは社会的分業の自然発生的な諸分肢として相互に依存しあっている。直接には私的な労働が社会的な労働となるためには労働生産物の交換によらなければならない。だから、労働する諸個人の相互依存は商品および貨幣の交換関係という物象的形態をとり、労働における人間と人間との社会的関係は、物象と物象の社会的関係という装いをとらないではいない。そして、諸個人のこのような物象的依存性のうえに、諸個人の人格的独立性が築かれる。私的諸個人はたがいに、商品・貨幣という物象の人格的代表者としてかかわるのであり、それらの私的所有者として相互に承認しあわなければならない。こうして、ここでは労働における人びとの社会的関係が私的所有という法的関係を成立させるのである。》  (大谷禎之介『図解社会経済学』34頁)

■《だから、商品形態の秘密はただ単に次のことのうちにあるわけである。すなわち、商品形態は人間にたいして人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として反映させ、したがってまた、総労働にたいする生産者たちの社会的関係をも彼らの外に存在する社会的関係として反映させるということである。このような置き換えによって、労働生産物は商品になり、感覚的であると同時に超感覚的である物、または社会的な物になるのである。同様に、物が視神経に与える光の印象は、視神経そのものの主観的な刺激としてではなく、目の外にある物の対象的な形態として現われる。しかし、視覚の場合には、現実の光が一つの物から、すなわち外的な対象から、別の一つの物に、すなわち目に、投ぜられるのである。それは、物理的な物と物とのあいだの一つの物理的な関係である。これに反して、商品形態やこの形態が現われるところの諸労働生産物の価値関係は、労働生産物の物理的性質やそこから生ずる物的な関係とは絶対になんの関係もないのである。ここで人間にとって諸物の関係という幻影的な形態をとるものは、ただ人間自身の特定の社会的関係でしかないのである。それゆえ、その類例を見いだすためには、われわれは宗教的世界の夢幻境に逃げこまなければならない。ここでは、人間の頭の産物が、それ自身の生命を与えられてそれら自身のあいだでも人間とのあいだでも関係を結ぶ独立した姿に見える。同様に、商品世界では人間の手の生産物がそう見える。これを私は呪物崇拝と呼ぶのであるが、それは、労働生産物が商品として生産されるやいなやこれに付着するものであり、したがって商品生産と不可分な物である。》(第1章第4節 国民文庫135-136頁・原頁86-87)

《およそ使用対象が商品になるのは、それらが互いに独立に営まれる私的諸労働の生産物であるからにほかならない。これらの私的諸労働の複合体は社会的総労働をなしている。生産者たちは自分たちの労働生産物の交換をつうじてはじめて社会的に接触するようになるのだから、彼らの私的諸労働の独自な社会的性格もまたこの交換においてはじめて現われるのである。言いかえれば、私的諸労働は、交換によって労働生産物がおかれ労働生産物を介して生産者たちがおかれるところの諸関係によって、はじめて実際に社会的総労働の諸環として実証されるのである。それだから、生産者たちにとっては、彼らの私的諸労働の社会的関係は、そのあるがままのものとして現われるのである。すなわち、諸個人が自分たちの労働そのものにおいて結ぶ直接に社会的な諸関係としてではなく、むしろ諸個人の物的な諸関係および諸物の社会的関係として、現われるのである。》(第1章第4節 国民文庫136-137頁・原頁87)

《そこで今度はロビンソンの明るい島から暗いヨーロッパの中世に目を転じてみよう。あの独立した男に代わって、ここではだれもが従属しているのが見られる――農奴と領主、臣下と君主、俗人と聖職者。人的従属関係が、物質的生産の社会的諸関係を、その上に築かれている生活の諸部門をも特徴づけている。しかし、まさに人的従属関係が、与えられた社会的基礎をなしているからこそ、労働も生産物も、それらの現実性とは違った幻想的な姿をとる必要はないのである。労働や生産物は夫役や貢納として社会的機構のなかにはいって行く。労働の現物形態が、そして商品生産の基礎の上でのように労働の一般性がではなくその特殊性が、ここでは労働の直接に社会的な形態なのである。夫役は、商品を生産する労働と同じように、時間で計られるが、しかし、どの農奴も、自分が領主のために支出するものは自分自身の労働力の一定量だということを知っている。坊主に納めなければならない十分の一税は、坊主の祝福よりもはっきりしている。それゆえ、ここで相対する人々がつけている仮面がどのように評価されようとも、彼らの労働における人と人との社会的関係は、どんな場合にも彼ら自身の人的関係として現われるのであって、物と物との、労働生産物と労働生産物との、社会的関係に変装されてはいないのである。》(第1章第4節 国民文庫143-144頁・原頁91-92)

▼7月27日に誤字脱字および内容に関わるな訂正をしました。本文中で明示した以外の重要な訂正は以下の通りです。訂正箇所を下線で示しました。

●「それ自体としては」というのはどんな意味なのかが問題になり、「即自的にも向自的にも」「絶対的」と同じ意味ではないかとの発言がありました。


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by shihonron | 2007-07-22 00:00 | 学習会の報告


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