『資本論』を読む会の報告

shihonron.exblog.jp
ブログトップ
2007年 07月 31日

第69回 7月31日 第4章 貨幣の資本への転化 第3節 労働力の売買

7月31日(火)に第69回の学習会を行いました。「第2篇 貨幣の資本への転化 第4章 貨幣の資本への転化 第3節 労働力の売買」の第10段落から第18段落までを輪読、検討しました。

■テキストの内容と議論
第4章 貨幣の資本への転化 第3節 労働力の売買 
    

第10段落
・そこで、この独特な商品、労働力が、もっと詳しく考察されなければならない。
・他のすべての商品と同じに、この商品もある価値をもっている。
・この価値はどのように規定されるであろうか?

★「独特な商品」といわれているが、どんな点で独特なのだろうか? 労働力は労働生産物ではないということ、一定の時間を限ってのみ売られるということか。この後での叙述も踏まえて振り返ってみる必要があると思える。 

第11段落
・労働力の価値は、他のどの商品とも同じに、この独自な商品の生産に、したがってまた再生産に必要な労働時間によって規定されている。
・それが価値であるかぎりでは、労働力そのものは、ただそれに対象化されている一定量の社会的平均労働を表わしているだけである。
・労働力は、ただ生きている個人の素質としてのみ存在するだけである。
・したがって、労働力の生産はこの個人の存在を前提する。
・この個人の存在が与えられていれば、労働力の生産は彼の再生産または維持である。
・自分を維持するためには、この生きている個人はいくらかの量の生活手段を必要とする。
・だから、労働力の生産に必要な労働時間は、この生活手段の生産に必要な労働時間に帰着する。
・言い換えれば、労働力の価値は、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である。
・だが、労働力は、ただその発揮によってのみ実現され、ただ労働においてのみ実証される。
・しかし、その実証である労働によっては、人間の筋肉や神経や脳などの一定量が支出されるのであって、それは再び補充されなければならない。
・この支出の増加は収入の増加を条件とする。
・労働力の所有者は、今日の労働を終わったならば、明日も力や健康の同じ条件のもとで同じ過程を繰り返すことができなければならない。
・だから、生活手段の総額は、労働する個人をその正常な生活状態にある労働する個人として維持するのに足りるものでなければならない。
・食物や衣服や採暖や住居などのような自然的な欲望そのものは、一国の気象その他の自然的な特色によって違っている。
・他方、いわゆる必要欲望の範囲もその充足の仕方もそれ自身一つの歴史的な産物であり。したがって、だいたいにおいて一国の文化段階によって定まるものであり、ことにまた、主として、自由な労働者の階級がどのような条件のもとで、したがってどのような習慣や生活欲求をもって形成されたか、によって定まるものである。
・だから、労働力の価値規定は、他の諸商品の場合とは違って、ある歴史的な精神的な要素を含んでいる。
・とはいえ、一定の国については、また一定の時代には、必要生活手段の平均範囲は与えられているのである。

●「労働力の生産」と「労働力の再生産」に何か区別があるのだろうかとの疑問が出されました。

第12段落
・労働力の所有者は死を免れない。
・だから、貨幣の資本への連続的転化が前提するところとして、彼が市場に現われることが連続的であるためには、労働力の売り手は、「どの生きている個体も生殖によって永久化されるように」、やはり生殖によって永久化されなければならない。
・消耗と死とによって市場から引きあげられる労働力は、どんなに少なくとも同じ数の新たな労働力によって絶えず補充されなければならない。
・だから、労働力の生産に必要な生活手段の総額は、補充人員すなわち労働者の子どもの生活手段を含んでいるのであり、こうしてこの独特な商品所持者の種族が商品市場で永久化される。

●《労働者の子どもの生活手段を含んでいる》と述べられているが、子どもだけではなく、労働者の妻の生活手段も含まれているのではないかとの意見が出されました。

■注46のR・トレンズからの引用では「(労働の自然価格は)…労働者を維持するために、また市場で減少しない労働供給を保証するだけの家族を彼が養うことを可能にするために、一国の気候や習慣に応じて必要になる生活手段と享楽手段との量である」と述べられている。

第13段落
・一般的な人間の天性を変化させて、一定の労働部門で技能と熟練とを体得して発達した独自な労働力になるようにするためには、一定の養成または教育が必要であり、これにはまた大なり小なりの額の商品等価物が費やされる。
・労働力がどの程度に媒介された性質のものであるかによって、その養成費も違ってくる。
・だから、この修行費は、普通の労働者についてはほんのわずかだとはいえ、労働力の生産のために支出される価値のなかにはいるのである。

★商品等価物とは、ここでは貨幣のことだと思われる。養成や教育のためには教材費やテキスト代、授業料などが必要だということだろう。

■この箇所はフランス語版では次のようになっている。
《他方、特定の労働種類における能力、精密さ、敏捷さを獲得させるように人間の性質を変えるためには、すなわち、その性質を、特定の方向に発達した労働力にするためには、若干の教育が必要であって、この教育自体に、大なり小なりの額の商品等価物が費やされる。この額は、労働力の性格がより複雑か複雑でないかに応じて、変動する。この教育費は、単純な労働力にとってはきわめてわずかであるとはいえ、労働力の生産に必要な商品の総計のなかにはいるのである。》(160頁)

●現在ではOJT(オンザジョブトレーニング 仕事の現場で、業務に必要な知識や技術を習得させる研修。現任訓練)が多く採り入れられているが、それをどう考えればいいのだろうとの疑問が出されました。これに関連して、OJTによって獲得できるのは熟練であり、熟練労働と複雑労働は区別すべきではないかとの発言がありました。

■[複雑労働は単純労働に還元される]
 《具体的労働のなかには、普通の人間が特別の発達なしに自分の肉体のうちに持っている労働力つまり単純労働力が遂行できる具体的労働(単純労働)のほかに、特別の教育を受け、特別の修行を積んだ、したがって特別の修行費を必要とする労働力つまり複雑労働力のみが遂行できるもろもろの具体的労働(複雑労働)がある。
 労働の熟練度の相違は、具体的労働の作用度の相違であって、生産物の多寡によって一義的に評価されるのに対して、単純労働と複雑労働との区別は、それを遂行する労働力に特別な修行費が必要かどうかということであって、それが遂行する労働の作用度とは無関係である。しかも、複雑労働は一般に、単純労働をいくら積み重ねてもできないような具体的労働であり、したがってその生産物も単純労働の生産物とは種類が違うので生産物量で複雑さの程度を測ることはできない。
 このような区別は、商品生産の社会ではどのように考慮されるのか。
 商品生産の社会では、ある商品所持者が特別の修行費を必要とした労働力を持っている場合、その修行費は、彼が私的に支出したものである。しかも彼はこの修行費を、自分が提供する商品との交換によらないでは回収できない。だから、この社会で複雑労働が必要とされるかぎり、複雑労働力の所持者が彼の商品の交換をつうじて修行費も回収することができなければならないのである。
 そこで、複雑労働の1時間の生産物は、単純労働の1時間の生産物よりも多くの価値をもつものとして通用する。複雑労働の1時間は、単純労働に還元されれば、単純労働の何倍かの時間に相当することになる。つまり、複雑労働は、単純労働よりも高い力能をもつ労働として通用するのであり、したがって何倍かの単純労働に還元されることになるのである。
 こうして、複雑労働の力能の程度は、究極的には、それを行なうのに必要な複雑労働力の修行費の量によって規定されることになる。
 複雑労働の単純労働へのこのような換算が絶えず行なわれていることは、日常的な経験からもすぐにわかる。しかし、資本主義社会では、この換算は、たえまのない試行錯誤をともなう長期的な過程のなかで結果として実現されていくばかりでなく、のちに見る労働力の売買
つうじての複雑な過程を経て行なわれるものであり、したがって、それぞれの複雑労働が単純労働に還元される比率は、生産者たちにとっては、彼らの背後で確定されるもの、習慣によって与えられるもののようにしか見えない。》(大谷禎之介『図解社会経済学』61-62頁)

第14段落
・労働力の価値は、一定の総額の生活手段の価値に帰着する。
・したがってまた、労働力の価値は、この生活手段の価値、すなわちこの生活手段の生産に必要な労働時間の変動に応じて変動するのである。

第15段落
・生活手段の一部、たとえば食料や燃料などは、毎日新たに消費されて毎日新たに補充されなければならない。
・他の生活手段、たとえば衣服や家具などはもっと長い期間に消耗し、したがってもっと長い期間に補充されればよい。
・ある種の商品は毎日、他のものは毎週、毎四半期、等々に買われるか支払われるかしなければならない。
・しかし、これらの支出の総額がたとえば一年間にどのように配分されようとも、それは毎日、平均収入によって償われなければならない。
・かりに、労働力の生産に毎日必要な商品の量をAとし、毎週必要な商品の量をBとし、毎四半期に必要な商品の量をC、等々とすれば、これらの商品の一日の平均は、(365A+52B+4C+etc)÷365であろう。
・この一平均日に必要な商品に6時間の社会的労働が含まれているとすれば、毎日の労働力には半日の社会的平均労働が対象化されていることになる。
・すなわち、労働力の毎日の生産のためには半労働日が必要である。
・労働力の毎日の生産に必要なこの労働量は、労働力の日価値、すなわち毎日再生産される労働力の価値を形成する。
・また、半日の社会的平均労働が3シリングまたは1ターレルという金量で表わされるとすれば、1ターレルは労働力の日価値に相当する価格である。
・もし労働力の所持者がそれを毎日1ターレルで売りに出すとすれば、労働力の販売価格は労働力の価値に等しい。
・そして、我々の前提によれば、自分のターレルの資本への転化を熱望する貨幣所持者は、この価値を支払うのである。

★労働力は、一定の期間を限って売られるのだから、労働力の価値については、ある一定の期間の労働力の価値が問題になる。だから、ここでは1日の労働力の価値(労働力の日価値)について述べられている。

第16段落
・労働力の価値の最後の限界または最低限をなすものは、その毎日の供給なしには労働力の担い手である人間が自分の生活過程を更新することができないような商品量の価値、つまり、肉体的に欠くことのできない生活手段の価値である。
・もし労働力の価格がこの最低限まで下がれば、それは労働力の価値よりも低く下がることになる。
・なぜならば、それでは労働力は萎縮した形でしか維持されることも発揮されることもできないからである。
・しかし、どの商品の価値も、その商品を正常な品質で供給するために必要な労働時間によって規定されているのである。

●最初の「労働力の価値」は「労働力の価格」ではないのかとの疑問が出されました。フランス語版では《労働力の価格は、それが、生理的に不可欠な生活手段の価値に、すなわち、これ以下になれば労働者の生命を危険にさらさざるをえないような商品総量の価値に、切り下げられるとき、その最低限に達する》(161頁)となっており、内容としては「労働力の価格の最低限」について述べていると理解しようという結論になりました。

第17段落

・このような事柄の本質から出てくる労働力の価値規定を粗雑だとして、ロッシなどといっしょになって次のように嘆くことは、非常に安っぽい感傷である。
「生産過程にあるあいだは労働の生活手段を捨象しながら労働能力(puissance de travail)を把握することは、一つの妄想(etre de raison)」を把握することである。労働を語る人、労働能力を語る人は、同時に労働者と生活手段とを、労働者と労賃とを語るのである。」

●「ここで何が非常に安っぽい感傷なのか理解できない」との発言がありました。

■この箇所はフランス語版では次のようになっています。
《労働力の価値規定を粗野であるとみなして、たとえばロッシとともに次のように叫ぶのは、理由もなしに、またきわめて安っぽく、感傷にふけることである。「生産行為中の労働者の生活手段を無視しながら労働能力を頭に描くことは、空想の産物を頭に描くことである。労働という人、労働能力と言う人は、それと同時に、労働者と生活手段、労働者と賃金と言っているのである」。》(161頁)

第18段落
・労働能力のことを言っている人が労働のことを言っているのではないということは、ちょうど消化能力のことを言っている人が消化のことを言っているのではないのと同じことである。
・消化という過程のためには、丈夫な胃袋以上のものが必要である。
・労働能力を語る人は、労働能力の維持のため必要な生活手段を捨象するのではない。
・むしろ、生活手段の価値が労働能力の価値に表わされているのである。
・もし労働能力が売れなければ、それは労働者にはなんの役にも立たないのであり、彼は、むしろ、自分の労働能力がその生産に一定量の生活手段を必要としたこと、また絶えず繰り返しその再生産のためにそれを必要とするということを、残酷な自然必然性として感ずるのである。
・そこで、彼は、シスモンディとともに「労働能力は……もしそれが売れなければ、無である」ということを発見するのである。

★《消化という過程のためには、丈夫な胃袋以上のものが必要である》とは、胃袋にはいってくる食物、消化される対象がなければ、どんなに消化能力のある胃袋をもっていても消化という過程は始らないと言うことだろう。同様に労働もまた、労働力だけではなしえない。こうした表現でマルクスは、原材料や労働用具といった生産手段がなければ労働はできないということを示唆しているように読める。


[PR]

by shihonron | 2007-07-31 23:00 | 学習会の報告


<< 第70回 8月21日 第4章 ...      第68回 7月24日 第4章 ... >>